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麒麟(21)桶狭間は人間の狭間(3)
「三河煮込み」

【概要】NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。松平元康と三河武士。最強軍団の条件。濃厚味噌パワー。八丁味噌。愛知県・岡崎市・刈谷市・西尾市・安城市。


◇濃厚な関係の三河武士たち

前回コラム「麒麟(20)桶狭間は人間の狭間(2)伊勢湾がほしい」では、織田信長と今川義元のそれぞれの狙いのこと、信長の誘導戦略のこと、桶狭間という土地のことなどについて書きました。

その中で、大河ドラマ「麒麟がくる」の第二十回「家康への文」に登場した、松平元康(後の家康)の母の「於大(おだい)」と、彼女の兄の水野信元が、信長と帰蝶の夫妻と面会したシーンについても書きました。

* * *

「於大」の実家は水野家です。
この水野氏とは、三河国の有力豪族から、戦国の三河の有力武家に成り上がった勢力です。
もともとは清和源氏だと語っています?
この頃の本拠地は、緒川城や刈谷城です。

この水野氏…、どの時代においても、その生き残りの巧みさは、見事だと感じます。
後の徳川家も参考にしたのではと思わせるような、巧みな生き残り戦略でした。

* * *

前回コラムでも書きましたが、織田信長と今川義元が戦った「桶狭間の戦い」では、この三河武士たちの勢力の存在が欠かせません。
大河ドラマの中でも登場してきたように、まさに信長の勝因につながるような存在だったと感じます。

今回のコラムは、そんな三河国の有力武士たちのことについて、書いていこうと思っています。
まさに、「八丁味噌(はっちょうみそ)」を使った「味噌煮込み」のような濃厚な関係性が、そこにありました。

* * *

まずは、大河ドラマに出てきました、元康(家康)の母「於大(おだい)」が、なぜ元康と離れ離れになっているのかを中心に書きます。

以前のコラム「麒麟(7)一撃必殺!ウソぴょんがくる」の中で、幼い竹千代(後の家康)の人質の話しを書いた時に、家康より前の時代の松平家のことを書きましたが、ここで少し思い出してみたいと思います。


◇吉良氏

三河国(今の愛知県東部)の「三河吉良(みかわ きら)」氏は、清和源氏である河内源氏の「下野(しもつけ)源氏」の流れをくんでいます。
「御所(足利将軍家)が絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」という有名な言葉の、あの吉良氏のことです。
家格からいえば、今川氏は吉良氏の下です。

あの「赤穂事件」の吉良上野介の吉良家のことです。
その家格の高さや歴史の深さとは反対に、武勇にすぐれた武将が輩出されず、有力武家といえども、武力はそれほどでもないという武家だったと思います。
そのかわり、江戸幕府内での政治や文化面での貢献度が絶大な名家となります。

ちなみに、浅野内匠頭の赤穂浅野家は、広島浅野家からの分家で、さらに古い歴史をたどると、清和源氏の摂津源氏から枝分かれした美濃源氏までたどりつきます。
美濃源氏…、すなわち美濃国の土岐氏のことです。
後に、明智氏が枝分かれした土岐氏です。
浅野氏は、バリバリの土岐氏の子孫なのです。

吉良家も浅野家も、古い時代をたどると、美濃国と三河国という、隣どうしの間柄になるのです。

とはいえ、吉良氏と浅野氏は、同じ清和源氏でも、吉良氏は室町幕府の足利将軍家の流れ、浅野氏はいってみれば鎌倉幕府の中心の名家の出身という構図です。
何か、仲が悪くなりそうな隣どうしの関係性を感じさせますね。

さらに、後に、松平氏の中から、「徳川家」、「源家康(徳川家康)」という源氏の名家を、政治的に誕生させたのが吉良氏で、江戸幕府開設に武力で貢献したのが浅野氏です。

まさか、この両家が、後世にあの大問題を引き起こすとは、何の因果なのか、よくわかりません。
真ん中にいた徳川家は、たまったものではありませんね。

浅野内匠頭は、きっと天国で、大石内蔵助と話をしていますね。
「大石よ…、世が世なら、大軍勢で吉良など、ひと飲みにしてやったものを…無念じゃ」。

「桶狭間の戦い」の戦局の話しを書くときに、吉良氏の菩提寺「実相寺(じっそうじ)」(西尾市)のことも書きます。


◇大河内氏

さて、三河国には、摂津源氏の流れの「大河内(おおこうち)」氏もいました。

徳川家の大元である松平姓の武家は、江戸時代以降は、14家とも18家(松の文字を分解すると十八公となる)ともいわれていますね。
大河内氏は、後に「長沢松平家」に取り込まれ、「大河内松平家」となります。
今、愛知県豊川市には長沢町という地名があるそうですが、その長沢です。

大河内松平家の子孫には、「知恵伊豆(ちえいず)」という名称で知られる、老中の松平信綱がいました。
NHKテレビの番組「先人たちの底力 知恵泉」は、ここからの命名だと思います。

この「長沢松平家」は、「桶狭間の戦い」にも登場してきます。


◇松平清康

戦国時代は、かつての源氏の同族の武家どうしが、争ったり、手を組んだり、臣下になったりしていました。
そんな戦国時代の1511年に、後の「松平清康(きよやす)」が三河国の松平家に誕生します。

松平氏は、今の岡崎市の地域にいた有力武家です。

清康の「清」は、三河吉良氏の吉良持清の「清」から一字もらいます。
清康の母は、大河内満成の娘です。
松平、吉良、大河内の深い関係性がうかがえますね。

清康は、武勇や政治力に優れていたようで、松平一族内で覇権を争っていた三河国を、1530年頃には、武力で統一したようです。

* * *

清康は、美濃国の斎藤道三と手を組み、隣国の尾張国の織田信秀(信長の父)を挟み討ちにしようと画策します。

そんな中、1535年、清康は誰かに暗殺されてしまいます。
これが「守山崩れ(森山崩れ)」と呼ばれる出来事です。

徳川家の文献には、清康の家臣の中のひとりが、何か思い込んで、清康を斬り殺したとされています。
実は、松平清康側と、織田信秀側の双方に、それぞれの内通者がいて、その争いの結果、暗殺されたという説もあります。

個人的には、後者のほうが現実的だと思うのですが、おそらく、後の両家の関係性を考えると、それでは都合が悪いはずです。
松平家のひとりの家臣の乱心で片づける必要があったのではないかと思っています。

「麒麟がくる」では、松平家のこのあたりのことは描かれませんでした。


◇松平広忠

この松平清康の娘たちは、続々と、吉良家や酒井家に嫁いでいきます。
酒井家とは、後の徳川四天王のひとり「酒井忠次」を輩出する、岡崎の有力武家です。

松平家の家督相続は、10歳の長男、広忠(ひろただ)に行われます。
この松平広忠が、家康の父です。

* * *

清康の急死で、また松平一族は争い始めます。

清康の弟と叔父さんは、広忠を討とうしますが、広忠は、吉良家や前述の清康殺しの犯人の父親「阿部定吉(あべさだよし)」の助けもあって、伊勢湾を渡った先にある伊勢に逃亡します。
もはや、松平一族内は、誰が敵で、誰が味方やら、さっぱりわかりませんね。


◇今川に頼ったことが…

吉良家は、それほどの武力を持っていなかったと前述しましたが、広忠は、駿河国の今川義元を頼って、別の松平勢に乗っ取られていた本拠地の岡崎城を、今川の武力のおかげで、奪い返します。

戦国時代に、他の武家の武力の助けを借りることが、どれほど後に危険なことなのかが、よくわかる例でもあります。
とはいえ、広忠に、他の手はありませんでした。
たいがいは、助けを貸したい者(この場合は今川家)の陰謀が、事前にあったりするものです。

前述の清康殺しの犯人の父である阿部家の直系はここで絶えますが、同族の他の阿部氏は、後の江戸幕府の幕閣として活躍します。
例の清康殺しの家臣の話し…、もはや、くつがえすことは誰にもできませんね。
さすが、江戸幕府です。

歴史の中から、不都合な内容を消滅させる手法は、戦国武将、特に徳川家の得意技でしたね。


◇弱者の戦略

さて、清康という武勇にすぐれた英雄がいなくなった松平家は、相当な苦難の時代に入っていきます。

大河ドラマに登場していた織田信秀(信長の父)は、織田家を一大勢力に引きあげてきた武将ですが、隣国の三河国への侵攻の繰り返しです。

松平広忠の三河国は、国の中で内部抗争が激しく、各武将の武力も小さく、強大な駿河国(今川)と尾張国(織田)に挟まれて、両側から、猛烈な圧力を受けることになります。

とはいえ、この時期に、松平氏が、完全にどちら側かに組み込まれることなく、あっちについたり、こっちについたり、時に反撃したりすることで、滅亡することなく、しっかり独立色を維持できたことが、後に天下を取ることにつながりますから、私たちは、まさに「滅ぼされることのない、弱者の戦い方」を知ることができますね。

* * *

この時に、広忠が無分別な闘争心を表に出していたら、松平家はここで消滅していたのかもしれません。
戦国時代、こうしたかたちで滅亡していった武家は数えきれませんね。
「清康がいて、広忠がいて、家康が生まれてきた」…。

家康は、祖父の清康、父の広忠から、会話はなくとも、しっかり学んだような気がします。
家康の「康」は、もちろん清康の「康」です。
二代将軍、秀忠の「忠」は、広忠の「忠」だと思います。
徳川家にとって、「康」と「忠」は、かけがえのない文字となります。


◇元康の人質時代

大河ドラマ「麒麟がくる」第四回の中で、幼い竹千代(後の家康)は、明智光秀に、「三河国に帰りたい」と言いましたね。
第二十回「家康の文」で、母の「於大(おだい)」は、息子の元康(家康)と再会しても、もう顔もわからないだろうと語っていましたね。

竹千代が母親から離されたのは3歳頃といわれており、織田の人質になったのは6歳くらいからです。
大河ドラマでも描かれましたが、今川家と織田家の人質交換で、竹千代が今川の人質になったのは8歳頃です。1549年のことです。
17歳(満年齢)の時の、織田と今川の「桶狭間の戦い」まで続きますから、人質期間は全部で12年ほど続きます。
織田軍の勝利により、家康は、母を手元に呼ぶことができます。
おそらく14年ぶりの母との再会だったと思います。

この母子の別れの原因については、後で書きます。


◇人質になるきっかけ

さて、「麒麟がくる」の第四回では、1548年の「小豆坂(あずきざか)の戦い」が描かれ、織田信秀が今川義元に完敗しました。
小豆坂とは、今の愛知県岡崎市にあります。

この戦いの直前の、三河、駿河、尾張の関係性は、はっきりとは断定できておらず、諸説が入り乱れています。
この頃、実は、織田と今川が手を組んで松平家を滅ぼそうとしたとか、松平家の岡崎城はすでに織田のものとなっていたとか、いろいろな説があります。

「小豆坂の戦い」では、あきらかに織田氏が今川氏に敗れましたが、松平家がどんな状況にあったかは、よくわかっていません。
実は、この複雑な三国関係に、スルスルとあのマムシが入り込んできたという説もあります。
「美濃のマムシ」こと、斎藤道三です。
道三が、何かを画策して、松平家内部にいる、織田派と今川派の両派閥を戦わせたという説もあります。

いずれにしても、1548年頃に、織田と今川の勢力の境が、この岡崎あたりにあった可能性があると思います。

* * *

ここからは、竹千代(元康)が、織田家の人質になったいきさつを書きます。

この状況も、実は、はっきりわかっていません。
強制連行による人質なのか、率先して差し出された人質なのか…、これは意味が大きく異なりますね。

ここから、その中の一説を書きます。
これは前述の「小豆坂の戦い」の前年の1547年のことです。

広忠は、6歳になった息子の竹千代(後の家康)を、今川家に人質として送ろうとします。
その道中、竹千代を送り届ける役目の、広忠の家臣の戸田康光が、竹千代を奪って、なんと織田側につれていき、多額の現金で売り飛ばしたというのです。
激怒した今川義元は後に、戸田康光を討ちます。
この時、戸田家の次男だけは、今川側につき、戸田家は滅亡を逃れます。

この戸田家とは、今の渥美半島の田原市や、豊橋市を勢力下に置いていた武家です。
今川軍の軍師の雪斎が率いる大軍勢が、西三河の南部の渥美半島周辺を奪い取るのです。

この流れだけでも、戸田氏による「人質強奪話し」は、相当に裏で何かありそうですね。

* * *

歴史ファンからしたら、こんなでき過ぎた「人質強奪話し」は、まったく信用できません。
歴史的に考えてみると、たいがい、こうした妙な話しは後の創作で、何かを隠したに違いありません。
いったい誰が「ウソ」をついているのでしょう…?


◇広忠と於大の離縁

実は、この頃の松平家内部は、織田派と今川派に分かれていました。

松平広忠の正室の「於大(おだい)」(家康の母)の実家は、三河国の有力武家の水野氏です。
水野氏は、松平に娘を嫁がせ、織田とも同盟関係をつくっていましたが、ある段階で、今川を完全に見限り、織田方につきます。

この水野氏の勢力範囲は、今の刈谷市や東浦町(緒川地域)、春日井市など、尾張国と接する「西三河」一帯の地域です。
知多市、常滑市、東海市、大府市あたりも、もともとは、その勢力範囲でした。
「桶狭間の戦い」で重要な位置づけとなる「大高城」も、もともとは水野氏の城でした。

三河国の中で、松平氏とならび、大勢力だったのが水野氏だったのです。
後に、水野氏の大高城は、今川方に調略で落ちます。

* * *

「於大(おだい)」の実家の水野氏が織田方についた以上、松平広忠としては、今川の手前、正室の「於大」と離縁し、「於大」は実家の水野家に戻ります。
ここで、「於大」と竹千代(元康)は、離れ離れになるのです。
その後、竹千代(元康)が、今川家に人質として送られることになったのです。


◇戸田氏

戸田氏と、松平氏は親戚どうしです。
実は、戸田康光とは、広忠の元正室「「於大」が水野家に戻って、広忠のもとに嫁いだ後妻の父親なのです。

後妻の父親が、義理の息子と前妻との間の子供を、人質として敵に届ける役目を負うとは、どういう意味を持っているのでしょうか。
こんな話しは、現代の推理ドラマでも、なかなかありませんね。
「犯人は私です」と先に言っているようなドラマです。

この話しの推論は、いくつかあります。一部を書きます。

◎戸田氏が、突然、今川氏を見限って織田方につこうとし、竹千代を手土産にした。

◎今川と織田が手を組み、それぞれ東西に分かれて、松平と戸田を討つために、戸田氏をワナにはめた。あるいは戸田氏はそれを受け入れた。

◎松平と戸田は思案の上、今川と織田の両者と戦うことを避けようと、バランスを取ろうとした。そして、戸田氏が犠牲になることを引き受けたが、お家の滅亡だけは避けるため、今川方にひと芝居うった。今川氏も認識済みで、さらにそこにワナを仕掛けようとした。

◎実は、本拠地の岡崎城は、すでに織田方に落ちていて、松平側が、率先して人質を織田方に送った。

戸田康光が、松平広忠を裏切ったのかどうかは、わかっていません。
戸田氏が、あえて悪役を買って出た可能性だってあります。
いずれにしても、広忠が、織田方に囲われている竹千代を、連れ戻すのは政治的に容易ではありませんでした。

この時に、松平氏が織田氏の軍門に完全に下っていたら、三河国の松平家はどうなっていたでしょう。
今川氏から総攻撃を受けます。
かといって、松平氏が織田氏に攻撃などかけられません。

松平家としては、まずは、両氏とのバランスを維持しつつ、堪え忍ぶしかなかったのかもしれません。
後の江戸幕府から考えると、ここで竹千代(後の家康)が命を落とすことがなかったことこそが、もっとも重要なことでしたね。

戸田康光の子孫は、いずれ、徳川20神将のひとりとなります。
ということは…?

* * *

私は以前のコラム「麒麟(7)一撃必殺!ウソぴょんがくる」で、この戸田氏の人質強奪騒動について、ここまで書きました。
実は、この先のことは、少し複雑な内容ということもあり、「桶狭間の戦い」の時の三河勢力の話しの際に、書こうと思っておりました。

ここからは、私の想像を含めた部分もありますので、そのように受け止めてください。


◇この計画は誰が…

私が、この、一見、戸田氏の裏切り行為にも見える「人質強奪」の話しから、戸田氏の崩壊までの流れで注目したいのは、この結果、もっとも得をした人物は誰なのか…ということです。

今川氏からみると、松平氏と水野氏が分断され、三河国の松平氏の岡崎周辺と、戸田氏の渥美半島や豊橋地域を、ほぼ同時に手に入れたことになりましたね。

もし、すべてが今川氏の策略だったとしたら、単なる「人質(竹千代)の受け入れ」をきっかけに、三河国の勢力を切り崩し、三河国内に今川の勢力を相当に拡大したことになります。
織田氏に対しては、松平氏とともに「竹千代奪還」を理由に攻撃しやすくもなります。

この一連の流れの中では、今川氏の軍師の「雪斎(せっさい)」が大活躍しますが、この全体の流れが、ほぼ彼の策略だったのかもしれません。

たとえ、戸田氏を仲間に引き入れなくても、今川方の誰かが犯人の戸田氏になりすますくらいは簡単にできそうな気がします。。
ただ、戸田氏の全責任にしておけば、今川氏は、松平氏の抵抗なしに、戸田氏を容易に攻撃できます。

もし、これが実際のあり様だったとしたら、雪斎の恐ろしい陰謀です。

* * *

一方、はじめから、雪斎と水野氏が手を組んで行動を起こした可能性もないとはいえません。
もともと、前述の「竹千代人質騒動」のきっかけは、水野氏が織田氏に完全についたことにあります。

水野氏は、今川氏と相談の上、織田方についたといえないこともありません。

* * *

前述の一連の「人質(竹千代)強奪騒動」の中で、もっとも得をした人物は…。
それは今川氏です。

ですが、加えて、水野氏にも多大な得がありそうな気がします。

妹の「於大」は、1544年に松平広忠と離縁し、すでに実家の刈谷に戻っています。

1547年に「人質(竹千代)強奪騒動」がおきます。
竹千代は3歳になっており、一応、非常に危険な幼児期を終えました。
タイミングはバッチリです。

もし、水野氏が、織田氏と今川氏を両天秤にかけて、両氏にそれぞれに上手い話しを持ちかけ、同じ三河国内の松平氏と戸田氏の滅亡を狙っていたのだったら、相当に恐ろしい戦略です。

* * *

さらに、もし今川氏が、水野氏と手を組んだわけではなかったとしても、水野氏の計略を察知し、それを利用したとも考えられます。

織田氏にとっても、この時点で、松平氏と戸田氏が滅んでくれて、水野氏が支配する三河国になったら、何かと都合がいいかもしれません。

真相は、私にはわかりませんが、水野信元だったら、自分の計画に、今川も織田も便乗してくるくらいのことは考えたであろうと感じます。

後世の松平(徳川)氏と、戸田氏の関係性を考えると、誰かが、この強奪犯を戸田氏ということにしたのではと私は思っています。

「桶狭間の戦い」の中での、水野信元の謎めいた行動は、後のコラムで書きますが、もし彼が大策略家だったとしたら、織田氏と今川氏をにらみながら、この程度の陰謀は実行できそうな気がします。

* * *

水野信元は、「桶狭間の戦い」の後に、松平元康との間で、たいへんなことになります。
信元は、「桶狭間の戦い」の後に、大陰謀にはめられることになります。

織田信長は、水野信元という人間の本性を、しっかりつかんでいたのかもしれませんね。
もちろん、松平元康もつかんでいたのでしょう。

信長は、最初から、水野信元ではなく、松平元康こそ、三河国の統率者にふさわしいと考えていたのかもしれませんね。
信長は、水野信元を、今川対策に、利用するだけ利用しようと考えていたのかもしれません…?

* * *

私は、「桶狭間の戦い」も含めて、この三河国では、相当にハイレベルの大きな陰謀が、複合的に起きていたと感じています。
織田、今川、水野による、ハイレベルのワナのかけ合いがあったのかもしれません。

この時の松平氏では、こうした陰謀に、なかなか対抗できなかったのかもしれませんね。

ですが、ずっと後に、元康(家康)は、水野信元ではない、水野一族の別の系統の者たちを、江戸幕府の重要な地位につけます。
水野一族も、織田一族や松平一族と同じように、内部抗争だらけでした。


◇於大

さて、この「人質(竹千代・後の元康)強奪騒動」では、元康の母の「於大」(水野信元の妹)も、兄の一連の計画に加担した可能性だってあります。
ただ、息子の元康の身を危険にさらすことは許さないでしょう。
織田と今川からは、命の保障だけは取りつけていたかもしれませんね。
岡崎の松平家臣団の結束と、戸田氏が消滅すればいいと考えたのかもしれません。
あるいは、最初からその計画で、松平広忠に嫁いだのかもしれません。

* * *

戦国時代の武将の正室になった女性たちは、江戸時代の正室や、現代の女性像とは、かなり違っていたと私は思っています。
帰蝶にしても、淀君にしても、秀吉の正室の「おね」にしても、家康の正室の築山(瀬名)にしても、お江(徳川秀忠の正室)にしても…、戦国時代の正室たちは、まさに武将のように、たくましく見えます。
人質となることや、正室として嫁ぐことは、まさにその家にスパイとして行くようなものです。
健気(けなげ)でひ弱なだけの正室などでは、戦国時代を乗り越えられるはずがありません。
ですから、戦国時代の大将の正室とは、相当に高い地位であり、想像する以上に、大きなチカラが与えられていたと思います。


◇元康の父「広忠」の暗殺

さて、そんな人質騒動の後の1548年に、岡崎で「小豆坂(あずきざか)の戦い」が起こり、織田軍は今川軍に大敗するのです。

そしてなんと、その翌年の1549年に、松平広忠が暗殺されるのです。

大河ドラマでは、なんと、信長が、帰蝶との結婚式当日に、暗殺したということになっていましたね。
この暗殺内容の真偽はわかりません。
信長は、父の信秀に叱られていましたね。
大河ドラマでは、親子で戦略が違うことが描かれていました。

ただ、前述の流れからすると、ここで広忠に消えてほしい者は、水野、今川、織田の三者とも考えられますね。
今川氏からみたら、もはや松平氏という中心人物が三河国にいなくとも、十分に支配できそうな段階まできています。

* * *

先般の大河ドラマの第二十回「家康の文」では、信長は、自分が暗殺した広忠の元妻「於大」と、何食わぬ顔で面会するのです。

松平広忠が暗殺され、三河国の東部「東三河」の松平家は、またガタガタになってしまい、「東三河」はもはや、松平氏のもとで団結するチカラを失ってしまったように思います。
水野、今川、織田…三者とも「しめしめ」ですね。


◇今川氏の三河国支配

三河国の東部「東三河」では、松平氏の岡崎周辺、吉良氏の西尾周辺、かつての戸田氏の渥美半島や豊橋周辺は、実質的に、今川義元にあっという間に飲み込まれた状況です。

尾張国と国境を接する三河国の西部「西三河」も、すでに大半が、今川氏の勢力下となり、勢力範囲が縮小した水野氏は、刈谷周辺にとどまることになります。
織田氏を頼みの綱とするのか、今川氏につくのか、判断のしどころですね。
あるいは、独自路線も…。

大河ドラマに登場する、岡村隆史さんが演じる「菊丸」は、水野氏の「忍び(間者)」ですね。


◇織田と今川の休戦

私は、この「人質(竹千代)強奪騒動」が、水野氏と今川氏(雪斎)の二者、あるいは織田氏も含めた三者の陰謀であったと想像できなくもないと思っていますが、ただ、そうであると、今川氏は、重要な部分をまだ手にしていません。

この騒動で、今川氏は三河国内の支配地域は相当に拡大しましたが、松平氏からの人質という決定打を手にできていません。

やはり、今川氏は、竹千代を人質として確保しておいたほうが、何かと都合がいいと考えたはずです。

前述しましたが、この時点で起きたのが、織田氏のもとで人質になっている竹千代(元康)と、今川氏のもとで人質となっている織田信広(信秀の側室の子、信長の腹違いの兄)の、人質交換です。1549年のことです。
大河ドラマ「麒麟がくる」でも描かれましたね。

* * *

少しだけ時代をさかのぼります。

1540年、信長の父の信秀は、水野信元の父の水野忠政と協力し、松平氏の安祥城(あんじょうじょう / 安城市)周辺で、松平広忠と戦っていました。
水野忠政は、そのうちに松平氏と手を組み、娘の「於大」を松平広忠に嫁がせます。

1542年に忠政が亡くなり、信元に代替わりすると、水野氏は松平氏と断絶し、再び織田氏と手を組みます。
それで、「於大」が水野氏の刈谷に戻ってくるのです。

1549年に、前述のとおり、松平広忠が不審な死をとげます。

それを理由に、今川氏が、織田信広が松平氏から奪った安祥城を攻撃し、信広が人質になっていました。
そこで、同年に、人質交換が実施されるのです。

私は個人的に、ここまでの流れが、偶然の流れ、自然の流れとは、あまり思えません。
今川軍の雪斎か、あるいは水野忠政・信元親子の、長期的な陰謀計画ということも考えれないことはない気がします。
この三者で仕組むことも可能かなとも思います。

雪斎が、水野氏親子の三河国の覇者になるという野望を利用したと考えられないこともない気もします。

* * *

私は、この頃の織田家内の、信秀(信長の父)、信長(母は正室ではなく継室・信秀の何番目の男子なのかはっきりしない)、信広(信秀の側室の子・信長よりは年上・信秀のお気に入り)の関係性が本当はどのようなものだったのかも、少し想像しにくい部分があります。
かなり微妙なバランスの中にあったのかもしれません。
これ以降、信長と信広の間は、さまざまなことが起こりますが、信長は信広を暗殺はしません。

* * *

話しが複雑になってきましたので、ここまでの流れを簡単に並べます。

(1)松平清康暗殺「守山崩れ」
(2)松平氏と織田氏の抗争
(3)水野氏と織田氏の同盟
(4)水野氏の寝返りと松平との同盟
(5)水野忠政から信元へ代替わり
(6)水野氏の寝返りと織田氏との同盟復活
(7)「於大」が離縁し水野家へ戻る…水野氏と松平氏の断絶
(8)人質(竹千代・松平元康)強奪騒動
(9)今川氏の戸田氏攻撃
(10)松平広忠暗殺
(11)今川氏による織田氏の安祥城奪取
(12)竹千代と織田信広の人質交換
(13)今川氏が三河国をほぼ支配

この後、織田氏と今川氏の和議が成立し、休戦状態となります。
この時点で、水野氏はいったん今川方の臣下となります。

松平氏当主が、重要な場面で暗殺されていますね。

水野氏が、今川方と織田方を行ったり来たりしているのも、よくわかります。
水野氏が、本心では両氏のどちらに軸足を置いていたのかはわかりません。
軸足は、あくまで水野氏自身だったのかもしれません。
水野氏の今回の「今川入り」も、何かのワナか、和議の条件であったのかもしれません。

いずれにしても、もはや三河国の大半が、今川方となりました。
1550年頃の状況です。
「桶狭間の戦い」の10年前ですね。

* * *

そんな休戦状態の中、1551年に織田信秀(信長の父)が病で亡くなり、織田家は、信長に引き継がれます。

今川氏にとって、ここは織田氏を倒す絶好のチャンスだったのですが、何しろ、今川氏の駿河国の周囲には、武田信玄の甲斐国、北条氏康の相模国があり、激しい三つどもえの戦いの最中です。

今川義元にはチャンスなのに、尾張国にやってくることができません。
「三国同盟」はまだ成立できていないのです。

私は、もし、この信秀の死の直後の時点で、今川軍が織田軍を攻撃していれば、今川軍の楽勝だった気がしています。

個人的に思うのは、この東国の三人の武将(義元・信玄・氏康)に、上杉謙信も加えて、この時期に東国で時間を費やしすぎです。
しのぎを削っているうちに、「天下」は遠くに行ってしまったのかもしれませんね。

その間に、信長という「怪物」が誕生しました。


◇信長は、今川と戦う!戦闘再開!

さて、1551年に、父の信秀から信長に織田家が引き継がれると、織田家は大方向転換します。

織田は、和議を破棄し、今川と戦う!

水野氏は、「信長は、父の信秀とは違う」と考えたのかどうか…、もう一度、織田と組むことに方向転換。

そして、今川氏が、水野氏の居城「緒川城」攻略するためにつくった「村木砦(むらきとりで)」を、信長と水野氏がともに攻撃し、今川軍を撃破し退却させたのです。
これが、大河ドラマの中でも描かれた、1554年の「村木砦の戦い」です。
この時に初めて活躍したのが、信長の「鉄砲隊」といわれています。

この様子を見るに、水野信元は、今川と組んで、信長をワナにかけようとした様子はうかがえません。
ひとまず、水野信元は、今川氏と本気で戦う雰囲気には感じられます。

* * *

一応、先程の並び順の後に加えておきます。

(13)今川氏が三河国をほぼ支配
(14)織田氏と今川氏の和議
(15)水野氏が今川氏の臣下に
(16)織田信秀から信長へ代替わり
(17)水野氏と織田氏の同盟復活
(18)今川氏の水野氏攻撃開始
(19)「村木砦の戦い」で、織田・水野連合軍が今川氏を撃破(1554年)
(20)駿河(今川)・甲斐(武田)・相模(北条)の「三国同盟」成立(1554年)
(21)今川軍の軍師「雪斎」死去
(22)帰蝶が信長に嫁ぐ
(23)信長軍の平手政秀死去
(24)信長と斎藤道三の面会
(25)道三が息子の義龍に敗れる「長良川の戦い」(1556年)
(26)信長が弟の信勝(信行)を暗殺…織田家内部抗争の終結(1558年)

「桶狭間の戦い」(1560年)に向けて、織田氏も今川氏も環境が整いました。


◇信長の「人間関係づくり」

「村木砦の戦い」の時に、信長が尾張国を出陣して、手薄になった信長の尾張の城を守ったのが、斎藤道三の家臣たち(「西美濃三人衆」の一部)です。
信長は、直々に彼らのところに行って頭を下げ、御礼を言い、彼らは美濃国に帰っていきました。

この道三の家臣たち「西美濃三人衆」とは、この後の斎藤道三と息子の義龍の戦いの時に、信長と再会となるのです。
それも、その家臣たちは、敵である斎藤義龍の配下なのです。
でも、「西美濃三人衆」は、いずれまた、信長と組むことになります。

信長という人物は、「あの時の誰…、この時の誰…」という話しが山ほどあります。
チカラを貸したり、借りたり…、人間関係をしっかり使おうとする信長らしい「戦法」のように感じます。

* * *

大将の信長の身の軽さと、儀礼を欠くことのないしっかりとした人間関係づくりに比べ、織田家の老家臣たちの、かたくなな態度や行動の鈍さは、少し目に余る気もします。
信長は「桶狭間の戦い」時に、25~26歳くらい。
信長は感じていたはずです、
「これからの織田家に、この年寄り連中はいるのか?」。
「あとは、誰が残っている?」

* * *

織田信秀の時代から、織田軍の軍師のような役割で、数々の陰謀に関わった大策略家の平手政秀は、「村木砦の戦い」の前の1553年に自刃していますが、私は信長による暗殺ではないかと思っています。

この平手政秀は、織田軍の筆頭家老の役職でしたが、その「筆頭家老」の役職を引き継いだのが、あの佐久間信盛です。
「桶狭間の戦い」でも重要な仕事をしています。
そして、この人物は、あの「本能寺の変」に関わる明智光秀とも、ある関係性を持つことになります。
大河ドラマにも、しっかり登場してきましたね。

佐久間信盛とは、あの歴史上最大?の「口ごたえ」のあの武将です。
よりによって、あの信長に…。

私は、この場面を、テレビの時代劇ドラマや映画で、一度も見たことがありません。
今回の大河ドラマで、密かに期待しているのですが…。

歴史的には、この「口ごたえ」も、ある陰謀による創作だという説があり、実際に信長に吐いた言葉ではないともいわれています。
もし本当に、信長に対して直接クチにしていたら、その場で、命を落としていたはずですね。
でもやっぱり、このシーン…見たい!

* * *

さて、信長軍の老家臣たちの話しに戻ります。
現代の年齢感覚からしたら、想像もできませんが、40歳となったら、もう戦場での実践を考えたら老体と言っていいのかもしれません。
今の野球選手の年齢をイメージするといいのかもしれません。

実は、「桶狭間の戦い」の時に、信長は、近江国の六角氏から、若いピチピチの若武者軍団を借りてきます。
織田軍の中の、動きのにぶい老兵たちでは、到底、「桶狭間」での壮絶な戦いには、もたないと思ったのかもしれませんね。

斎藤道三といい、六角氏といい、そうそう簡単に兵を貸してくれるというものでもありません。
戦国時代は、援軍という名目で、侵略してくる敵などもたくさんいました。
信長は、不思議と、人の信用を得る術を持っていたのだと、私は思っています。


◇ここで、勝家?

こうして「桶狭間の戦い」の10年前から再開した、織田氏と今川氏の激突は、さらにヒートアップし、6年前の1554年の「村木砦の戦い」、前回コラムで書きました、やはり1554年の「三国同盟」を経て、いよいよ1560年の「桶狭間」に向かっていきます。

信長は、この6年の間に、尾張国内の織田家一族内の抗争を終わらせます。
大河ドラマの中では、弟の信勝(信行)を1558年に抹殺しましたね。

* * *

その抗争の中で、柴田勝家は、信長の敵側にいましたが、信長側への寝返りにより、罪を許され、信長側になります。
これから、私は「桶狭間の戦い」の戦況を書く際に、実は、この勝家のことにも触れてみたいと思っています。
柴田勝家は、「桶狭間の戦い」時に、40歳直前の30歳代後半でした。
一応、「桶狭間」には連れて行ってもらえなかったといわれていますが、本当にそうなのでしょうか?

後に、織田軍の中で重要な地位をしめる勝家が、桶狭間に行っていない…?
そんなことがあるでしょうか?
何かの事実を隠したのか…、信長から別の罰を受けたのか…、信長からもう一度、何かを試されたのか…?

勝っちゃん親父は、いったい、どこにいたんだ?


◇また、混沌…

さて、前述の「三国同盟」から「桶狭間の戦い」までの6年の間に、今川軍は織田軍を攻めることはできなかったのかという疑問がわいてきますね。

織田氏に非常に有利に働いたのは、この6年の間も、義元は尾張国に向かうことができなかったのです。

武田信玄と上杉謙信の争いの仲介などをしている暇などないはずなのですが、その間に、支配を広げて、おさえ込んでいたはずの、三河国の武士たちが、一気に反撃に出てきます。

松平、吉良、奥平、酒井、菅沼、鈴木…、みな立ち上がります。
三河国との境にいた、美濃国の遠山一族まで、今川への反旗をあげます。
「それっ!」とばかりに、織田軍も加勢します。

今川義元による三河国支配が、上手くいかず、三河勢の反感を買っていたのは確かだったと思います。
三河国は、また混沌とした状況になっていました。

* * *

前述しましたとおり、水野氏は、織田についたり、今川についたり…、独自のやり方です。
水野氏と松平氏の間も、完全に対立関係が続いています。

三河勢…、織田と今川が戦うとなったら、いったい、どちらにつくのよ?

こんな状況の中で、「桶狭間の戦い」が始まろうとしています。


◇義元だけで、だいじょうぶ?

水野信元は、「桶狭間の戦い」に向けて、また新たな陰謀を仕掛けようとしていたのか…?

織田信長も、今川軍の雪斎も、水野信元ごときの陰謀を見破れないはずはないと思います。
おそらく両者とも、水野の陰謀を、毎回上手く利用したのだろうと、私は思っています。

ただ、雪斎のいなくなった、義元だけが中心の今川軍で、織田信長や水野信元の陰謀に対抗できるのかどうか…?
現代人からみたら、相当に「心もとない」です。

* * *

私は、三英傑(信長・秀吉・家康)のすごさは、敵の陰謀を見破り、それを逆に利用するところにもあると思っています。
みな、敵は自分の陰謀が上手く進んでいると思い込み、まんまと彼らのワナにかかるのです。

家康にとっては、「関ヶ原」も、「大坂の陣」もそうでしたね。
もともと「関ヶ原」を決戦場に最初に選んだのは、石田三成です。
最終的に、家康により、「さあ、お望み通り関ヶ原に連れてきてあげましたよ…、石田さん」となりました。
戦に長けた有能な武将であれば、ここは逃亡するしかありえませんね。
負けた西軍側の有能な武将の一部は、戦闘の当初から、逃亡ルートとタイミングだけを狙っていましたね。
「この場所なら勝てる」と敵に思わせた瞬間…、おびき寄せた者の勝ちです。

秀吉には…、ひょっとして、あれも誘導…?

* * *

信長は、雪斎の死が近いという情報を、どこかでつかんで、それを待った可能性もありますね。
後に、信長が信玄の死を…、家康が秀吉の死を…、ずっと待ち続けていたのと同じです。
戦国時代は、怖すぎます。

戦国時代の大軍団は、有力な中心人物がいなくなったとたんに、軍団の戦力が半分以上失われることも、めずらしくなかったと思います。
江戸幕府は、絶対にそれを避けました。


◇三河武士

ここで、後に、「桶狭間の戦い」以降も、元康(家康)のもとで活躍する三河武士を、氏名だけ書きます。

酒井・本多・榊原・大久保・阿部・石川・青山・伊奈・植村・大岡・小栗・高木・土井・鳥居・内藤・成瀬・平岩・保科・渡辺・牧野・中条・鈴木…。
これらの名前を見て、歴史ファンの方でしたら、あの人物が輩出された家かと思い出す方も多いと思います。

中でも、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政の三人は、後に「徳川四天王」のうちの三人となります。
前述の多くの武家からは、後に「徳川十六神将」と呼ばれることになる者もたくさん出てきます。

いずれ、ここに、水野・戸田・板倉・安藤・服部・吉良などの強力な三河勢の者たちが加わります。
そして、三河のすぐ東隣の、浜名湖のある「遠江(とうとおみ)国」から井伊氏が加わります。
隣国とはいえ、もはや三河勢といってもいい気がしますね。
井伊直政は、徳川四天王のひとりになります。

数年前のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」では井伊氏が主人公でしたね。
直虎さん…、今年は「朝ドラ」で「船頭可愛や」を歌っていました。

* * *

三河勢の丹羽・山内・堀尾らは、信長の軍に入っていきますが、彼らも、いずれは徳川の傘下に入ります。

鳳来寺のある奥三河の勢力である「山家三方衆(やまがさんぽうしゅう」〔奥平氏・菅沼氏〕も、家康のもとに集結します。
ちなみに、この奥三河の地で「長篠の戦い」が後に起きます。
今、考えると、今川も、武田も、信長とは絶対にしてはいけない場所…敵の領地で「決戦」を行うのです。

こうした、ほとんどの三河の武家たちが、これ以降の歴史の中に、その名がしっかり刻まれる「三河出身のビッグネーム」たちです。


◇最強軍団の条件

戦国時代に、有力武将として勝ち上がり、その名が残っている武将たちは、みな強力な軍団を持っていましたね。
上杉軍、武田軍、織田軍、秀吉軍、毛利軍、伊達軍などは、特に強力でした。
徳川軍は、その中でも最強だったと思います。

私は、「桶狭間の戦い」が始まるこの頃に、すでに、この三河の勢力が、ひとつの大軍団に成長する環境が、三河国の中に備わっていたように感じています。
あとは、中心となる、チカラのある大将が生まれるのかどうか?

私は、後の徳川軍は、何となく信玄がいた時の武田軍の成り立ちに似ている気がします。

* * *

戦国時代に、大軍団に成長するには、いくつかのタイプがありましたが、リーダーたる大将が気を使わなければならないような有力武将が、軍団内にしっかり存在していた場合も少なくありません。

実は、そのようなかたちのほうが、絶対的なカリスマ・リーダーが引っ張る軍団よりも、強固だったりします。
武田軍団や、徳川軍団は、最たる例ですね。

四天王やら、〇〇神将やらの、幾人もの「王」や「神」が、強い軍団にはつきものです。

そのかわり、それを束ねるリーダーの能力は、相当なレベルでなければ、まず維持できません。

そして、その両軍団に共通するのは、とにかく、いろいろなタイプの家臣が軍団内にいたことです。
武闘派、知性派、学術派、土木屋、技術屋、政治屋、交渉屋、調達屋、財務専門、陰謀調略専門、文化歴史専門、医療専門、広報マン…、どんな状況にぶつかっても、その筋の専門家が軍団の中にいたのです。

* * *

信玄と家康という、この両軍団のリーダーは、あくまで中心で取り仕切る人間であり、全体をコントロールする人間であったように感じます。
もちろん二人には、専門の軍師たちがついていますが、作戦を理解できるセンスは本人の生まれ持ったものかもしれません。

そして大事なのは、この大軍団組織が、絶対に崩壊しないように、たえず目を配っていることです。
そのためには、軍団の法や仕組み、理念や秩序は、欠かせません。
この両軍団にあったのは、そのリーダーでさえ、その法や仕組み、理念や秩序の下にあったことです。

時に、罰則を強行できるチカラもリーダーには必要ですが、特定の有力家臣が一人か二人だけしかいない場合は、それが実行しにくくなってしまいます。
たえず、家臣団の中に、一定程度の緊張感やライバル関係が、一定数の規模で保たれているほうがいいのでしょう。

こんな難しい組織の維持管理を実行できる能力があれば、戦争勝利のアイデアを実現させることも難しくなかったでしょう。
信長の「本能寺の変」は、かなり特別なケースだと感じますが、勝者のまま亡くなっていった戦国武将たちは、みな強力な軍団に守られながら、最期をむかえたのだと思います。

* * *

この三河国には、本当にいろいろなタイプの武家がたくさんいましたね。
そして、自分の得意分野や専門分野の独自性を、常に磨き、競い合っていたように感じます。
強い大軍団が、この三河の地で、いずれ形成されていったのは、不思議なことではない気がします。

* * *

織田信長のもとには、これから有能な人材が集まってきますが、こうした人材を受け入れる軍団の体質も、かなり軍団の強さに影響したのだろうと感じます。

信長軍と、家康軍は、似ているようでいて、実はかなり異なるタイプの、それぞれに成功した軍団運営だったと感じます。

さて、今川軍は、どのような軍団だったのでしょう…?
信長と義元の、三河勢への思想の違いを中心に、次回コラムで書いてみたいと思います。

* * *

江戸幕府が開府し、時代は江戸時代となり、この三河出身の武家たちが皆、いずれ日本中の幕府の要所に散っていき、日本全体を統治していくことになるのです。
ある意味、この三河から始まる系譜は、現代の今の日本でも、しっかり生きているような気がします。

日本の勢力図の歴史は、ある時点で近畿発であったり、鎌倉(相模)発であったりしましたが、三河発の時代が確実にあったのだと感じます。
「尾張・美濃発」には、なりそこねましたね。


◇絶対に生き残れ…

さて、これらの三河国の武士たちは、「桶狭間の戦い」を前に、どのような行動に出るのでしょうか?
織田につくのか…、本当に今川側のままでいるのか…。

いずれしにても、最終的に、織田や今川と運命を供にしようなどと考える者など、三河勢にいるはずがありませんね。
どんな結果になろうとも、生き残ること…これが三河武士たちのすべてだったと思っています。
ある意味、どちらが勝とうと、関係ありません。

* * *

今の「武士道」のイメージは、江戸時代以降に強く形成されていったもので、この戦国時代の武士は、まさに「戦う人間」たちそのものです。

武士たちは、まずは、戦わないと生き続けていけないのです。
勝者にならないと、ほぼ生き残っていけないのです。

もし生き延びられないとなれば、魂を、一族の次の世代に残せればいいのです。
たとえ敗者になろうと、敵の恩情にすがろうと、何でもいいから、一族の誰かが生き残れたらよいのです。

「麒麟がくる」の中でも、斎藤道三の死後、明智一族がそうでしたね。
きれいごとでは生きることができない…、それが戦国時代だったと思います。


◇元康で、三河はだいじょうぶなのか…

私はいつも思うのですが、当時の一般の庶民たちは、戦いを専門とする武士たちの姿を、本当にカッコいいと、あこだれのまなざしで見ていたのでしょうか。

黒澤映画では、よく、本当の勝者は武士ではないと描かれることが多いですが、戦国時代の庶民はどのように感じていたのでしょうか。

三河国の農民であれば、「武士たちは皆、三河の山や川、農地を荒らしやがって…、食うもんなけりゃ、おメエら、戦えねぇずら。戦う前に話しをつけりゃあ、いいずらに…。戦うのなら、豆味噌やるから、他所(よそ)でやれ…」。

* * *

この時代の三河の武士たちや庶民は、「戦わなくても生きていける世の中」をつくってくれる人物が、まさか、こんな近くにいるとは思ってもいなかったでしょうね。

この時代に、「天下」などという、よくわからない、あいまいなイメージを理解できる人が、どの程度いたのでしょうか…。
「天下」と「平和」をつなげてイメージするのは、現代人ならではのことかもしれません。

ずっと後の家康の言葉「天下は一人の天下に非ず、天下は天下の天下なり」は、たいへんに有名ですが、この頃の家康は、そんな言葉を言うような人物では、まだまだありません。

多くの三河国の武士からみたら、まだまだ17歳(満年齢)のひ弱な、今川義元に言いなりの元康(家康)に見えていたことでしょう。
肝心の松平家の御曹司の元康が、こんな状態だと、周囲の三河勢は、ひとまず今川義元についていくしかありませんね。

信長さん…、元康(家康)に、そろそろ「喝」を入れましょうか…?
さあ、どうする…、信長さん。

信長は思っていたかもしれません。
「多くの三河勢が抱く『共通の願い』とはいったい何だ…?」
「三河勢が、今川義元の圧力以外に、集結できるものは何かないのか…?」
「オレ(信長)と、三河勢が組めば、上手くいくはずなのに…」。


◇濃厚味噌パワー

「信長さま…、三河の岡崎から、桶に入った八丁味噌(はっちょうみそ)が届きました。味噌煮込みでもいかがでしょうか…」。

「そうか、その手があったか…!」
「それにしても、三河のものたちは、みな濃厚だのう~」。
「そう思わぬか? 濃姫…」。

「濃い、濃いって何度も…、知らないわよ」。by 帰蝶


〔 追伸 〕
三河武士たちの長寿の秘密は、あの濃厚な豆味噌(赤味噌)にあるという説がありますね。
たしかに、これを戦場の携帯食にしていたら、戦場でも、ムクムクとチカラが沸いてきそうな気がします。
「今川焼」や「安倍川餅」、「ういろう」や「小倉トースト」、「うなぎパイ」よりも、はるかに戦場でガツンとくる「濃厚さ」ですね。

濃いけど、クセになる…、「三河武士」を思い出させる、そこが「ミソ」ですね。

* * *

コラム「麒麟(22)」につづく。


2020.6.28 天乃(赤)みそ汁
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