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麒麟(22)桶狭間は人間の狭間(4)
「心の本質をつけ」
【概要】NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。信長と義元の視点の違い。信長の心理作戦。信長の土木技術好き。織田と松平の連合軍体制。桶狭間の戦いの本質。
前回コラム「麒麟(21)桶狭間は人間の狭間(3)三河煮込み」では、織田氏と今川氏の間で苦悩する三河国の武士たちのことを書きました。
今回のコラムでは、そんな三河国の武士たちのことを、信長や義元が、どのような思いで見ていたのかを想像してみたいと思います。
大河ドラマ「麒麟がくる」の第二十回「家康への文」の中でも、それをうかがわせるシーンがたくさん登場してきましたね。
私は、信長と義元の思想の差が、まさに「桶狭間の戦い」の勝敗を左右したと感じています。
* * *
いち歴史ファンとして個人的に感じるのは、戦国時代の武将どうしの競争から、不本意に脱落していった武将には、何か共通するものを感じます。
もちろん突発的な病気や暗殺で脱落していったケースも少なくありません。
ですが、本人の資質や思想により脱落していった者も少なくなかったと感じています。
これは、防げたことだったのかもしれません…。
おそらく現代社会にも通じる話しだと感じています。
◇今川義元の選択
大河ドラマ「麒麟がくる」の第二十回「家康への文」の中で、片岡愛之助さんが演じる今川義元は、堺正章さんが演じる医者の「東庵(とうあん)」を呼び寄せ、話しをします。
義元は、東庵に問います。
松平元康は、信用していい人間なのかどうか…。
ドラマの中では、今はなき、今川軍の軍師の「雪斎(せっさい)」が、その眼力を認めていた東庵だったからです。
ドラマの中で、義元が抱きかかえる猫は、まさにウサギを狙って凝視していましたね。
東庵は、信用していいとも、信用するとあぶないとも、どちらにも解釈できるような返答をします。
でも、ドラマの中の義元は、自分に都合のいいほうに勝手に解釈してしまいます。
「そうであってほしい」、「そうであるに違いない」…、そんな思いや、思い込みが、先行してしまったのかもしれません。
人は時に、自分の願望によって、ものごとを見誤ってしまうことがありますね。
義元は、松平元康…ようするに三河勢が、もし信長側に回ったときの危険性を置き去りにしてしまったのかもしれません。
ドラマの中で、義元は、東庵のこの言葉を、正確にしっかり理解する必要があったのですが、その広すぎる広間に、助言してくれるはずの雪斎の姿は、もうありません。
抱きかかえていた猫は、どこかに去っていってしまいました。
* * *
私は思います。
「今回、自身(義元)が出陣して、義元が雪斎の代わりをしようなんて、数十年早い…、いや できない」。
「海道一の弓取り」とは、雪斎が生きていた時までのことだった」と。
そもそも、信長が、この戦いに全身全霊をかけた大勝負に出たのは、義元本人が出陣してきたからこそです。
私は、義元本人がこの戦いの前線に出てこなければ、信長は、これほどの大勝負に出たとは、到底 思えません。
私は、義元が、自身でそのきっかけをつくったのだと感じています。
◇今川義元の視点
もうひとつ、大河ドラマの第二十回「家康への文」の中では、義元が元康を見る大事な視点が描かれていました。
その台詞の中で、義元が、元康を、幼い頃からしっかり守って教育し、三河を統率できる武将にまで育ててやった…、という意味の内容がありました。
だから、自分(義元)のために、働いて、恩を返し、場合によっては命を差し出すのは当たり前だという思いが、垣間見えます。
これは、駿河国のために、三河勢は犠牲になって当たり前という、ずっと以前からの思想にもとづくもののように思います。
前々回のコラムでも書きましたが、明智光秀の台詞「今川は、織田と戦う時に、必ず三河勢を先陣につける。…」はそれを語ったものです。
きっと、戦国武将であれば、自身の国の兵と、自軍の中に組み込まれた他国の兵を、区別して扱うというやり方は誤りではなかったと思います。
ただ、他国の兵へのアプローチ(接し方)の仕方が、信長とは、まったく真逆のように感じます。
* * *
義元は、「桶狭間の戦い」の数年前におきた、三河勢の今川氏への反乱の動向を、何か見誤ったのかもしれません。
義元は、武力で彼らを制圧し、今回、その彼らとともに尾張国を目指したのです。
これは、義元が、元康だけを信用していいのかどうかを気にしている場合ではなかったのかもしれません。
元康だけでなく、三河勢全体をしっかり見張っておく必要があったのだろうと思っています。
それよりなにより、「三河衆は、駿河国のために死んで当然」という思想は、そもそもどうなのか…。
* * *
おそらく義元は、元康を、最後まで完全に信用はしなかったと思います。
信用しないのであれば、しっかり監視しておく必要があったと感じます。
「桶狭間の戦い」の時に、今川家の信頼の厚い朝比奈氏の軍を、元康軍の兵力と同じくらいの数だけ、元康のすぐ近くに置いたことは、今から思うと誤りだった気がしますね。
自身の防御を忘れ、敵を攻撃することしか眼中になかったのかもしれません。
この今川軍の配置も、信長軍の仕掛けたワナだったのかもしれません。
上杉謙信なら、そうしたワナを仕掛けると思います。
おそらく雪斎であっても…。
◇敵の心の中に、油断とあせりを生ませる
私は、今回の「桶狭間の戦い」を書くにあたり、上杉謙信と武田信玄の「第四次・川中島の戦い」との共通点を、随所に書き加えていますが、この今川の朝比奈軍の配置は、武田信玄が、自軍の半分ほどにもあたるような大軍勢を、謙信がたてこもる山に向かわせたことにも似ていると感じています。
なぜ、信玄は、謙信が立てこもっているはずだと思った山を、もっと調べなかったのか…。
この武田軍の兵力の分断の大きさが、その後、信玄の身を危機にさらします。
謙信は、この時の信玄と、武田軍の軍師である山本勘助の心の中に、油断とあせりを、しっかり根付かせる作戦も同時にとっていたのです。
* * *
私は、義元の考え方…自国軍だけありきの発想が、この頃の戦国時代に、すでにあっていないようにも感じます。
兵士を他国から借りてきて丁重にお返しするような、信長の発想とは、決定的に違う気がします。
信長の行動を見ていると、新しい時代の連合軍の思想が、やっと戦国時代後期にやってきそうな予感がします。
私は、甲斐(武田)、相模(北条)、駿河(今川)の「三国同盟」は、連合軍の思想とは、まったく別ものだと思っています。
「戦略的互恵関係」と「連合軍」は、まったく別ものですよね。
◇織田信長の視点
私は、織田信長と、今川義元では、三河勢に対する姿勢…、ひいては戦国武将として、軍団のリーダーとして、その考え方や、家臣の使い方が、かなり異なっていたと思っています。
古い昔からの源氏の名門家で、大きな武力勢力の今川家の「おぼっちゃま」の義元と、弱小武家から武力でやっとのし上がってきた織田家で生まれ、強いリーダーとして軍団を率い、戦い続けなければ生き残っていけない信長では、その考え方が同じであるはずがありませんね。
信長はよく「非情」だとも呼ばれますが、個人的には、ある意味、「温情派」の部分を多く持っていると思います。
それが、戦いの時の、家臣の使い方にあらわれている気がします。
彼は、大きく期待している家臣ほど、強く叱責します。
信長にとっては、ダメな者を切り捨てるのではなく、「努力しようとしない者、協力しようとしない者」を非情に切り捨てるのだと思います。
私は、信長はこのように思っていたのではと感じています。
「武将の戦いは、城や兵器、兵の人数、財力、知力はもちろん大切だが、それを扱う人間たちはもっと重要だ。彼らには心があり、願いがある」と。
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私は個人的に、信長は、家臣の扱い方においても、敵の調略においてもそうですが、その者が何を望んでいるのか、何を求めているのか、何を願っているのかに、非常に着目するタイプだったと感じています。
それに応えてあげれば、相手が、自分の味方になってくれる、自分のために働いてくれる…、そう考えていたのかもしれません。
相手の行動には、しっかり感謝し、御礼もします。
「信長様のために、死ぬのが当然」…、そんな言葉を吐く家臣がいたら、こう言い返したのかもしれません。
「そんなことを本心で言う武士は、今の世にいるのか? もしいたら、そいつは戦国時代には生き残れない。
ただ、オレ(信長)といっしょにいれば、お前は死なない」。
このくらいのことは、言ったのかもしれません。
一部の家臣が、大将と生死を共にすると思うまでには、相当な時間と、心のやり取りがなければ、生まれてこなかったと思います。
そういう意味では、信長軍と、家康軍は、ほかの武将たちの軍とは何かが違う気がしています。
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信長は生涯、家康を家臣扱いにはしません。
あくまで、同盟の相手です。
「家康さんの願いには応えてあげるから、オレ(信長)の味方をしてね…。オレも君を守ってあげるよ。」
これは、家康に対してというだけでなく、三河国全体に対する姿勢です。
互恵関係とはまったく違う、強い信頼のかたちにも見えます。
二人の間には、同盟ともまた違う、別の信頼関係が構築されていた気もします。
もちろん、今川なき後も、東国には、北条や武田、上杉らの強力な勢力がいたことが、三河国を緩衝材としての第三国としておいておいた大きな理由だと思いますが、それだけではないような気がします。
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信長の派手な奇行や余興の中には、自身に向かってのものではないものも、たくさんあったような気がします。
相手を楽しませるには…、相手をリラックスさせるには…、相手から信用を得るには…、どんな行動をしたらいいのか、非常に心を配るタイプの人間が信長だったような気がします。
信長と義元では、相当に異なる人物像を想像します。
◇信長の心理作戦
今回の大河ドラマでは、特定の二人の人物を、比較しながら、それぞれの特徴を表現する描き方が多いなと思っていますが、第二十回「家康への文」でも、義元と信長の、元康へのアプローチの違いが描かれていました。
東庵に、元康の信用度を尋ね、勝手に自分に都合のいいほうに解釈した義元。
元康の母「於大」と、陰謀策略家の水野信元に、信長は、心にもない「母子の情」を持ち出し、三河勢の今川への対抗心や、水野氏自身の野望にも、火をつけようとします。
「自分の心」にアプローチするのか…、「相手の心」にアプローチするのか…、両者はまったく違うものですね。
私は、この時点で、「信長の勝ち」だったようにも感じています。
* * *
信長は、この戦いだけではありませんが、相手の心をつくのが、非常に上手い人間だったと思っています。
自分本位に行動しがちな人間本来の心理を、上手く利用すると言い換えてもいいのかもしれません。
三河国の有力武将の水野信元を通じて、信長が持つ、相手の心を尊重する姿勢が三河勢に伝わった場合に、三河勢はどう判断するでしょうか…。
「信長って、三河の味方か…?」
大河ドラマでは、岡村隆史さんが演じる「菊丸」が、この内容を、元康に伝えます。
菊丸は、三河衆が共通に感じている今川氏への不満と、元康の母の思い、三河衆の「宿願」を、元康に切々と語るのです。
元康は、泣きながら聞いていましたね。
歴史的には、この時、元康は満年齢で17歳。
17歳の男子の心に響かないはずはないような気がします。
元康が動けば、三河衆がみな彼についてくる。
元康の宿敵の水野信元だって、この際、味方になる…?
私は、信長は、本来長い間、敵対関係にある松平元康と水野信元に、それぞれ何かの話しをして、ひとまず休戦し、手を組ませたのではないかと、個人的には考えています。
三河国を、今川義元の強力な呪縛(じゅばく)から解放させてあげるから、ひとまず両者で手を組んで、自身(信長)のもとに結集してもらえないかというような話しをしたのかもしれません。
今川の圧力がなくなった後は、尾張国は手を出さないから、三河国の中で相談して上手くやってくれ…、そんな提案をしたのかもしれません。
でも、このことは今川には秘密だよ…。
* * *
元康は、この時に、織田のスパイが、すでに数百名単位で三河国内に侵入していることを知った可能性もあります。
いつでも、織田のスパイが自身(元康)を暗殺できると感じたかもしれませんね。
スパイのことは、またあらためて…。
信長からしたら、「桶狭間の戦いの中で、その信用度を見せてやる」と両者に伝えたのかどうか…。
私は、信長は、この戦いの中のある時点で、その信用度を、三河衆に見せつけたのだと思っています。
大河ドラマの中でも、それとなく描かれていましたね。
このお話しは、戦局の話しの中で、あらためて書きます。
◇作戦開始
この信長と元康、あるいは水野を含めた三者の計画は、「桶狭間の戦い」後の、織田氏と松平氏の密接な連合軍の体制を考えると、少なくとも、信長と元康のつながりは間違いないような気がします。
水野信元は、一応この時点で、信長の配下です。
今、小学校では、「桶狭間の戦い」のことを、どのように教えているのでしょうか?
数十年前の私の子供の頃は、織田信長が「桶狭間」で今川義元を奇襲で討ったと教わりました。
信長と家康が協力して、義元を討ったとは教わりませんでした。
* * *
でも、これでは、江戸幕府なら体裁が悪くて、歴史の話しをできませんね。
神君 家康公が、育ててくれた養父を、元服まで行ってくれた父親の今川義元を、戦場でいきなり裏切って、だまし討ちにしたなどと言いにくいように感じます。
実父でなくとも、「親殺し」に見られてしまいそうです。
現代はもちろん、この時代でも「大罪」です。
* * *
おそらく戦国時代の当時は、「桶狭間の戦い」以降の、信長と元康の強い連携は誰もが知るところだったと思いますが、「桶狭間の戦い」もそうだったのかは明確にされてはいません。
大河ドラマでは、大高城で、元康が菊丸と話しをしていましたが、この計画を成功させるには、その時点で相談していては遅すぎるように思います。
私は、今川義元が岡崎城に入るまでの、どこかの時点で、信長と元康は、おおよその話しをつけたのではと感じています。
ただ、今川軍の進軍状況次第で、決戦場所が変わる可能性もあるので、どういう状況になるか、織田氏と松平氏の間で情報をとりあっていたのかもしれません。
そうでなければ、三河国内に、これだけ大量の織田のスパイが入っているとは思えません。
◇本質をつけ
いずれにしても、私は個人的に、信長が戦いの前に、三河衆の「心の本質」を見事についたのだと思っています。
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」も、「家康への文」で、この戦いの本質をついたのかもしれません。
ドラマの中での、元康(家康)の母の手紙の最後は、次のような内容でした。
「…戦から身を引きなされ。母はひたすら、元康殿に会いたい。おだやかに、何事もなく、ほかに何も望まぬ」。
* * *
そしてドラマの中で、菊丸は、元康に切々と語ります。
ドラマのBGM音楽も最高潮。
「三河の者すべての願いであります。
今川を利する戦に、お味方なさいますな。
今川ある限り、三河は百代の後も、日が当たりませぬ。
(略)
織田につき、今川勢を退け、三河を、再び三河の者に戻して頂きとうございます。」
* * *
信長は、この三河衆の心の本質をつけば、「織田・松平連合軍」がつくれると思ったはずです。
今川軍は、駿河国にかなりの軍勢を残してきたと思われます。
「これなら勝てる!」…信長は、そう思ったに違いありません。
* * *
私は、こうした信長と元康の連合軍体制になった状況では、もはや何をやっても、今川軍は勝てなかったと思います。
もはや退却も逃亡もむずかしいと思います。
美濃国の斉藤家が、義元を助けるとは思えません。
信長と元康からしたら、この計画を、いかに義元に見破られないようにするかですね。
それぞれの軍でも、この計画を知っていたものは、スパイと本人だけだった可能性もあると思っています。
ギリギリの段階で、家臣たちには、その家臣に必要な内容だけを、それぞれに伝えただけだったのかもしれません。
計画の全体像を知っていたのは、ごく一部の人間だけだったのかもしれませんね。
* * *
「今、桶狭間周辺で、いったい何が起きているのか、さっぱりわからない」…今川義元からみたら、これほど恐ろしい状況はないと思います。
私は個人的に、あの場所で、義元が休息などとるはずがないと思っています。
「なぜ、進軍がこんな山の中で止まるのだ…?」。
◇土木技術で、敵を誘導しろ
個人的には、信長は、森林土木の専門部隊を用意した可能性も十分にあると感じています。
この戦いの後の信長軍の「美濃攻め」では、森林伐採集団や建物建設部隊が大活躍しましたが、すでに「桶狭間の戦い」でも、彼らが暗躍したのではと私は感じています。
台風ならともかく、ゲリラ豪雨程度で、大木が何本も倒れるのでしょうか…?
信長は、後に、新時代の城「安土城」を築きますが、とにかく彼は、土木技術などに興味を持っていました。
後に、秀吉も、土木技術を自身の戦術の中に大きく組み入れていきますが、信長から学んだとしか想像できません。
信長は、桶狭間を含め、この周辺地域に相当な「ワナ」を仕掛けて、義元を待っていたのだと思っています。
土木技術を使って、敵を誘導し、混乱させ、敵の大将の心を揺さぶれ…、こんな思いが信長にはあったのかもしれません。
◇何でもあり
個人的には、ある段階で、信長軍が、「元康が裏切った」という情報を義元の耳にあえて入れさせ、軍団の混乱をさらに狙ったと思っていますが、その話はあらためて…。
もし信長軍が、偽装の「乱取り(武具の盗賊行為)」を行ったとしたら、この時だったかもしれません。
「乱取り」に見せかけ、敵の将校たちに近づき、ひとりずつ消していったのかもしれません。
大木を倒す、石を落とす、盗賊になりすます、ニセ情報を流すなど、後の記録にある「信長は、ここまで非道をやるのか…」という部分は、こういうことを指しているのかもしれません。
* * *
実は、こうしたニセ情報戦は、戦国時代の実際のいろいろな合戦中に、何度も行われています。
現場が情報に惑わされ、誤った行動をとったら、そこで負けは決してしまいます。
いかに指揮命令系統がしっかり体制を維持でき、兵士のマインドが一定の安定性を維持できているかが「カギ」となってきます。
信長のすごいところは、今川軍のそのあたりも、しっかりついてくることです。
これが「奇襲」と錯覚される部分なのだとも感じます。
ここまで計算して行動するのか…、信長による「心の本質」をつく作戦の細かさは、もはや尋常なレベルではありませんね。
信長は、人間のどこをつけば、乱れるのかをしっかり理解していたのだと思います。
おいおい書いていきます。
秀吉も、光秀も、後でこのことを知って、信長のすごさを実感したのだろうと思います。
この二人が心酔して選んだ武将こそ、信長だったのです。
◇信長と元康の連合軍体制
実際に、「桶狭間の戦い」の後、三河国は元康のもとで統一され、尾張国とははっきりと分かれた、独立国として自立します。
信長と三河衆との約束は実行されたのだと思っています。
「奇襲」に見えたものは、「桶狭間の戦い」のほんの一片にすぎません。
武将や軍団という人間の枠を超えた、壮大なスケールの戦いこそが、「桶狭間の戦い」の本質ではなかったであろうかと、私は感じています。
* * *
これで信長と元康の、強い連携がつくられました。
この瞬間、この連合体制が、日本の中心を走り始めます。
信長にとっては、「桶狭間の戦い」で知名度が全国区になってからが、本当に激しい戦いの時代となっていきます。
ただ、信長は、いずれ三河国と松平氏を何とかするつもりでいたのだろうと、私は思っています。
それまでは、この三河勢の武力は敵にまわさないと思っていたことでしょう。
◇あいつは、どこにいる?
この連合体制があれば、美濃国の斉藤家にも十分に対抗できる…。
信長は、そう感じたでしょう。
信長は、美濃国の中に、たくさんの人脈をすでにつくってあります。
武力に長けた者、政治力に長けた者…。
そうだ、あの知略に長けた、鉄砲にくわしい、斎藤家になびかなかった、あいつはどこにいる…。
上杉、武田、毛利、三好、そして足利将軍家に今後対抗するには、もう少し有能な人材がほしいな…。
あいつは、どこにいるのだ…?
* * *
さて、本コラムでは、その話しの前に、まずは「桶狭間の戦い」を征しなければいけませんね。
次回コラムでは、いよいよ、両軍の進軍状況の話しを書きます。
複雑な状況を把握するために、可能な限り、時系列に、有力者たちの動向を追ってみたいと思っています。
前にも述べましたが、この「桶狭間の戦い」は隠された内容、はっきりしない内容など、不明点がいっぱいです。
史料の信ぴょう性も、怪しいものが多いのも事実です。
ですので、人の動き、時間、状況など、諸説が乱立しています。
よほどの新史料でも発見されなければ、真実は解明できないと思います。
私の想像も含めて、次回から戦況を書いていきたいと思います。
* * *
下記に、簡単な「桶狭間マップ」を載せますので、皆さまが、信長だったら、義元だったら、三河の元康だったら、どのように進軍するか…、敵をどのようなワナにかけたらいいか…、どうぞ考えてみてください。
ここまで書いてきたコラム内容を参考に、戦国大名になった気分で、戦いに参加してみてください。
もはや、戦国時代のこの頃には、戦(いくさ)は頭脳で戦う時期に差しかかりました。
テレビドラマでは、なかなか描かれることのない、戦の本質を、どうぞ皆さまもついてみてください。
〔上記マップの説明〕
戦いの前日の5月18日(当時の旧暦日付)時点です。
青色の城が今川方です。
赤色の城や砦(とりで)が、織田方です。
重要な城や砦だけを載せてあります。
右端の「岡崎城」の、ずっと右側(東側)の遠い先に、今川義元の本拠地「駿河国」があります。
義元が、尾張国にやってくる際は、このマップの右側から左側に向かって進軍してきます。
「熱田神宮」のある場所が、今の名古屋市で、このあたりが織田信長の「尾張国」です。
織田信長の本拠地である「清洲城」は、このマップの少し北にあります。
ピンク色の円形は、三河武士勢力の水野氏の勢力範囲、あるいは、そうであった場所です。
5月18日の段階までに、知立城や牛田城は、今川方に奪われています。
マップの「岡崎城」から「知立(ちりゅう)城」を経て、「沓掛(くつかけ)城」あたりを通り、熱田神宮に向かうルートに、後に東海道として整備される、主要な街道「鎌倉街道」が通っています。
茶色の塊りは、標高50メートルから、せいぜい100メートルくらいの小さな丘陵地です。
低い標高の丘陵地だとはいえ、そこに山があれば、水がわき、小さな沼や池があり、川が流れています。
川があるということは、それほどの規模でなくとも谷があり、丘の向こうの建物が見えない場所も多くあります。
丘をひとつ隔てたら、その先で何が起きているのか、非常にわかりにくい、山の「狭間(はざま)」の「くぼ地」が幾つもありました。
その丘陵地の一角こそ、「桶狭間」なのです。
「水」と「視界の悪さ」…、これは使えそうです!
* * *
コラム「麒麟(23)桶狭間は人間の狭間(5)義元をつれてこい」につづく。
2020.7.1 天乃みそ汁
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