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麒麟(25)桶狭間は人間の狭間(7)
「魔王信長」

【概要】NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。信長と義元の作戦と戦術。信長の陰謀と暗躍。革命児 信長。奇跡はおこすもの。戦国武将の戦いの思想。第六天魔王の信長。家康は学んだ。気づかない義元。簗田政綱。


前回コラム「麒麟(24)桶狭間は人間の狭間(6)最後の一線」では、どうして桶狭間だったのか、沓掛城と祐福寺のこと、蜂須賀小六と簗田政綱の関係のこと、服部一忠と毛利新介のこと、近藤景春と山口教継のこと、母衣衆と馬廻衆のことなどについて書きました。

今回のコラムは、信長の「桶狭間の戦い」における作戦と戦術について、考えてみたいと思います。



上記マップの青色の城が今川方です。
赤色の砦(とりで)が織田方です。
薄茶色の部分は、標高100メートル程度までの小さな山や丘です。
「D」地域から鳴海城方面に向かう谷筋に「手越川(てごしがわ)」が流れています。

青色矢印は、今川軍の松平元康・朝比奈泰朝・井伊直盛らが進軍したであろうルートです。


◇今川軍の作戦

まずは、今川軍のほうの作戦について書きます。

前回コラムで、今川軍の松平元康・朝比奈泰朝・井伊直盛らの進軍計画について書きました。

今川軍の今回の戦いの作戦全体像については、史料が残っておらず、主要な武将の配置がわかる情報も残っていません。
陣跡といわれる史跡も、確証はありません。

あくまで推測ではありますが、もう一度、前述の三者の進軍計画について、簡単に書きます。

* * *

5月19日朝の段階で、松平元康・朝比奈泰朝・井伊直盛らが、織田軍の「鷲津砦(わしづとりで)」と「丸根砦(まるねとりで)」を攻撃し、両砦が陥落し、元康ら三河勢と朝比奈泰朝は「大高城(おおだかじょう)」周辺に残ります。
マップの「A」の地域が今川軍の支配下となります。
井伊直盛の軍は「C」の桶狭間に戻ってきます。

ここまでは確実に起こったことだと思われます。
ですから、今川軍は「A」地域を、まずは手中にします。

ここからは推測ですが、今川軍は「A」に続いて、20日に「B」の地域に進軍し、他の今川軍と連携して、織田軍を撃破しようとしたのではと思っています。

そのために、19日に「C」の桶狭間に義元本陣を置き、その周辺を井伊直盛や松井宗信らの遠江国勢と、駿河国の今川勢に守備させ、次の日の20日になってから、「D」や「E」地域に布陣させた今川軍の大軍勢「鳴海城(なるみじょう)の援軍部隊」を、「A」地域にいる今川軍と同時に、「B」地域に進軍させ、同時に鳴海城からも出撃させ、織田軍の「中島砦(なかじまとりで)」、「善照寺砦(ぜんしょうじとりで)」、「丹下砦(たんげとりで)」を撃破するつもりであったのではないかと思います。

ひょっとしたら、これに加えて、「D」の北側(上側)にある山地を通る鎌倉街道を通って、沓掛城に残した今川軍を、善照寺砦に向かわせたかもしれません。

義元にとって、あくまで主戦場は、「A」と「B」の地域だったのではと感じます。
まさか「C」の場所が主戦場になると想定していなかったのではないでしょうか。

* * *

「C」の桶狭間の地域は、標高はそれほどありませんが、低い山や丘などの起伏が多く、見通しのきかない場所も多くあります。
戦国時代の「野戦(やせん / 原野や野山での戦闘)」の考え方からして、「C」の地形に陣を設置し、その場所で戦をするとは考えにくい気がします。
私は、こんな地形の場所で「野戦」を行うはずはないと思います。
ここは、敵兵がやすやすと入り込めない防衛拠点としての本陣であったように感じます。

おまけに、桶狭間には長福寺という、今川家の大切なお寺もあります。
野戦の一時的な本陣ではなく、まるで城や櫓(やぐら)のような役割の、長期滞在可能な建物です。
大軍勢にたえうる食糧や水も豊富です。
急襲ではないかたちで、敵の軍勢が来ても、脱出がすぐに可能な場所でもあるように思います。

軍団として、陣立てがしっかり固まってしまえば、前方から敵が簡単に入り込めるとは思えません。
義元は、本来、固い守りの中の本陣にいるはずだったのだと思います。

* * *

もちろん、中島砦や善照寺砦から出てくる、少数の織田軍と、「E」や「D」の地域で、小競り合いが起きることは想定していたでしょうが、まさか「C」の地域まで攻めこまれるとは想定していなかったのではないかと思っています。

当日の午前中に、井伊直盛が大高城から桶狭間にやってきたこともあります。
今川軍も正午前あたりに、大軍が到着したばかりです。
多くの武将たちの陣が、19日の正午過ぎにしっかりつくられていたのでしょうか。

戦国時代の野戦であれば、陣立てがしっかりでき上ってから、大将が本陣に入ることも多かったと思います。
これは、大将の戦の経験値の差もあったかもしれません。

一方、信長は、三つの砦(とりで)が連携した、しっかり固められた「善照寺砦」に入りました。
この砦に信長が入った時刻は、おそらく、その日の行動スケジュールもあったでしょうが、敵将の義元の行動時刻にも合わせたものだと感じます。
おそらく信長が今川軍から攻撃されない時刻です。

徳川家康は野戦の天才、豊臣秀吉は城攻めの天才と、よく言われますね。
「桶狭間の戦い」は、野戦と城攻めのどちらの要素もあると思いますが、天才と呼ばれた武将たちは、ほぼすべてが計算された行動をとっていましたね。

* * *

今川義元は、「B」地域にかたまっている少数の織田軍に、南、南東、東から、大軍勢で一気に猛攻撃をしかける作戦ではなかったかと想像します。
まさに、大兵力にものをいわせた、正攻法そのものです。
これを、戦国武将の「作戦」と呼んでいいのかどうか…。
小さな虫を踏みつぶすようにも感じてしまいます。

実現していれば、ここまでの戦国時代でも、これほどの規模の総攻撃は、そうそうなかったと思います。
もし織田軍がここで交戦していたら、花火のように「こっぱみじん」だったかもしれません。


◇戦客万来

この圧倒的な今川軍の状況を見れば、当時の人たちが、今川軍を兵力4~5万人と言いたくなるのも理解できる気がします。
鎌倉街道を西に向かう大軍勢は、数十分か数時間、途切れることなく続いたと思います。

織田軍は、場所はわかりませんが、戦見物(いくさ けんぶつ)の庶民たちがあまりに多いため、彼らを退去させます。
おそらく、武士を目指す、若い農民や町人らも、戦を学ぶため、あるいは、あわよくば家来にと、街道筋に大勢集まったのでしょう。
これだけの戦ですから、他国のスパイも相当に来ていたでしょう。
みな、信長軍というよりは、今川軍の戦い方を見に来たのかもしれませんね。

この頃、秀吉は20歳代です。
実家も戦場の近くですし、おそらく見に来ていたでしょう。

光秀は、30歳代か40歳代くらいでしょうか。
大河ドラマのように、はるばる見に来ていても、まったく不思議はありませんね。

* * *

沓掛城周辺の村人たちには、信長がすでに手を回し、手名付けていたはずですから、今川軍の進軍状況の情報が、どんどん善照寺砦に入ってきたことでしょう。
後に家康も、関ヶ原の村人たちに、たいへんな協力をしてもらい、戦後に破格の御礼をしました。

実は、戦いに勝つとは、戦場になる地域住民への、こうした地道な行動や配慮がものをいったりします。
敗戦しても、死なずに、生還できるケースだって、めずらしくありません。
現代の戦争も、同じですね。


◇まさか、オレたちと戦うの…

20日の朝に、今川軍に、完全に、この陣立て…軍の体制を取られたら、織田軍は助かる道はありません。

織田軍は、19日の夜までに、熱田神宮か、清洲城あたりに退却していなければ、おそらく助かりません。

今川軍は、織田軍がこの状況を見て、退却し、清洲城あたりに立てこもると考えていた節(ふし)があります。
18日まで、信長が清洲城にいたことは、今川軍はつかんでいたでしょう。

まさか今川軍は、19日になっても、信長が清洲城にまだいるなどと思っていたのでしょうか…?
もしそうなら、「情報戦」で今川軍は完敗です。
信長は、だからこその、19日早朝の超スピード極秘移動だったはずです。

今川軍が、信長の移動を知らなかったはずがないとも言い切れません。
信長の移動中を襲撃する素振りが、まったくありませんでした。

ひょっとしたら、桶狭間に到着した義元は、信長は清洲城にいるなどと思っていたのかもしれません。
誰かが、ニセ情報を今川軍に入れたとも考えられます。

* * *

いずれにしても、まさか、このまま「B」地域に織田軍が残って、今川軍と交戦するとは思っていなかったのではないでしょうか。

ひょっとしたら、義元は、本格的な戦闘は数日先くらいに考えていたのかもしれませんね。

この心理的要因は、この日(19日)の正午あたりからの出来事に大きく影響する気がしてなりません。
大将がもし危険性を認識していなかったら、家臣や兵士たちが認識しているはずがありません。

「今日(19日)は、各陣をゆっくり設営して、夜に酒や食事をゆっくりしよう…、明日(20日)、織田軍なんて踏みつぶしてやろう」…、もしこんな気分でいたら、たいへんですね。

こんな時に、今川軍のあいつは、す~っと、どこかに消えます…。
そのことは、次回以降に…。


◇革命児、信長

信長からしたら、今川軍と織田軍のこれだけの兵力差と、今川軍の展開を予想したら、逆に、もう笑って開き直れるのかもしれませんね。

信長でなくても、同じ死ぬなら、一か八か、大勝負してみるかと思うかもしれません。
この状況からの大逆転勝利というのは、本当に奇跡にように感じます。

信長は、戦国時代の戦の常識の中で戦ったら、確実に負けると思ったのではないでしょうか。
非常識の限りを尽くさないと、絶対に勝利はないと確信していたのかもしれません。

それを理解していた家臣も、中にはいた可能性があります。
奇跡を起こして死んでいけることに躊躇(ちゅうちょ)しない者も、何人かは、いたかもしれません。

このまま織田軍の中にいては危険だと感じた兵士たちは、逃げ出していったでしょう。
でも、この極秘作戦だけは、身内にもそうそう話せない内容ですね。

* * *

私は、知りうる戦国時代の戦の中でも、これほどの内容の大逆転は他にないように感じます。

中には、優れた作戦で、きびしい状況から巻きかえした戦や、少数で大軍を退却させたケースはありますが、今回は、作戦だけでは無理だったでしょう。
他に、何か大きな要素が、いくつも必要だと思います。
おまけに、大将自身が、戦場でこれほどのリスクを、自ら負うとは…。

* * *

私は、信長という人物の忍耐力と突破力のすごさに、いつも驚かされますが、この戦いで、よくここまで地道に丹念に準備したものです。
執念なのか、挑戦なのか、好奇心なのか、むしろ恐怖との戦いを楽しんでいたのか…。

人間は、こんなことを成し遂げることができるのかと、驚きや好き嫌いを通り越して、感動してしまいます。

秀吉、光秀、信玄、謙信…、皆が驚嘆するはずですね。

戦国武将たくさんいる中で、「革命児」と呼べるのは信長だけかもしれません。
秀吉や家康は、絶対に、「革命児」ではありませんでしたね。


◇恐怖とプレッシャー

これを読んでいただいている皆さま…、あなたが、もし信長だったら、どうされますか…?

現代人なら、何をどう考えたらいいのか、さっぱりわかりませんね。

現代の大型スタジアム級の音楽コンサートですと、お客さんを2万から5万人程度まで収容できますが、彼らは武器を持って襲ってはきません。
もし、その数万にもおよぶ人間が、ゾンビと化し、武器を手に、組織だって自分に襲ってくると考えてみてください。
あなたは、2000人くらいの味方とともに、ステージの上に立っています。
あなたが生き残るには、その数万人のゾンビの中のひとりを倒すこと…。

さあ、どうしましょう…?
目をつむって、座り込みますか…。

この時の信長、家臣、一族たちの恐怖とプレッシャーは、こんなものではなかったはずです。

* * *

信長が清洲城に立てこもったところで、この兵力差です。
滅亡は見えています。

あなたなら、家臣や領民を捨てて、身ひとつで、他国にでも逃亡しますか?
戦って勝利する方法を考えますか?

信長は、戦って勝つ道を探します。
探すというより、猛然と何かに向かって突っ走るような気迫も感じます。

歴史の中の本物の元康は、そんな信長に、何かを感じたのかもしれませんね。
大河ドラマの中の明智光秀は、確実に何かを感じ取りました。


◇「奇跡」はおこすもの

次回以降のコラムで書きますが、19日の決戦日に、信長は、家臣たちに、「喝(かつ)」を、執拗に何度も激しく入れ続けます。
なだめ、元気づけ、勇気を奮い立たせます。

想像するに、信長は、家臣たちを、その日の一日中、激しく鼓舞し続けていたのかもしれません。
これほどの内容は、他の戦国武将にはほとんど見かけません。
信長の他の戦とも、違いますね。

* * *

信長は、声が大きかったともいわれていますが、19日の決戦日は、人生最後の一日になる可能性がありますから、全力で声を出し続けたのかもしれません。
そうでなければ、軍団の兵士たちの精神が、持ちこたえられなかったかもしれません。

この戦いは、生涯で最後の戦い、人生最後の一日になる可能性が十分にあるのです。
これは人生の通過点でも、ゲームでもありません。

長い準備期間と交渉を重ね、決戦日にやっとたどりついた織田軍です。
ここで、作戦をストップすることなど、まったく考えなかったと思います。
ストップさせても、死が待つだけです。

今川軍の兵士たちとは、モチベーション(やる気・動機・目的意識)があまりにも違っていたのではないでしょうか。
今川軍の兵たちに、「死」の覚悟がどの程度あったでしょうか…。

* * *

通常の武将の戦いは、大将の逃亡ルートを確保し、戦闘に臨みますが、織田軍は今回どこまで準備していたでしょうか…。

兵力差も、状況も、覚悟も、まさにすべてが異例と非常識の中で、織田軍は最初から、この戦いに臨んでいたのだと思います。

私は、戦国時代に起きたたくさんの戦の中で、この「桶狭間の戦い」に向かう織田軍は、他の軍団たちとは、何かが違うような気がしてなりません。
そうでなければ、自らの手で、奇跡を実現できないように思います。

奇跡は、勝手にどこかから、やって来るものではないような気もします。
信長にとっては、「奇跡」はおこすものだったのだろうと思います。

信長は、熱田神宮で誓ったのかもしれません。
「奇跡」を持って帰ってくるぞ!


◇勝利への道

戦国時代ですから、義元のように、圧倒的優位な兵力や物量で、敵を一気になぎ倒すというのも戦い方のひとつであるのは間違いありません。
ですが、兵力の小さな織田軍の信長には、それができません。

彼は、「陰謀・暗躍・作戦・機動力・非常識」で対抗しようとしたのではないでしょうか。
加えるなら、信長の「気迫」でしょうか…。

彼には、「勝利への道」が、しっかり見えていたのでしょうか…。
突き進むしかなかったのでしょうか…

凡人の私には、あまりにも遠い道のりに感じてしまいます。

とはいえ、信長は、おそらくこの非常識での成功体験が、その後の人生に大きく影響していったように思えてなりません。

世の中が非常識のままでいいのか…、このように考える人物が出てきても不思議はありませんね。


◇信長の陰謀と暗躍

さて、前回コラムで、簗田政綱(やなだ まさつな)と、蜂須賀小六(はちすか ころく)という、信長の家臣のことを書きました。
まさに、陰謀のスぺシャリストと、暗躍のスペシャリストがタッグを組むのです。

簗田は、おそらく、今回の「桶狭間襲撃作戦」の立案者で、作戦の管理統括の責任者であっただろうと思います。

織田軍が「桶狭間」での勝利のために行った、数々の陰謀やワナは、簗田の指示で行われたものではないでしょうか。
その進捗状況や、敵の極秘情報は、逐次、簗田にもたらされ、信長に報告されていたと思います。

大河ドラマ「麒麟がくる」でも、そのような役割の簗田政綱に描かれていましたね。

そして、陰謀やワナの実行部隊が、蜂須賀小六などの大量のスパイ集団だったと思います。
信長自身は、どちらかというと、戦術や作戦などの、戦闘のスペシャリストのような印象があります。

* * *

ここまで書いてきました、いくつかのコラムから、5月19日の桶狭間での決戦直前までの陰謀・暗躍・準備作業などを、もう一度整理します。
そこにさらに少し加えていきます。

まずは、岡崎城に義元が到着したあたりから…。

(1)西尾の実相寺周辺の焼き討ち
(2)岡崎城周辺の牛田城あたりでの戦闘と水野勢の敗戦
(3)知立城への義元の入城
(4)祐福寺・沓掛城への義元の誘導
(5)元康の大高城入城(織田軍は攻撃しない)
(6)大高城への朝比奈泰朝の誘導
(7)元康と朝比奈泰朝らの軍が、織田軍の鷲津砦と丸根砦を攻撃し、両砦が陥落
(8)義元本陣を桶狭間に設営させるプラン(今川軍の作戦全体含む)
(9)清洲城内の織田軍の軍議の空転
(10)決戦日の19日早朝まで信長が清洲城に滞在
(11)19日早朝の清洲城から熱田神宮への、超スピード極秘移動
(12)熱田神宮から善照寺砦まで、織田軍のスピード移動
(13)19日に桶狭間で戦いが始まっても、元康ら三河勢が大高城から動かない

他に…、
・中島砦の大幅改修
・桶狭間での大規模深田づくり
・熱田神宮の軍事拠点化
・桶狭間地域の天候調査
・潮の干満時刻の調査
・馬廻衆の強化
・三河国へのスパイ大量投入
・蜂須賀小六を祐福寺に潜入
・祐福寺用・桶狭間本陣用に、酒と肴の大量準備
・近江国の六角氏よりゲリラ戦のスペシャリストの大量受け入れ
・織田軍の謹慎家臣たちの緊急徴収

ここからは私の想像…
・水野信元による三河勢工作
・松平元康の取り込み
・今川軍の瀬名氏俊の取り込み
・沓掛地域の村人の取り込み
・服部一忠の今川軍への潜入
・戦場想定地域の土木工事と道づくり
・軍旗、馬印等の未使用
・鉄砲隊の防水仕様
・馬廻衆の特別訓練

以上が、5月19日に桶狭間で決戦をむかえるまでに、信長が行った陰謀や暗躍、準備作業の主なものかと思います。

これらすべてが、信長による、今川軍へのワナや暗躍、準備作業であっただろうと、私は思っています。
他にも、これらに付随した関連行動が山ほどあったと思います。

ここから、まだまだ陰謀が続きます…。

信長は、時間も、人も、金も、総動員させたのではないでしょうか。
信長や簗田政綱、佐久間信盛らの、ごく一部の人間しか、その全体像や、それぞれの目的や進捗状況を知らなかったはずです。

これらが、組み合わされただけで、はたして奇跡を起こせるのでしょうか…?
まだまだ必要なことがありそうです。

この頃、今川軍は何を…していた?
「蹴毬(けまり)」に「謡い」…。
まさか…ねぇ。


◇どさくさ紛れに…

大河ドラマでは、こんなたいへん時に、信長が、帰蝶に、他の女性との赤ん坊である、後の織田信忠を紹介しています。

よく、ドラマのこんな忙しい回に、ぶち込んできたものです。
帰蝶よりも、テレビ視聴者のほうが怒りそう…?
「どさくさ紛れに…この色男」。

確かに、帰蝶に赤ん坊を預けるのが、織田家内では、もっとも安全ですし、もし、この赤ん坊が死ねば、帰蝶自身が危機をむかえますね。

「いきなり、家を頼む、赤ん坊を頼む、あなたは母ですって言われてもねえ…。
子作りと、桶狭間の戦いは関係なかっただろ…。
男たちはまったく勝手だ…」。

帰蝶ならずとも、そう思うのでは…。
ものは言いよう…。
結構、余計な心配をいろいろしてしまう、ドラマシーンでした。


◇想定戦場のズレ

さて、先程、今川軍が想定していた戦闘場所は、「A」と「 B」で、状況により「E」や「D」あたりで小競り合いをすると書きました。
義元は、「C」の地域での戦闘は、おそらく想定していなかったと思います。

まさか、そのあたりまで、信長自身がやってくるなどとは、思ってもいなかったかもしれません。
おまけに、19日に…。


逆に、信長は、「A」と「B」で今川の大軍と戦ったら、まったく歯が立たないと思っていたはずです。

今川の決戦予定日であろう5月20日の前日の19日…、今川軍の体制が完全に整う前に、どうしても「C」のあたりで決着をつけないと、勝利できる見込みはないと、信長は考えたと思っています。

今川軍が「A」と「B」で決着をつけようと行動を始める前に、信長は「C」、「D」、「E」で戦闘を仕掛け、「C」の場所にある義元本陣に特殊訓練をつんだ攻撃部隊を向かわせ、義元の首のみを最優先に取るしか道はないと考えたのではないでしょうか。

とにかく、義元本人が19日に桶狭間にやって来て、本陣を設置した時刻(19日の正午あたり)から、全軍が攻撃態勢に入る20日の朝までの間に、襲撃するしか、義元の首は取れないと考えたと、私は思います。

信長は、この数時間に、すべてをかけたのだと思います。

私なら、やはりよく見えない夜襲ではなく、明るい昼間の豪雨の中の攻撃のほうが、チャンスは大きいと感じます。


◇戦国武将の戦いの思想

戦国時代の武将の戦い方を考える上では、いくつかの注目点があります。

いつ、どの場所で敵の軍団と戦うのか…、自軍の陣立てはどうするのか…などに目が向かいがちになりますが、実は同じくらい大事な課題がいくつもあります。

その中で、敵の大将や主要な武将の首を、戦の最中の、いつどこで討ち取るかという課題が、非常に重要となります。
敵の大将が討ち取られる時刻や場所は、偶然の結果やなりゆきでは決まりません。

たいていの場合、勝者側がつくったプランの時刻と場所なのです。
戦闘は、基本的に、戦うことが目的ではありません。
敵将たち主要な人物を討ち取るのが最大の目的です。

戦国時代の戦のたいていで、敵の大将の首を討ち取る時刻と場所は、勝者が決めたものだということです。

敵の兵が死なずに、大将だけが死ぬ戦いも、山ほどあります。

* * *

現代のスポーツの試合でも、ビジネスでも、戦いの最中のどの地点で決着をつけるかは、それぞれが決めることですよね。

米国メジャーリーグの野球の場合、もっとも得点が入るのが初回だそうです。
そうであれば、戦い方のかたちが変わってきますね。
打順の意味合いも、ひと昔前とだいぶ変わりました。
その変化に対応させるため、また新たに対応を変化させます。
こうしてスポーツは進化していきますね。
テニスやサッカーなどを見ていても、強い選手やチームほど、戦いの最中の時間の使い方を非常に重要視していますね。

企業のビジネス経営もまったく同じですね。
戦国時代の武将の戦も、まったく同じでした。


◇第四次・川中島の戦い

今回の私のコラムでは、上杉謙信と武田信玄の「第四次・川中島の戦い」(1561年)と、「桶狭間の戦い」の共通点を考えながら、書き加えていっています。

この「第四次・川中島の戦い」では、軍勢の規模では圧倒的に不利な上杉謙信が、まずは武田軍の兵力の分断の策に出ます。
大軍団の兵の数を、大きく二つ…、ほぼ半分に分けます。

ですが、この二つの軍団にはさみ討ちにあったら、上杉軍はひとたまりもありません。
「はさみ討ち」にならないように考えます。

敵の片方の半分の軍団を、ある場所に誘導し、もう片方と距離を離すのです。
そして、もう片方がいる場所に、その軍団が戻ってくるまでに、時間がかかるようにします。

そして、謙信は、「はさみ討ち」にするつもりで待っている片方の主軍団に、密かに近づいておいて、その軍団の横っ腹に、いきなり突入するのです。
これで、本来の武田軍の軍勢の半分だけと戦えることになります。
これなら兵力は互角です。

ただし、謙信が敵と戦える時間は、もう片方が戻ってくるまでの時間しかありません。
おそらく数十分です。

戻ってくるまでに、決着をつけられなければ、すぐに退却です。
退却に失敗したら、上杉謙信が死を覚悟せねばならない、かなりギリギリの作戦です。

謙信は、自軍の兵を、敵の犠牲にさせながら前進するという、捨て身の攻撃で時間を使い、信玄のいる場所に近づいていきます。
狙うは信玄ひとりです。
猛然と突入します。

信玄は信玄で、そういう時のための防衛体制をとり、必死に防戦し続けます。

* * *

戦闘での防衛とは、やみくもに兵を円陣にし、大将を取り囲めばいいというものではありません。
ヌーなどのアフリカの草食動物は、肉食動物に対して、このような方法をとることがありますが、人間の軍団の場合は、それでは上手くいきません。
脱出や退却、大将を逃がすには、きちんと方法があります。

今川軍は、桶狭間の最終局面で、円陣で大将を取り囲むというミスをおかしてしまったようです。
その方法しかできなかったのか、最初から防衛体制の仕方を知らなかったのか…、よくわかりません。
信長が、脱出体制をとらせなかったと言うほうが、正確なのかもしれませんね。

* * *

「第四次・川中島の戦い」は、前述のような内容でしたが、これは、弱者側が強大な軍団と戦う際の作戦そのものです。
敵の強大な兵力を、少しずつ減らしながら、同じ時刻に大人数の敵と戦わないようにする、時間差を使ってチャンスを作り出し、自軍も犠牲を出しながら、中心人物だけを討つという作戦です。

ある意味、自軍の犠牲の上に、勝利をつかもうとする、ものすごい作戦です。


◇敵が思い通りだと感じた、そのスキをつく

謙信は、信玄が「霧(キリ)」を使って作戦行動をとることを確信していましたので、謙信もその「霧(キリ)」を同じタイミングで、信玄とは別の使い方をしようと考えます。
味方に有利にはたらく自然現象は、敵にも有利にはたらくということです。

敵が、計画通りに進んでいると安心した瞬間を、逆利用するというのも、戦国武将の戦い方のひとつでした。
あえて、敵に「安心」を与えるのです。

* * *

「桶狭間の戦い」の場合にてらすと、桶狭間特有の「ゲリラ豪雨」をどのように使うかですね。

信長は、徹底的にこの地域の気象変化を調べ上げていたはずです。
豪雨が、どのような前兆現象の時に起きて、何時頃に降るのかを、信長は調べ上げていたといわれています。
豪雨が発生したら、雨水がどのように流れ、どこが泥沼になるのかを、知っていたはずです。

義元は、家臣の瀬名氏俊(せな うじとし)に、任せっきりにしていたのでしょうか…?
桶狭間という地域は、瀬名氏俊の庭のような土地です。

信長、秀吉、家康、謙信、信玄、元就…、こうした勝ち組武将たちは、必ず、自然現象や、敵の心理を巧みに利用していましたね。

前述の上杉謙信と武田信玄も、川中島の地元農民たちから、大量の情報を集めたようです。
だいたい、そうでないと、大きな河川など、霧の中を馬で渡れません。


◇信長の魔王戦術

私は、信長の「桶狭間の戦い」(1560年)の作戦も、「第四次・川中島の戦い」の時の上杉謙信に似たものを感じます。
実は、「第四次・川中島の戦い」(1561年)のほうが、後ですが…。

敵の兵力の分断と削減、時間差でチャンスを創出、自身に有利な場所に敵を誘導、敵に心理的油断とあせりを創出、犠牲の上での成果、自然の利用…、あまりにも強い孤高の武将とは、似たようなことを考えるものですね。

* * *

信長と簗田政綱の、陰謀や暗躍の概要は前述しました。
ここからは、軍団の動かし方の概要を考えてみたいと思います。

まずは、戦う今川軍の勢力の分断と、その勢力の確定です。


上記マップの赤色矢印は、私が想像した、織田軍のおおよその攻撃進軍ルートです。
説明は次回以降のコラムで…。

* * *

信長にとって、もっとも避けたいのは、今川軍全軍と、一斉に戦うことです。

「A」地域に、できる限りの今川軍を集め、そこに彼らをそのまま とめおき、「C」での戦闘に参加できないようにさせたいところです。
そのためには、織田軍の戦闘の仕方を工夫する必要がありますね。
その話しは、あらためて…。

「B」地域の今川軍は鳴海城に立てこもっていますので、城から出させなければ、それで良しです。
彼らは、今川軍の「鳴海城への援軍部隊」が鳴海城方面に出てきてくれなければ、城からそうそう出られないはずです。

信長からしたら、これで、戦う相手は「C」、「D」、「E」の軍勢と、沓掛城から前進してくるかもしれない軍勢です。
おそらく沓掛の今川軍は、20日の朝でないとやって来ないはずです。

これで、19日中であれば、信長が戦う相手は「C」、「D」、「E」に限定できます。
おそらく「A」と「B」と、沓掛城にいる軍勢は、20日に備えているはずです。

そもそも、「A」の元康ら三河勢は動かないはず…。
もし19日の「C」での戦闘の情報を得ても、三河勢の軍勢は大高城から出てこないはず…。

* * *

大河ドラマ・サイトの「トリセツ」では、「C」、「D」、「E」の今川の勢力を合わせると、約1万となっています。
織田勢は3000です。

一説には、今川軍の「鳴海城への援軍部隊」である三浦義就の軍約3000が、「D」の手越川を渡った北側にある山に陣をはったという説もあります。
そうだとしたら、「C」、「D」、「E」にいるのは、約7000です。

「今川7000、対、織田3000」ですから、まだまだ兵の数の差は大きいですね。

ただ信長には、強力な特殊攻撃部隊「馬廻衆(うままわりしゅう)」の猛者たちが約700名近くいたはずです。
彼らを、通常の3倍の攻撃力と考えれば、約2000。
そうなれば、全部で4300。

「7000、対、4300」なら、作戦と陰謀でなんとかなるかもしれません。

あとは、織田軍の善照寺砦と中島砦につめている、織田軍の兵力3000あまりを、どのように「C」、「D」、「E」に突っ込ませるのかが問題ですね。

六角氏から借りてきたゲリラ部隊数百のほか、防水対策済みの鉄砲隊もいたはずです。
総司令官の佐久間信盛の強力部隊もいたはずです。
柴田勝家らベテラン勢も、どこかに配備させたはずです。

義元がいる桶狭間の心臓部に突っ込むのは、スピードとパワーのある「馬廻衆」の若武者たちだったはずです。

19日の信長軍の突撃作戦や、まだコラムに書いていない暗躍のお話しは、次回以降のコラムで…。

* * *

今回のコラムでは、作戦の前半部の概要だけを推測して書いてみました。

信長の今回の作戦と戦術は、まさに、陰謀あり、暗躍あり、ち密な準備あり、絶妙な作戦あり、高度な機動力あり、非常識な戦い方ありです。
自身や家臣、一族の運命をかけた、一大作戦だったと思います。
ちゅうちょしている暇はなかったと思います。

史料に残る、信長からの、家臣たちを鼓舞する檄文(げきぶん)メッセージは、むしろ史料で過小に表現されているのかもしれません。
まさに「魔王」と化した、激しい信長の姿がそこにあったように思います。

家臣たちは、この「魔王信長」についていけば、奇跡を成し遂げらるのではと、その気になったのかもしれませんね。
信長の、卓越した統率力により、殺気だった、ものすごい迫力の集団が、ある瞬間から、怒涛の攻撃を開始したのだろうと思います。

この戦いは、「今川7000、対、織田3000」という数字だけで判断したら、見誤ってしまうのかもしれませんね。


◇魔王の出現

奇跡を起こした…、奇跡を呼び込んだ…、理由はいろいろと考えられます。
ですが、なんといっても最大の要因は、そこに、信長がいたということだと感じます。
信長がそこにいなかったら、今川軍が負けたはずはないと思います。

後の信長の姿や行動を考えると、奇跡とは「起きるもの」ではなく、「起こすもの」…、魔王信長は、そう考えていたのは間違いないと感じます。

* * *

信長が主人公の時代劇ドラマとなると、いつも「本能寺の変」が最終回になったりしますね。

私は、個人的に、この「桶狭間の戦い」の勝利が最終回であっても、まったくおかしくはないと思っています。
こんな一年間の大河ドラマがあったら、じっくり各場面を描いてくれるような気もしています。

ある意味、「人間信長」の到達点が、この「桶狭間の戦い」にあるようにも感じます。

ここから先の信長は、まさに「魔王信長」となって、頂点に向かって突き進む「魔王時代」、「天下布武時代」に突入します。

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信長本人も、相当に自覚しはじめますね。
自身のことを「魔王」と表現した武将は、信長ただひとりだったと思います。

「桶狭間の戦い」のずっと後、武田信玄から信長への手紙(宣戦布告の内容)の中に、信玄が自身を「天台座主沙門(てんだいざすしゃもん)」と表現したため、信長が対抗して、自身を「第六天魔王(だいろくてんまおう)」と表現し返答したものです。

信玄が仏教(天台宗の延暦寺)を守るというのなら、信長は「第六天(おぞましい欲にまみれた俗世界)の魔王(支配者)となって、仏教の教えを忘れ、武装化し、俗まみれになった延暦寺を攻撃する」という意味で使った名称です。
私の解釈半分です。

ですから、「魔界の王」であるのは間違いないのですが、信長からしたら、「正義感を持った魔王」とも、いえるかもしれません。
「わが子を守るためなら、時に、母は鬼にも蛇にもなる」…、ちょっと違うか…?
いずれにしても、徹底的な合理主義、現実主義の信長らしい思想と表現ですね。

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今川義元は、この桶狭間の戦場の本陣で、あろうことか、「自分(義元)には、どんな天魔鬼神もかなわない」という主旨の言葉を家臣たちに言いますが、その直後、「第六天魔王」の信長が自身のもとにやって来るのです。
何とも皮肉な義元の言葉です。

今川義元と、この絶大な成功体験が、戦国時代に「魔王」を誕生させたといっていいのかもしれませんね。

この「魔王」を、光秀の陰謀ではなく、本当にチカラで倒せるような武将が、戦国時代にあらわれたでしょうか…?
とはいえ、「魔王」はずっと後に、「第六天」に戻っていきました。


◇元康は学んだ?

私は、以前に、徳川家康の「関ヶ原の戦い」に、この「桶狭間の戦い」の戦法の一部が使われたのではと書きました。
元康(家康)の桶狭間での動きは、関ヶ原での小早川秀秋の動きにも似ているような気がします。

関ヶ原での松尾山周辺は、小早川秀秋だけに限らず、ほぼすべての武将が、すでに徳川方と手を組んでいました。
大谷吉継もギリギリの選択か、遅れたのでしょう。
あるいは覚悟の最期です。

小早川秀秋だけが裏切り者扱いにされたのは、家康の、ある大きな陰謀だと思います。
小早川家と秀秋は、もともと別ものです。

そもそも、西軍総大将の毛利家が、家康と手を組んでいたのですから、西軍は、もうどうしようもありません。
毛利も、小早川も、西軍の軍議の決定などに従うことなく、自分の好きな場所に突然、勝手に布陣します。
それは好きな場所などではなく、家康が指定した場所であったはずだと私は思っています。

「一番カッコいい場面を、秀秋さんに用意するから、合図を待っててね…、そしたら、周囲の軍団がみな、あなたに従ってついていきますから…」。
「一応、秀秋さんの隣に、徳川の最強家臣団を配置しておくから、安心して三成を攻撃してね…」。

もともと、西軍の軍議の中には、徳川方のスパイ武将がたくさん入り込んでいました。
もちろん大坂城にも。

家康からしたら、「誰が、大坂城から三成の援軍になど行かせるものか…」。
三成には、もうどこにも、戻る場所、逃げる場所はなくなっていましたね。

関ヶ原の戦場では、三成など一部の西軍だけが、戦場の西の隅っこに追いやられて布陣するかたちになっています。
「桶狭間の戦い」の時の元康の動きと、関ヶ原の小早川秀秋の布陣と行動…、「動」と「静」…、何となく似ていませんか。
敵の中心人物を、特定の場所に追い込む手法…、何となく似ていませんか。

* * *

そもそも、家康は、「関ヶ原」にやってくる前に、西軍の武将たちを、大きく二つに分断したのです。
滅ぼす勢力と、自身の味方にする勢力です。
島津家や真田家のように、親兄弟で別れた武家もたくさんいましたね。
金沢の前田家は、上手に、どちらにもつきませんでした。

家康は、この二つに分断させる前に、上杉勢力を、西軍と距離的に離し、三成に恨みを抱く秀吉恩顧の武将たちも西軍からすでに切り離してあります。
さらに大坂城の豊臣家も、陰謀により西軍とは分断してありましたから、大きく見たら五つに分断したといえますね。
この五つがかたまっていたら、あの徳川軍でも勝てなかったでしょう。

実は、「関ヶ原の戦い」も、「大坂の陣」も、上杉らとの抗争も、すべてセットの戦いで、家康が意図的に、時期をずらしたものだと感じます。

* * *

いずれにしても、大勢力の敵と戦う時は、まずは敵の勢力をいくつかに分け、戦うにしても、それぞれに時間をずらす…、これが不利な側の戦い方の鉄則でしたね。

「関ヶ原の戦い」は、他にも、家康の巧妙な手グチがたくさんありますが、家康は「桶狭間の戦い」での実体験を、「関ヶ原の戦い」に取り入れたのかもしれません。
家康は、「オレは秀秋とは違う…、桶狭間で裏切ってなどいない」…きっとそう言うでしょうね。

* * *

天下に号令した三英傑(信長・秀吉・家康)に共通するのは、みな、敵を分断し、時間を上手く使い、心理を上手く使い、情報を上手く使い、敵側に内通者をつくるなどの多くの陰謀で、戦国時代のライバルたちを、次々に撃破していったのだと感じます。


◇約束の日

それにしても、義元さん…、のん気なものです。
まだ気がつかないの…。

なぜ織田軍の千秋や佐々が、近くにやって来たときに気がつかないの…。
とはいえ、岡崎城あたりから、何度も信長さんが「気づき」のチャンスを与えてくれているのに、すべて見逃してきた義元さんですから、桶狭間でも気がつくはずはありませんね。
これだけ気がつかないでいてくれると、ある意味、気持ちがいいですね。

こんな知らない土地にやって来て、酒飲んで、歌ってる場合じゃないですよ…。
戦が、兵の数で勝てる時代は完全に終わっていますよ…。

あなた自身は、本当に戦う気があるの…?
大軍勢に守ってもらって、家臣たちだけを戦わせて…。
特等席で戦いを眺めていようなどとは、よもや…。

人が「運が尽きる」とは、そんなもの…。

現代の企業団体にも、そんなトップが少なくないですね。

* * *

「気づき」の天才である信長は、清洲城で、小姓(こしょう)たちとこんな話しをしていたでしょうね。

「調べておいたとおり、このところ、毎日ほぼ同じ時刻に、ゲリラ豪雨があるなあ…。
地元の農民たちから、雨が降る兆候をしっかり聞いておけよ。
それから、雨具はいつでも使えるようにな…。

今回は鉄砲はだめだ。
武具なんてどうでもいい。
泥まみれは覚悟しておけよ。

潮の干満の時刻と潮位も、しっかりな…。
時間が勝負だ。

罰で謹慎中の織田家の家臣たちも、すべて集めておけ。
他国から借りてきた兵たちは、丁重にな…。

それから、熱田(あつた)の町衆にも言っておけよ。
オレがいなくとも、いざとなったら熱田神宮だけは守れと…。

元康と約束した日が近づいてきたな。

もう、任務を任せる家臣が誰も残っていない。
オレしか、若い奴らを引きつれて、突っ込めるやつはいないだろう…。

そうだ…、元康から届いた「桶」いっぱいの八丁味噌は、すべて終わったら元康を呼んで、みなで「今川煮込み」にして食うぞ!

のこぎりや斧(おの)も、しっかり準備しておけ!
敦盛(あつもり)をいつでも舞えるように、カラオケ用意しておけ狭間!…なんちゃって」。

* * *

次回のコラムからは、いよいよ決戦前日の18日と、決戦日の19日の戦況を書いていきます。

コラム「麒麟(26)桶狭間は人間の狭間(8)」につづく。


2020.7.16 天乃みそ汁
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