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麒麟(27)桶狭間は人間の狭間(9)
「桶狭間は将棋盤」

【概要】NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。織田軍の丹下砦・善照寺砦・中島砦。信長の人員配置。信長の「袋のネズミ作戦」。大橋宗桂と藤井聡太さん。棋聖。


前回コラム「麒麟(26)桶狭間は人間の狭間(8)砦は朝露(ちょうろ)の如し」では、織田軍と今川軍の主な武将たちのこと、松平元康の大高城入城のこと、鷲津砦と丸根砦の戦いのこと、信長の清洲城から熱田神宮への極秘移動のこと、井伊氏と朝比奈氏のこと、三浦春馬さんのことなどについて書きました。

今回のコラムは、決戦の日である5月19日の午前9時頃からの動きと、信長の人員配置などについて書きたいと思います。


◇19日、熱田神宮から桶狭間へ

前回コラムで、5月19日(今の6月12日)の午前4時頃に、今川軍が、織田軍の「鷲津砦(わしづとりで)」と「丸根砦(まるねとりで)」への攻撃を開始し、午前8時頃には両砦が陥落したこと、それから、信長が早朝に清洲城を出て、午前8時頃には熱田神宮に到着、桶狭間に向けて進軍する準備をしていたことを書きました。


〔午前9時頃〕

織田軍は、熱田神宮で進軍の準備を行い、おそらく家臣たちに両砦の陥落を伝え、皆で後戻りできない決意を固め、いざ桶狭間に向けて出発しました。

伊勢湾の潮の干満時刻はすでに調査済みだったはずです。
安全な道を使い、熱田神宮から、まずは「丹下砦(たんげとりで)」に向かいます。

* * *

おそらく、この日の早朝から、桶狭間周辺にある「丹下砦(たんげ とりで)」、「善照寺砦(ぜんしょうじ とりで)」では、信長の極秘移動の情報が漏れないように、周辺にある、鎌倉街道などの主要街道の往来を遮断していたのではないでしょうか。
とにかく沓掛城にいる義元の耳に入らないように、織田方についた沓掛城周辺の村々も協力して、事にあたったと思います。


〔午前10時30分頃〕

熱田神宮から丹下砦までは、直線で約6kmです。
おそらく1時間30分もあれば到着できるはずです。
信長は、午前10時30分頃までには、丹下砦に到着したと思われます。

信長は、丹下砦を経て、次に「善照寺砦(ぜんしょうじとりで)」に向かいます。
丹下砦から善照寺砦までは直線で約1.5kmですから、30分もあれば到着できると思います。

* * *

一方、今川義元は、沓掛城を午前10時頃には出発し、桶狭間方面に向かったと思われます。
松平元康は、大高城に戻った頃かもしれません。
今川軍の井伊直盛は、大高城あたりから桶狭間に向かっている最中かもしれません。

私の想像では、信長の移動時間帯は、桶狭間での決戦時刻からの逆算もあったでしょうが、今川軍が信長自身を確実に攻撃してこない時間帯を選択したとも感じています。



〔午前11時頃〕

おそらく、午前11時頃には、信長は、善照寺砦に到着していたと思われます。

善照寺砦には、織田軍団の総司令官のような存在である佐久間信盛がいました。
おそらく信長は、彼から、鷲津砦、丸根砦、善照寺砦、中島砦、そして鳴海城と沓掛城の今川軍の状況報告を受けたと思います。

善照寺砦から中島砦までは、直線で約700mですから、通常であれば10分ほどで行ける距離です。
信長は、善照寺砦と中島砦を往復したのか、そのまま中島砦に向かったのかは、はっきりしません。

* * *

中島砦から桶狭間の義元本陣あたりまでは、直線で約3km(徒歩約45分)です。
善照寺砦から桶狭間義元本陣あたりまでは、直線で約3.4km(徒歩約50分)です。

この両砦から、義元がいた桶狭間の本陣までは、普段どおりの徒歩(時速4キロ程)であれば、1時間はかからない距離ということになります。
馬なら尚早く到着できますね。

中島砦から、陥落した織田軍の丸根砦までは、直線で約1.7km(徒歩約25分)です。
丸根砦や、大高城南側の織田軍の砦群から、中島砦に兵士が向かっている最中だったと思います。


今川義元は、午前11時頃に、桶狭間に到着していたと思われます。
上記マップの「C」の地域が桶狭間です。
この午前11時頃の今川軍の状況を列挙します。

◎今川義元が桶狭間に到着。
◎義元は、桶狭間にある寺で昼食。
◎義元は、鷲津と丸根の両砦陥落の知らせに、軽くお祝いの酒宴。
◎松井宗信や井伊直盛などの遠江国勢が、義元本陣の前の丘あたりに着陣。
◎義元本陣の南側あたりに瀬名氏俊が着陣。
◎今川軍の三浦義就軍が、手越川の北側の山麓に着陣?
◎松平忠政ら多くの武将が義元本陣の周辺あたり(マップ「D」と「E」のあたり)に着陣?

* * *

この日は、朝から天気が良く、かなり暑かったようです。
昼過ぎあたりには、涼しい風が吹き始めたでしょうか。
当日の午後は、雹(ひょう)をともなう豪雨が降りますので、典型的なゲリラ豪雨の前兆とも思われます。


◇鳴海城周辺の織田軍の三つの砦

ここで、前述の織田軍の砦(とりで)について、簡単に説明いたします。

鳴海城を取り囲む織田軍の三砦(丹下砦・善照寺砦・中島砦)ですが、おそらく、それぞれの役割は大きく違うものと想像します。
その建物や周辺地形の構造も、その役割にあわせて異なっていたと思います。


〔丹下砦〕

丘状の地形の上に砦があり、三砦の中では、もっとも大規模な砦です。
もっとも人数を収容できる砦であったと想像します。

大きな軍団でも出撃しやすいように、城に近い機能を持っていたのかもしれません。

おそらく、いざとなった時の防衛拠点と、さまざまな攻撃の拠点としての機能を持っていたと思います。
この砦を担当したのは、水野忠光です。

* * *

これまでのコラムで、精鋭の特別攻撃部隊である「馬廻衆(うままわりしゅう)」のことを書きましたが、その700名あまりの中でも、「母衣衆(ほろしゅう)」という数十名程度の超エリート部隊のひとりが水野忠光です。
まさに織田家有数の武闘派が、この砦を守っていたのです。

東方面にある沓掛城からの今川軍の攻撃に対抗するのも、この砦の部隊であっただろうと思います。

もし今回の信長の作戦が失敗し、信長が退却や逃亡する場合は、この丹下砦に逃げるしかないような気がします。
ここで今川軍を一時でも、とどめさせ、信長を熱田神宮に逃がすしかないであろうと感じます。
他の城に逃がすのは、もはや危険すぎると感じます。
ただし、そうなった場合、丹下砦の水野一族がどのような態度に出るかは、わかりません。

ある意味、織田軍は、水野勢を背にして、今川軍に突っ込むという、ものすごい覚悟の戦法にも見えてきます。
信長が、そのリスクに、何かの対策をとったのかどうかは、私にはわかりません。

* * *

私は個人的に、この丹下砦から、織田軍の一部が別行動をおこしたのではとも感じています。
そして、桶狭間の義元本陣への直接攻撃部隊が、次の善照寺砦に向かったのではとも感じています。
別行動の話しは後に…。

* * *

アメーバブログ内の、「S.Settu(斎藤摂津守)様」の、丹下砦の紹介ページです。
どうぞご覧ください。

丹下砦のページ


〔善照寺砦〕

丹下砦から善照寺砦までは、南東方向に直線で約1.5kmですから、30分もあれば到着できると思います。
丹下砦よりは小規模です。

三砦の中では、桶狭間方面、鳴海城、中島砦、手越川沿いなど、この地域の情勢がもっとも見渡せたのかもしれません。
善照寺砦から桶狭間義元本陣あたりまでは、直線で約3.4km(徒歩約50分)です。
桶狭間の谷あいの手前の丘が、この砦から見渡せたと思います。

鳴海城までは1kmほどの距離で、実際に、鳴海城との戦闘となると、この砦が攻撃拠点になるものと思われます。
ですから、前述の丹下砦とは、役割や砦の構造が異なると思っています。

* * *

この砦にいたのは、ここまでのコラムで何度も登場する、佐久間信盛と佐久間信辰(弟)の兄弟です。
信盛は、織田軍の総司令官的な役割ですから、軍団のナンバー2といっていいのかもしれません。
信長よりも、おそらく5~6歳上だったと思われます。

信長の幼少期から傍らにおり、織田家内部の騒動の時は、いつも信長を支えてきました。
これから大河ドラマ「麒麟がくる」でも、松永久秀や浅井長政がらみの暗躍や、武田信玄や朝倉義景との戦いあたりで、不敵な笑みを浮かべながら登場してくるかもしれません。

佐久間信盛は、戦闘も暗躍も器用にこなす武将でしたが、信長相手に増長してはいけませんね。
ずっと後に、失脚します。
信長は、もう少し彼を手名付けておけば、「本能寺の変」の環境を作り出すこともなかったのかも…。

とはいえ、「桶狭間の戦い」では、佐久間信盛と信辰は、前線に向かって進軍し、相当に貢献したのだろうと思います。

* * *

前回までのコラムの中で、佐久間氏は、もともと今川軍の中の最大級の軍勢のひとりである三浦氏から、鎌倉時代あたりに枝分かれした一族だと書きました。
布陣の位置関係からして、この両者が、善照寺砦や中島砦の近くで、激突した可能性もあると思っています。
何か遺恨めいた話しでもあったかもしれませんね。
佐久間氏は、中島砦周辺に三浦軍をおびき出し、猛烈な攻撃を仕掛けたかもしれませんね…。

戦国時代の戦(いくさ)の中では、細かな一族どうしの遺恨の戦いなども、頻繁に起きていました。

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アメーバブログ内の、「S.Settu(斎藤摂津守)様」の、善照寺砦の紹介ページです。
どうぞご覧ください。

善照寺砦のページ


〔中島砦〕

善照寺砦から中島砦は、700メートルあまりの距離ですから、10分ほどで行ける距離です。
織田軍は、この砦を、この戦いに備えて大強化しました。

中島砦から桶狭間義元本陣あたりまでは、直線で約3km(徒歩約45分)です。
結果的に、この中島砦と善照寺砦が、桶狭間への攻撃部隊の重要拠点になりますから、その作戦の目的にあわせた中島砦の大改造が行われたのであろうと思います。

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アメーバブログ内の、「S.Settu(斎藤摂津守)様」の、中島寺砦の紹介ページです。
どうぞご覧ください。

中島砦のページ

この砦の写真のとおり、扇川と手越川(てごしがわ)が合流するあたりに中島砦がありました。
特に大きな丘があるわけでもありません。
当時は、写真のような高い護岸もありません。
川で洪水でもおきたら、真っ先に水につかるような場所です。

信長は、この砦の周囲を、深い田んぼや泥湿地で取り囲み、砦にしっかり通じる幅の狭い道が、一本か二本しかありません。
おそらくワナを仕掛けた偽装の道もたくさん作ってあったと思います。

これは、中島砦からは、西方にある今川軍の鳴海城に攻撃をしないということではないでしょうか…。
中島砦に、鳴海城からの兵を近づけさせない、近づいた者たちを討ち取りやすい…そういう構造の砦だったように思います。

もともと織田軍には、腕のよい鉄砲隊員がそろっています。
今川軍は、すでに織田軍の鉄砲隊に、煮え湯を飲まされています。
そこに、この戦いに向けて信長は、近江国の六角氏の兵を数百借りてきています。
近江国といえば、鉄砲先進国です。
借りてきた兵の中に、鉄砲隊要員もおそらく多くいたであろうと思います。

敵からしたら、そうそう近づけない、近づくにも少人数単位でないと近づけない。
少人数ということは、討ち取られやすい。
相当に危険でやっかいな中島砦ということになります。


◇城や砦は使いよう…

今川軍の鳴海城を取り囲む三砦(丹下砦・善照寺砦・中島砦)ではありますが、私は個人的に、この中島砦は、鳴海城への攻撃機能を、それほど備えていない、桶狭間攻撃作戦に特化させた、最重要前線基地だったのではないかと感じています。

むしろ鳴海城の今川軍に攻撃させるための砦と、考えたほうがいいように感じます。
鳴海城からしたら、こんな構造の砦にわざわざ攻撃をしかけ、討ち取られたら無駄死にです。
鳴海城から、もし攻撃をしかけるなら、善照寺砦のほうです。

鳴海城の今川軍が、軽々に、中島砦に攻撃をかけようものなら、善照寺砦から鳴海城に猛攻撃を仕掛けたはずです。

この両砦と、その背景に丹下砦があるだけで、鳴海城の今川軍は手も足も出せない気がします。
今川本軍からの援軍が来てくれなければ、この鳴海城は、まったく動けない、ただの「今川の動かない城」だったと思います。

* * *

次回以降のコラムで書きますが、信長は兵たちに、「攻めては引き、引いては攻めろ」という指示を出します。
状況によっては、中島砦は、引いてくる兵が戻る場所でもあったと思います。
そこで、体制を整えたり、武器を補充し、また前線に向かう…。
そんな役割が、この中島砦にあった気がします。

砦とは、単純に、敵の城を取り囲んだり、攻撃待機の場所であればいいというものでもありませんね。
城以上に、砦は、戦いの場面で活躍する、重要な存在でした。

さすが、戦闘上手で、経験豊富な信長だと感じます。
信長と義元のこの差は、どうにも埋められない巨大な堀だと感じますね。

戦争において、城や砦を拠点と考えるのか、作戦に利用するものと考えるのか…、もちろん信長は後者の思想でした。

* * *

中島砦は、鳴海城からの攻撃を受けずに、桶狭間に兵士を送り出す最前線基地として改造されたように感じています。

そして、もし桶狭間で、義元本軍が攻撃を受けていることを知り、鳴海城から今川軍が無理に援軍に向かう場合であっても、手越川あたりを直線的に進軍されないように、そこに立ちふさがるのが中島砦です。

* * *

善照寺砦の南東方向の丘に、今川軍の三浦氏の軍勢がいた可能性も否定できませんので、善照寺砦や中島砦のすぐ近くでも大きな戦闘があった可能性も十分に考えられます。

善照寺砦が不利となれば、前述の丹下砦から織田軍の加勢がやって来た可能性もあります。

いずれにしても、中島砦の重要な役割は、桶狭間攻撃部隊を桶狭間に送り出すことであったように思っています。

* * *

この砦を守っていたのは、梶川高秀(かじかわ たかひで)です。
この戦いの時は、あの策略家の水野信元の家臣です。
後に、佐久間信盛の家臣になります。

梶川一族は、水野家だけでなく、もともと織田家ともつながりが深く、両家をつなげる役目も担っていたのかもしれません。
いってみれば、梶川一族も、織田氏と水野氏を両天秤にかけていたわけです。

このような人間を、中間位置で重要な中島砦に配備するとは、非常によい人選だと思われます。
梶川は立場的に、どう考えても織田氏を裏切りません。
信長の人員配置の上手さが、ここでも光っていると感じます。


〔鳴海城〕


ここで、鳴海城のことを簡単に書きます。
以前のコラムで、織田氏の配下から、今川氏に寝返って、後に今川氏に滅ぼされた、鳴海城主の山口教継(やまぐち のりつぐ)のことは書きました。
その後、今川義元は、鳴海城主に、義元の家臣の岡部元信をつけます。

「桶狭間の戦い」の直後に、この岡部元信が、ある役割を果たします。
この話しは後で…。

アメーバブログ内の、「S.Settu(斎藤摂津守)様」の、砦の紹介ページです。
どうぞご覧ください。

鳴海城のページ


◇三砦連携の攻撃

先ほど、中島砦から攻撃部隊を送り出すと書きました。

実は、その後の信長を戦いを見てもわかりますが、信長は、自身が戦場のどの位置にいるのかを敵にしっかり把握されないように、かく乱させるような戦術をよく使います。
偽装の本陣を設置したり、本人自身が動きまわるのです。
その戦場に来ているふりをして、来ていないこともあります。

* * *

この戦いでも、信長軍をいくつかの攻撃部隊に分け、中島砦と善照寺砦の両方から、各攻撃部隊をバラバラに桶狭間に向かわせたという説があります。
信長自身も、敵から明確に位置や存在が悟られないように、桶狭間に向かった可能性もあります。

まさにゲリラ戦そのものですね。
今川軍からしたら、今、目の前にいるのは誰だかわからずに、戦ったのかもしれません。

今川軍からしたら、相手がどの武将の軍かわからず、さらに、そこが泥湿地で、そこにゲリラ豪雨がきて、雨の中にもかかわらず、どこからか鉄砲隊が銃撃してくるとなったら、大混乱は避けられませんね。
今川軍の兵士たちは、どこに織田軍の兵のかたまりがいるのか、さっぱりわからない状況になった可能性もあります。

今も昔も、敵がどこから攻撃してくるのかわからない「ゲリラ戦術」というのは、恐怖の極みですね。
まさにテロリストの攻撃スタイルです。


◇信長の見事な人員配置

ここまでのコラムで書いてきましたが、三河国の水野忠政の次男で、三河国の水野氏の本家筋を継いだのが、今回の戦いの陰謀の主役のひとりの水野信元でした。
もちろん信元は、今回は織田方の重要な武将です。

* * *

水野信元と、前述の丹下砦の水野忠光の両者は、この尾張国や三河国の地域で、織田、松平に次ぐ大豪族の「水野一族」です。
水野一族は多くの家に分かれていきましたが、元をたどれば皆同じ一族といえます。
水野一族は、実際に江戸時代になると、江戸幕府の中核を担い、尾張三河地域だけでなく、日本全国に勢力を広げる、ある意味、松平家に匹敵する一族です。

水野一族から、特定の天下の覇者が生まれなかっただけで、見方によっては、水野一族は、天下を陰でとったといってもいいのかもしれませんね。
いろいろな時代劇ドラマでも、「水野〇〇」はやたらに登場しますよね。

* * *

この戦いで使用された重要な砦(丹下・善照寺・中島・丸根・鷲津)は、織田一族と水野一族、軍団の総司令官的役割の佐久間氏でかためたといっていいと思います。

織田氏と水野氏のあいだに、信長の信頼の厚い佐久間氏を、絶妙な位置にはさむあたりが、信長の人扱いの上手さですね。
織田軍内部での、水野氏と佐久間氏のライバル関係は、この後、また別の動きを生んでいきますが、それはおいおい…。
織田氏と水野氏の関係性を考えると、完全な信長家臣である佐久間氏と、水野氏が「ライバル関係」というのは少し表現が正確ではないかもしれません。



◇「袋のネズミ」作戦

今回のこの桶狭間周辺地域を見渡しますと、鳴海城周辺を水野勢(丹下砦の水野忠光)と佐久間勢(善照寺砦の佐久間信盛)でかため、そして、大高城周辺を水野勢(水野信元)と佐久間勢、織田一族でかためたといっていいと思います。
大高城周辺には、加えて松平勢を入れます。

そして、中間の位置にある中島砦を守るのは水野勢(水野信元の家臣の梶川高秀)です。

桶狭間に突っ込むのは、織田家の主要家臣団と特別攻撃隊を含む織田勢と佐久間勢が主体です。
織田軍の、桶狭間への攻撃部隊の最重要拠点となるのは、中島砦と善照寺砦です。
上記マップの中央部の「C、D、E」の地域に向かう赤色矢印が、その部隊の進軍方向です。

* * *

大高城周辺の北東部にあった鷲津砦と丸根砦は、最初から戦闘を想定した規模の整備をしたと思いますが、大高城南側の三砦(向山・正光寺・氷上)は戦闘を想定したものではなく、暗躍の拠点として、それほどの人数を置かない、見せかけの砦であったのだろうと思っています。

私の個人的な見解ですが、この南側三砦にいた織田軍(水野勢)は少数だったかもしれませんが、戦いのある段階で、桶狭間に向かったのではとも感じています。
桶狭間の南側の脱出ルートをふさぐためです。
マップの最下部の赤色矢印です。

* * *

織田軍の陰謀暗躍部隊は、織田家随一の策略家の簗田政綱、斎藤家から織田家に来た道三ゆずりの暗躍者の蜂須賀小六、三河国一の策略家の水野信元、そして今川軍の中で陰謀をはりめぐらせていたであろう(?)瀬名氏俊。
鬼のような「大陰謀軍団」が形成されていたのではと思っています。
名付けて、「桶狭間の暗躍四天王」でしょうか…。

そして、この戦いのもっとも激戦の時間帯に、彼らがいた場所は、まったくわかりません。

* * *

柴田勝家や林秀貞など、かつて信長の弟の信勝(信行)側にいて、信長側に後に入って来た者たちにも、信長は、何かのチャンスを与えたであろうと思っています。
戦功などの評価などなくても、信長の信用さえ得られれば、それでよかったのではないでしょうか…。
信長は、彼ら古参の家臣には、作戦の詳細は教えていなかったと思います。

またまた私の個人的な見解ですが、特に柴田勝家あたりは、どの場所にいたのか…、どんな働きをしたのか…、まったくわかっていませんが、ひょっとしたら、善照寺砦か丹下砦あたりから、織田本軍と別れ、桶狭間方面を別ルートで目指したのではとも感じています。

丹下か善照寺のいずれかの砦から、東に向かい、上記マップの「D」の地域の北側あたりから桶狭間に向かったということはないでしょうか…。

このルートでしたら、沓掛城から、もし今川軍が加勢に来ても、立ちふさがることもできます。
ただ、一番の役割は、桶狭間の北側の脱出ルートをふさぐことだったかもしれません。

これで、前述したとおり、桶狭間の南側の脱出ルートは水野勢がおさえ、北側の脱出ルートもおさえられます。
桶狭間の西側は、織田勢が大量にいる中島砦方面ですので、脱出ルートにはなりません。

東側の山ですが、かなり困難だとは思いますが、義元は少数でなら脱出できるかもしれません。
ただここを越えたら、すでに織田方の手が回った沓掛周辺の村々のすぐ近くです。
蜂須賀小六あたりが待ち構えていたかもしれません。

いずれにしても、信長のことですから、義元の脱出ルートは、すべておさえたのではないだろうかと感じています。
まさに、今川義元本軍は「袋のネズミ」状態にされたのかもしれません。

しかも、鳴海城は丹下砦・善照寺・中島砦がおさえています。
大高城は、松平勢がおさえています。
沓掛城は、情報遮断と周辺地域の暗躍集団がおさえています。
どこからも、義元を助けに来ることができない状況です。
桶狭間の中で、右往左往する今川軍だったのかもしれません。

こんな危険な真っ只中に、瀬名氏俊がいるはずはないと思います。

* * *

私は、この作戦を実行するために、各役割を担った織田軍の武将たちが、それぞれ完璧な配備についたと感じています。

松平元康も、ある程度までは知っていたはずです。
なにしろ、事が終わったら、すぐに大高城を脱出しなければいけないのですから…。
水野信元も、大高城から、そう遠くない場所にいたはずです。


◇人選び

先ほど、私は、「信長は、柴田勝家や林秀貞などの古参の家臣には、作戦の詳細は教えていなかっただろう」と書きました。

私が思いますに、経験を積んだ古参の家臣たちであったなら、なおさら、これほど無茶な作戦に賛同したとは思えません。
彼らは、こんな壮大な陰謀など上手くいくはずがないと感じただろうと思います。

信長が討ち取られても、すぐに織田家滅亡にはならない状況ではあったにせよ、織田家の中に、信長に代わるすぐれた統率者はいません。
信長が死ねば、後々、織田家滅亡は見えています。

古参の家臣なら、織田家が今川家の配下に入る選択もよしと考えたかもしれませんし、自身たちも、今川氏に寝返ることもできます。

信長は、今回の作戦の主要メンバーを選ぶにあたって、そのような考えを持つことがないであろう…、そのような手段をとれないであろう…、そんな若い世代や状況の家臣を選んだ可能性もあると感じています。

いずれにしても、信長が、この作戦に、織田家の命運を賭けたのは間違いないと思います。

作戦の成否は、誰が行うのかも、非常に重要な要因となりますね。


◇特殊戦闘員たち

人員配置の話しに戻りますと、桶狭間突撃要員として、近江国の六角氏から借りてきた兵士数百は、主にゲリラ戦のエキスパートたちだったと思います。
鉄砲先進国の近江国からは、鉄砲戦術に長けた者たちもやって来たと思います。
しっかり、豪雨の中でも、大きな煙をあげながら、銃をぶっ放しています。
もはや、「そんじょそこら」の鉄砲隊ではありませんね。

* * *

とにかく、今回の戦闘の勝敗は、桶狭間に突っ込む、特別攻撃部隊「馬廻衆(うままわりしゅう)」にかかっていたのではと感じています。
「馬廻衆」、さらに精鋭数十名の「母衣衆(ほろしゅう)」…、どちらも内部で、ものすごいライバル関係、競争関係が起きていたかもしれません。
まして彼らは、古参の家臣たち、借りものの他国兵に負けるわけにはいきません。

この特別攻撃部隊は、今でいえば、高校野球や大学野球の球児たちのような年齢が大半だったでしょうから、若武者たちの燃えるような気迫は、ものすごかったのかもしれませんね。


◇殺気と迫力の布陣

こうした、信長の見事な人員配置には感動します。

陰謀あり、義理人情あり、姻戚関係あり、ライバル関係あり、バランスあり、闘争本能あり、ベテラン心理あり…。
そして古将たちには最期の場所を…泣きの感動場面まで…、それにより軍団に最大の士気アップを…。

人数で劣勢の織田勢でしたが、これなら烏合の衆のような敵の大軍には負けない気がしてきます。
それよりなにより、この人員配置は、信長自身のものすごい覚悟と、殺気、迫力に満ち満ちています。

* * *

この戦いを、よくよく見ると、織田・水野・松平連合軍が、今川軍を撃破したといっても過言ではないのかもしれませんね。


◇宗桂と聡太さん

先頃、将棋の棋士の藤井聡太(ふじい そうた)さんが、渡辺明棋士を破って、「棋聖」の称号を手にしましたね。
藤井さんのその時の年齢は満17歳…、ちょうど「桶狭間の戦い」の時の、松平元康と同じ年齢です。

藤井聡太さんの出身地は、愛知県瀬戸市です。
「桶狭間の戦い」が起きたのは、愛知県の名古屋市と豊明市をまたぐ地域です。
瀬戸市とは、すぐ近くで、ほぼ同じ地域といっていいかもしれません。

* * *

将棋というゲームは、対戦相手から奪い取った駒を、自分の駒として再利用するという、世界でもめずらしいゲームですね。
まさに戦国時代の武将の行動と同じです。
敵軍にいる邪魔な武将、欲しい武将を寝返らせ、自軍に取り込み、戦場で利用するのです。

将棋に詳しい、その筋の方のお話しを聞いていますと、藤井さんのこの時の戦い方は、将棋の駒である「桂馬(けいま)」を空中戦のように飛び回らせ、そこらじゅうから猛攻撃を仕掛けたようです。
鉄砲隊である「飛車・角」も、猛攻撃をかけていたようです。

最終局面あたりでの、対戦相手である渡辺棋士の言葉「桂馬か~」は、耳に残りましたね。
「桶狭間の戦い」の信長の戦術にも、通じるものがあったのでしょうか…?

* * *

戦国武将たちも、子供の頃から、将棋や囲碁で、戦の戦術を学んでいきました。
もちろん、信長も将棋好きだったようです。

実は、信長の将棋相手に、「大橋宗桂(おおはし そうけい)」(初代)という将棋名人がいたのですが、彼こそ、将棋の駒の「桂馬」の名手であったそうです。
あまりの「桂馬」使いの上手さと将棋の強さに、信長は彼に「宗桂」という名前に改名させたという逸話が残っています。
真偽はわかってはいません。

宗桂は、豊臣家でも徳川家でも、重要な立場として、将棋をさしていたようです。

「宗桂」と「聡太」…、まさかの生まれかわり…?
それなら、彼の強さを納得できます。

将棋盤に並んだ駒の布陣…、それはまさに戦国武将の戦場での布陣にそっくりです。
騎馬軍団に、槍隊に、歩兵部隊に、左右に鉄砲隊…。

桶狭間って…、「将棋盤」だったのですね。

* * *

次回コラムは、昼頃からの桶狭間での大激突のお話しの前に、この戦いの勝敗の決め手となった「大陰謀」のことを、大推論で書いてみたいと思っています。

コラム「麒麟(28)桶狭間は人間の狭間(10)」につづく。


2020.7.25 天乃みそ汁
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