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麒麟(32)桶狭間は人間の狭間(14)
「引き寄せるもの」

【概要】NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。勝因と敗因。人事考課と意識改革。必勝作戦。


前回コラム「麒麟(31)桶狭間は人間の狭間(13)勝利への狭間」では、今川義元の最期、太田牛一の信長公記、信長がつくりだした狭間、一番槍の謎などについて書きました。

今回のコラムでは、ここまでのコラムで書いてきた内容の中から、信長の勝因と、義元の敗因を、整理してみたいと思います。
「信長公記」の文章のように、桶狭間の地形のせいだけにされては、放って桶(おけ)ません。


◇今川義元の人物像

いろいろな物事の勝因や敗因をあげつらったら、実はキリがありませんね。
直接原因から、遠因、背景まで、果てしなく続いてしまいます。

ここは、信長と義元の人物像と、その考え方や行動、それぞれの軍団のことに主眼をおいてみたいと思います。

今回の大河ドラマ「麒麟がくる」の中では、今川義元は、戦国武将らしい、かなりチカラ強い雰囲気で描かれていましたね。
歌舞伎役者で俳優の片岡愛之助さんが、カッコよく、気品ただよう凛々しい姿で演じておられました。

ですが、時代劇ドラマの中で描かれる今川義元の多くは、何か公家風のいで立ちで、妙に細くて少し嫌味(いやみ)なクチひげをたたえ、戦国武将のようなチカラ強い雰囲気を持たず、妙な烏帽子(えぼし)をかぶり、輿(こし)に乗り、上等な扇子(せんす)で顔を仰いでいるような描き方が多かったりします。

実際に、今川家は、京の天皇家や将軍家、公家たちとのつながりが相当に深いので、文化の香りただよう名門の家ではあります。
馬ではなく、優雅な輿に乗って移動するという行動が、まさに戦国武将を想像させません。
実際には、痔病が悪化し、馬にほとんど乗れません。
何か、鎌倉武士につながるような、荒々しい雰囲気を感じさせないところが、このような描かれ方になってしまうのかもしれませんね。
そして、なにより強面の織田信長と対峙した対極の武将として描かれるのに必要なイメージこそが、最大の要因かもしれません。

今川家の中に、いきり立つ荒武者のようなイメージの存在が、生き残らなかったことも要因のひとつかもしれません。
雪斎ら重臣たちには、そんな凛々しい存在は、むしろ邪魔でしたね。

軍団トップの戦国武将のような存在は、むしろ家臣で軍師的な役割の、雪斎(せっさい)のほうでした。

* * *

ドラマなどでの、義元の描かれ方の多くは、義元を裏であやつっているのが、一応、母親である「寿桂尼(じゅけいに)」と雪斎だったりします。
義元は、お飾りの今川家当主というイメージの描かれ方が多いですね。

実際の今川軍の作戦、暗躍、指揮は、雪斎をトップにした、今川家重臣たちが行っていたものと思われます。
この「桶狭間の戦い」の時、高齢の寿桂尼は駿府に、雪斎は亡くなり、義元を当主に担ぎ上げたベテラン重臣たちの多くも世代交代をしていました。
「義元だけで大丈夫か…」、思わずクチに出そうなくらい、危うい当主のようにも感じます。

もともと、彼は、兄たちの暗殺の中で、担ぎ上げられた当主です。
本人の実力ではい上がってきた武将ではありません。
一族内の抗争劇は、すべて家臣たちの主導で行われてきたものです。

織田信長のように、一族内で「うつけもの」とののしられ、家族からも愛想をつかされ、その中を、信頼を置く者たちの勢力のトップとして先頭に立ち、実力ではい上がってきた武将とは、人間像がまったく違うと思われます。

* * *

今川義元は、ある段階で、下克上の戦国時代に、ひとりっきりで放り出されたような印象も受けます。
周囲には、上杉謙信、武田信玄、織田信長、北条氏康など、歴史にその名が残る、ものすごい迫力の武将たちが勢ぞろいです。
家康は、この頃はまだ未熟な青年武将ですが、こうした状況の中で、もともと担ぎ上げられた義元です。

駿河国、遠江国の武将たちからしたら、雪斎がいなくなった今、この当主だけでは不安だらけのような気もします。
今川軍の中に、強力な「ナンバー2」も、生まれてきていません。
有力な重臣たちも、何か、どんぐりの背くらべ…。
雪斎らが残した「海道一の弓取り」の神通力はどこまで通じるのでしょうか…。

* * *

義元は、だれか一人か二人ではなく、多くの重臣たちに、「お前に任せた…」を乱発していなかったでしょうか。
武力集団は、ピラミッド構造でないと、なかなか機能しません。

戦国時代は、誰にも好かれるトップでは、その座を維持できなかったりもします。
ある意味、恐怖心を感じさせるくらいのほうが、維持できたりもします。
後の信長のように、家臣たちに恐怖を感じさせ過ぎるのも問題ですが、義元が、周囲に強力なリーダシップを感じさせていたようには、私は感じません。

戦国時代のこの時期は、政治家能力が優れ、人徳の高い武将よりも、まずは軍事的統率力が優れた武将が、トップとしてふさわしい時代です。
軍団の家臣たちは、そのあたりを、主君の一族の人物たちの中に見ていたはずです。

かつて雪斎ら重臣たちが担ぎ上げた人物こそ、軍団のトップにふさわしくない人物だったからこそ、義元は当主になったのだろうと感じます。
そのツケが、「桶狭間の戦い」で露呈したのかもしれませんね。

* * *

もし時代劇ドラマのような、公家色を漂わせる義元であったなら、勇猛な鎌倉武士出身の、駿河国や遠江国の武士たちの思いは、どのようなものだったでしょうか…。

義元は、もう少し後の時代に生れてきていたら、駿河国や遠江国の覇者として長く君臨できたのかもしれませんね。
戦国時代の武将として、何か足りないものがあったのかもしれません。
支えてくれる者たちがいなくなって、それがすぐに露呈した…。

後の徳川家康の言葉を思い出します。
「あり過ぎても、足りな過ぎても、だめ…」。
松平元康(後の家康)は、養父であった今川義元の、いろいろな一面を知っていたのは間違いないと感じます。

今川義元のかたわらには、雪斎なきあと、別の、もうひとりの雪斎が必要だったのかもしれませんね。


◇今川軍内部の敗因

前回までのコラムで書いてきましたが、この戦いの時に、今川軍内部は相当に複雑です。
ライバル関係、勢力争いなどで、もめ過ぎです。

それでなくとも、今川氏の勢力範囲内では、駿河国と遠江国の二か国の争いもあります。
それに、武田氏の甲斐国、北条氏の相模国とは、三国同盟があるとはいえ、いつどうなるのか、わからない状況です。

まだ、信長への危機感で、今川軍に何かの団結力でも生れていたらいいのですが、もはや兵力で段違いの織田軍を見下した状態です。
今川軍内部の闘争心が、織田軍ではなく、内部のライバル抗争に向かっていたなら、今川軍はすでに、かなり危うい状況に思います。

* * *

義元が、多くの家臣たちの心に気を配っていたようにも思えません。

まして、新参の三河国の者たちには、「捨て駒」のような扱いです。
三河国勢の今川家への反発が、おさまっているとは到底思えません。

こんな状況で、駿河国勢、遠江国勢、三河国勢を寄せ集めて、ひとつの大軍団にして、長い旅路の末、織田軍と戦うのか…ということです。

前回までのコラムで書いてきましたが、義元が、松平元康や水野勢などのほぼすべての三河国勢、それに朝比奈や岡部などの遠江国勢にまで(?)、裏切られても、何の不思議もありません。

こんな危険な状態であるという情報が、トップの義元にまで上がってこないこと自体が、この軍団がすでに崩壊を始めていたのを物語っている気がします。

もちろん、信長が、この今川軍内部の複雑な状況につけこんで、陰謀を張りめぐらしたのは間違いないと思いますが、「桶狭間の戦い」がなかったとしても、義元のもとでは、今川軍の崩壊は時間の問題だったのかもしれませんね。


◇曲者たちの動向

さて、前回までのコラムでは、今川軍内の武将たちの世代交代のことも書きましたが、ベテラン武将たちの隠居や死亡などで、戦いでも陰謀でも、経験豊富な「曲者(くせもの)」たちが、かなりいなくなっていたとも感じます。

戦国時代の武将軍団では、絶対に、「曲者(くせもの)」たちが多いほうが強力です。
「曲者」たちは、いつの時代も、時勢を見誤ることがありません。
その瞬間に勝てなくとも、決して「負け」という文字はありません。
必要なら、ライバルたちとすぐに手を組みます。

今川軍の中に残っていた、そんな数少ない「曲者」武将たちは、みな信長の側になびいた…、ひょっとしたら、そんな状況だったのかもしれません。
なびかなくとも、中立の立場で、最大の激戦を静観した…。
「曲者」たちは、いつの時代も、いつでも勝者側に回れるように、明確な意思表示や行動をしないものです。

戦国時代は、どの軍団でも、こうした曲者たちは、危険な場所に自分の身を絶対に置きません。
知らないうちに、不思議にいなくなっていたりするのです。
織田軍でいえば、秀吉です。
信長も、終盤は、秀吉の曲者能力を恐れ始めていたと思います。

* * *

私の個人的な推測では、今川軍の中の、松平元康らの軍団、三河国内の水野勢の一部、瀬名氏俊、そして朝比奈泰朝、朝比奈親徳、岡部元信ら朝比奈系の一族は、織田方に味方した者たちではなかったかと思います。
服部一族も、おそらくは様子を見ていたと思います。

義元は、ベテランや知性派の家臣たちの思想や行動を、しっかり把握できていたのでしょうか…。
信玄や家康など…、重臣たちへの細かな気配りは健気なほどです。
軍団のトップといえども、下克上の時代は、偉そうにかまえていられるほど悠長な時代ではありません。
のぼせ上ったトップほど、下克上にあいやすい…、戦国時代の常識でしたね。

* * *

この戦いでは、もちろん武田信玄も斎藤義龍も、手を出さず、情勢を観察していたはずです。
武田信玄あたりは、信長の裏工作をかなりつかんでいた可能性もありますね。
世の中、曲者武将だらけです。

2007年の大河ドラマ「風林火山」では、武田軍の山本勘助が、義元が桶狭間に向かうようにそそのかすという、仰天のドラマ展開がありましたね。
この大河ドラマは、山本勘助が主人公でしたから、面白いストーリーでした。
この脚本やるな~と思ったものです。

実は、伊賀の服部一族から暗躍術や忍術を学び、甲斐国の武田軍に伝授したのは山本勘助です。
それに、この頃の勘助は、武田家と今川家の二重スパイです。
こんな展開も考えられないことはありませんね。
しばらく後、武田家と織田家は親しくつながります。

義元は、こんな「生き馬の目を抜く」ような戦国時代に、自軍の内外に、しっかりと目を光らせておくことができていたのでしょうか…。

* * *

私は、今川義元が、普通の武将よりも劣っていたのかどうかというよりも、この今川軍の複雑な状況を利用し、三河国勢の心をしっかり読んで味方につけた信長に、頭脳派としての稀にみる強さを感じます。
この頭脳こそ、信長の勝因のひとつだったとも思います。


◇信長の人物像

このコラムの「麒麟シリーズ」はまだまだ続きますので、信長の複雑で多様な人物像のことは、少しずつ触れていくつもりですが、この「桶狭間の戦い」の頃は、まだ信長が天下統一を目指すような「天下布武」の時代ではありません。

まだまだ、20歳代半ばの、ひたむきな姿を見ることができるような気がします。
すでに「魔王」の一部も見え隠れしてきてはいますが、その後、最有力戦国武将として、日本中の武将たちから包囲網を敷かれ取り囲まれても、それを見事に打ち破っていく猛烈な姿は、まだ感じられません。

ですが、この戦いが、信長という人間を大きく変えたのは間違いないと思っています。
これは、戦国武将に限らず、現代人でも同じですね。
環境や結果が、その人間を大きく変えることは多くあります。

* * *

この戦いまでの信長の人生は、ほぼ戦いの連続です。
敵国勢はもちろん、自国内、身内の一族内とも、戦いの連続です。
寝返りあり、裏切りあり、暗殺ありの連続です。

信長は、好奇心いっぱいで、猛烈な研究熱心さ…、両極端に走りやすい性格、強い戦いの本能、そしてとてつもない頭脳の持ち主です。
人の心理を読むのが好きで、人の先廻りができる…。
また、愛情への欲求も強く、裏切りへの復讐心も人一倍…。
信じたい気持ちも人一倍…。
その強引な性格も人一倍…。強引さは他人にも及びます。
「オレがこれほど努力しているのに、家臣のお前は何をしている」…結構、比較屋さんです。

一見、気が短そうに見えて、とてつもない忍耐力も持っています。
彼の合理主義も、科学が発達していないこの時代では行き過ぎると、思わぬ方向に転がっていきます。

おそらく、三英傑の中では、前期の家康が、どうしようもないほど、一番の短気です。
これが、後に大転換します。
信長は、短気と受けとられがちですが、その執念深さや、粘り強い忍耐力は、ものすごいものがあります。

「桶狭間の戦い」で、これだけ、長期間の地道な準備と、心理的な誘導、ち密な陰謀、粘り強い交渉をやり遂げられたのは、このような信長だったからだとも感じます。
家臣の簗田政綱が、それを具体的な作戦に組み立て、実現させたのだろうと思います。
とはいえ、作戦や戦術の骨格は、すべて信長の中から生まれてきたものだろうと思います。

戦い続き、裏切り続き…、まさに「スキ」をつくったら負けの中で過ごしてきた信長だからこそ、この大陰謀を成功させることができたようにも感じます。

そして、織田軍の、見事な人員配置、家臣たちの心理誘導は、細かい部分までしっかり気を配る、信長ならではのような気もします。

* * *

戦国時代に、しっかり生き残り、出世していった武将とは、細かい部分まで気を配れる…、ちょっと気難しい…、心配性で用心深いタイプが圧倒的に多かったのは確かでしたね。
強かった戦国武将の「勇猛果敢さ」とは、本来の性格から来るものとは別のものだったことが、よくわかります。


◇信長の勝因

この戦いの信長の勝因をあげたらキリがないほどで、遠因まで入れたら数えきれません。
重要な部分だけを列挙して書きたいと思います。


◇信長の必勝作戦 1(敵軍からの寝返り)

まずは、信長が、敵の今川軍の中から、織田方に寝返らせた武将たちの存在です。

三河国の水野信元は、この戦いの前から織田方にいた武将です。
他の有力な三河国勢の松平元康やその家臣たち、他の水野勢も、ほぼすべて織田方に寝返ったのだろうと思います。

水野信元は、その寝返り工作の中で、かなり精力的に動いたのかもしれません。
これで、尾張国、三河国の有力な三つの一族、織田、水野、松平がひとつに集結したのだろうと思います。
この三家がそろえば、今川家に十分対抗できます。

前回までのコラムでも書いてきましたが、信長は、三河国勢の複雑な関係性や、それぞれの心理を上手にコントロールして、寝返りの見返りも十分に用意
し、この集結の構図を作り上げたのだろうと思います。

特に、松平元康を、味方に引き込むことは、決定的な結果を生むことになるため、元康の生母を使い、入念に準備したであろうと思われます。
かなり早い段階から、生母を水野信元側に引きとらせています。

このあたりの松平元康と生母の関係性は、大河ドラマ「麒麟がくる」でも描かれましたが、人間の心理や情を、信長が巧みに利用したのだろうと感じます。
母子の愛情をあまり受けることがなかった信長だからこそ、そのあたりをよく見ていたのかもしれません。
タイミングや使う言葉表現など、信長は相当に考えたと思われます。

* * *

さらに、今川軍内の、駿河国勢と遠江国勢の複雑さにつけ入り、遠江国勢の瀬名氏俊(せな うじとし)を織田方につけたのも大きかったと思います。
瀬名氏俊は、桶狭間の地を知り尽くした武将でもあります。
桶狭間での「誘導討ち取り作戦」を考えた場合に、この瀬名氏俊は欠かせません。

前回までのコラムでも書きましたが、桶狭間にあった謎の寺も、織田方に協力させたと感じます。

そして、ひょっとしたら、今川軍内の、朝比奈泰朝、朝比奈親徳、岡部元信ら朝比奈系の一族をも取り込んだ可能性もないとはいえないと感じます。
「遠江国は、本来、お前らのものだ。朝比奈系一族が今川家にとってかわっても不思議はないぞ。チカラ貸そうか。」…とか、信長は言ったのかもしれません。

* * *

そして、沓掛城周辺の村々は、織田軍の蜂須賀小六(はちすか ころく)を使って、味方に引き込んでいます。
村々の庶民が、みな間者(スパイ)となって、信長に協力したのかもしれません。

小六は、斎藤道三の重臣で、暗躍集団の頭だった人物です。
道三が、息子の義龍に戦で敗れ、信長のもとにやって来ました。
小六は、信長に、この戦いの中で、人生の再起の舞台をもらったのだと思います。
陰謀暗躍得意の簗田政綱(やなだ まさつな)のもと、彼は、道三ゆずりの陰謀術で、はりきって仕事をしたのでしょう。

いつの時代でもそうですが、時に、「人を再生させる」…そんな術を持った人間がいますね。
この能力は、学んで身につけることができる能力ではありませんね。
私は個人的に、信長は、そんな能力を持っていたのではとも感じています。
いったん落ちた人間…、くすぶっている人間たちを、信長は再生させ、自分のために働かせようという意識をしっかり持っていたのかもしれません。
自力ではい上がってくるのだけを待っていては、強い軍団を早急につくれません。
「人材を見つけ、育てる能力」を信長は持っていたのかもしれません。

* * *

それから、三河国内の岡崎や知立あたりの水野勢の武将たちも、織田方に協力し、義元を沓掛から桶狭間に誘導するため、あえて「負け戦」を展開していったのだろうと思います。
戦国時代では、「あえて負ける戦」も、たくさんありました。

とにかく、三河国内は、すでに、織田の領地と化し、その領地に、義元は不用意に入ってきたことになります。


◇信長の必勝作戦 2(桶狭間への誘導)

前回までのコラムでも書いてきましたが、桶狭間の地は、信長が義元を討ち取る場所として選んだ場所以外には考えられません。
今川軍からみれば、戦場の選択肢は、まだまだあります。
織田軍からみれば、桶狭間以外の場所だと、相当に苦戦するか、まず、まともな戦いにもなりません。

織田軍と今川軍が、互角の兵力だったとしたら、こんな難所だらけの桶狭間の場所を戦場に選択するとは考えにくいと感じます。
圧倒的な兵力差だったからこそ、信長が選んだ場所だったと感じます。

下記マップの「桶」の場所が桶狭間です。
今川義元は、マップの右(東)側から左側に進軍してきます。
信長の拠点は名古屋市周辺です。



なにしろ、この今川軍の先鋒隊が瀬名氏俊なのですから、今川軍の進軍ルートを誘導決定するのは、たやすいと感じます。
義元らに、その陰謀を悟られないようにする…、疑念を抱かせないようにすることこそが、大事だったと感じます。

今川軍の早すぎるとも感じる進軍日程は、かなり陰謀の臭いがします。
ゲリラ豪雨が予想される5月19日前後から、逆算した進軍日程だった気がします。

* * *

岡崎城に、今川軍本体が到着してから、その軍を、知立城、沓掛城に上手に誘導したのも、信長の作戦であるのは間違いないと感じます。
後に徳川幕府の重要な武家となる三河国の吉良勢も、それに協力したはずです。
マップの実相寺方面が吉良氏の西尾市で、刈谷周辺は水野信元の支配下です。

今川軍を上手に知立城に来させ、その後に、沓掛(くつかけ)方面に誘導します。
すでに松平元康は、この時点で、織田方であったと感じます。

沓掛城周辺は、織田方の蜂須賀小六のスパイだらけです。
今川軍では消費しきれないほどの、大量の酒と肴を準備して、義元の到着を待っていました。

沓掛城から、松平元康、朝比奈泰朝を大高城に向かわせ、まずは今川軍を兵力を分断させます。
食糧の運び込みなど、ただの理由づけでしょう。

井伊直盛の軍も大高城に向かいますが、後に、瀬名氏俊が、亡き者にしたい直盛を桶狭間に戻します。

* * *

瀬名氏俊や朝比奈泰朝は、今川軍の作戦計画立案に、おそらく大きな影響力を持っていたと考えます。

瀬名氏俊は、桶狭間に義元本陣を置き、大高方面は松平元康と朝比奈泰朝に、義元守備隊以外の大勢力である三浦義就(みうら よしなり)の軍や、元康とは別の松平勢、遠江国の久野勢を、義元本陣から離れた場所に布陣させ、桶狭間の義元本陣の軍団を孤立化するようにしたのではと思います。
瀬名本人は、義元のすぐ隣に布陣します。

桶狭間の西側は、織田軍と対峙する地域であり、東側の山の向こう側には、蜂須賀小六などの織田軍を置きます。
桶狭間の北の出口は、ある段階で、織田軍がふさぎ、南の出口は、水野信元らの軍勢がふさぎます。

瀬名氏俊は、義元本陣のすぐ近くで、義元をギリギリまで監視します。
瀬名氏俊は、桶狭間の寺と結んで、あるいは寺を支配下に置き、義元の昼食場所を準備します。

そんな、桶狭間に、瀬名氏俊と信長が示しあわせた時刻(午前11時頃)に、義元が、のこのことやって来るという計画です。
織田方との小競り合いに勝利するたびに、軽い祝宴をおこない、酒や肴で義元を喜ばせます。

そして豪雨が来る時刻が迫ってくるという手はずです。

* * *

桶狭間での激戦が始まってからの状況は、前回コラムで書きましたが、義元は、桶狭間からの脱出ルートをすべてふさがれ、寺にも逃げ込めず、最期の瞬間をむかえたのかもしれません。

瀬名氏俊は、織田軍からの攻撃を受けない寺の中か、周辺地域で、戦闘が終わるのを待ち、その寺で義元の首実験(本人確認)を行う頃に、「信長殿、待っておりました」などと言いながら、登場してきたのかもしれません。

瀬名は、「井伊も、松井も、久野も、三浦も、みな死んでくれたのう…。松平も、朝比奈系も皆、無事じゃ…。これからも信長殿にお味方するでござる。」などと、言ったのかどうか…。

義元は、今川軍がつくった作戦のとおりに進軍していたものと信じきっていたのかもしれません。
これが、まさか信長がつくった作戦どおりに進行されていたとは、思いもよらなかったかもしれませんね。
恐るべき、誘導作戦が行われたような気がします。

* * *

この内容は、あくまで私の個人的な推測ではありますが、こうした誘導作戦は、戦国時代にはよくあったことです。
こんな大武将クラスがまさか…と思われるかもしれませんが、これが起こるのが戦国時代です。
信玄だって、信長だって、家康だって…、みな引っかかっています。

おそらく、いつの時代でも、すべての人が引っかかってしまう可能性があるワナが、この誘導作戦なのでしょうね。


◇信長の必勝作戦 3(必勝軍団の形成)

前回までのコラムでも書いてきましたが、この戦いに向けて、信長が行ってきたことを振り返ってみます。

まずは、何と言っても、特別攻撃部隊「馬廻衆(うままわりしゅう)」の大強化だと思います。
身分にかかわらず、武芸の長けた若者を選び出し、相当な特別訓練を行ったのだと思います。

どんな状況でもめげない精神力、強靭な体力と持久力、巧みな馬術、剣術などの武術、肉弾戦にも強い格闘技術、ひょっとしたら潜入調略術なども訓練したでしょうか。
そして、数百名のその中から、卓越した者たちを、さらに数十名ほど選抜し、「母衣衆(ほろしゅう)」を組織します。

まさに映画にもある、最強兵士「ランボー」たちです。
ひとりでも、数十人を倒せるような無敵の戦士だったかもしれません。
殺戮に手段を選ばない、特別な精神力も持っていたかもしれません。

あまり組織だった攻撃部隊でもなかったのかもしれません。
とにかく若い世代の、孤高の猛者たちが集まる集団だったのかもしれません。

他の戦国武将の軍団にも、こうした集団はいたと思いますが、信長軍団ほど有名にはなっていません。
江戸時代では、無敵の非情集団は、ほぼ暗躍集団ですから、母衣衆のようなド派手な戦闘集団とも違う気がします。

信長だからこそ、強力に統率できた戦闘集団だったのかもしれません。

* * *

この馬廻衆や母衣衆が、戦う兵士たちの特殊部隊だとしたら、土木技術などを有する者たちが集まる技術屋集団も別にあったように思います。

河川工事、木材伐採、建物建設、柵建設、土地掘削、道路建設、石垣造り、土塁建築…など、土木関連が得意の部隊がおそらくいたはずです。
信長、秀吉、家康の強さは、こうした土木技術者たちにも支えられていました。

この三英傑(信長・秀吉・家康)は、後に、武器製造改良技術、貨幣鋳造技術、造船技術、お城の高層建築技術、石垣づくり技術など、特殊な技術集団をたくさん抱えていきます。
その後は、学識に長けた者たちも必要になってきます。

さまざまな特殊能力を持つ者たちを、たくさん抱えることも、天下取り競争には、欠かせない要素のひとつになっていきましたね。

おそらく「桶狭間の戦い」でも、中島砦の改修工事、泥湿地づくり、木材伐採などに活躍した集団がいたと思います。

* * *

陰謀や暗躍も、ある意味、特殊能力のような気がしますね。

簗田政綱、水野信元、瀬名氏俊、蜂須賀小六…、まさに影の分野のエキスパートのように感じますね。
信長は、陰謀暗躍のエキスパートたちの能力も、存分に引き出したように感じます。

* * *

信長は、この戦いまでに、すでに、優れた鉄砲隊を組織しています。

さらに、信長は、鉄砲先進地域の近江国の武将である六角氏から、この戦いのために、兵を数百借りてきます。
おそらく六角氏得意の「ゲリラ戦術」を、織田軍にも導入する目的があったとも感じます。
ゲリラ戦術を身につけた信長の特別攻撃部隊「馬廻衆」…、まさに戦国最強ゲリラ部隊を想像させます。


◇信長の必勝作戦 4(意識改革)

1.世代ごとに意欲を持たせる


前述の馬廻衆や母衣衆が、身分を問わない、若い世代の集団なら、ベテランの古参の家臣たち、他国からやって来た新参だがベテランの家臣たちも、信長は上手くコントロールしていた気がします。

謹慎中の者に再起のチャンスを与えたり、そうそう余生が長くない武士には遺族の保障とともに最期の花道を与えたり、機動力の減退したベテランでも活躍できる場面を与えたり、義理人情たっぷりにライバル関係を刺激してみたり…、と、信長は巧みな手綱さばきで、多くの世代の家臣たちをコントロールしたように感じます。

「桶狭間の戦い」では、幾人もの重要家臣が命を落としますが、おそらくその度に、故人の功績を称え、織田軍の団結力は増していったように感じます。
信長は、彼らの最期の花道まで、自身の勝利につなげようとしたのかもしれません。
信長の家臣たちは、何かライバル争いのように、信長に向けてなのか、織田軍に向けてなのかわかりませんが、忠誠心でしのぎを削るような風にも見えてきます。


2.ライバル競争をコントロール

戦国時代は、戦場での武士の評価を、討ち取った敵兵の首や耳の数で判定したりするのが通常でしたが、桶狭間の戦いのある部分で、信長はそれを止めさせます。
敵兵の首や耳の切り取り作業の時間をなくし、ひとりでも多くの敵兵の命を奪うことを優先させます。

* * *

信長は、最終局面の桶狭間への突入を前に、馬廻衆などの攻撃部隊や、主要な重臣たちに、異例の指示を出します。
「敵将たちの首を切り取らずに、次の敵にむかえ…、首の数で恩賞を与えない…」。
織田軍内部のライバル競争によって、軍団全体の勝利のチャンスを逸するようなことをしてはならないという意味です。

そうはいっても、特別攻撃部隊以外の者たちや、中下層の兵たちは、やはり恩賞(手柄)欲しさに首を持ち帰ってきますが、それも仕方ありません。
重役級や中以上の管理職がそれを理解していれば、十分にこの命令は効果を出すと思います。
敵からみれば、この行為は、古くからの戦の作法に反する行為かもしれません。

織田軍からみれば、兵力で圧倒的に劣る状況ですから、勝利するには手段を選んでいられません。
織田軍の中間層の家臣たちも納得したことでしょう。
戦国時代の軍団は、軍団内の決まり事に違反することは、かなりの重罪となります。

では、恩賞(手柄)はどのように決めるのか…?
後で書きます。

いずれにしても、「桶狭間の戦い」のある時点で、信長は、織田軍の中のライバル競争を、一端止めさせたのだろうと思います。
まずは恩賞や見返りの意識を捨てさせ、明確なそれぞれの役割分担に、各家臣の意識を集中させ、そのことだけに家臣の行動を集中させたのは間違いないように感じます。

ただし、信長は、特別攻撃隊の「母衣衆」内のライバル関係にあった兵の心理をコントロールし、恩賞ではないかたちで、競争心や闘争心を焚きつけたとも感じます。


3.人事考課と意識改革

さて、家臣へのご褒美である「恩賞(手柄)」について書きます。
現代人であれば、表彰、給与、賞与、昇進、栄転などに相当するものですね。

まずは、今回の戦いの織田軍の最優秀選手「一番手柄(いちばんてがら)」ですが、この作戦全体を立案し、陰謀を進め、すべての進捗を管理し、しっかり結果を出した者…、この戦いにおいては、信長の次の地位であった簗田政綱(やなだ まさつな)が、その第一候補だったのだと思います。

おそらく簗田は、名門の旗本一族とはいっても、戦闘の場面では、それほどの武功をあげてこなかったと思われます。
ですが、陰謀、暗躍などの頭脳戦で、比類のない能力を持っていたのかもしれません。

最終的に、今回の戦いの織田軍の最優秀選手「一番手柄(いちばんてがら)」は、簗田政綱と決まります。
これは討ち取った首の数での決定ではなかったはずです。

敵兵を討ち取るという武功という意味では、他にもたくさんの貢献をした武将が何人もいたことでしょう。
にもかかわらず、簗田がその栄誉を受け取ったのは、なぜか…?

通常であれば、信長の決定だからといっても、皆が納得するはずはありません。
いつも信長のかたわらにいて、相談相手になっていたのだから仕方がないでは、家臣たちの気がおさまりません。
軍団の亀裂は、こうした不平不満から生まれてきます。

不平不満が蓄積しなかったのは、おそらく、誰もが納得できるほどの理由を、皆が知っていたからだとも感じます。
この作戦を立案し、準備し、交渉し、寝返らせ、指揮し、管理し、桶狭間の最終局面の場所でも指揮していた武将…それが簗田政綱だったのかもしれません。
どこの段階で失敗しても、この勝利は生まれなかったであろうと感じます。
すべての段階を成功に導いた者…、それが簗田への評価だった気がします。

* * *

信長が、簗田政綱を「一番手柄」として評価し、沓掛城と領地を彼に与えたのは、もちろん彼が、戦い全体を管理指揮したということだけではなかったと感じます。

これまでの、古くからの家臣の評価の仕方だけでなく、役割分担された組織が団結力を失わず、不平不満がしっかり分散されるように、その評価方法を変えようとしたあらわれにも感じます。

戦場においても、敵将の首を取りやすい部隊と、首を取りにくいが非常に重要な場所にいる部隊が、役割分担をしています。
戦闘をしない、土木工事の部隊、潜入・調略・暗殺などの暗躍部隊、武器・兵・金・食糧の調達部隊なども、非常に重要な役目です。
もはや、だれが一番貢献したのかを比較することに意味がなくなってきそうです。

現代の企業のように、いろいろな部隊に、あまねく評価を与える…、方向に向かわざるをえないかもしれません。
もちろん命を危険にさらすことの評価は別にあります。

信長は、皆が喜ぶ、それなりの評価基準を探していたのかもしれません。

* * *

もし、信長が、昔からのしきたりで、首の数で一番手柄を決めていたら、軍団は崩壊の危機をむかえた可能性もある気がします。

おそらく、このような基準ですと、多くの家臣から異論続出だと思います。
「オレが、一番多くの数の首を取った…」
「手柄は、首の数だけじゃない、敵将の首の階級だ…」
「敵の侍大将の首をとったのだから、そのあたりの雑魚の首といっしょにするな…」
「お前が首をとれたのは、オレが周囲の兵を引きつけたからだ…」
「たまたま、お前が、弱い相手ばかりの場所にいたからだ…」

現代の今の企業でも、何かヒット商品が生まれたり、大きな利益を生んだりすると、
「研究開発部が、それを世に出したからだ…」
「広告宣伝部が、このヒットを作ったのだ…」
「営業部が地道に活動した成果だ…」
「製造部がコストを削減したから利益が出たのだ…」
「役員のオレが陣頭指揮をとったからだ…」
など、企業内で収拾できないかもしれませんね。

それでも、トップは、家臣や社員の働きに、何らかのご褒美を用意しなければなりません。

軍団組織内の人の評価作業とは、家臣たちの個人の能力を最大限に引き出すとか、家臣たちの競争心をあおるために行うことも多いのですが、一方、これにより軍団全体、あるいは特定の集団組織の団結力、結集力を最大限に引き上げるという効果も生みます。
さらに、効率化が進み、生産性が上がり、組織内の無駄もあぶり出されてきます。

ですが、評価作業に失敗すると、組織がバラバラになる危険性もはらんでいます。

* * *

ところで、現代の今の企業では、昔ほど、「人事評価」と「人事考課」を区別しなくなりましたね。

「人事考課」は、個人の知識、意欲、行動能力、管理能力、達成結果、役割分担などを査定することを意味していたと思います。
「人事評価」は、そこに良し悪しの判断や、思想的な要素、人間性などを加えたものを意味していたようにも感じます。
それほど、明確に区別する必要もないのかもしれません。
すべて大事です。

信長は、この時に、これまでの達成結果だけのような評価の仕方に、それ以外の要素をたくさん加えるようになったのではないかと感じます。
軍団が大きくなり、人数が増え、役割分担も細分化していきました。
「ご褒美」の仕方も、多様化する必要が出てきます。

現代人の仕事のご褒美も多様化していますが、信長の人使いの気配りが、ここにもあらわれている気がします。

* * *

信長の家臣の中には、この時、こんなことを思った者たちが、きっといたはずです。
「今回は、首を取らなかった簗田政綱が、お城のひとつももらって当然だ。オレも剣術は苦手だが、別の道で出世しよう…」。
そのとおり、この後、織田軍にはいろいろなタイプの武将や家臣が登場してきます。
社会のほぼ最下層の中から出世する人間もあらわれ、人材豊富な軍団へと成長していきます。

人が育ち、増えるという、意識改革と環境づくりを、信長がどの程度まで考えていたかはわかりませんが、この雰囲気がこの軍団の特徴でもあったような気がします。

いつの時代も、トップは組織運営の恐怖とも戦っていますが、今回の信長は、見事に軍団全体をコントロールできたのだろうと感じます。
これは、今川軍トップの義元とは、大きく違ったのかもしれませんね。

「意識」と「評価」が、人間を変え、組織を変えるということのなのかもしれません。

* * *

戦国時代後期の各軍団は、各家臣の能力を活かした役割分担がどんどん進化していったように感じます。

家康にいたっては、家臣の誰と誰を組わせたら最大限の成果を出すのかも徹底的に追及します。
個人の能力を最大限に引き出すだけでは、もはや軍団は維持できなくなります。

各家臣の人間関係や性格、考え方を考慮して、配置転換、転勤、組織変更などを行い、軍団をさらに強くしていきます。
場合により、外部からも、新しい戦力を導入します。
まさに現代の企業のようですね。
「関ヶ原の戦い」にも、家康のこの思想が、大きく発揮されます。

* * *

この時の織田軍全体は、戦国武将の中では、まだまだ中規模程度の兵数ですから、人事考課の変更や、意識改革をやりやすかったのは事実だったと思います。

信長は、その後も、評価に加え、ご褒美の内容も多様化させていきます。
領地や城、刀剣や武具はもちろんですが、ここに、茶道具などの美術品が加わっていきます。
利休など第三者に、高い価値を決めさせ、その美術品に大きな意味を持たせるようになります。

戦場での働きだけでは、役割分担された家臣の評価ができなくなってきたことで、後に信長は、家臣たちへの評価やご褒美に、たいへん苦労し始めます。
この配分の失敗も、「本能寺の変」の遠因につながったのかもしれませんね。

今回の「桶狭間の戦い」で、こうした意識改革や人事評価が、どの程度の影響力を持っていたのか、それこそ評価しにくい部分ではありますが、私は個人的に、そうそう無視していい部分ではない気がしています。


◇信長の必勝作戦 5(敵兵力の分散)

ここからは、戦術や作戦について書いていきます。

前回までのコラムでも書いてきましたが、勝因のひとつが、まずは弱小兵力が、大軍の敵と戦う時の戦術を、織田軍がしっかり行ったことです。
これは、同時にたくさんの敵と戦うことを避ける戦術です。

「同時」という状況を避けるには、敵の大兵力を、分断、分散、拡散させるのです。
これは、場所という視点と、時間という視点に大きく分かれます。


マップのとおり、まずは、「A」地域、「B」地域、「C」「D」「E」地域の三つに敵を分散させ、それぞれを分断し、さらに、地形や気象、時間を使って、「C」「D」「E」の三つに分断します。
最終的な目標地点は「C」の場所です。

「A」地域、「B」地域は、陰謀暗躍で、織田方に寝返らせておき、「C」地域の桶狭間での戦いに参加させません。
「A」地域の大高城周辺の戦いは、すべて織田軍の予定通りだったはずです。
「B」地域の鳴海城の今川軍勢力は、寝返らせておくか、織田軍の丹下砦、善照寺砦、中島砦が連携して、封じこめておきます。

最終的に、信長を含む特別攻撃部隊「馬廻衆」は、「C」地域にいる義元本陣の部隊の最低限の数と戦うことになります。
義元本陣には、名立たる武将たちも一定数しかいなかったはずです。

信長は、敵の大軍を分散させ、分断し、もっとも狙うべき大将周辺だけを孤立化させようとしたのだと思います。


◇信長の必勝作戦 6(一定時間のスキをつく)

5月20日であったであろう今川軍の織田軍への総攻撃の前日である19日の定刻に、桶狭間に義元本陣を設営させ、各武将たちを本陣から少し離れた場所に布陣させ、翌日の攻撃に備える中、織田軍との小競り合いの勝利で油断させ祝宴を開かせ、豪雨の直後の瞬間を利用し、少数精鋭の問答無用の非情な攻撃方法で、義元本陣に猛攻撃をかける…。
これが、織田軍の計画ではなかったかと思います。

今川軍の総攻撃が始まる直前に生れる、数時間のスキを、あえて狙ったものと思います。


◇信長の必勝作戦 7(逃げ道をふさぐ)


義元本陣内には、瀬名氏俊などの寝返った者がおり、今川軍の情報は筒抜け…。
織田軍は、桶狭間の南北の出口である、義元の脱出ルートをすべてふさぎ、義元の本人確定方法もしっかり準備…。


◇信長の必勝作戦 8(情報戦)

戦国時代後期ともなると、自軍の中に、敵軍と内通している者が潜入してる前提で事を進めないと、非常に危険です。
トップは、常にそのリスクを、さまざまなかかちでコントロールしていなければ、すぐに危険な状況に追い込まれてしまいます。

* * *

信長は、今回の戦いの日である5月19日の早朝まで、尾張国の清洲城に滞在します。

前日である18日の清洲城での織田軍の軍議は、信長の清洲城滞在情報を、義元にあえて送るために開かれたものだったと感じます。
清洲城内にいる、敵の潜入者や内通者を、あらかじめつかんでいたか、つかんでいなかったかはわかりません。
別に、城内に内通者などいなくとも、城に参集の指示だけでも十分ですね。

5月19日の朝まで、信長が清洲城にいることを義元が知れば、義元は安心して、沓掛から桶狭間に進軍するはずです。
少なくとも、19日の午前中は、まず義元本体軍の移動中に、義元への織田軍の大きな攻撃はないと考えたでしょう。
あるいは、義元は、最初から信長が清洲城に立てこもると考えていた可能性も高いと感じます。

戦国時代は、「敵の大将なら、どう考えるだろうか」という思考が、実はもっとも重要な視点であったりしました。
その中から、敵の大将の考えのスキを探すのです。

信長は、そんな義元の頭の中を、さらに深く読んでいたことでしょう。
織田軍からすれば、信長も、今川軍から攻撃されずに、安心して熱田神宮を経由して、善照寺砦に移動できるタイミングは、この19日の早朝から午前中しかないと考えていたと思います。

敵が移動する瞬間に、自軍も移動する…、信長の作戦だったのは間違いないと思います。

義元が、深読みできるタイプの武将であったなら、この信長の移動時間を狙えたかもしれません。
ですが、織田軍の丹下砦を含め、丹下砦の北側の防衛施設は、それをさせないための施設であったようにも感じます。
最南端の海沿いのルートで、信長は進軍しました。
さすがに信長です。


マップの赤色矢印は、熱田神宮から中島砦までの信長自身の進軍ルートです。

義元が、信長が善照寺砦まで来ていることを知ったのが、いつだったのかは、わかりません。
まさか、桶狭間に信長自身が来ていることを、最終局面まで知らなかったとは考えられませんが、今川軍の情報網を潜入者たちが遮断していたなら、可能性がない話しでもありません。

* * *

戦国時代の有力武将たちは、情報を集めるのはもちろん、自分から情報をあえて流し、自在にコントロールします。
情報に惑わされ、それによって行動を考えているようでは、その軍団はまず負けました。

戦国時代は、戦場で、敵の進軍行動を目にしてから行動を判断することも、非常に危険な行動です。
情報戦にしても、戦場での実戦にしても、相手の行動を予見できなかったことを知った時点で、ほぼ負けを覚悟、あるいは脱出行動を始めないと危険でした。
最たる例が、豊臣家滅亡の「大坂の陣」や、小田原城の北条氏敗北でしたね。

* * *

桶狭間の地にやって来るまでの、信長の情報戦は見事としか言いようがありません。
熱田神宮は、軍事基地であり、情報網の拠点だった気がします。
熱田衆や津島衆などの町衆が、信長に協力していたことも、情報網の構築に貢献したのだろうと思います。

尾張国南部を、地域ぐるみでまとめあげ、指揮下に置く信長の力量は、沓掛城周辺地域でも発揮され、壮大な情報網が作られた気がします。
信長の情報操作力は、相当なレベルであった気がします。

* * *

「桶狭間の戦い」はよく、義元が油断したと言われますが、実は、義元自身から油断が生まれてきたとは思えません。
最初から、義元は義元であった気がします。
この油断は、信長が、たくさんの情報を駆使して、義元に植え付けさせていったと感じています。

同時期の上杉謙信も同じような手法を使いますが、情報だけにむやみに頼ったり、分析力が不十分であるとわかった相手には、油断を植え付ける手法として、ニセ情報が有効な手段になったりします。
戦国時代終盤の戦の勝敗が、この情報戦に左右されてくるようになりますが、信長のこの情報戦の巧みさは見事だったと感じます。


◇信長の必勝作戦 9(時刻を管理)

信長は、熱田神宮を軍事基地化させ、あらかじめ武器を集め、信長や各地の家臣たちは、身軽に最低限の時間で、熱田神宮に集まり、あらかじめ調べておいた潮の満潮を避け、最短ルートで善照寺砦までやって来ます。

善照寺砦に、早い段階から、織田軍の軍団筆頭の佐久間信盛を入れて置いたことも、相当に効果があったと感じます。

* * *

信長は、正午頃までに善照寺砦に入らなければ、豪雨が来る時間に間に合いません。

19日早朝から戦闘を開始させておいた大高城周辺の戦いは、午前中には終了し、そこにいた兵たちは、信長のもとにやって来ます。
今川軍内の内通者の松平元康と朝比奈泰朝の戦闘の役目はここまで…。

後は、桶狭間の義元本陣周辺の配置状況の情報を、正午頃までに確認し、豪雨がくるまでに、本陣近くのどこかの山まで、特別攻撃部隊を進める手はず…。
今川軍の内通者の瀬名氏俊と朝比奈親徳は、安全地帯に移動しているはず…。
桶狭間の北と南の出口をふさぐ軍団は、豪雨がくるまでに配置につくはず…。

役割分担の者たちが、どの時刻にしっかり配置につくのか…、これは非常に重要なことだったと思います。


◇信長の必勝作戦 10(砦と人員配置)

前回までのコラムでも書きてきたとおり、織田軍の砦の配置と、それを担当する武将の配置は、相当に考え抜かれた見事なものだと感じます。


織田軍の中の地位、武将どうしの関係性、各武将の年齢、各武将の明確な役割分担…、見事というしかありません。

二十歳代半ばの年齢の信長が、ここまで考え抜くとは、恐れ入ります。
さすが、戦闘、陰謀、暗躍、一族内抗争続きの人生です。
ここまでの経験の豊富さは、義元とは大きな差があったのかもしれません。

* * *

大高城周辺と鳴海城周辺を、コントロール下に置き、後は義元を、指定した19日の定刻に桶狭間に誘導し、義元に大きな油断を与え、逃げ道をすべてふさぎ、すぐ近くまで密かに近づいておいて、大きな自然現象であるゲリラ豪雨を利用して、直後に猛攻撃をかける。

* * *

前回コラムで、「信長公記」では、義元の敗因を「桶狭間で戦ったこと」とひと言で片づけられてしまっていることを書きました。
確かに、今回のコラム内容の勝因と敗因が、このひと言に凝縮できないこともありません。

ですが、裏には、桶狭間の地形だけでない、信長のしっかりとした「勝因」があったのは確かです。
そうなると、義元の最大の「敗因」は、信長と戦う決断をしてしまったことなのかもしれませんね。


◇最大の遠因

今川軍で、義元を支えたナンバー2の雪斎(せっさい)は、甲斐国の武田信玄、相模国の北条氏康にはたらきかけ、1554年に「三国同盟」を締結させました。
ひとえに、自身が亡きあとの駿河国・遠江国、そして義元を考えてのことだったはずです。
そして、その翌年の1555年に亡くなります。

この、たった5年後の1560年の「桶狭間の戦い」で、義元は絶命してしまいます。

個人的には、この雪斎の死が、この戦いの勝敗の最大の「遠因」のようにも感じます。


◇戦いは、単独軍から連合軍に

この三国同盟により、武田信玄は信濃国の支配と、上杉謙信との決着に向かいます。
北条氏康は関東の支配と、やはり上杉謙信との戦いに向かいます。

個人的には、義元が、この二人のどちらかと、巨大な連合軍をつくれたなら、上杉謙信を倒せたと思っています。
そして、その後に、三国同盟の誰か一人も倒せた気がします。

今、思うと、武田信玄も北条氏康も余命が短かったので、義元がどちらかと、もっとしっかり手を組んでいたら、上杉だけでなく、北条か武田のどちらかも倒せたかもしれません。
ただ、義元が長生きできたらの前提です。

これは、今川、武田、北条の三者にいえることかもしれません。
この三国同盟は、それぞれの家にとって、プラスに働いたのか、よくわかりません。
三家とも、ある段階で敗北し、天下取りから脱落します。

雪斎は、三国同盟消滅後のことを、義元に、どこまで言い残していたのでしょうか…。

義元は、ある程度の時間をかけ、今川軍内を安定させ、東国支配を押し進めてから、強大な東国勢を率いて、尾張・美濃・三河に侵略を始めてもよかった気もします。

義元は、信長くらいなら、自身のチカラで、やすやすと制圧できると考えたのかもしれません。
織田信長、松平元康、水野信元、斎藤義龍などの、尾張・美濃・三河の熾烈な激闘を戦ってきた、濃尾平野の武将たちの力量を、見誤ったのかもしれません。

義元にとって、この尾張国への進軍は無謀であったのかもしれません。
「海道一の弓取り」という言葉を、自分自身のことだけだと勘違いし、本気に受け取ってしまったのかもしれませんね。

* * *

それにしても、東国勢は、巨大連合軍思想が、畿内や濃尾平野の武将たちよりも少なかった気がします。
この「桶狭間の戦い」をよく見ると、織田、松平、水野の連合軍であったことが、よくわかります。

信長はすでに、同盟という戦略的互恵関係ではない、連合軍思想を完全に持っていましたね。

元康(後の家康)は、今川家の人質時代に雪斎から、そして信長から多くを学んで、後に、巨大連合軍をつくったのかもしれませんね。

* * *

この戦いの後、多くの武将たちは、信長と戦うことの是非を、真剣に考えるようになります。
もはや、信長には、相手に油断を植え付けるのが、非常にむずかしくなってきました。

ただし、信長のもとには、優れた頭脳を持った、知性派の武士たちが集まってきます。
信長の知性が、引き寄せたのかもしれません。

信長は、この勝利を、自ら引き寄せたことで、それ以外の多くのものも同時に引き寄せることになります。
信長は、ここから、激しい戦いの時代…「天下布武」の時代に入っていきます。

何かに、引き寄せられるように…。

* * *

今回のコラム内容には、私の推論も含まれていますので、その旨ご理解ください。
ここまでで、すでに長文になっていますので、桶狭間の古戦場のお話しは、次回コラムで書きたいと思います。

コラム「麒麟(33)桶狭間は人間の狭間(15)」につづく。

2020.8.18 天乃みそ汁
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