「映像&史跡 fun」は、映像・テレビ番組・史跡・旅・動画撮影のヒントなどをご紹介するコラムです。


麒麟(33)桶狭間は人間の狭間(15)
「戦い人」

【概要】NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。桶狭間古戦場。義元の首と胴体。戦人塚。岡部元信の選択。今川氏真の大逆転劇。吉良氏と一色氏。東向寺と大聖寺。平将門と将門塚。名古屋市・豊明市・西尾市・豊川市。


前回コラム「麒麟(32)桶狭間は人間の狭間(14)引き寄せるもの」では、織田信長の勝因、今川義元の敗因、人事考課と意識改革、信長の数々の必勝作戦などについて書きました。

今回のコラムは、ここまでの書いてきた内容に登場してきました桶狭間古戦場の名所と、義元の首と胴体、岡部元信、今川氏真などについて書きたいと思います。


◇「桶狭間古戦場」の名所


上記マップの、緑色の丸の場所について、番号順にご紹介いたします。

(1)桶狭間古戦場伝承地(豊明市)
江戸時代中期以降につくられた多くの石碑などが、ここにあります。

江戸時代に整備される主要街道「東海道」と五十三次の宿場ですが、桶狭間の北東部あたりの、1番の場所は、その東海道沿いにあり、「池鯉鮒(ちりゅう)宿」と「鳴海(なるみ)宿」の二つの宿場町の途中の地点です。

「池鯉鮒(ちりゅう)宿」とは、今の愛知県知立(ちりゅう)市のことです。
もちろん、池の鯉(こい)や鮒(ふな)が有名な地でした。
「鳴海宿」は、鳴海城のある地です。

マップの1番のあたりは、江戸時代に、宿場町ではないものの、観光客や旅人たちは、11番の「戦人塚」で手をあわせ、1番のこの伝承地で昔の戦いに思いをはせ、義元の墓に手をあわせ、そして茶店で一服し、信長・義元談義を楽しみ、名産の布製品「有松絞り(ありまつしぼり)」でも買っていく…、そんな観光名所だったと思います。

桶狭間の激戦地は、東海道から、さらに少し山の中に入りますので、江戸時代であれば、旅人は、この1番の伝承地あたりで手をあわせるのが大半だったでしょう。
歴史に関連する観光名所とは、こんな風に、少し距離が離れていることも、よくありますね。
とはいえ、史跡は史跡です。
こんな目と鼻の先ですから、この場所でも激戦が起きていた可能性は十分にあると思います。


(2)釜ヶ谷・信長坂(名古屋市)
信長自身を含む特別攻撃部隊が、このあたりに潜んだともいわれています。
「信長公記」の「山際」とは、このあたりかもしれません。

そうであれば、この2番あたりから、信長は、4番に向かって、坂を駆け下りていったということになります。
個人的には、どうしてこの場所に、今川軍の武将の陣跡が残っていないのか、非常に疑問です。
もともと陣がなかったか、あったのだが、織田方と内通していたのかもしれませんね。


(3)七つ塚(名古屋市)
信長が、このあたりに七つの穴を掘り、戦死者を埋葬したともいわれています。
今は、ひとつしか残っておらず、名前にその数が残っています。
七人の名立たる有名武将とその家臣たちが、それぞれに葬られたという可能性もあるかもしれません。
両軍の戦死者は3500名ほどあり、今も万灯会では、3500本のロウソクが灯されるそうです。


(4)義元本陣跡〔東側が、おけはざま山〕(名古屋市)
義元が本陣を置いた場所とされ、本陣の東側の「おけはざま山」は、山や丘というよりも丘陵地のような高台のような場所です。
窪地の地帯をはさんで、西側に高根山、幕山、巻山が見渡せます。

なにより、この地域で、もっとも開けた場所で、水がわく泉があり、寺があります。
水がなければ、馬をつれてこれません。
もし大軍が、この地帯での戦いを想定していないのであれば、桶狭間で本陣を置くとしたら、ここが最適かもしれません。


(5)桶狭間古戦場公園〔義元最期の地〕(名古屋市)
義元が討ち取られた場所ともいわれています。
銅像や、首洗い跡などがあり、公園として整備されています。


(6)井伊直盛陣跡?〔巻山〕(名古屋市)
松井宗信が布陣した9番の高根山の少し南側に、幕山と巻山があり、そのあたりに、井伊直盛が陣を置いたともいわれています。


(7)瀬名氏俊陣跡?〔セナヤブ・センナヤブ〕(名古屋市)
問題の瀬名氏俊(せな うじとし)が陣を置いた場所といわれています。
竹藪に、「瀬名」の名が残っています。


(8)選評の松(名古屋市)
瀬名氏俊が、この場所に今川軍の武将たちを集め、軍議を開いたともいわれています。
わざわざ、こうした松の大木を、軍議の話しとともに、歴史に代々残すあたりが、陰謀の臭いいっぱいです。
歴史的には、陰謀隠しに、こうしたことを行うことは少なくありません。
瀬名は、あくまで今川軍の名将でなければなりません。


(9)松井宗信陣跡?〔高根山・有松神社のあたり〕(名古屋市)
標高約54メートルの丘で、頂上からは、左から中島砦、鳴海城、丹下砦、善照寺砦がすべて見渡せます。
ここに遠江国勢の松井宗信が陣を置いたともいわれています。
織田軍の千秋季忠、佐々政次が討ち取られたのは、この丘の西のふもとあたりとも考えられます。討ち取ったのは久野氏です。

今、この高根山の北側に、国道1号線があり、そこには「桶狭間」「大将ヶ根」という交差点があります。
個人的には、信長自身を含む特別攻撃部隊は、高根山や手越川北側のあたりの今川軍との戦闘をかいくぐって、この国道1号線あたりを通り、2番の釜ヶ谷まで、密かに進軍したのではないかと感じています。

ただし、2番の釜ヶ谷にたどり着くために、北側から迂回してやって来ることも考えられないこともないのですが、難関が多い気がします。
戦国時代の他の戦などを考え合わせると、やはり主戦場の中央突破のほうが、むしろリスクを軽減し、時間もかからず、非常時の退却も可能な、このルートがいいような気がします。


(10)長福寺(謎の寺?)(名古屋市)
義元の首実験(本人確認)をしたお寺といわれています。
今川義元、松井宗信の、小ぶりの木像があります。


(11)戦人塚(豊明市)
この戦い当時、戦場の近くにあった曹源寺の僧が、戦死者を運び、塚を築き供養したといわれています。
冒頭写真が、その「戦人塚」です。
曹源寺は鎌倉時代に天台宗のお寺として始まりましたが、この戦いの55年前に曹洞宗のお寺となっています。

おそらく、信長が桶狭間につくった七つの埋葬地だけでは、まったく足りず、桶狭間には多くの無名の遺骸が放置されていたのかもしれません。
こうした塚がいくつかあったようですが、今は、この戦人塚だけが残されたようです。
「駿河塚」「仙人塚」という言い方もあるようです。
この「せんにん」という呼び方から想像するに、「戦人」というだけでなく、「千人」という死者数の多さも意味しているのだろうと感じます。

* * *

こうして見ると、現代の「桶狭間の戦い」は、名古屋市の圧勝ですね。
名所争奪戦では、豊明市は少し劣勢ですが、「桶狭間の戦い」で重要なキーになった沓掛城は豊明市です。祐福寺は東郷町です。
信長は、500年後も戦国時代か…、と笑っているかもしれませんね。

現代の私たちは、江戸時代の観光客とはちがい、一日で、これらすべての場所を見て回ることも難しくありませんね。
機会がありましたら、壮大な陰謀と作戦を想像しながら、どうぞお出かけください。

* * *

ここで、アメーバブログ内の、チェリーブロッサム様の「桶狭間古戦場」に関するブログ記事をご紹介させていただきます。

桶狭間・長福寺の記事ブログ

さらに、チェリーブロッサム様は、「義元の首塚と胴塚」に関するブログ記事も書かれていますので、それもあわせてご紹介させていただきます。

義元の首塚と胴塚の記事ブログ

今回、チェリーブロッサム様のご協力に、深く感謝申し上げます。


◇今川義元の首

桶狭間で討ち取られた、今川義元の首は、彼の愛刀二本とともに、尾張国の清洲城近くの「須ヶ口(すかぐち)」という場所に運ばれ、さらされます。
信長は、そこに石塔とともに塚をつくり供養したそうです。
その石碑は、現在、清洲市内の正覚寺に移されているそうです。

* * *

ですが、この首は、織田軍から、鳴海城にいた今川軍の武将の岡部元信に渡され、三河国の、今の愛知県西尾市駒場にある「東向寺(とうこうじ)」に運ばれ、埋葬されたようです。
この東向寺は創建時は天台宗だったようですが荒廃し、その後、室町時代後期に浄土宗の寺院となります。
徳川家の影響や意向もあったでしょうか。

西尾市の駒場のすぐ近くに、今も「今川町」という地名の場所があり、かつて、このあたりの地域全体は「今川荘」と呼ばれ、吉良氏から派生した一族が暮らし、そこから「今川」という姓が始まったようです。
今川氏は、その後、駿河国に移転しますが、この地が「今川氏発祥の地」と呼ばれています。

* * *

東向寺は、今川氏にとって非常に大切なお寺であったのは間違いないと思われます。

今川氏は、三河国侵攻においても、この地域を非常に重要視しましたが、まさに先祖の大切な地であることがわかります。
義元は、この寺に相当に援助したのかもしれません。
この戦い当時、東向寺には、義元の叔父ともいわれる徳順上人がおり、この東向寺だからこそ、彼の首が埋葬されたのだろうと感じます。

* * *

実は、もうひとつ、義元の首塚の伝承があります。
岡部元信は、今川家本拠地の駿府に首を運び、首塚をつくり、義元の息子の今川氏真(うじざね)は、その首塚の上に天澤寺(てんたくじ)を建立したともいわれています。
今、天澤寺は残っていません。

そうなると、東向寺の首塚はいったい…?

私の個人的な印象では、岡部元信は、はじめから駿河と三河の両方に、首の一部を分けて埋葬するつもりではなかったかと感じます。
たとえば、どちらかには遺髪と歯だけとか、どちらかは頭蓋骨の一部だけとか…。

敵国勢の攻撃の危険性をはらむ駿河だけよりも、この今川氏発祥の地にある、義元が大切にした東向寺のほうが、安心して眠ってもらえそうな気もしないことはありません。
あるいは、元信に何かの政治的な思惑があったのかもしれません。

後で書きますが、義元の息子の今川氏真は、義元の三周忌を、胴体が埋葬された、豊川市の大聖寺で行っています。
もちろん、東向寺で行えない事情があったものと思います。
ひょっとしたら、駿河の首塚のある天澤寺でも法要を行ったのかもしれません。
駿河国の駿府で行わないはずはないと思います。


◇義元の首は、元信の手で…

岡部元信という武将は、その「元信」という名からもわかるとおり、今川義元の「元」、武田信玄の「信」から、できあがっています。
通常であれば、「信元」とするところでしょうが、信玄は「元信」で了解したのでしょう。

元信は、この両氏の間に、相模国の北条氏を頼る時期もありましたが、最終的には武田軍の家臣となり生涯を閉じます。

* * *

前回までのコラムで、今川軍内で義元を担ぎ上げたベテラン武将たちの世代交代の話しを書きましたが、この岡部元信も、英雄たちの二代目世代です。
岡部氏の支配地域は今の静岡県藤枝市あたりですが、当時、実際に駿河国勢といっていいのか、遠江国勢といっていいのか、非常に微妙な気がします。

次回のコラムで、この岡部元信のことを、もう少し書きますが、彼にとって「桶狭間の戦い」直後の判断と行動は、その後の彼の人生を決定づけるものとなります。
東の勢力(今川)と西の勢力(織田・松平)の、どちらにつくのかによって、おそらく、彼の人生は天と地ほど違ったはずです。
彼は、義元の首とともに「東向寺」に向かったのです。

後に、岡部氏一族は、元信のもとでまとまらず、もめて分裂していきますが、戦国時代ならではの、中堅武家の生き残りをかけた、厳しい一族分裂劇でした。
元信は、生涯、何かの迷いの中に居続けたのかもしれませんね。

岡部元信のことは、次回コラムで、あらためて書きます。


◇今川義元の胴体

さて、首は、西尾市の東向寺に埋葬されましたが、胴体はどこに…?

「桶狭間の戦い」直後に、一部の者により、今の愛知県豊川市にある「大聖寺(だいしょうじ)」に運ばれ、簡易埋葬されます。

もともとこの寺は、一色城(後に牛久保城)の敷地内につくられていたお寺のようです。

* * *

一色氏は鎌倉時代からの源氏の名門一族で、足利氏から派生した一族です。
その一族の領地は、京都、関東、九州、丹後など日本各地にあり、三河国も手に入れます。

西尾市の吉良荘の中の「一色」という場所にいた足利の者たちが、一色氏と名乗るようになります。
一色姓を名乗った武士には、やはり三河国の吉良氏の中にもいましたし、美濃国の土岐氏や斎藤義龍も一色姓を使いました。
名門家「一色」の姓は、誰もが欲しい姓ですね。

* * *

室町時代に、京都の足利将軍家と、鎌倉公方の足利家が戦い、鎌倉公方側が敗れ、鎌倉側についた一色一族の一部は、この三河の地に戻ります。
一色城はその頃につくられたともいわれているそうです。

「応仁の乱」の頃に、三河の一色氏は、下克上により、家臣の波多野氏に討たれ、その後、この波多野氏も、自身の家臣の牧野氏に討たれます。
愛知県の豊川あたりを支配地としていた牧野氏とは、今川氏と手を組み、三河国内で松平氏の宿敵として戦った武家の牧野氏のことです。

その後、室町幕府の足利将軍家の衰退とともに、日本各地の一色一族も没落していきます。
三河のこの地で、今は、この大聖寺だけが残され、一色城(牛久保城)の痕跡はなさそうです。

* * *

ちなみに、徳川家康のもと、江戸幕府内で絶大な権力を持つ二人の、僧であり政治家がいましたが、それが、南光坊天海(なんこうぼうてんかい)と、金地院崇伝(こんちいんすうでん)です。
この崇伝は一色一族の出身です。


◇吉良氏の西尾支配

室町時代の鎌倉公方失脚後に、足利将軍の継承権を持つ家は、足利将軍家、吉良家、渋川家、あえて加えれば石橋家のみとなります。
鎌倉公方の足利家、斯波家は実質的に没落し、権利を失います。
とはいえ、戦国時代ですから、武力があれば逆転可能の時代です。

かつて、西尾の吉良荘という場所に暮らした足利氏が、吉良氏となっていきました。
ですから、吉良氏も一色氏も、同じ三河国の足利氏から派生した一族で、すぐ近くに暮らしていた一族です。
そして、今川氏も、同じ西尾の地域に暮らす、吉良氏から派生した一族でした。

* * *

吉良氏からは、武勇の優れた武将が輩出されませんでしたが、昔から政治力抜群の一族です。
持前の政治力で、後に松平家康と組んで、徳川家をつくり出したのも、この吉良氏です。

この西尾周辺で一色氏の勢力がいなくなった後、この西尾の地域を支配したのが吉良氏です。

今川氏は、もともと吉良氏から派生した一族ですので、今川氏と吉良氏は深い関係性もあり、つかず離れず、バランスを保つ関係だったのかもしれません。
ただし、武力勢力という意味では、今川氏が圧倒しています。

* * *

織田氏と今川氏の両勢力が、両側から三河国に侵攻してくるようになると、武力を持たない三河勢は、どちらか強い側につかないと、三河国のかつての一色氏のように没落滅亡してしまいます。
吉良氏の一族は、三河国内の、織田、今川の勢力争いの状況に合わせるように、織田氏と今川氏の両派に分かれたり、今川方についたりしていました。
三河国内の有力武力勢力である松平勢や水野勢らとも、手を組んだり、戦ったりと、それは政治的にたいへんな一族でした。
吉良氏の政治力は、こうして培われていったのかもしれませんね。
ようするに、吉良氏は、源氏の名門武家として、絶対に滅亡しない戦略を常に優先させたものと思います。

一応、「桶狭間の戦い」の時点では、松平元康も、吉良氏も、今川義元の配下の立場でした。
この戦い後、やはり武力を持たないという点で、松平氏と吉良氏には大きな差がつきます。
吉良氏は、強い武力を持つ武家と縁続きになったり、手を組むという手法を、このあたりから本格的に行うようになるのかもしれませんね。
武力がなければ、政治力で生き残る…、これもある意味、戦国時代の戦い方のひとつですね。

* * *

今川義元は、桶狭間での織田氏との対決を前に、一族内に今川と織田の両派がいる吉良氏に中立の立場をとってほしいと伝えたようですが、すぐ近くの刈谷や岡崎周辺の有力な三河国勢である水野信元らの水野勢や、三河国の大勢力の松平元康が秘密裏に織田方につく以上、西尾の吉良氏も織田方についたか、織田方に抵抗しない姿勢をとった可能性もある気がします。
政治力の優れた吉良氏が、同じ三河国内の松平勢や水野勢の暗躍を把握できていなかったとは思えません。

前回までのコラムで書きましたが、織田軍が、今川義元を知立(ちりゅう)や沓掛(くつかけ)方面に誘導するにあたって、義元が岡崎城に到着してから、西尾あたりで起きた織田方の武力蜂起は、吉良氏が織田勢に何も手を出さなかったか、むしろ手助けしたことを意味しているように感じます。

義元が、西尾の武力蜂起を完全制圧し、進軍ルートを、桶狭間方面ではなく、刈谷などの南部から大高方面に向かうルートに変更できたとは思いますが、義元は、西尾や刈谷を攻撃せずに、桶狭間・沓掛方面に向かいます。
この時点で、義元が怪しい雰囲気を察知していれば、ここで進軍計画を考え直すか、三河国内の状況調査をしただろうと思います。

ようするに、「桶狭間の戦い」の時点で、西尾周辺・刈谷周辺・岡崎知立周辺・沓掛周辺の者たちは、織田方か、様子見の姿勢であったと思われます。
明確に今川方としての行動をとった者は、松平元康などの一部しかいなかったとも感じます。
実は、その元康も、今川方ではなかったということになります。


◇胴体は大聖寺に…

私の個人的な想像ですが、この義元の胴体も、やはり首と同じく、今川氏につながりの深い、西尾市の東向寺を目指したのではないだろうかと感じます。
ですが、東向寺としては、戦いの直後で、織田信長の許可なく、胴体を受け入れるわけにはいかなかったのではと感じます。

実は、西尾の吉良氏の一族内も、東条吉良氏と西条吉良氏という二つに分かれており、複雑な歴史をたどってきた一族です。
東条吉良氏がわりと松平氏寄り、西条吉良氏がわりと今川氏寄りであったように感じます。
武家一族がライバル関係のように分裂し、対立する中では、よく起こる現象ですね。

そして、東向寺は、はっきりとはわかりませんが、どうも松平氏寄りの東条吉良氏の側だったようです。

松平元康は、「桶狭間の戦い」の後の三河国制覇の中で、吉良氏を攻撃しますが、攻撃対象は西条吉良氏だったようです。
松平元康は、「桶狭間の戦い」の二年後に、元康から家康に名前を変えます。
義元からの「元」の文字を捨て去ります。
その後、1563年に、吉良氏は、家康の配下になります。

* * *

東向寺に胴体の埋葬を断られ、仕方なく、隣の豊川市の、同じ源氏の名門家の一色氏に関わりの深い名寺の「大聖寺」に向かったのではないだろうかという気がします。
埋葬の仕方にも、丁寧さを欠きますが、これも、織田信長を恐れて、あえてそうしたように感じなくもないです。
とはいえ、大聖寺のある豊川の地は、今川氏の配下の牧野氏の支配地ですので、問題なく受け入れてくれたのかもしれません。
牧野氏は、松平氏の宿敵の武家です。

この牧野氏は、やはり三河国制覇の家康に、1564年に屈服します。
この頃には、今川氏の影響力は、三河国からほぼ一掃されます。

元康(家康)の三河国制覇の話しは、またあらためて…。
大河ドラマ「麒麟がくる」では、おそらく描かれないと思います。


◇今川氏真の判断

結局、信長から、東向寺に首を埋葬する許可がおり、岡部元信が首を運んで埋葬したのではないだろうかと思います。
元信と信長のあいだで、どのような交渉が行われたのか、興味がわきますね。

信長側から、「どうだい元信、われわれの側に入らないか…」と誘わないはずはないと思うのですが…。

そして、この東向寺は、後に松平家康のもとで管理されることになったのではないかとも思います。
足利名門一族とはいえ、武力を持たない西尾の吉良氏が、しゃしゃり出るはずはないと思います。
「信長様、家康様の、おっしゃるとおりに…」。

三年後に、義元の息子の今川氏真(いまがわ うじざね)が、胴体が埋葬された大聖寺を訪れますが、この首と胴体の別々の、少し丁寧さに欠く埋葬の仕方に手を加えることは、もはやできなかったはずです。
三河国は、今川氏の完全な支配地ではありません。
氏真は、義元の三周忌を、東向寺ではなく、まだ影響力を残していた豊川の大聖寺で行いました。

* * *

後に、今川氏は、武力を完全に放棄し、政治や文化の道で、戦国の世を生き抜いていく決断をします。
おそらく抵抗した家臣も相当にいたと思います。
ただ、氏真のこの判断がなかったら、後の今川家の繁栄は、おそらくありませんね。

個人的に感じるのは、氏真は、今川家が、武田氏や北条氏と仮に手を組んで、織田信長に復讐に立ち上がっても、歯が立たないと思ったのかもしれません。
おそらくは、実際に戦ったとしても、そうであっただろうと思います。
だいたい、武田信玄が、すぐに織田勢と戦う行動に出るはずがありません。

氏真は、武田氏や北条氏の陰謀の巧みさも知っいたはずで、味方のふりをして、今川氏に攻撃を仕掛けてくるのは目に見えています。
父親の義元がいなくなり、今川軍内もバラバラの今、氏真が「弔い合戦」に向かうはずがありません。
むしろ、恥も外聞も捨て、意地も捨て、信長や家康にすり寄り、今川家生き残りの道を探るほうが、後々、お家の再起の機会が訪れるかもしれないと考えたかもしれません。

今川氏は、無事に戦国時代を生き残り、ずっと後に江戸にやって来ます。
東京都杉並区今川にある 観泉寺(かんせんじ・創建時は観音寺)には、氏真以下、代々の当主が眠っています。
氏真の正室は、相模国の北条氏康の娘で、子供たちは、吉良氏、一色氏、品川氏、上杉氏へとつながっていきます。

お隣の武田家と北条氏、それに上杉氏も、いずれ縮小・没落・滅亡していったことを思うと、今川氏の復活と繁栄は大したものです。

* * *

今川氏真は、父親の義元の生涯をみて、自身の人生と、今川家の将来の方向性を大きく変えたのは間違いありません。
ある意味、吉良氏が行ってきた「戦わない名門武家」の方向と、同じ方向に舵(かじ)をきります。
多くの名門武家が滅亡していった戦国時代でしたが、武力から脱却し滅亡を避けるという氏真の判断は、おそらく正しかったのではないかとも感じます。


◇もうひとつの大逆転劇

私は、この今川氏真の判断を考えるにつけ、戦国時代の有力名門武家の実質二代目にとって、これだけの判断は、そうそうできないだろうと感じます。
相当に聡明で、判断力、勇気のある人物だったのかもしれません。
まさに、武器を持たない戦国時代の戦いのようにも感じます。

普通なら、今川家は滅亡していたでしょう。
信長のお許しがおり、秀吉の時代を経て、氏真の今川家は、家康に助けてもらうことになります。
家康の存在がなかったら、武田氏、北条氏らと同じ運命をたどったと感じます。

義元の実子の氏真は、実子ではないが義元に育てられた家康に助けてもらうことになりました。
こんなことが起きるなんて…、義元は天国で、元康(家康)を、やっと許したのかもしれませんね。

* * *

今川家が武力を放棄してくれて、家康はホッとしたことでしょう。
家康は、生きているあいだに、養父だった今川義元を丁重に供養し、今川家を再興させることができ、うれしかったかもしれませんね。

今川氏真は、家康が死ぬ前年の1615年に亡くなります。
氏真は、家康に、どんな言葉をかけたのでしょうか…。
それは、恨み節ではないような気がします。
ひょっとしたら、恨みを越えた、厚い御礼だったのか…。

氏真は、周囲が予想した以上に、今川家を最大の危機から復権させ、しっかりした結果を今川家に残したのだと思います。
これも、戦国時代の大逆転劇のひとつなのかもしれませんね。


◇親と子の居場所

さて、義元は、「桶狭間の戦い」で、桶狭間の地に、息子の氏真を連れてきません。
氏真は、かなりの軍勢とともに駿河国の本境地である駿府(すんぷ・今の静岡市)に残してきました。
義元のこの判断だけは、正しかったですね。

後に、信長は、息子の信忠の滞在位置において、判断を誤ります。
家康は、親子の位置関係に十分に注意しながら、幕府運営に取り組みます。


◇今川の「今日」

今川義元の残した言葉は、彼の人生を暗示したようなものが少なくありません。
前回までのコラムで書きました、桶狭間の戦場での、「天魔」発言もそうでしたね。

彼のもっとも有名な言葉は、次のものかもしれません。
「昨日なし、明日またしらぬ人は、ただ、今日のうちこそ命なりけれ」。

この言葉は、解釈次第で、いろいろな意味にも考えられますね。
ただ、5月19日の義元最期の日を思い起こさせます。
彼は、5月20日に、自身の首と胴体が、別々の場所に運ばれるとは思いもしなかったでしょう。

自身の言葉を、もっとも受けとめなければいけなかったのは、自分自身だったのかもしれませんね。


◇首と胴体

死者の首と胴体を別々の場所に埋葬し供養するという風習は、江戸時代の幕末まで続いていましたね。

武士の場合、切腹などの死の場合は、切り離された首と胴体を一緒に葬ることが多いですが、大罪での死刑や、討ち死にした敵の大将級の死の場合は、別々に、別の場所に埋葬されることが多くありました。

もちろん政治的な意味で、同じ場所に葬れない場合もありますが、思想的、宗教的な意味あいも少なくありません。

* * *

日本史上、もっとも有名な武将の首塚は、平将門(たいらの まさかど)かもしれませんね。
討ち取られた将門の首は、京都の平安京に送られ、都大路でさらされた後、その首が、復讐のため、胴体を探し回り、故郷の東国まで空中を飛んでくるという、あのお話しです。

東京の大手町にある「将門の首塚」は、その数ある伝承の塚のひとつで、関東大震災後の工事の際に十数名、太平洋戦争後の工事でも死亡者が出たため移転を中止したのは有名なお話し…。
平安時代、かつて、この場所にあった神田明神が丁重に供養し、塚をつくりました。
神田明神は、奈良時代の天平年間に、出雲から関東にやって来た人々が、伊勢神宮の神様の田んぼの地につくったお社ですが、その後、現在の場所に移転しました。ですが、将門さまは、断固移転拒否。

「将門の首塚」に面したビル壁面の窓から塚を見下ろしてはいけない…、大手町本社から左遷された社員が帰還を願って「カエル(帰る)」の像を奉納すると本社に戻れる…など、今でも、将門に関する都市伝説が残っています。
特に映像関係者や舞台関係者、芸能関係者は、今でも、将門と成田山との関係の「しきたり」をしっかり守っています。

* * *

日本史の中では、この平将門と菅原道真(すがわらの みちざね)の怨念の話しは、特に有名ですね。

九州の太宰府で、不倶戴天(ふぐたいてん)のまま死去した道真の怨霊が、京都の平安京に雷の雨を降らせる、あのお話しです。
道真のかつての領地「桑原(くわばら)」だけに落雷がなかったため、現代の今でも、雷の音が聞こえると、「くわばら、くわばら」とクチ走る方がいますね。

怨霊のすさまじさを、いつの時代の人々も、たいへんに恐れますね。

* * *

太古より、死者の首には霊魂が宿ると考えられていたため、怨念を抱いて死んでいった武将たちの首と胴体を別々の場所に葬ることはめずらしいことではありませんでした。

今川義元の場合も、普通の討ちとられ方ではなかったので、それに則したものだったのかもしれません。

信長の怨念はすぐに果たされましたが、義元の怨念は、さてどうなったでしょうか…。
信長が不本意な亡くなり方をした後、家康は内心、常に穏やかではなかったのかもしれませんね…。


◇武将の選択

次回のコラムで、「桶狭間の戦い」後の、松平元康、水野信元、岡部元信らの行動について書くつもりでおりますが、例によって、戦国時代ならでは、複雑で激しい争いが繰りひろげられます。

前述しました岡部元信の岡部一族は、その後、分裂し、徳川家の配下でしっかり生き延びていく者もいますが、元信自身は、武田軍の武将として、ある戦いの中で、相手にその名を知られることなく、亡くなっていきます。

岡部元信は、「桶狭間の戦い」の後、信長や家康の配下として、生き残っていけるチャンスは十分にあったと思いますが、人生の戦略を間違えたのかもしれません。
あるいは、あえてその逆を選択した…?

前述の今川氏真と、その家臣の岡部元信の、判断はまさに真逆に見えてきます。
戦いを捨て、意地を捨て、生きることを選択した人間と、戦い続け、意地を通し、死を選んだ人間のようにも思えてきます。

「桶狭間の戦い」で、一応、今川軍武将として生き残った、この岡部元信、朝比奈泰朝、鵜殿長照、そして瀬名氏俊も、あまり武将らしい良い最期ではなかったように感じます。
信長や元康が、この後、まさかあんな人生を送るなど、確かに、この時点で想像だにできません。
でも、こんな奇跡の勝利を起こす、信長の力量を、しっかり考えておくべきだったのかもしれません。

「戦い人」たちには、宿命、運命、人の道、怨念…、さまざまなものが、ありそうです。

桶狭間での戦闘の後の、武将たちの動向については、次回以降のコラムで…。


◇永遠の塚

首塚、胴体塚、戦人塚、桶狭間の七つ塚…、戦いが起こるたびに、戦死者を葬り供養するために、たくさんの「塚」が築かれます。

戦死者を埋葬した塚は、通常のお墓とは異なります。
天寿を全うした者たちでは、間違いなくありません。

塚は、宗教的にも深い意味を持っていますね。
塚に向かって、敵、味方に関わらず、戦に関係のない庶民も、その霊魂に畏敬の念を抱いて、手をあわせたりします。
何百年経っても、万灯会(まんどうえ)を行ったりもします。

生き残った者たちや、後世の者たちが、戦死者のことを思い、偲び、手を合わせる…、これは、どんなに科学が発達し、思想が変わろうと、社会システムが変わろうと、国が変わろうと、変わることのない人間の行為なのであろうと感じます。

* * *

今、日本では、新型コロナでの死亡者数が千人を越えました。
二千を越える人数になるかもしれません。
もはや大災害級です。
いつか、慰霊のための大きな塚などがつくられるのかもしれません。

社会や経済の復活、補償、希望も、もちろん大切ですが、コロナ患者や医療従事者など、多くの犠牲者たちのことも、決して忘れないでいたいと思います。

道なかばで亡くなっていった「戦い人」たちに、思いを寄せて…。

* * *

コラム「麒麟(34)桶狭間は人間の狭間(16)」につづく。

△塩△

2020.8.23 天乃みそ汁
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