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麒麟(34)桶狭間は人間の狭間(16)
「狭間に生きる」

【概要】NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。岡部元信・朝比奈泰朝・朝比奈親徳・瀬名氏俊・鵜殿長照の人生の狭間。名古屋市・岡崎市・豊橋市・豊川市・蒲郡市。


前回コラム「麒麟(33)桶狭間は人間の狭間(15)戦い人」では、桶狭間古戦場、戦人塚、義元の首と胴体、岡部元信の選択、今川氏真の大逆転劇、吉良氏と一色氏、東向寺と大聖寺、平将門と将門塚などについて書きました。

今回のコラムは、「桶狭間の戦い」の後、一応、今川軍側で生き残った武将たちの、その後の人生のことを書きたいと思います。

下記マップの、鳴海城にいた岡部元信、大高城にいた鵜殿長照、織田軍の砦を攻撃した朝比奈泰朝、マップの「C」の桶狭間にいた瀬名氏俊と朝比奈親徳のことを書きます。



◇岡部元信

事前に織田方に寝返っていた者たちにとっては、ある程度、織田方の勝利は予測していたのでしょうが、時は戦国時代です。
事前に寝返っていた…、あるいは、結果的に味方した…、とはいっても、安心できるようなものではまったくありません。
とにかく、安全な場所にすぐに移動しなければ、義元の次は自分だと感じたと思います。

織田軍の兵力に余力が残っていて、信長が、その気になれば、松平元康や水野信元でさえ、まとめて倒してしまうことも、できないことではないとも感じます。

ただ、それは信長にとって、 次の美濃国の斎藤義龍との戦いを前に、さまざまなリスクを負うことになりますので、そこまで無理をするとは思えません。
とはいえ、松平元康や水野信元、それに大高城周辺にいた鵜殿長照と朝比奈泰朝、鳴海城の岡部元信らの武将たちは、恐怖心でいっぱいだったのではないでしょうか。

* * *

前回までのコラムで、松平元康はもちろん、朝比奈泰朝、瀬名氏俊、岡部元信も織田方に寝返っていた可能性があると書いてきました。
特に、鳴海城の岡部元信(おかべ もとのぶ)は、織田軍のチカラからしたら、「桶狭間の戦い」の直後に、完全に落城・討死させることは難しくなかったと思います。

鳴海城に立てこもった元信は、織田軍と小競り合いを続けますが、おそらく秘密裏の交渉を続けたはずです。


〔鳴海城と首の交換〕

元信は、鳴海城を信長に引き渡すことを条件に、清洲にあった義元の首を受け取り、前回コラムで書きました、三河国の西尾の東向寺に向かうのです。
個人的に感じるのは、何かでき過ぎている…。

元信にとっては、今川軍の大敗北の中の、ほぼ唯一の「大手柄」です。
周囲の者が普通に考えたら、信長と元信が、手を組んで大芝居をうって、駿河に首をもって戻ってくると感じてしまいます。
信長が、こんな「大手柄」を、元信に、ただであげるはずがないと、誰もが感じると思います。

鳴海城が手に入るのなら、義元の首などくれてやれ…、私はそんな単純な話しではないと思っています。
あの信長が、意味もなく、そんな気前のいい行動はしないと思います。

今川家には、息子の今川氏真と、まだまだ大きな兵力が、駿河国の駿府に残されています。
元信の帰還と、この義元の首には、何か意味があり、ワナがある…、そう考えるのが普通であろうと感じます。


〔刈谷城攻撃〕

岡部元信は、三河国の西尾の東向寺にたどり着く前に、刈谷城をたった数百の手勢で攻撃します。

刈谷城主は水野信近で、彼は水野忠政の三男で、水野信元の弟です。
忠政の長男はすでに亡くなっており、次男の水野信元が緒川城、三男の水野信近が刈谷城を与えられていました。
信元は織田方ですが、どうも信近は義元に近かったようです。

岡部元信が刈谷城を攻撃する時に、水野信元は緒川城にはいません。
たった数百名で、城を落とすことなど可能でしょうか…。
そこは、水野一族の支配の中心地です。

もし、信近が今川方であったなら、なおさら、どうして岡部元信が攻撃するのか…?
もし、信近が今川方から織田方に寝返ったことへの復讐や、元信が何かの「お手柄」を手にしたかったとしても、戦い直後のこんな危険な状況で、それも義元の首をたずさえて、城を攻撃するとは、到底 考えられません。
暗躍の臭いいっぱいです。

これには、信長や水野信元の何かの暗躍があったのではないかと想像します。

今川氏真は、この落城と首の一件で、岡部元信をすっかり信用します。
これは、信長、水野信元、岡部元信の陰謀に、氏真がまんまと引っかかったのかもしれません。

このような元信の行動が、後々、岡部一族の分裂につながっていきます。


〔岡部一族〕

実は、岡部一族とは、同族でもいろいろな家に分かれており、今川氏のもとでの家臣一族であった中から、武田軍に鞍替えしていく者も出てきます。
元信自身は、今川氏真の近くにいながらも、強力な武田信玄にすり寄っていく姿勢に転じます。

この岡部一族の中に、岡部政綱という武将がいるのですが、彼は、家康が幼少期に、人質として駿府にいた時に、遊び仲間として仲良くなり、その岡部家が家康の面倒をよくみていたようです。

政綱も、元信と同様に、今川氏の家臣でしたが、その後に、武田軍の配下になります。
武田軍の家臣として活躍しますが、家康と武田勝頼の高天神城の戦いで、家康が勝利し、政綱は家康の配下に入ります。
幼少期の家康と、この岡部家のよい関係性がなかったら、不可能だったかもしれません。

ある意味、岡部一族は、今川、武田、徳川というかたちに分散し、どこかが生き残れば、滅亡することはありませんでした。
こうして、岡部の血筋は徳川支配の世に残っていきます。

岡部政綱の息子が、「岡部の黒鬼」こと、あの岡部長盛です。
明智光秀につながりの深い、丹波亀山、丹波福知山、それに美濃の大垣などの街を大きくさせたのは長盛でしたね。


〔元信の選択〕

さて、岡部元信の話しに戻ります。

信長が、岡部元信が立てこもる鳴海城を総攻撃せずに、秘密裏に交渉し、鳴海城と義元の首の交換条件で、駿河に帰還させたこと…、その途中に、水野信近を討ち取り、刈谷城を落としたこと…、これらは、やはり何らかの陰謀と暗躍が絡んでいるものと感じます。
普通に考えれば、今川軍のこれほどの重臣を、むざむざ帰国させるとは思えません。

信長からしたら、今川義元を討ち取ったとはいえ、今川軍全体を叩きつぶしたわけではありません。
まだまだ今川氏とは争いが続くのです。

信長は、今後、岡部元信を上手に利用しようと考えたのかもしれません。
鳴海城が手に入るのは時間の問題…、どうせなら、もっと何かをプラスさせよう…、義元の首が利用できるのなら、これを使おう…、そう考えても不思議はないと感じます。

元信からしたら、織田につこうが、今川につこうが、まずは、この戦場からの脱出が最優先課題です。
信長と岡部元信、それに水野信元を加えて、何らかの交渉を行ったのは間違いないと思います。

陰謀屋の水野信元は、岡部元信に、こんなことを言ったかもしれませんね。
「元信さん…、わしが水野信元ですけど、無事に三河国を通らせてあげるから、刈谷城にいる弟の水野信近を討ち取っていってくれないかな~。兵の数が少ないのは知っているよ。こっそり支援するからさ~。首とお手柄を手にして、駿河に帰りたいんでしょ。岡部一族はこれであなたのものですよ」。

* * *

岡部元信の、今川家への忠誠心がどれほどのものだったかはわかりませんが、結果的に、元信は駿河国に戻ります。

結果的に、彼自身は、織田や徳川になびかず、武田になびきます。
この時に、織田や徳川になびくチャンスは十分にあったはずですが、結局、後に滅亡する武田家になびきます。

元信は、目先の利益、目先の出世だけを、手にしようとする武将だったのか…?
武田家の中にある不安要素を、もう少しつかんでいたら、何か別の生涯があったのかもしれませんね。


〔高天神城の戦い〕

彼は、徳川家康(信長との連合軍)と武田勝頼の戦いである「第二次・高天神城の戦い」で、高天神城に立てこもってから、亡くなります。
頼みの武田勝頼の支援は来ませんでした。
この状況…、何かに似ています…。
そうです。
鳴海城に立てこもり、今川義元の支援を待っていた時と、そっくりです。
よりによって、今回の敵は、その戦いの時に味方であった、家康です。

* * *

そして、武田軍の岡部元信が守る高天神城に、対抗する城の城主として、信長と家康の連合軍は、もはや武力を失い、名ばかりとなった今川氏真をなんとつけます。
元信からみたら、かつての主君の氏真です。

さらに、信長は、あたかも武田勝頼が高天神城を見捨てたように演出するのです。
高天神城の降伏など認めません。

この時期、「長篠の戦い」で完敗した武田勝頼は、信長と和睦交渉を行っており、この交渉決裂を恐れた勝頼が、自軍の高天神城の救援を思いとどまらせたとも考えられます。
もちろん、これは信長の戦略です。
信長の戦い方とは、こうしたものです。
「桶狭間の戦い」の陰謀とも似ています。

これで、武田勝頼の信用と能力が、武田家臣たちに認識され、彼の立場は失墜し、武田軍から離反者が続出していきます。
この複雑な因縁と、信長の戦略には、ほとほと驚きます。

この頃の家康は、まだ未熟さもあり、城攻めや、長い目での戦略に関して、信長から、かなり指導を受けています。
家康の陰謀能力は、信長には、まだまだまったく及びません。


〔信長の強引さ〕

徳川家康が、信長に命じられて、正室と息子を死に至らしたのは、この高天神城の戦いの2年前の1579年ですが、もはや家康は信長の家臣も同然になっています。

信長は、1560年の「桶狭間の戦い」以降、自信とチカラを、猛烈な勢いでつけていったのです。
信長の強引なチカラでのおさえ込みは、もはや、恐いもの知らずにも見えてきます。


〔元信の最期〕

岡部元信にとって、今回の高天神城での立てこもりは、「桶狭間の戦い」の時の鳴海城のようにはいきません。
覚悟を決めた元信が、軍団の先頭に立ち、敵に突っ込みました。
「あの時の信長も、こうだったのだろうか」…元信は、そう思ったのかどうか。

家康軍は、軍団の先頭が元信とは知らず、討ち取ります。
後で、その老兵が、元信自身であると知り、徳川軍は驚いたようです。

元信は、名乗ったが、高齢のため声が弱く、敵に届かなかったのか…。
あるいは、桶狭間を思い出し、あえて名乗らなかったのか…、私には わかりません。
彼が最期の場所と決意していたのは、間違いありませんでした。

* * *

家康は、この元信の首を、安土城にいる織田信長に、わざわざ届けます。
きっと、こう「文(ふみ)」をつけたことでしょう。
「桶狭間のあの時の、岡部元信の首です」。
信長は、何を思ったでしょうね…。

* * *

これは、なんと、「本能寺の変」の前年のお話しです。

1581年3月、高天神城陥落、岡部元信 討死。武田勝頼の信用失墜。
これ以降、信長は、武田との争いを一時中断し、上杉軍との戦いの準備を開始します。
京都の朝廷は、チカラを増してきた信長に手を焼きはじめ、信長は高野山とも戦い始めます。

1582年2月、武田軍から穴山梅雪・木曽義昌が離反。
信長が飛騨側から、家康が駿河から、織田配下となっていた北条氏が関東から甲斐国を攻撃開始。

1582年3月、「天目山の戦い」で、武田家滅亡。
1582年4月、恵林寺の焼き討ち。
1582年6月、「本能寺の変」。

猛烈なスピードで、大事件が続いていきましたね。
この大事件の流れ…「信長のチカラ…そろそろヤバいぜ!」と誰もが感じたと思います。

* * *

70歳を超えた岡部元信が、戦いの第一線から早くに離れ、もしこの歴史を生きて見ていたなら、何と言ったでしょうね…。

現代の今、日本の中枢の政治家が、このような人生を送る姿を、私たちが見ることはありませんので、何か、感覚がよくわかりません。
一瞬にして、政治の権力者や有力者が、社会から消えるとは、どのような感覚なのでしょう…?

これを書きながら、今、安倍首相の辞任会見を見ていますが、これも、たしかに突然の「消え去り」です。

* * *

元信の宿命といえば、それまでですが、彼には、運命を切り開くチャンスが、目の前を幾度か通っていった気がします。
運命の「籠城(ろうじょう)」に始まり、まさか「籠城」に終わるとは…。
戦国時代の武将たちの宿命と運命…、ほんとうに数奇です。

先ほど、同族の岡部政綱が、家康のもと、元信とは別の岡部家が出世していくことを書きましたが、チャンスとは、どこに転がっているのかわかりませんね。
「ひょっとして、これって長い目でみると大きなチャンスなのかも」…、結構、後から感じる人のほうが多いのかもしれませんね。

元信くらい高齢になってしまうと、もはやチャンスもへったくりもなかったでしょうが、最期の場所が「高天神城」であったことは、ある意味、桶狭間の戦場に劣るものではなかった気がします。

元信の人生は、壮絶な籠城を含め、最後まで戦い続けた人生でした。


◇朝比奈泰朝

朝比奈泰朝(あさひなやすとも)と朝比奈親徳(あさひな ちかのり)も無事に帰国した武将たちです。
この二人は、近親の者たちではありませんが、前述の岡部元信も含め、古く先祖をたどると、鎌倉御家人の三浦氏から派生した、同じ朝比奈系の一族です。

個人的には、この「桶狭間の戦い」の時に、どうもこの一派は怪しいと感じています。
激戦に巻き込まれることなく、無事に帰国することから、三人とも何かを知っていたようにも感じます。
明確に信長に寝返らなくとも、生存の道を選んだ可能性は高いと思っています。

* * *

朝比奈泰朝は、帰国後、義元の息子の今川氏真(いまがわ うじざね)を助ける行動をとり、武田信玄からの攻撃でも、多くの今川家家臣たちが武田や徳川になびく中、氏真をささえ続けます。
その中で、遠江国の井伊氏を滅亡させようとする行動もとります。

氏真は相模国の北条氏を頼り、泰朝も同行します。
その後、氏真は、武力を放棄し、徳川氏や織田氏を頼り、家康のもとに行きますが、泰朝は同行しません。

自身の希望で同行しなかったのか、氏真のために同行を断念したのか、わかりません。
ただ、ここまで氏真をすぐ近くで支えていたことを考えると、氏真の判断を尊重し、氏真の生存のため、あえて身を引いたようにも感じます。

この後の泰朝の人生は、よくわかっていません。
これだけの武将にも関わらず、最期がどのような状況で、どの場所かも、わかりません。
歴史から、す~っと消えます。

滅亡寸前まで追いやられた井伊氏の者たち…、特に井伊直虎や井伊直政は、朝比奈泰朝のことをどのように思っていたのでしょうね…。

* * *

今思うと、こんな武将の泰朝を、義元は、自身がいる桶狭間から離れた大高城に向かわせてしまったのです。
信長からしたら、「泰朝は、絶対に義元から切り離せ」であったでしょうね。
これも、義元の運命の分かれ道だったのかもしれません。


◇朝比奈親徳

大河ドラマ「麒麟がくる」では、朝比奈親徳(あさひな ちかのり)は、義元の最期を見届けていましたが、実際には、この現場にいなかったともいわれています。

親徳は、雪斎とともに、今川氏の戦略や軍団を支えた人物ともいわれており、陰謀暗躍もお手のものだったかもしれません。
親徳は、松平元康の後見人でもあり、元康とは相当に近い間柄です。
…何か臭いますね。

親徳ほどの武将が、桶狭間の怪しさに、本当に気がつかないということがあるでしょうか…。

親徳は、早々に桶狭間の戦場を離脱しており、無事に帰国します。
彼は、「桶狭間の戦い」の6年後には亡くなってしまいますが、子孫たちは、武田家と徳川家の両方にしっかり分かれ、一族は続いていきます。

* * *

親徳は、義元や氏真に対する思いが、前述の朝比奈泰朝とはまったく違うものであっただろうとは思います。
朝比奈家が、今川家と運命をともにするような意識は、さらさらなかったでしょうね…。

でもこれも、戦国時代の、しっかりとした武家の生き残り方の思想でした。


◇瀬名氏俊

前回までのコラムでも書いてきましたが、この戦いの勝敗のキーを握っていたのは、この瀬名氏俊(せな うじとし)であっただろうと私は感じています。
彼の行動がなければ、この桶狭間という場所での激戦は行われていなかったのではとも感じます。

* * *

瀬名という名前は、今の静岡市内の瀬名という地名が由来だともいわれています。
今川氏から派生した一族のようで、今川氏を古くから支えていたようです。

ですが、瀬名氏俊は、義元から再三、疑念を持たれていたようで、領地を没収されたこともあります。
そんな人物が、なぜ、今川軍の先鋒隊を務めていたのか、大いに疑問です。

* * *

前述した朝比奈親徳の朝比奈氏や、瀬名氏は、今川配下の中でも、敵と内応しやすい者たちであったのは確かです。
武田、北条、松平…、内応はさまざまです。
ですが、戦国時代ですから、一族の生き残りがかかっており、仕方ありません。

この戦いの後、瀬名氏俊の人生は、実はわかっていません。
誰かが、知り過ぎている氏俊を、消したのか…?
それとも、瀬名一族を名誉ある一族とするために、氏俊自身の判断で、どこかに身を隠したのか…。

後に、瀬名の一族は、徳川家の家臣となり、しっかり出生していきます。
後世の瀬名一族の者たちからしたら、「桶狭間で貢献した氏俊さんのおかげ…」だったのかもしれませんね。

あくまで私の個人的な意見ですが、織田軍の簗田政綱(やなだ まさつな)が「一番手柄」なら、この氏俊は「二番手柄」にも匹敵するものかと感じます。
ちょっと言いすぎ…?


◇鵜殿長照

大高城主であった鵜殿長照(うどの ながてる)の鵜殿氏は、もともと紀伊鵜殿村から三河国にやって来た、藤原氏の流れをくむ名家であったようです。
紀伊鵜殿村とは、今の三重県紀宝町のあたりです。

三河国の、今の愛知県の豊橋市、豊川市、蒲郡市あたりの一部が、その支配域でした。
地図を見て頂けると一目瞭然ですが、今川義元が駿河から尾張方面に進軍する場合に、三河国のこの地域(豊川・豊橋・蒲郡・岡崎)あたりが非常に重要な地域となります。

今川氏の三河国への侵攻という意味でも、この地域の武将たちをおさえることが、その支配力を決定づけるといっていいと思います。
この地域を支配したのが、有力武将の松平氏と鵜殿氏です。
もともと両氏はライバル関係ですが、この両氏は、今川義元の配下になります。

鵜殿氏は、今川家と姻戚関係を深め、義元の家臣として、かなり大きなチカラを持つようになっていました。

このような背景があり、今回の今川軍の先陣と、最前線の大高城に、この両氏がいたということになります。

個人的に、義元が「桶狭間の戦い」の時に、この両氏を一か所に集めたことは、大きな誤りであったと感じます。
織田方の陰謀と考えれば、当然の戦略ですが…。

* * *

前回までのコラムで書いてきましたとおり、大高城周辺にいた今川軍の武将たちは、もちろん桶狭間での最終激戦に参加していませんので、無傷で帰国します。
私の勝手な想像ですが、大高城に入った松平元康は、城主の鵜殿長照から、無理矢理、その地位を奪って、大高城全体を支配したのではないかとも感じています。
あるいは、鵜殿長照は、その軍事力から元康に、あえてその地位をゆずったのかもしれません。

義元討死の報が大高城にもたらされると、真っ先に帰国の途に入ったのは鵜殿長照です。
この逃げ足の早さ…。

個人的には、信長の陰謀の中に、この鵜殿長照は、ひょっとしたら入っていなかったかもしれないとも感じます。
これが、松平元康や水野信元の意向なのかどうかはわかりません。


〔長照の最期〕

鵜殿長照は、どうも外の鵜殿一族とは、上手くいっていなかったようです。
義元の死で、猛烈に今川家の支配力が低下していく中、鵜殿氏の一部は後に、今川氏の配下から、武力で三河国制覇を始める松平元康の配下となっていきます。
ですが、長照は今川氏の配下にとどまります。
これは、この当時に多くの中堅武家が意図的に行った、強い武力勢力の両側に一族を分ける、両天秤戦略とは違うもののように感じます。

「桶狭間の戦い」の2年後の1562年に、今川方に残った鵜殿長照は、松平元康(家康)の攻撃で、討ち死にします。


〔人質交換〕

家康は、この攻撃の際に、長照の息子の、氏長と氏次を生け捕りにします。
家康と長照の、最後の取引きであったのかもしれません。

家康は、この二人を使って、今川家に人質となっている、家康の正室の瀬名と、嫡男の松平信康、娘の亀姫を、今川氏から人質交換として取り戻します。

この計画が、本当に家康自身がつくったものなのでしょうか…。

もし、「桶狭間の戦い」の陰謀の中に、すでに計画化されていたものであれば、これは信長から家康に伝授された陰謀計画だったのかもしれません。
そうであれば、桶狭間の陰謀の中に、鵜殿長照が入っていないほうが、都合がいいと思います。
はじめから、元康(家康)は、長照をそのようなことに利用するつもりであったのだろうとも感じます。

家康は、人質交換に利用した鵜殿氏長と氏次を、後に自身の家臣とします。
これで、鵜殿一族は、松平氏の完全な配下となり、コントロール下に置かれます。

家康が仕組んだ計画なのか、信長から伝授された計画なのか、わかりませんが、これも見事な陰謀でした。

* * *

これは、かつて家康自身が巻き込まれた、今川氏か織田氏の人質利用の陰謀ともよく似ています。
この時は、三河国の水野氏も絡んでいたでしょうが…。

家康は、結果的に、見事にやり返したのかもしれませんね。

ともあれ、「桶狭間の戦い」の、わずか2年後に、鵜殿長照も最期をむかえました。
ですが、息子たちを、しっかり生き延びさせることができました。


〔鵜殿坂〕

実は、長照の最後の城は「上ノ郷城」なのですが、ある伝説も残っています。
上ノ郷城を脱出した長照は、逃亡中に安楽寺(蒲郡市)の近くの坂で、松平氏の追っ手と戦闘になり、長照はこの坂で転倒し、そこを討ち取られたという内容です。
その坂が「鵜殿坂」と呼ばれ、この坂で転倒することは非常に不吉だとも言われているそうです。

もし、これが本当だとしたら、「桶狭間の戦い」の時は、真っ先に見事に逃げきった長照でしたが、今回は家康から、逃げきれなかったということになります。
もし、逃げ延びていたら、後に、息子たちも含め、この鵜殿家の運命は相当に変わったと思います。
ひょっとしたら、むしろ一家滅亡もあったかもしれません。

この坂での長照の転倒は、鵜殿一族にとっては、むしろよかったのか…?
ここにも、鵜殿一族内の何かの陰謀が、隠されているのかもしれませんね。


◇狭間に生きる

「狭間(はざま)」という場所にも、「坂」がつきものですね。
それでなくても、窮屈で、光も入りにくいのに、そこに坂があったら、なおさら難所です。

人生においても、成功と挫折のあいだに狭間があり、容易と困難、幸福と不幸の「狭間」もあります。

人は、狭間に置かれた時、どのような思想を持ち、どのような行動をとったらいいのか…。
戦国時代の武将であれば、それは生死や一族の滅亡に直結します。

* * *

「桶狭間の戦い」で生き残った今川軍の、岡部元信、朝比奈泰朝、朝比奈親徳、瀬名氏俊、鵜殿長照も、数奇な人生をたどりました。
彼らは、この戦いの後、何かの「狭間」から、しっかり脱出することができたのでしょうか…。

「狭間」から脱出できない者は、ずっと狭間の中で生きていかなければならないのかもしれませんね…。

* * *

次回のコラムは、ある意味、戦国時代の大きな狭間を脱出し、まさに最大で最後の「勝ち組」となった三河国の松平元康(家康)と、水野信元が、「桶狭間の戦い」の後に、どのような行動をとったのかを書いてみたいと思います。

コラム「麒麟(35)桶狭間は人間の狭間(17)」につづく。


2020.8.29 天乃みそ汁
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