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麒麟(35)桶狭間は人間の狭間(17)
「狭間からの脱却」

【概要】NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。松平元康の決断。信長の陰謀。厭離穢土 欣求浄土。刈谷城の陰謀。清洲同盟。水野信元と石川数正。大樹寺。


前回コラム「麒麟(34)桶狭間は人間の狭間(16)狭間に生きる」では、「桶狭間の戦い」から生きて帰還した今川軍の武将たちである岡部元信・朝比奈泰朝・朝比奈親徳・瀬名氏俊・鵜殿長照の人生の狭間などについて書きました。

今回のコラムは、桶狭間の戦いに関連した「桶狭間は人間の狭間」の連載の最終回になります。
やはり、しっかり生き残った武将である、松平元康と水野信元のことを中心に書きたいと思います。


◇松平元康の決断

前回までのコラムでも書いてきましたが、この「桶狭間の戦い」の局面で、水野信元はもちろん織田方です。
ですが、1560年5月19日の時点で、松平元康(家康)を今川方と呼ぶのは適当ではないかもしれません。
あえていえば、「織田方に味方した」です。
と言うよりも、松平元康独自の立ち位置ともいえるかもしれません。

もともと、元康以前の松平氏は、時に織田方、時に今川方ではありましたが、三河国内では確固たる松平一族として君臨し、常に両者と戦ってきた一族です。
織田と今川のどちらかに、完全に服従することなく、バランスをとりながら、独自の立ち位置をしっかりと維持してきた武家一族です。
松平氏をしっかり支える三河勢もたくさんいました。

三河国には、水野氏一族のように、松平氏にも劣らない、有力な一族もいます。
「がっぷりよつ」ともいえるようなライバル関係がそこにありましたね。
三河国には、他にも地域ごとに、小さくとも有力な一族もいました。

* * *

以前のコラムでも書きましたが、尾張国も含め、尾張・三河のこの地域は、織田・松平・水野という三つの有力勢力があり、その東側に今川の大勢力がいたという構図です。

今川氏が、三河国に侵攻し、さらに尾張国にも侵攻しようというのが、「桶狭間の戦い」の時の情勢でした。
今川氏は、松平氏など多くの三河勢から人質をとり、一見、配下に置いたかのように見えますが、この地域の戦乱の歴史からみたら、一瞬の出来事です。
今川氏が三河国を完全に支配下に置いたかのように見えて、実はまったくそうではなかったということです。

今川氏からみたら、織田勢、松平勢、水野勢とこれまで、それぞれに戦いをしてきました。
それぞれ個々に戦えば、それは圧倒的に優位な今川氏です。
織田・松平・水野は、微妙なバランス関係の中、手を組んでいなかっただけで、もし、この三者が手を組んで、同時に今川氏に立ち向かってくることを、義元は予測しなかったのでしょうか。

* * *

もともと三河国の中小勢力は、生き残りのため、強者側にすぐになびきますが、地理的、文化的なことを考えると、何か有事があれば、三河国勢が一致団結する環境がそろっているとも感じます。

「桶狭間の戦い」をよくよく見ると、「織田 vs. 今川」ではなく、「尾張国・三河国 vs. 駿河国・遠江国」にも見えてきます。
ようするに、「織田・松平・水野 vs. 今川」です。

ちょっと言い換えると、「どっぷり濃厚味噌文化 vs. さっぱり魚介京風わさび文化」…。
個人的には、味覚文化とその地域の民族性にはつながりがあると感じています。
ジョークはこのくらいにして…。

* * *

「織田・松平・水野 vs. 今川」となったら、対等の戦いか、尾張・三河勢のほうが優位かもしれません。

今川勢は、英雄世代とその後継世代の狭間の状況であり、それに対し、尾張・三河勢は働き盛りをむかえる世代で、戦いも陰謀も経験豊富です。
尾張・三河勢の戦い続きの実戦向き勢力に対し、今川勢は学生の寄集めにも見えます。
大将の義元自身も、経験不足でしたね。
義元を失ったら、今川勢が総崩れになるのは目に見えていますね。

「桶狭間の戦い」のしばらく後、織田、徳川、北条、武田が、駿河国に怒涛の攻撃を始めますが、もはや持ちこたえられるはずはありませんね。
今川氏の家臣の武将たちは、周辺の武将の配下に、次々に寝返っていきます。

こうした歴史的な流れをつくったのは、間違いなく「桶狭間の戦い」での織田方の勝利です。
そして、松平元康の行動こそが、その大きなきっかけとなりました。

水野信元などの水野氏一族は、もともと戦略的に行動する武家ですので、早くから織田方に入ったのは不思議ではありませんが、元康が、結果的に織田方につく決断をしたことが、歴史を動かしたのは確かだと感じます。

ひょっとしたら、この判断がなかったら、後の江戸幕府もなかったかもしれません。
「天下分け目」の、第一段階は、この戦いだったのかもしれませんね。

* * *

北条氏の天下統一はなかったかもしれませんが、強力な武田信玄や上杉謙信での統一は、起きたかもしれません。
ですから、この段階で、今川氏の支配地の駿河国と遠江国を、元康が奪取できる確証はありませんが、少なくとも、今川氏が没落したら、三河国を自身の手で制圧できるチャンスは出てきます。
三河国勢が集結すれば、この段階の織田勢であれば対抗できる可能性も生まれてきます。

織田信長と今川義元の狭間で、窮屈な思いをしている中、何かの光明を元康は感じたかもしれませんね。

まずは、桶狭間で織田に味方することで、今川義元の排除に成功しました。

ですが、「桶狭間の戦い」の直後に、大高城あたりでのんびりしていて、信長に、もし裏切られて攻撃されたら、元も子もありません。
大急ぎで、三河国の岡崎城に戻らなければなりませんね。


◇水野信元の陰謀、実は信長…

ここで、水野信元という武将について、少し書きます。

前回までのコラムでも水野信元は、相当な回数で登場してきましたね。
陰謀・暗躍のスペシャリストです。

彼の水野家は、生き残り戦術に長けており、周辺の有力勢力に姻戚関係をつくったり、何かの同盟関係をつくったりと、自衛のための防衛策に余念がありません。
その網の目のようなパイプが、さまざまな陰謀や暗躍を成功に導きます。

* * *

江戸幕府の二代将軍の徳川秀忠には、土井利勝(どい としかつ)という側近中の側近、ある意味、土井政権ともいえるような権力者がいましたが、彼は、一応、水野信元の三男です。
実は家康の落胤(らくいん・隠し子)という噂もあります。
彼は土井家の養子になり、徳川家を支えます。

彼は、家康の死後、幕府の実質的な最高権力者であった本多正純を失脚させ、自身がその地位につきました。
なるほど、信元ゆずりの陰謀屋です。
江戸幕府の徳川政権は、裏では水野政権といっていいほどの、水野氏一族のチカラで占められることになりますね。

さて、信元の話しに戻ります。

* * *

元康(家康)の生母の「於大(おだい)」の兄が、この水野信元です。

水野信元が、織田信長につくことを表明した、すぐ後に、元康の父の広忠と、この生母の「於大(おだい)」を離縁させ、自身の刈谷城に「於大」を引き取ったのも、彼の陰謀だと思われます。
松平広忠は今川方ですので、広忠の息子の元康から見たら、母親を織田方に人質にとられたようなものですね。
この離縁は1544年です、

広忠は、追いやれた地から、今川氏の武力の助けにより、この三河国に戻ることができたこともあり、もはや今川氏に頭が上がりません。
広忠は、この後、1549年、不明の暗殺となります。
大河ドラマ「麒麟がくる」では、暗殺したのは織田信長となっていました。

これも、誰が広忠を暗殺したかは、よくわかっていません。
織田、今川、また水野などの三河勢であっても、何の不思議もない気がします。

後に、広忠の正室の於大(おだい)や、息子の元康が、信長と手を組むことを考えると、信長が広忠暗殺の指示者というのも何か妙な気もします。
元康が、父親を暗殺した者が誰だと思っていたのかは、よくわかりませんが、おそらくは知っていたとも感じます。

1540年代後半のこの一連の流れが、この10年あまり後の「桶狭間の戦い」のために練られた陰謀と考えるには、少し早すぎる気もします。
ただ、元康の生母を手の内にしておくことは、確実に松平氏に圧力をかけられるので、信長が、それを考えていても不思議はない気がします。
漠然とした考えだったのかもしれませんが、いずれ来る、織田氏と今川氏の戦いに備え、元康の生母という駒を手の内にしようとしたのかもしれません。
おそらく、生母の於大(おだい)も、しっかり理解していたと思います。

こうした流れと、後の今川氏と織田氏の攻防を考えれば、この一連の松平家の出来事は、水野信元だけによる陰謀というよりも、信長との共謀と考えたほうがいいのかもしれません。
信長が、水野信元を上手く操縦していたのかもしれませんね。

* * *

その後、1576年、信長は、この水野信元を、元康(家康)を使って殺害します。

信長のすさまじい「陰謀暗躍力」は、歴史のさまざまな場面でみられますが、この暗殺も実はよくわかっていません。
後で、少し書きます。

「桶狭間の戦い」はもちろんですが、信長の勝利には、壮大で謎の多い陰謀暗躍がつきものですね。
信長には、そこにさらに、武力と作戦が加わるのです。

* * *

さて1560年の「桶狭間の戦い」の信長の一連の陰謀暗躍に、松平元康を引きずり込んだのは、水野信元の活躍も相当に大きいものがあっただろうと思われます。
元康の生母は、重要な交渉道具です。
だから、すぐに離縁させ、生母を水野信元のもとに戻したのだろうと思います。

もちろん、元康が織田方についたのは、生母の存在だけでなく、多くの三河国勢の今川氏への不満があります。
昔から続く今川氏からの強引な圧力を排除し、あわよくば、駿河国や遠江国を自身で奪取できる…、さらに、信長が三河国制覇を許可し、手を出さないとなれば、この陰謀に乗らない手はないと思ったかもしれません。
おまけに生母を取り戻し、今川氏に人質となっている正室の瀬名や、息子や娘も取り戻せる計画も含んでいます。

ですが、あの信長が、そうそう簡単に、好きなように、三河国制覇を元康にさせるはずはありません。
その話も後で…。

* * *

ひょっとしたら、信長は、水野信元には内緒で、元康にこう言ったかもしれません。

「後々、三河国を支配するのは、水野ではなく、松平だとオレ(信長)は考えている…。
どうだ、味方しないか。
まずは、水野信元とオレと手を組め。

お前(元康)は、今川に人質をとられていることもあるから、今川を裏切ったかたちにはしない。
桶狭間の激戦の時に、黙って遠くで見ていればいいだけだ。
しばらくは、戦いの後も、今川方のままでいろ。

お前の生母は、オレが守ってやる。
人質になっているお前の家族の奪還には、大高城の鵜殿長照を使えばいい。鵜殿一族は、いずれお前の配下になるようにする。
吉良など、どうにでもなる。
岡部元信はオレに任せろ。
北条も任せろ。

これで、今川はいなくなり、三河国はお前のものだ。
好きなように三河国を料理しろ。
オレは、桶狭間の後、美濃、近江、越前、伊勢を獲りに行く。
武田信玄、斎藤義龍など、そのうち死ぬ。三好もそのうち内部崩壊する。
義龍のいない美濃国など恐くはない。
問題は上杉謙信と将軍だ。

お前(元康)は、生母と家族と三河国を手にするのだ。
どうだ、オレと手を組まぬか」。

* * *

もし、このような誘いがあったら、心が動きますね。
ただ、その中に、松平氏を滅亡させる陰謀があるのか…、ないのか…?

元康からしたら、少し賭けの部分もあったでしょうが、今川支配からの脱却と三河国制覇は、松平氏の代々の悲願ですから、勝負に出たとも考えられます。
周囲の状況を見ながら、その場その場で考えていく余裕や時間は、すでになかったと思います。


◇この陰謀は成功する…

この陰謀が、どのあたりから始まったかはわかりませんが、私の個人的な思いでは、義元が駿府を出発するまでには、ある程度までの動きはあったものと感じます。

「桶狭間」での義元討ち取りに向かって、瀬名氏俊が連動した行動をとり、元康がすんなり大高城に入場できたことで、この計画は完全に予定通りに進んでいると、元康は確信したのではないでしょうか。

桶狭間のこの地で、水野信元も、計画通りに自分のすぐ近くにおり、朝比奈親徳も計画通り…。
元康自身は、ここで自分が計画通りの行動をとれば、この計画が完全に上手くいくと思ったかもしれません。

もし、一説にあるような、元康と生母「於大(おだい)」の約17年ぶりの再会が、この時点で実現していたなら、もはや決心しかなかったかもしれませんね。

この戦いの結果は、予定通りとなりました。

* * *

予定通りに義元が打ち取られたとの報は、水野信元から、元康にもたらされます。
大高城にいた鵜殿長照は、すでに逃亡していたかもしれません。

元康は、おそらく計画通りに、水野信元とともに三河国に向かいます。

この時に、そうはさせまいと、三河国の一部の勢力が松平勢の前に立ちふさがりますが、ここで水野氏が交渉し、元康を通し、無事に岡崎城に元康は戻ります。
何か、水野氏がつくった茶番劇にも感じます。おそらく、そうでしょう。


◇厭離穢土 欣求浄土

この元康の岡崎城への帰還には、ある言い伝えが残っています。

松平元康は、どこかの追っ手から逃れて、手勢18名とともに岡崎の「大樹寺(だいじゅじ)」に逃げ込んだというのです。
大樹寺は、岡崎城の近くです。

追いつめられた元康らは、先祖たちが眠るこの大樹寺で自刃して果てる決意を固め、それを住職の登誉天室(とうよ てんしつ)に伝えます。
しかし、登誉は「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」の教えを説き、思いとどめさせたというのです。

相当にざくっと、この言葉の意味を書きますと、次のようなことです。
「この世は、争いに満ちた汚れた世の中であり、そのような世から離れ、極楽浄土の平和な世の中になる(生きる)ことを願い求める」。
少し私の意訳でもありますが、このようなニュアンスだと思います。
ですが、この言葉だけでは、自刃を思いとどめさせるはずはありませんから、もし説法があったのなら、相当なことが付け加えられていたと思います。

この言葉は、むしろ、家康が今川氏のいち家臣から脱却し、新しい生き方を開始する…、新しくめざす方向を示した内容だとも思われます。
「桶狭間の戦い」直後では、少し早すぎる気もしますね。

こうして、この教えの言葉が、徳川軍の軍旗に記されるようになったというお話しです。
確かに、信長の「天下布武」、信玄の「風林火山」とは大きく意味あいが違います。
あえていえば、謙信の「毘」に通じるものが、あるかもしれません。

このエピソードは、前述の水野氏の茶番劇と符合しなくもありませんね。
戦国武家の馬印、旗印、家紋などには、必ずといっていいほど、感動的なエピソードがついていますね。
でも、「求心力」という意味では、とても大切なことです。

いずれにしても、岡崎城に無事に戻りました。


◇刈谷城の陰謀

桶狭間近くの、空っぽになった大高城には、水野元氏が入りますが、おそらくは同族の水野信元に近い者でしょう。

前回コラムで書きましたが、信長と水野信元は、鳴海城にいた今川軍の岡部元信に、駿河に帰国する途中で、信元の弟の信近(信元とは敵対関係)を討たせ、刈谷城を落城させたのかもしれません。
それが、岡部元信が無事に帰国できる条件だったのかもしれません。

水野信元は刈谷城を手に入れます。

ひとまず、松平元康は岡崎城に無事に帰還し、水野信元は、大高城、刈谷城を手に入れ、水野一族内の敵対勢力を排除し、松平元康にも恩を売り、刈谷城のすぐ近くの緒川城に戻ったということです。

水野信元からしたら、「岡部元信さん、お疲れさん…」と言ったところです。

このストーリーは、あくまで私の推論です。


◇三河国制覇と敗北

ひとまず、協力しあった、松平氏と水野氏の関係ですが、松平氏は一応、表向きにはまだ今川方のままです。

元康は、水野信元の仲介で、1562年、織田信長と「清洲同盟」を結びます。

元康は少しずつ、今川氏の配下という地位からの脱却をちらつかせはじめ、1563年に、名前から義元由来の「元」の文字を捨て「家康」にします。
完全に、今川氏とは決裂し、独自の路線で走りはじめる宣言ですね。

家康は、1566年、吉良氏と組んで、松平氏の中から、「徳川」姓を誕生させます。
家康はまだ22~3歳の、無鉄砲で派手好き、短気で頑固な若造です。
相当な知恵袋たちに囲まれていたのだろうと思います。

* * *

元康は、「桶狭間の戦い」の翌年である1561年には、足利将軍の室町幕府にすり寄り、東三河での一定の地位を認めてもらおうと画策しはじめます。
前回までのコラムで、豊橋・豊川・蒲郡あたりの牧野氏、西尾あたりの吉良氏を、武力で制圧するのも、この頃です。
その他にも、西郷氏、設楽氏、菅沼氏などが松平氏に取り込まれ、元康は、着々と、武力を増強し、支配地域を拡大させます。
水野一族の中からも、水野信元を離れ、家康の配下になっていく者が出てきます。

* * *

家康が、三河国をほぼ手中にするのは、1566年頃ですが、「桶狭間の戦い」から、わずか6年でここまできました。
家康に「陰謀暗躍力」も、かなりついてきましたね。
でも、信長の域には、まだまだです。

水野信元には子がおらず、1567年、かつての敵で刈谷城で死んだ弟の信近の息子の信政に家督をゆずり、刈谷と緒川に分かれていた水野一族をひとつに結集させます。

* * *

しばらく後、1572年に、家康は、「三方ヶ原の戦い」で、武田信玄に完膚なきまでに叩きつぶされます。
家康はやっとの思いで岡崎城に逃げ帰り、武田軍の岡崎城攻撃をしのぎます。
岡崎城を守ったのが、水野信元の知恵でした。

ここまで、調子よく三河国を平定し、実力をつけつつあった家康でしたが、この大敗で、その人生観が大きく変わることになります。
私生活も戦い方も、大きく変わっていきます。
派手好きでは、まったくなくなります。
そして、水野信元には頭が上がらなくなっていたのかもしれませんね。


◇水野信元を消せ

信長からみたら、同盟関係にあるとはいえ、一応、家康も、信元も、実質的には家臣です。
調子にのって成長してきた家康でしたが、この大敗を切り抜けて、どうも大武将の道に歩き始めるかもしれないと、信長は感じたかもしれません。
そして、家康と信元をいっしょにさせておくことは、よくないかもしれないと、信長は考えたかもしれませんね。
「知恵袋の水野信元は危険だ…」。

信長は、家臣の佐久間信盛から、水野信元が武田氏と内通しているという情報の報告を受けたというかたちで、水野信元と前述の跡継ぎの信政を、岡崎の大樹寺に呼び出し、暗殺してしまいます。
1576年の出来事です。

刈谷周辺の水野家はこれで滅び、その領地は佐久間信盛のものとなります。
おそらくは、信長の陰謀であって、佐久間信盛の陰謀のはずはありません。

家康にとっても、大恩がありながらも、水野信元の存在が、目ざわりになってきていたはずです。
信長と家康の同意のうちに、この陰謀が実行されたのかもしれません。

信長からしたら、家康のもとから、有能な知恵袋がひとり減りました。

ひょっとしたら、信長は、家康ではなく、別の一派と組んで、何らかの陰謀を巡らし、水野信元の一族を葬った可能性もあります。

これらのストーリーも、あくまで私の推論です。

信長は、次に家康を、徹底的におさえこみ始めようと画策し始めますので、三河国勢をコントロール下に置く強い意志を持っていたとも感じます。


◇石川数正への恨み

元康(家康)のもとには、石川数正(いしかわ かずまさ)という家臣がいました。
ある時期まで、家康の側近中の側近で、難題の解決に彼の手腕は欠かせませんでした。

家康の正室の瀬名や、息子の信康にも近い存在となります。
今川氏の駿府には、三河国勢の多くの武家の人質たちがおり、織田方に寝返った家族がみな処刑される中、岡崎城に勝手に戻り動かない元康の正室と子供たちにも危機が迫ります。

この時に、元康が、人質にしていた鵜殿長照の息子たちと、自身の人質家族の交換という交渉を進めたのが、この石川数正です。
鵜殿氏の息子たちのことは、前回コラムで書きました。
今川氏と鵜殿氏は、相当に近い姻戚関係でしたので、この交換が実現しました。

数正は、政治的な行動に長けており、前述の清洲同盟の際にも、水野信元とともに活躍した人物です。

* * *

石川数正は、前述の1576年の水野信元暗殺にも、かなり動いた可能性があり、家康の生母の「於大」をはじめ、滅亡した水野家や、信元を慕う者たちは、彼を相当に恨んだという話しが残っています。

後の1579年、やはり何かの陰謀で、家康は、正室の瀬名(築山殿)と息子の信康を殺すことになりますが、この陰謀に、この時の信元暗殺が絡んでいる可能性も考えられます。
信元の暗殺から3年後の出来事です。

瀬名は暗殺、信康は切腹ですが、表向きの理由は武田氏との内通ですが、信康の取り巻き連中と家康側の側近たちとの確執など、さまざまな理由がいわれています。

あまり注目されませんが、石川数正の権力の一極集中に打撃を与えるため、他の徳川家臣たちと、滅ぼされた水野一族、他の水野一族が結集し、何かの陰謀を張り巡らせたのかもしれません。
何しろ、陰謀の水野一族です。

ひょっとしたら、家康の正室の瀬名と、息子の信康の死は、水野信元と信政を暗殺され、刈谷の水野家を滅亡させられたことへの、水野一族の復讐が絡んでいるのかもしれません。
家康が、もはや水野一族をコントロールできないほど、大きなチカラを持っていたのかもしれません。
それに、家康の生母までが、水野一族側に入っていた可能性もあります。

徳川や松平を押し立てて、影の黒幕の地位を水野一族が狙っていた可能性もあります。
信長がそれを知って水野一族と組んで、家康の正室と息子を使って、家康に圧力をかけたのかもしれません。

信長は、滅亡した水野信元の一族とは別の水野一族を、しっかり再興させていますので、松平家と徳川家康を滅ぼし、水野一族を三河国の覇者にさせることも可能だった気もします。

* * *

家康が、信長からの正室と息子の殺害命令を拒否して対抗したら、松平一族の危機を招いた可能性も考えられますね。
義元の次は、家康であったとしても不思議はなかった気もします。

1562年に清洲同盟が成立していたとはいえ、もはや17年が経過しています。
とにかく、尾張・三河の地域は、織田、松平、水野の攻防戦の地です。

状況によっては、三河国内で松平家や徳川家康、側近の石川数正などを叩きつぶして、水野一族が三河国を支配できるほどのチカラを持っていたのかもしれませんね。
とはいえ、三河国勢は一致団結できるチカラを残しておかないと、信長には対抗できないのも事実だったとは思います。
三河国勢どうしの消耗戦は、結局、信長の意図通りの三河国自滅の方向に向かう気がします。

* * *

石川数正という人物は、ずっと後の1585年に、徳川家を裏切って、なんと豊臣秀吉に寝返ります。
これが寝返ったのか、徳川家の陰謀として豊臣家に潜入したのか、よくわかっていません。
彼は、江戸幕府の成立も、大坂の陣も見ることなく亡くなります。

個人的には、ひょっとしたら、そのどちらでもなく、徳川を中心とした三河勢の中で、相当に重要な地位を占めてる大勢力の水野勢や、酒井氏や本多氏などの重臣らの陰謀か、根深い復讐の圧力で、この数正は追いつめられ、徳川家を離れたのかもしれません。

何か身の危険を感じ、水野信元の時と同じような暗殺と一族の滅亡を恐れたのかもしれません。
受け入れてくれる先は、まず、一番安全な豊臣家しかありませんね。
徳川と豊臣から敵視されるような行動をとる武家など、いるはずがありません。
石川数正の向かう先は豊臣家しかなかったのだろうと思います。

何か水野信元の暗殺の陰謀と、この石川数正の出奔は、遠く離れた内容のようで、実は、状況や思想が似ているのかもしれませんね。


◇二番手が最強

水野一族は、徳川家康の配下に置かれますが、まさに影の黒幕的な役割として、武力というよりも、政治力で江戸幕府を、幕末まで中枢で支えることになります。
江戸時代に、やたらに水野姓の高位の武士が登場しますよね。
水野一族の多くは、明治維新後も、重要な地位に居続けます。
ナンバーワンでなかったからこそ、江戸幕府の終焉の危機も乗り越えたのかもしれませんね。

結局、最終的に勝ち残ったものは、織田でも、豊臣でも、徳川でもなく…、水野だったのか…?

たしかに軍団の二番手は、攻めにも守りにも転じやすい立ち位置にも感じます。
一番手の位置では、寝返りができませんし、逃げられません。

義元は、桶狭間で、二番手以下の多くに見放された…、まさに一番手のトップの悲劇ともいえるのかもしれませんね。

かつて、三越百貨店のトップが重役たちの突然のクーデターで失脚するときに叫びましたね。
「なぜだ!」
義元も、桶狭間で、そう叫んだのかもしれませんね。


◇信元と元信

水野信元が暗殺されたのが1576年です。
前回コラムで書きましたが、かつて何かの陰謀で、刈谷城の水野信近を討ち取った岡部元信が、高天神城で討ち死にしたのが1581年です。

岡部元信も、当然、水野信元の死の知らせを耳にしたでしょう。
今度は、元信から信元に、「お疲れさん…」。
名前まで反転しているとは…。


◇狭間からの脱出

いずれにしても、1560年の「桶狭間の戦い」の直後、松平元康への信長からの攻撃の危険性がまったくなかったとはいえません。
元康は、すぐにこの戦場を脱出し、無事に三河国の岡崎城に戻らなくてはいけません。

5月19日に義元が討ち取られ、水野信元の助力のもと、5月23日には元康は三河国の岡崎城に帰還したようです。

そこに、信長のさらなる策略はなく、元康は無事に帰還しました。
信長は、最初から、元康は三河国に無事に戻す計画だったと思います。
信長の次の敵は美濃国の斎藤氏ですから、その前に無理な戦いをするよりも、元康を生かして、今川氏や武田氏をけん制する意味でも、まだまだ使おうと考えていたと思います。
無理な戦いをすると、三河国を奪取するどころか、尾張国が危機にさらされる可能性もありますね。
まずは、松平元康が、武田氏や今川氏と手を組むことのないようにしなければいけませんね。

* * *

元康が生母と約17年ぶりに再会したのは、決戦の5月19日の直前の5月17日という説があります。
元康の大高城入城の直前ですから、可能性は十分にあります。

信長が、まさかこのタイミングで、元康に、生母という「最終兵器」を繰り出したとしたら、まさに絶妙な「スゴ技」です。

この戦いの後、元康は、生母と何度も、安心して交流を続けることになります。
水野家内部で争いが起きた際も、生母側につき、その後、生母の家族は松平の姓に組み入れられます。

元康のもとに生母が戻ったことは、後に三河国を彼が手中にしたことと同じくらいの価値があったのかもしれません。
これは、信長が元康に贈った大きなプレゼントであったのかもしれませんね。

* * *

私の個人的な思いでは、「桶狭間の戦い」の前から、おそらく信長と元康のあいだの約束の中で、元康の岡崎城への帰還と、元康親子のあり方、刈谷城落城まで、話しがついていたのではないかと想像しています。


◇清洲同盟

「桶狭間の戦い」の前に、信長が、元康と面会できるチャンスは作れなかったはずでしょうから、今回の両氏の連携は、仲介者が相当に重要な役割を果たしたはずです。

先ほど書きました、織田氏と松平氏による「清洲同盟」は1562年のことで、桶狭間の戦いの2年後です。
ここで、信長と元康(家康)は再会します。
約13年ぶりです。

二人の再会と「清洲同盟」成立には、信長の代理が水野信元、元康の代理が石川数正で、交渉を続けていきます。
相当な難交渉で、この二人の代理人の有能さが、この同盟を実現させたのは間違いありません。

* * *

元康は、自国を離れ、わざわざ尾張国の清洲城にやって来ます。
そして、信長、元康、そして水野信元を加えて、「今より水魚の思をなし、互に是を救ん事聊も偽り有べからず」と記した起請文を交わし、「牛」という文字を記した誓紙を三等分に分け、それぞれが、その誓紙を飲みほしたというエピソードが残っています。

元康親子の再会といい、この三者による誓紙の飲み干しといい、信長は、こういう感動的なセレモニーが好きでしたね。
信長と元康のあいだにあった「狭間」は、こうして埋まりました。

* * *

尾張国が、いつまでも三河国と戦っていたら、間違いなく天下統一など目指せなかったはずです。

今川・武田・北条の「三国同盟」と、水野氏も含めた、織田・松平・水野の「清洲同盟」は、決定的に意味あいが違っていたように感じます。
それぞれに不干渉であることと、それぞれが連携し助け合うのとでは、まったく意味が違いますね。

窮屈な「狭間」になんか、いつまでもとどまっていたら、未来は開けませんね。
古くからの因縁という「狭間」を脱却するという、信長と家康の強い執念が、そこにあった気がします。

実際に、信長は、尾張国から全国に歩み始めます。
家康も信元もついていくことになります。


◇桶狭間は人間の狭間

それぞれの人間のあいだには「狭間」があり、その狭間では、競争があり、戦いがあり、信頼があり、助け合いも起こります。

「桶狭間の戦い」も、まさに人間どうしの狭間の中で、さまざまな陰謀があり、暗躍があり、思惑があり、葛藤があり、戦いがありました。
桶狭間はまさに、地形を表現した土地というだけでなく、人間どうしの「狭間」という戦場そのものであったようにも感じます。

先ほど、家康の「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」の話しを書きました。
「厭離穢土(おんりえど)」とは、汚れた場所(この世の世界、現世)を避けて離れることを意味しています。
「穢土(えど)」は、人間と人間のあいだに生れる「妄念(もうねん)」がつまった、まさに「狭間」のような世界のことなのかもしれません。

「穢土(えど)」と「江戸」が、同じ読みなのは、偶然なのか、家康の何かの意図があったのか、わかりません。

人が、「狭間」を脱出、脱却することは、なかなかに難しいことですね。
「桶狭間の戦い」は、何かの時代と、何かの時代のあいだに生れた、何かの「狭間」だったのかもしれません。
信長自身にも、家康自身にも、それは、自身の人生の何かの狭間であり、彼らは、そこを見事に突破していったのかもしれませんね。

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麒麟シリーズの中の、「桶狭間は人間の狭間」の連載は、今回のコラムで終了いたします。

大河ドラマ「麒麟がくる」の放送がお休み中であったこともあり、当初は、「桶狭間の戦い」のことを数回分で書こうと思っていましたら、ついつい17回も書いてしまいました。

実は、読者の皆さまから、このような感じで、「関ヶ原の戦い」や「川中島の戦い」、「長篠の戦い」も書いてほしいというご希望を多数頂いております。
この「映像&史跡 fun」では、「関ヶ原の戦い」と「川中島の戦い」については、すでに、2回分ほどで、あくまで概要だけを書きましたが、詳しく書いたら、「桶狭間の戦い」よりも長くなるかもしれません。

私見や個人的な想像も多く入れながら、現代人の感覚で、もし機会がありましたら、それらの戦も書いてみたいと思います。
まずは、大河ドラマ「麒麟がくる」の放送が再開されましたので、それに合わせた内容に戻りたいと思います。

よろしければ、これからも読書のつもりで、どうぞ読んでみてください。

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コラム「麒麟(36)」につづく。


2020.9.4 天乃みそ汁
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