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塩の道は人の道(2)泥沼の虎

【概要】甲斐の虎・武田信玄。扇谷上杉氏と山内上杉氏。虎のいない国の虎。ドロドロ武田一族。定恵院と嶺松院。偉大な弟の武田信繁。お公家さんとモラルハザード。三条夫人と諏訪御料人。哀しき武田勝頼。穴山梅雪。大河ドラマ。山梨県甲府市・長野県諏訪市。


前回コラム「塩の道は人の道(1)神の化身」では、上杉謙信と越後国の概要などについて書きました。
今回から数回にわたり、武田信玄と甲斐国の概要、武田家と上杉家との関係を書いていきたいと思います。
「川中島の戦い」を読む前に知っておくと、おそらく、わかりやすいと思います。
両家の不思議な「縁(えにし)」についてもご紹介いたします。


◇武田信玄と上杉氏の関係

武田信玄の誕生は、室町時代 大永元年11月3日(西暦1521年12月1日)、甲斐国(山梨県)の今の甲府市です。
父は武田信虎(甲斐国の守護大名)で、信玄は信虎の次男です。
信玄の兄は7歳で夭折。
母は、大井夫人(甲斐源氏・信濃源氏の庶流である大井氏出身)です。

信玄の正室は、「上杉の方(正室・扇谷上杉氏の娘)」でしたが、出産時(?)に母子ともに死亡しています。

* * *

「扇谷上杉氏(おうぎがやつ うえすぎし)」とは、鎌倉時代に将軍とともに東日本にやって来た公家の藤原氏が武士化した上杉一族の中のひとつで、後に南関東一帯を支配する大武家となりました。
足利尊氏の母方の一族から始まる武家です。
「扇谷(おうぎがやつ)」とは、鎌倉市の「扇ヶ谷」の地名からきています。

江戸時代に滝沢馬琴が書いた大ヒット小説「南総里見八犬伝(なんそう さとみ はっけんでん)」の中で、悪役の「関東管領(かんとうかんれい / 鎌倉公方を補佐し、各地の武将を武力で取り締まる役職)」で描かれる「扇谷定正(上杉定正)」は有名ですね。
江戸城を築いた太田道灌(おおた どうかん)は、定正の家臣です。
扇谷定正は、実際の歴史では「関東管領」にはなっていません。

実際に「関東管領」を輩出するのは、関東各地や、上杉謙信のいた越後国を支配した「山内上杉氏(やまうち うえすぎし)」でした。
こちらは、鎌倉市の「山ノ内」の地名からきています。
こちらの「山内上杉氏」のほうが上杉宗家で、関東や越後、会津など広く勢力下においていきます。

この山内上杉氏と扇谷上杉氏が、上杉一族の両巨頭です。
上杉一族には、「○○上杉氏」が数えきれないほどあります。
やたらに枝の多い杉の大木ですね。

上杉宗家の山内上杉氏も、扇谷上杉氏も、公家の藤原氏から派生した武家ですが、山内上杉氏のほうが格上です。

* * *

以前の別のコラムシリーズで、藤原氏は、源氏や平氏とは別に、ある時から、武力ではない政治力の道を歩んだと書きましたが、藤原氏は源氏とも平氏とも上手に姻戚関係を結ぶことで権力を維持し、天皇家の周辺で、公家として朝廷を欲しいままにし、生き残っていきました。

武力勢力の源氏や平氏も、天皇のすぐ近くにいる政治力のある公家の藤原氏の家系の中に入っていこうとします。
生母が、公家の藤原家出身という武将はたくさんいます。

藤原氏系の戦国武将というのは、源氏系から比べれば非常に少数ですが、この上杉一族だけは別格です。

こんなに広い領地を支配している上杉の大一族ですから、内部抗争、戦争、裏切りは絶えません。
ここでは、そのお話しは割愛します。

一方、武田信玄の武田家は、由緒あるバリバリの甲斐源氏です。

同じ武家とはいっても、上杉氏にただよう優雅な雰囲気と、武田氏の勇壮な武家の雰囲気は、何か対照的に感じますね。

いずれにしても、武田信玄の正室は、扇谷上杉氏の娘だったのです。

* * *

ですが、その正室と子供は、早くに同時(出産時?)に亡くなり、京の公家から「継室(後妻)」として「三条夫人(さんじょうふじん)」がやってきます。
三条家は、藤原系の藤原北家の有力な公家です。
藤原一族は一族で、それは激しい内部の競争がありました。
すでに陰謀暗躍の臭いが、いっぱいですね。
武田家、扇谷上杉家、山内上杉家、京の公家の藤原系の三条家…、この正室と子供の死の時に、本当は何があったのでしょう…?

「山内上杉氏」こそ、第16代当主の上杉謙信(長尾家から上杉家に養子)を輩出する名家ですが、そのゴタゴタのお話しは、おいおい…。

* * *

有名な「第四次・川中島の戦い」(1561年)の時、信玄は満年齢で40歳。

死没は、室町時代 元亀4年4月12日(西暦1573年5月13日)、享年53歳(数え年)です。

使用した名に、太郎、勝千代、武田晴信、機山、徳栄軒信玄などがあります。
関連の名称では、「甲斐源氏」、「甲斐国・信濃国の守護」、「甲斐の虎」などがあります。


◇甲斐国は虎だらけ…

前回コラムで、上杉謙信の「越後の龍」と「越後の虎」のことを書きました。
信玄の場合は、「甲斐の虎」です。

個人的な印象ですが、「〇〇の虎」という呼び方は、さほどの意味を持っていない気がします。

信玄の名は、武田晴信で、父の名が信虎です。
甲斐国がひとつの強大な国になる過程で、この「虎」の文字を持つ「武田信虎」の存在は絶対的なものだったでしょう。
「甲斐の虎」という呼び方は、信玄というよりも、「甲斐国の支配者」をイメージさせます。

戦国時代の日本各地には、「虎」の文字を持つ武将が、数えきれないほどいました。
日本のどの地域でも、まさに「虎」とは、有力で強力な武将を象徴する動物として、最適な気がします。

* * *

多くの甲斐源氏の武将たちが乱立していた甲斐国でしたが、それを猛烈な武力で平定したのが、強力な武田信虎(信玄の父)でした。
後に家臣になる、大井氏、穴山氏、小山田氏、栗原氏らは、かつての猛烈な宿敵たちです。
古くから、裏切りも日常茶飯事です。

信玄の母方の大井氏とは、古代豪族の関西の「紀氏(きうじ)」の一族で、関東の品川氏、春日部氏、堤氏などと同じ一族の流れを組む名門です。
鎌倉時代には、源頼朝の有力家臣一族です。

甲斐源氏と耳にすると、すぐに武田氏をイメージしますね。
ですが、「甲斐源氏」とひとくちに言っても、それは武田家だけでは決してありません。

武田家は本家本流の嫡流ではありますが、小笠原氏、加賀美氏などの有力な甲斐源氏勢力や、前述のかつての宿敵たちも含めて、ものすごい数の武士勢力が甲斐国を含む周辺域にいました。
勝手に源氏の子孫だと名乗る武士も、たくさんいたでしょう。
「川中島の戦い」のことを書く際に、そうした武家たちの名前がたくさん出てくると思います。

まさに源氏勢力が集まる激戦の中心地のひとつが、甲斐国だったということです。
甲斐国は、強力な「虎」だらけだったのです。

妙な話しですが、源氏たちが、富士山がしっかり見える地域に、富士山を囲むように集まっていたのは、本当に偶然だったのかと思ってしまいます。
千葉の房総半島や、関東の内陸部からも、雄大な富士の眺めが見えます。
むしろ江戸からのほうが、小さな眺めです。
確かに、富士山を眺めていれば、勇気凛々、闘志満々、意気衝天、アゲアゲ気分になる気がします。
虎たちが、「富士の高嶺(たかね)」に向かって駆け上がりたくなるのも、わかる気がしますね。

* * *

甲斐国あたりの各武家は、武田家との戦いの中で、武田側に流れたり、別の土地に逃げてそこの勢力と組んだりしました。
同じ一族内でも分かれていきました。
後に、大井氏の一部は、信濃国の村上勢と組み、後に信玄のたいへんな宿敵となります。
村上氏は、後に上杉謙信側に向かいます。
「謙ちゃん、助けて~。信ちゃんが…」。

信濃国の諏訪氏も、もちろん武田氏の宿敵のひとつでした。
諏訪(すわ)の歴史は、源氏よりも、はるかに古い…。
「ぽっと出」の源氏とは違う…。


◇虎の操縦法

あくまで個人的な印象ですが、信玄は、父の信虎の思想と手法のままでは、甲斐国の虎たち(家臣たち)を完全に統率し、外部の国の勢力と戦うことは、もはやできないと考えていたのかもしれません。

信玄は、武田家による虎たち(家臣たち)のコントロール手法を、ハード路線からソフト路線に転換させ、そこに何か求心力のある精神的な要素をたくさん組み込み、競争のあるバランスのとれたかたちに変えようとしたのかもしれません。
非常に難しい、高度なコントロール手法かと思います。

そしてさらに、さまざまな学問(哲学思想や軍学、戦術ほか)の側面や、科学的な技術(築城、兵器、治水、馬術、忍び術、鉱山開発ほか)も盛り込んで、インテリジェンス(知性)のある高度化した軍団をつくろうとしたのかもしれません。
信玄の「風林火山」は、そうした中から生まれてきます。

軍団の強みを際立たせ、組織の構成を徐々に変えていったように感じます。
組織づくり、土地づくり、国づくりを、関連させながら行っていった信玄に見えます。
織田信長の改革とも似ていますが、信長とはまた違う、科学的・学術的なアプローチにも感じます。

個人的な印象ですが、信玄は学者肌の軍人だったのかもしれません。

* * *

信玄と信長の二人に共通するのは、学識で、研究熱心であったということです。
そして、その道のプロのアドバイスに、しっかり耳を傾ける姿勢も似ている気がします。
「学び」と「好奇心」は、二人に共通するキーワードかもしれません。

さらに、二人の強みは、今の「リスクヘッジ(危険性に備える思想)」の考え方を、さまざまな面で発揮したことだと感じます。
「強いだけではダメ、負けないことこそが肝心」の思想です。

戦国時代に、強さ比べだけに走った武将たちは、皆、負けていきましたね。
これは、武家のトップだけでなく、家臣も同じだったと感じます。


◇哀しきエリート

結果的に信玄の後継者となる諏訪勝頼(武田勝頼)は、今でいえば英才教育を受けた、理論派の秀才にも感じます。
相当な学識を備えていた可能性がありますが、往々にして、そうした人物は、学問や理論に偏りがちになり、人の心情や精神論、歴史などを軽視する場合があります。
彼の場合は、さらに複雑な出生の事情があり、どのような性格だったのか、少しつかみにくい部分もあります。

勝頼時代になると、武田軍の中で、地域間や世代間で抗争を始めますが、勝頼が、その時に、それぞれの家臣一族の歴史や心情、場合によっては怨念を、どの程度まで理解し配慮したのかということです。
そして、自身で、どの程度まで用心していたのかということです。
信長の「甲州征伐」の終盤での、勝頼の判断には、もはや哀しさが漂います。

信玄の後継者となった武田勝頼は、複雑な甲斐国の歴史や背景を学んでいたはずでしょうが、それを少し軽視してしまったのかもしれませんね。
あるいは、自身のチカラか、ほかの何かで、それを乗り越えられると思っていたのかもしれません。
戦国時代は、決して甘くはありませんでしたね。

* * *

織田信長が、「桶狭間の戦い」で今川軍に勝利した勝因のひとつに、今川軍内の家臣勢力の間にある亀裂を上手に利用し、今川軍を秘密裏に分断させ、大将だけを孤立化させた陰謀戦略がありました。
これは「麒麟シリーズ」の中で書きました。

同じ手法を、信長は、この勝頼の武田軍でも行ったと思います。
勝頼は、その信長の戦法に、後手後手となり、もはや分かっていても「なすすべ」がありません。
いくら学識があっても、理論を積み重ねても、家臣に褒美を与えても、解決できない問題もあるのです。
「信玄様ならついていきますが、勝頼殿にはついていきませぬ…」でしたね。

猛獣の虎たちを、チカラや理論、金だけで操ろうとしても、そうそうできるものではないことを、信玄は、もっと勝頼に教導しておくべきだったのかもしれません。
そして、信玄の言いつけを守らないことが、どんな結果をもたらすのかを、もっと理解させておくべきでしたね。

世界中の歴史上の多くの武人たちが、同じような主旨の言葉を残していますね。
「金で一部の人間は動かせるが、大多数の人間は実は金(損得勘定)や理屈では動かない」。

虎も、餌(えさ)だけでは動かないのかもしれませんね。

* * *

個人的に感じるのは、信玄の言葉を、勝頼は随所で理解できていなかった気がします。
ひょっとしたら、若さゆえの、何かの反発心があった可能性も感じます。
実は、それよりも根深い何かの思いがあったかもしれません。

「越後の謙信って…親父(信玄)の知りあいだろ。頼れと言われても、オレには関係ない…。」
勝頼からしたら、「オレは、もともと甲斐ではなく、諏訪の神の子…」だと言うかもしれませんね…。

最後に勝頼は、勝頼自身の家臣たちのワナに、まんまと、はまってしまいます。
甲斐国の歴史からみれば、起きて当然の出来事ですね。

勝頼の書庫の書物には、そうしたワナのこと、猛獣使いの仕方のことが書かれていなかったのかもしれません。
諏訪から見た書物しかなかったのかもしれませんね

武田勝頼の最期や、武田家滅亡のお話しは、また別の機会に…。


◇城内にいる虎

話しを、動物の「虎」に戻します。

戦国武将たちは、この一匹で行動する猛獣の「虎」が大好き!
まさに孤高の強さをイメージさせます。
ひ弱な猫とは大違いで、まさに猫たち(武士たち)の親分が虎に感じますね。

当時は、朝鮮半島や中国に、虎(アムールトラ)やヒョウがたくさん生息していました。
かつて、ヒョウの仲間から、虎やライオンが生まれてきたと思われていましたが、近年、実はそうではないといわれていますね。
昔は、虎とヒョウの識別も、結構いいかげんな絵も、たくさんあります。

いずれしても、お城の御殿の襖(ふすま)の絵は、虎だらけ…。
日本の土地には虎がいないのに、日本の城の中は虎だらけ…。

一休さんのトンチではありませんが、襖の中なら虎は安全…。
「さあ、襖から虎を追い立てて、目の前につれてきてください…」。

* * *

織田信長の織田家も、この武田家も、代々受け継いでいく主君の名前の文字は「信」です。
徳川家は、「家」と「忠」が重要な文字です。
足利家ですと、「義」です。
こうした文字を持たない、あるいは与えられない、その一族の者には、何か、特別な事情がありましたね。

上杉家ですと、「憲」と「顕」です。
上杉謙信(景虎・政虎・輝虎)」の「虎」続きの名前は、もともと彼が上杉家の出身ではなく長尾家だったためで、山内上杉氏の当主で「虎」は彼が最初です。

実は長尾家の場合は、「景」の文字です。
そうすると、謙信も個人的な「虎好き」…。
後に謙信は、上杉家に続く、でも漢字違いの「謙(けん)」を持ってきますね。
さすが養子の知恵…。

実は、「晴信」とか「信長」、「家康」などの部分は名前ではなく、「諱(いみな)」という識別部分ですが、この説明は割愛します。

いずれにしても、信玄の「甲斐の虎」という呼び方…、ほう そうですか…程度。
信玄には、インテリジェンスな「風林火山」のほうが、やはり似合います。


◇ドロドロ武田一族

前回コラム「塩の道は人の道(1)神の化身」で書きました上杉氏や長尾氏に負けず劣らず、武田氏の身内の抗争は、激しいさの極みでした。

武田信玄の父の信虎は、かなり強力で強引な武将で、甲斐国の多くの有力な武将たちを戦で破り、武力で配下に置いていきます。
横暴なトップの側面があり、息子の信玄とも、何かと対立します。

ある時、信玄は、陰謀で父の信虎を甲斐国から追放し、駿河国の今川義元のもとに送り隠居させます。
理由は諸説あります。
母の大井夫人は甲斐国にいたままでした。
後で、その追放事件のことを、もう少し書きます。

* * *

後に、信玄は、長男の義信も、「信玄暗殺未遂事件」を理由に自害させます。
あわせて首謀者で重臣であった「飯富虎昌(おぶ とらまさ)」を処刑します。
陰謀の詳細は割愛しますが、徳川家康が長男と妻を殺害する内容にも似ているのかもしれませんし、他の理由も考えられます。
武田軍という大組織を維持し、しっかりコントロールできるようになる過程の出来事にも感じます。

* * *

ちなみに、信玄の姉(信虎の長女の定恵院〔じょうけいいん〕)は、今川義元の正室となり、今川氏真(いまがわ うじざね)は、彼女と義元の間の子です。
定恵院は、「桶狭間の戦い」の10年前には亡くなっていますので、その後の今川家の悲劇は知りません。

信玄は、父の信虎を甲斐国から追放する際、信虎が駿河国にいる定恵院夫婦を訪問するタイミングを狙いました。

定恵院からすれば、「弟の信玄は、いったい何をしているのよ…」ですね。
あるいは、「弟の指示通り、旦那(今川氏真)には内緒で、しっかりやったわよ…」です。

信玄の長男の義信の正室になるのは、この定恵院と義元の間の娘である「嶺松院(れいしょういん)」です。
非常に近親の婚姻です。
もし定恵院がこの婚姻時に生きていたら、この婚姻を許さなかったかもしれませんね。
信玄の一面をよく知る姉ですから、それは心配に思うでしょう。

嶺松院は、夫の義信の自害後も長生きし、江戸時代に亡くなっています。
定恵院と嶺松院の母娘は、ある意味、戦国時代のトップ武家に生まれた女性犠牲者ともいえますね。

政略結婚など政治的思惑の結婚は、現代の今でもたくさんあります。
結婚や婚姻は、今も昔も、ドロドロになる可能性を含んでいますね。


◇ドロドロを飲み込むトップの力量

戦国時代の各軍団のトップ武家というのは、トップ間にだけ存在する横断的なつながりがあります。

トップ武家の婚姻の場合に、相手が他国の重臣では、つりあいがとれません。
もめごとの原因にもなります。

信玄の姉の定恵院が、駿河国の今川氏に嫁ぐ際は、今度は、隣の相模国の北条氏がそれに激怒し、戦争に発展します。
戦争のいい口実にもされてしまいます。

* * *

今の大河ドラマ「麒麟がくる」の中でも、近江の武将の六角氏が、織田信長や浅井家と敵対関係に入るきっかけは、六角氏側と浅井家の間の婚約が破棄され、信長の妹の「お市の方」が浅井長政へ嫁入りしたことです。
信長の上洛作戦とその後の展望の中に、この「お市の嫁入り」が組み入れられていたものですが、六角氏は、信長にまんまとやられてしまいました。
戦国武将は、つまらぬ意地を通すと「命取り」となりますね。

六角氏は六角氏で、戦略を持っていたことでしょうが、信長を甘く見たのかもしれません。
上杉謙信と武田信玄は、決して信長を甘く見てはいませんでしたね。

他家の婚姻ではあっても、「それは、おめでとう。ご縁はそちらにあったのですね…」くらいの言葉を、トップが言えるのかどうか…。
個人的な印象ですが、武田信玄と織田信長は、平気でそれを言えるタイプだったと感じます。
なにしろ、二人の目指すものは、もっと大きく、遠くにあったのですから…。
でも、身内には、激しくあたり散らすでしょうが…。

実は、この二人…、復讐心も並みの武将レベルではありませんでしたね。

戦国武家どうしの婚姻の複雑さと難しさは、現代人からは少し想像しにくいですが、かなりの政治的行動でした。

* * *

女性陣は、きっと嫁ぎ先で「どうして、私たち夫婦ばかりこんなに苦労するのよ。大将の家などに生まれなければよかった。実家と、どうしてこんなにドロドロになるのよ。そんなつもりで嫁いできたわけじゃないのよ。」と言っていたかもしれませんね。
優しい亭主なら、夫婦でなぐさめ合っていたかもしれません…。

東日本の中部関東地域では、武田氏、上杉氏、北条氏、今川氏のトップ武家間で、複雑な婚姻関係がたくさんありました。
もちろん日本中のトップ武家も同様です。
これなら、家臣のほうが、まだ気が楽…。


◇さらにドロ沼に…

信玄による父親追放と、長男の自害のずっと後、信玄の死の直後に、継室(後妻)の三条夫人との間の子ではなく、側室の諏訪御料人(実名不詳・諏訪頼重の娘)との間の子である「諏訪勝頼(すわ かつより)」に家督が相続されます。

信玄は、自身の生涯で、家督相続に関わる三回の大事件を、自らの手でコントロールしようとしましたね。
父親の追放、長男の自害は、コントロールできました。
ですが、自身の死後の後継問題処理は、自身でコントロールできませんでした。
なにしろ、この世にいないのですから…。

信玄自身は、諏訪勝頼への家督相続を許しておらず、その危険性を十分にわかっていたと思われます。
信玄は、自身の病死を予見できていたはずなのに、生前に家督相続を行っていません。

これは、信玄から勝頼への家督相続はしないという強い意思のあらわれではありますが、それ以上の行為を実際に行っていません。
個人的には、生前に、もう少し何かできた気もします。
それくらい、病気の悪化が急速に進んだのかもしれません。

後で、信玄の遺言とされる、恐ろしい内容について書きます。
内容の真偽はわかりません。
ですが、信玄の判断は間違っていないと、個人的には感じます。

* * *

諏訪勝頼の諏訪氏とは、信濃国の諏訪湖周辺地域の武家のことです。
何しろ、神話から始まる「諏訪湖」と「諏訪大社」を守る名門の武家です。

信玄に、正室との間の子は亡くなり、継室(後妻)の三条夫人との間の子は、二人はすでに亡く、一人は盲目の僧「竜芳(りゅうほう / 海野信親)です。
竜芳は、武田家滅亡後に自害したとか、「甲州征伐」の際に織田信忠に殺害されたなど諸説あります。

ただ、竜芳の血筋は絶えることなく、江戸幕府のもと生き続けることになります。
次回コラムで、信玄の娘の「松姫」のことを書きますが、この松姫に養育されたともいわれています。


◇穴山梅雪

ちなみに、この竜芳の妻は、あの武田家を裏切り織田家と組む「穴山梅雪(あなやま ばいせつ)」の娘です。
ここでも陰謀の臭いいっぱいですね。

ここで、穴山梅雪を「裏切り」と書いてしまいましたが、確かに甲州の大金を持ち逃げしたりして後ろめたい側面もありましたが、ある意味、信玄の遺志をもっとも理解し、それにもっとも忠実であったのかもしれません。
信玄の死の時点で、信玄がもっとも信頼し、勝頼の行動にしっかり目を光らせさせたのが、武田信豊(信玄の弟の武田信繁の次男)と、この穴山梅雪です。

個人的な意見ではありますが、後に梅雪は、「本能寺の変」の後の「家康の伊賀越え」の際に、徳川家康に消されたと思っています。
家康はやはり、転んでも、ただでは起きませんね。
家康は、信玄が残した兵力が欲しくて仕方なかったと思います。
そのお話しは、たしか「麒麟シリーズ」で書いたかも…。

穴山梅雪は、武田軍の悪役にも描かれやすいですが、実はそうともいえないかもしれません。
彼の心情を想像するのは、少し難しさがありますね。
彼が長く生きていたら、ひょっとしたら武田軍の復活も夢ではなかったのかも…?
持ち逃げした甲斐の大金も、そのためのものだったのかも…。

個人的に、この土まみれの「たくましさ」中に、風流を感じさせるような、「穴山梅雪」という武将名にはひかれます。
武田の家臣たちの話しの際に、また書きます。

* * *

武田軍は、どこをつついても、陰謀の煙が立ち上ってきますね。
信玄の時代に、信玄がいかに「防火対策」をしっかり行っていたかがわかります。
信玄は、「治水対策」もお手のものでしたね。
火も水もコントロールできてこそのトップですね。

コラムのお話しが、アチコチに「飛び火」して恐縮です。


◇武田軍の分断

母を三条夫人としない息子たちは、みな側室の子で、その年長者が諏訪勝頼でした。
そして、諏訪氏は、その中でも特別な存在の武家でした。

武田家と諏訪家はもともと猛烈な敵対関係で、複雑な関係性でした。
信玄による諏訪家打倒も、相当な内容の陰謀でした。

* * *

信玄は武田家と諏訪家を融合させ、さらに強大な国づくりをイメージしていた可能性もなくはないですが、基本的に諏訪家は配下だと考えていたような気がします。
信玄から勝頼への家督相続に、甲斐国の家臣たちは猛反対でした。

もともと宿敵の諏訪家の娘で、その女性と信玄の間の子が後継者になるとは、こんな大きな「火種(ひだね)」はありませんね。
他の武家出身の側室の子では、ダメだったのか…?
むしろ戦わせて勝ち上がってくる者のほうがよかったのかも…。

信濃国の高遠には、また別の思いを抱く武田軍配下の仁科(にしな)氏の勢力もいました。
仁科氏の高遠の勢力は、決して諏訪氏寄りとは限りません。
高遠には、信玄の五男で勇猛な「仁科盛信(にしな もりのぶ / 父は信玄・母は油川氏の娘)」がいました。
仁科氏とは信濃国の中央部の安曇野地域を支配した武家です。

* * *

現代人の感覚からしても、この勝頼への相続には無理や危険が満載という気がします。
諏訪家による武田家への復讐とみれば、納得もできますが…。

武田軍は、完全に、かつての信玄派と、勝頼派に二分してしまいました。

よくよく考えると、江戸幕府も、将軍の代替わりの際に、いつも旧派と新派が戦っていましたね。


◇信玄の遺志は…

信玄は、かつての宿敵の有力武家の武士たちを大量にかかえる大軍団のトップであったこともあり、自身の死が与える影響をしっかり理解していたと思います。
自身の死後にどのようにしたらいいかを、こと細かく遺言で残しています。

これを守らないと、一気に武田の大軍団が崩壊することも、わかっていたでしょう。

この遺言内容の全体については、また別の機会にあらためて書きますが、家督相続に関する部分のみをご紹介します。

* * *

信玄の後継者については、諏訪勝頼の息子の信勝が16歳になった時点で後継者としなさい。
それまでは、諏訪勝頼が代理としてつとめなさい。
勝頼には、武田家代々の軍旗を持たせてはならない。
「風林火山」の旗、将軍地蔵の旗、八幡大菩薩の旗、すべて使わせてはならない。
信勝が16歳になり、初陣の時に、「風林火山」の旗以外はすべて持たせて出陣させなさい。
勝頼は、これまでどおり大文字の小旗だけを持ち、差物(武田軍旗や飾り)、法華経の母衣(重要な衣装)は典厩信豊(信玄の弟の武田信繁の次男)に譲ること。
「諏訪法性(すわほっしょう)」の兜(かぶと)は、勝頼が着用し、後に信勝に譲ること。

* * *

武田信勝とは、諏訪勝頼と、正室の「龍勝院(りゅうしょういん)」の間の子です。
「龍勝院」の父は、美濃国の遠山直廉(とおやま なおかど)で、母はなんと織田信長の妹です。
信玄の「リスクヘッジ」の思想が、少し見えてもきますね。

「諏訪法性(すわほっしょう)」の兜とは、前回コラムで書きました、例の信玄の「ここ一番」の必勝兜のことです。

* * *

それにしても、この遺言内容は、勝頼にはかなり酷な内容にも感じますね。
自身を飛び越えて、自身の息子が真の後継者です。

信勝こそが真の後継者であり、勝頼は、信勝が大人になるまでの代理でいなさいということです。
そして、信玄が生きているように見せるため、その兜を着用してふるまえという内容です。
そして、武田軍の象徴の品々の使用を、ほぼ許されていません。

織田家との敵対関係、諏訪家と武田家の複雑な関係、武田軍の家臣たちの心情、武田軍組織の複雑な構図などへの配慮がよく考えられている気がします。

ですが、これが守られることはありませんでした。
諏訪勝頼が、武田勝頼となり、家督相続が行われました。

信玄が予想した危険性のほうが、実現されていったともいえますね。

* * *

なかった歴史を想像するのも面白いですが、もしここで武田家内部で抗争劇が起こり、勝頼派勢力に勝った勢力が団結力を維持し、戦国時代をさらに突き進んでいたら、「長篠の戦い」も、「甲州征伐」も、「恵林寺焼き討ち」も、「本能寺の変」も起きなかったかもしれませんね…。
歴史の面白さと不思議さです。

あれだけ組織力を重視した信玄でしたが、彼の真意は、後継者代理に指名した諏訪勝頼には伝わらなかったのかもしれません。
あるいは、勝頼は、待ちに待った復讐の機会がやっと巡って来たと思ったのかも…。
諏訪勝頼は、信玄の死後に、まんまと後継者の座を手にします。
とはいえ、勝頼は、信玄を丁重に送り出しました。
因果応報(いんがおうほう)…。

信玄の武田家の最大の弱点は、この後継問題にあったともいえますね。

上杉氏もそうであったように、武田氏も、後継者問題の中に大きな火種がありました。


◇もしも、生きていたら…

信玄が、継室の三条夫人との間の長男である義信を殺害したことは、後に武田家後継問題に相当な影響を与えましたね。

さらに、もし信玄と三条夫人の間に、もうひとり男子がいたら、信玄の死後の武田家の状況は大きく違ったでしょう。
そうなれば、信玄の実子である有能な二人… 諏訪の諏訪勝頼と、高遠の仁科盛信(にしな もりのぶ)は、重臣として相当に活躍した可能性もあります。
ただ、諏訪氏の復讐もあったかもしれませんが…。

* * *

かつて信玄は、「第四次・川中島の戦い」において、信玄の弟で、信玄に次ぐ副大将の「武田信繁(のぶしげ)」を失ってしまいました。
個人的には、武田氏の凋落の始まりは、ここですでに始まっていた気もしています。

信玄なき後、信繁が生きていたら、後の武田家の滅亡はなかったようにも感じます。
信玄なき後、信繁が武田軍を率いたのは間違いないと思います。

武田信繁が討死にしたのが「第四次・川中島の戦い」です。

信玄も、信繁も、同じ父(信虎)で正室(大井夫人)の子です。
二人は対立関係の時期もありましたが、ものの道理や限度、人の心理をよく理解し、言動をわきまえた、文武の両面で、かなりの教養を備えた知的な兄弟だったと感じます。
信繁の話しは、「川中島の戦い」の中で、おいおい…。


◇モラル ハザード

急進的な織田家や、後の徳川将軍家では、「正室「や「継室」、「側室」などという壁など一切 気にせず、血みどろの戦いが起きますね。
いい意味で、女性も同等…、味方を変えれば女性軽視、子供は政略の道具のようにも見えますが、女性どうしの激しい下克上の戦いがありました。

街の八百屋の娘が、徳川将軍の生母…?
街の庶民の女性が、大奥のトップを目指せる時代も、やがてやってきます。

ですが、戦国時代の信玄の頃までは、通常、正室かそうでないかは、たいへん大きな問題でした。
ただ、そんなことも無視されはじめます。
邪魔な存在を、平気で消し去ったりもするのです。

* * *

そんな中、秀吉の側室であった淀君(よどぎみ)は、とんでもない「はなれ業(わざ)」(?)でしたね…。
淀君だからできたともいえますが、もはや戦国時代は、「何でもあり」となります。
「戦乱の世」は、人間の持つモラルも破壊しますね。

個人的に、戦国武家の「モラル ハザード(倫理観・道徳観・規律・秩序の崩壊)」は、社会全体に大きな影響を与えた気もしています。

徳川将軍家は別として、江戸時代に、社会モラルは、一応、一定の節度をもって戻ってきましたね。
ですが、江戸時代の中期に、今度は、豊かさと貧困の格差、戦争のない安定社会により、また人々のモラルが崩壊し始め、将軍はその回復に躍起になります。
ですが…。
江戸時代に戦争がなくなると、逆に命の大切さを、人は忘れていきます。

モラルを回復させる方向を間違えると、「お犬様」も生まれてきますね。
「武士道」や「剣術道場ブーム」など、意外な現象も巻き起こります。

「モラル ハザード」は、知らぬ間に始まり、思わぬ方向に向かうというのが、歴史の教訓ですね。
人々のモラルも、時代によって変動するということです。
トップの意識は大事ですね。
どこの国でも…。


◇「お公家さん」は怖い

さて、話しを戻します。

信玄の継室(後妻)の三条夫人は、藤原系の公家の三条家の出身ですので、信玄が、武田家後継においても、藤原氏の勢力拡大を用心した可能性はあります。
宿敵の上杉氏は、藤原系の有力武家でしたね。

今回の大河ドラマ「麒麟がくる」では、戦国時代の公家の暗躍をしっかり描いていますが、公家の藤原氏は、武士として戦の最前線に登場しなくとも、多くの武家に、武田家と同じようなかたちで入り込み、絶大な影響力を保持しようとします。

先日の大河ドラマ「麒麟がくる」の中でも、三好氏側から朝廷への政治献金が少ないことを、公家たちが問題視していましたね。
金を出さないのなら、相手を乗りかえるということです。
気前のいい別の相手が、尾張国にいましたね。

話しを戻します。
もともと、武家の上杉氏出身であった信玄の正室と、その子の同時の死亡もかなり怪しいものです。

上杉氏は、藤原氏の末裔とはいっても、公家ではありません。
公家の藤原氏にとっては、東国の地で急速にチカラをつけてきた甲斐源氏の武田氏のトップに婚姻関係が築けていないなど許されることではありませんね。

公家は、武力を持ってはいませんが、政治力でまさにその国を乗っ取ろうとするのです。
ある意味、恐ろしい勢力です。
今現代でも、皇室の方々から、「かつての藤原氏」という言葉が出てくると、ドキッとしますね。

織田信長の言葉に、「天皇や公家の動向を常に注視し、上手く対処していなかったからだ…」というものがありますが、そのとおりだったでしょう。
いずれ自身も、そのワナにはまることになりますが…。

* * *

戦国時代の武将たちは、有力な公家と、いかに上手につき合えるのかが相当に重要なことでした。

あるいは、初期の江戸幕府のように、圧倒的な武力を背景に、朝廷の法や慣習をつくり変えてしまうのも手ですね。
後に家康は、信長ほどバッサリと変えようとはしませんでしたが、なかなかの強権力で公家を圧倒します。
さらに、家康の息子たち(秀忠・家光)が、強権で「バッサリ」やりました。

明治維新による「バッサリ」では、公家と離れるため、京都から東京へ首都移転までしましたね。
いつの時代も、都の「お公家さん」は怖いのです。


◇抜け出せない泥沼

弓や刀は使いませんが、公家が絡んで、ドロドロの陰湿な内部抗争が、甲斐国の中でずっと続いていました。
信玄の継室の三条夫人は、政治的な行動をしっかり行える公家出身の人物だったともいわれています。

信玄の側室の「諏訪御料人」は、勝頼の生母です。
相当な美貌だったという説もあります。

三条夫人と諏訪御料人の間に確執がなかったとは、個人的には思えません。
三条夫人の三人の男子は、後継争いの中に、まったく入ることができなかったのです。

京の公家たちは、ある意味、「泥仕合(どろじあい)」という戦のプロたちですね。
戦国武将たちは、他国の武将との戦いと同時に、有力公家とも地味に戦っていました。

* * *

信玄も、三条夫人を継室(後妻)にむかえて以降、相当に悩まされていたかもしれません。
もともと、信玄と三条夫人は「育ち」がまったく異なります。
この夫婦は、仲が悪かったという説もあります。
個人的には、別の見解を持っていますが、またあらためて書きます。

美しい清らかな水の諏訪湖(すわこ)ならともかく、底の見えない泥沼での「泥仕合」…。
諏訪湖のほとりの美女に、つい気持ちが向いてしまったのか…。

* * *

諏訪御料人には、あの山本勘助という強い味方がついていましたが、割り合い早くに亡くなったといわれています。
勘助の思惑のお話しは、ここでは割愛します。
勘助は勘助で、武田軍の中に勘助をよく思わない武将もいましたね。

三条夫人は、諏訪御料人よりも10年以上は長生きしたと思われますが、信玄からうつされた「労がい(結核)」で死去したとは、実に怪しい…。
信玄が死ぬ3年前に結核で亡くなったそうですが、信玄からうつされたのに、3年も前に先に死ぬ…?
それに3年後の信玄の死因は、ひょっとしたら「胃がん」…。

今思うと、信玄の死後に、三条夫人が生きていたら、勝頼は絶対に後継者にはなっていなかったでしょう。
いろいろな想像をしてしまいますが、実に恐ろしい「泥沼」です。

* * *

先ほど、信玄の遺言の話しを書きましたが、信玄の死後、後継に絡む問題は尾を引き続け、さらに甲府盆地がドロドロの泥沼に埋まっていくような印象を持ちます。

そして、織田信長の心理的な陰謀工作もあり、甲斐国の武田氏の家臣たちは、雲の子を散らすように、後継者の武田勝頼から離れ、織田氏や徳川氏に散っていきました。
この状況は、普通の武士なら予想はつきますね。

甲斐国の泥沼は、すでに巨大な湖となりつつあり、みな逃げ出していきました。
あれだけ巨大で強力な軍団が、あまりにも、あっけなく…。

* * *

信長は、陰謀まみれの「泥仕合」にも、めっぽう強かったですね。
信玄は、武田軍の中のこの後継にまつわる弱点を、信長がついてくることも十分に予測していたのかもしれません。
「桶狭間の戦い」で実証済みです。

信玄は、遺言の中で、信長との戦い方も伝授しています。
信玄に仕えたベテランの重臣たちが、皆、制止したにも関わらず、当然、勝頼はその遺言を無視しました。

甲斐の武田家滅亡は必然だった気もします。

* * *

猫は水が嫌いとよく聞きますが、虎は泥沼でどうなのでしょう…。

NHK大河ドラマの歴代視聴率ランキングの第1位は伊達政宗を描いた「独眼竜政宗(1987年)」で、第2位が「武田信玄(1988年)」です。
甲斐の虎たちは、「大河」ではない「泥沼」でも、強さを発揮できるでしょうか。

「タイガードラマ」ならぬ、「泥沼ドラマ」の甲斐国でした。

* * *

次回の「塩の道は人の道(3)」では、武家の後継の難しさ、不動明王になろうとした信玄、上杉氏に助けられた信玄の子供たち、悲運の松姫などについて書きたいと思います。

コラム「塩の道は人の道(3)」につづく。


2020.10.14 天乃みそ汁
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