「映像&史跡 fun」は、映像・テレビ番組・史跡・旅・動画撮影のヒントなどをご紹介するコラムです。


「旅番組」シリーズ(1)プロローグ
旅が人をつくる / 東照公御遺訓

皆さん、テレビの「旅番組」はお好きですか。

中高年世代の小生は、大の「旅番組好き」です。
職業柄もありますが、「旅」自体も大好きです。
人生自体が、まるで「旅」のようです。
同じように考える中高年諸氏も多いはず…。

今回から、コラムの中で、「旅番組」のシリーズを始めたいと思います。
さまざまな内容を書く途中に、時折、このシリーズを書いていこうと思っています。
いろいろなテレビの「旅番組」をご紹介していきます。よろしく お付き合いください。

* * *

このコラムは、歴史や史跡好きの方々が多くお読みいただいていますので、旅に関連した「歴史」のお話しを「プロローグ(序章)」として書きたいと思います。
徳川家康の有名な「東照公 御遺訓(とうしょうこう ごいくん)」をご紹介します。

これは、徳川家康が、自身の人生を振りかえるのと同時に、家族や家臣に残した大切な「人生の教え」とされるものです。

さて、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人を「三英傑(さんえいけつ)」と言いますが、それぞれの人物を評する例えとして、よく、「ホトトギス」の話しが使われますね。

「鳴かぬなら、殺してしまえ、ホトトギス」(信長を評して)
「鳴かぬなら、鳴かせてみせよう、ホトトギス」(秀吉を評して)
「鳴かぬなら、鳴くまで待とう、ホトトギス」(家康を評して)

これは、江戸時代後期の、肥前の国の平戸藩の藩主、松浦清が書いた「甲子夜話(かっしやわ)」の中に登場するお話しです。
詠み人のわからない川柳として紹介されています。

このホトトギスのお話しは、それぞれの人物の行動の結果を評しているもので、それぞれの性格を正確に表現しているものではありません。
たしかに、おおまかな人物像を、ひと言で表現していると言えなくもありませんので、間違いではありませんが、各武将の歴史の結果を表現しているといったほうがいいのかもしれませんね。

家康を評して「鳴くまで待とう」と聞かされると、どれだけ忍耐強い人間かと想像しますが、実際は、まったく違う印象です。
三英傑の中では、おそらく、最も短気、それも超短気だったと思われます。
戦国時代の三人の戦争の仕方を見ると、その性格がよくわかります。

* * *

その名前が日本中に知られてくる頃の信長の「忍耐強さ」は、尋常ではないように思います。
いわゆる天才肌といわれますが、その好奇心や探究心、研究や学習の熱心さ、目的にむかう突破力と前進力は、歴史上の武人の中でも、ずぬけた存在です。
知能指数も相当に高かったのは確かだと思います。

人情に配慮する部分に欠けていたように思われがちですが、基本的には、サービス精神のある、人への配慮を欠かさない人物だったような印象を持ちます。
配慮を欠いた言動や、極端な暴力行為は、あえて計算して行われていた場合が多かったとも思われます。
あるいは、相手の予想外の言動に対する、感情や愛情の裏返しの場合もあったかもしれません。
とにかく細かい部分を見落とさない、心理をきちんと理解する、合理性を追求するタイプの人間であったように感じます。

それでいて、好奇心いっぱいの研究熱心な人物でした。
その戦闘スタイルも合理性のかたまりで、職業軍人システム、新兵器の開発、武器の使い方、戦闘システム、物資輸送管理システム、お城の運用の仕方…、など歴史的に、彼によって大きく変化した内容は膨大にあります。

そして、勝利のために、とにかく「待つことができる」武将だったと思います。
ものすごい忍耐力です。

彼の勝利する有名な戦いは、すべて「待って、待って、敵がワナにかかるのを待つ戦法」です。
彼の戦いは、徹底的な情報収集と分析から始まります。
心理戦や視覚効果ももちろん使います。
準備万端ととのえて、最後の勝利の瞬間に向かいます。

桶狭間(おけはざま)、長篠(ながしの)は、まさに、その典型ですね。
敵も、ワナにはまったことを悟った時には、「時すでに遅し」です。
最後まで、ワナにはまっていることに気がつかない武将も多かったでしょう。

長篠にいたっては、敵の部下が死を覚悟してワナにわざわざ突っ込む隙に、お殿様を逃がすだけで精いっぱいです。
ですが、さすがに地上最強の武田軍団です。
想像以上に奮闘しますが、最後は、信長の知恵と忍耐力、戦術にはかないませんでした。
信玄が生きていたら、まずワナにはかからなかったでしょう。

武田信玄より、信長が少しだけ年齢が若いのは、運命としかいいようがありません。
新旧の直接対決を、見たかった気もしますね。

信長は、入念に準備した戦いとは逆に、直感や感情で動いたような、急ぎすぎた戦闘では、ほぼ苦戦しています。
有能な家臣たちが、難局を救っています。
彼の最期も、判断ミスとおごり…?
彼もワナにはまった…?

彼の改革は、戦闘スタイルだけでなく、皇室、宗教、経済システムにまで及びます。
彼には、黒人の外国人の家来もいました。
神事と興行が混ざり合った現代の「お相撲」のスタイルも、彼の改革からといわれています。

よくテレビの時代劇で、信長が西欧風の「よろい兜(かぶと)」に、赤いマント、ブーツ姿で、颯爽(さっそう)と登場するシーンがありますね。
ヨーロッパの中世の騎士のような形状のよろい兜は、「南蛮胴(なんばんどう)」と呼ばれており、秀吉も家康も持っていましたが、信長は少なくとも「かぶと」だけは確実に持っていました。
あの尖った、円すい型のかぶとです。胴体部やマント、ブーツは不明です。
でも、誰よりも早く使用していたかもしれません。相当、目立ったことでしょう。

おまけに色も派手好きだったでしょうね。
あの有名な肖像画を思い出しみてください。
上半身の白色の小袖(こそで / 袖のふくらんだ、胸元が前開きの着物)の上に、緑色の肩衣(かたぎぬ / 両肩の上に三角形の形状の部分がある着物)です。
袴(はかま)とあわせて、上下、緑色です。
両肩の三角形の部分には、白色の家紋(かもん)のマークです。
信長の少し前の頃からあったスタイルともいわれていますが、あの肖像画のファッションのインパクトはすごかったでしょうね。
安土城のデザインや色使いも、あのお城だけのものです。
天守(天主)閣を含めた館で、実際に生活していた武将も彼だけです。

好奇心と探究心いっぱいで、ことにあたっては、入念に考え、準備し、タイミングを待って、待って、行動する、行動するときはとにかく迅速で強引、これが彼の性格と行動パターンだったと思います。
配下にも、行動のスピードをかなり求めたことでしょうね。

戦場で、敵を殺した場合にも、相手の首や耳や鼻を切り取らずに、次の敵にすぐに向かえと指示を出したのも、信長が初めてだと言われていますね。
自分の「てがら」を考えずに、軍団の勝利を徹底的に最優先にせよという意味です。
たいへん大きな意識改革です。
とかく、「リアリスト(現実主義者)」、「合理主義者」と評される信長ではありますが、もともとは、愛情深い面もあったように感じます。

待つとなったら待つ、攻めるとなったら攻める、信じるとなったら信じる、信じないとなったら信じない、どちらにおいても徹底的です。
すべてとはいいませんが、極端な部分を持った性格だったのかもしれません。
ですが、裏切った部下に、何度も何度も説得したり、チャンスを与えたりする一面もあります。
自分の極端さを、自分の中でバランスよくコントロールするのも、たいへんだったかもしれませんね。

でも、決して短気だったとは感じません。
ただ、アイデアが自分ひとりの頭の中にあり、決断が極端で頑固で、行動が強引だったのは確かです。
「俺について来い」、「俺の頭の中を想像しろ」、「知恵を使え」と言うタイプのリーダーだったとしたら、仕方のないことですが…。
部下からみたら、たいへんに怖いトップですね。

強力なリーダーシップを持った「統治者」、
新しい時代を切り拓く「開拓者」、
戦国時代が生んだ残虐な「悪魔」など
いろいろな面が複雑にからみあった孤独な人物であったのかもしれません。

こうした彼の極端な強さを、「殺してしまえ」と表現したのであれば、非常にぴったりだと感じます。
でも、どうして殺すのか、いつどのように殺すのか、殺すことにどんな意味があるのか、などをよく考える人だったとは思います。

血で血を洗う戦国時代こそが、彼を生み出し、そして抹殺したようにも感じます。

* * *

さて、秀吉は、頭のきれる策略家そのものですね。
戦い方をみても、とにかく、考える、考える。
戦国時代には、それは 考えなしの弱小武将が、どれだけたくさん いたことか。

実際に戦わずして いかに勝利するか、勝利の後どうするか、負けた場合にどのように逃げるか、など考えぬきます。
戦争から、外交、政治、経済、文化まで、とにかく知恵者です。

歴史上の希代の知恵者、竹中半兵衛と黒田官兵衛の「両兵衛」をも使いこなした人物です。
「知恵者を使いこなす、さらに上の知恵者」といえますね。

後世には、「人たらし」と表現されることもあります。
「人たらし」は、人の心を掌握して、思い通りに人を使いこなすとも解釈できますが、人心掌握術も、彼の知恵のひとつにしかありませんでしたね。

彼の、このような、とびきりの「かしこさ」を、「鳴かせてみせよう」と表現したのであれば、これも非常にぴったりだと感じます。

秀吉の「人たらし」は、信長も例外ではありませんでしたね。信長には自覚させないように…。
でも信長も希代の知恵者ですから、実はわかっていたはずです。

「本能寺の変」のきっかけも、信長が秀吉の知恵に安易に応えたのが運のつき…。
もし あの時、秀吉の言葉にのって、西日本に向かわなければ…?
わかっていてその言葉にのった信長にも、おごりと油断が…?

信長と秀吉のあいだでも、「知恵vs知恵」「心理vs心理」の巧妙なやりとりが、「本能寺の変」の少し前から始まっていたように思います。
そこに、また別の思想の明智光秀がいました。

秀吉からみれば、彼は、たやすい人物だったのかもしれません。
ホトトギスを鳴かせるくらい、たやすい人物…?

情報戦の達人で、戦争上手の秀吉が、事前に「本能寺の変」を予測できないはずはありませんね。
秀吉も、ある意味、その時を待っていたことでしょう。

* * *

さて、家康は…。

若武者の頃の家康の中に、前述の二人のような、知恵をうかがわせることは、ほぼありません。
超短気、根拠のない自信、誘いにのりやすい短絡さ、ひ弱な一面、外見ばかり飾り立てる、人の言葉に惑わされてばかり…。
後述します「東照公御遺訓」を残すような人物とは、到底、思えません。
まして、天下など…。

幼少期の「人質」の時代も、どの程度の待遇や苦労だったのかも、よくわかりません。
どの程度の教育を受け、どの程度の頭脳レベルだったかも、よくわかりません。
三河武士たちの団結力も、どの程度だったのかも、よくわかりません。
ただ、今川家と織田家の板挟みの頃は、苦労や困難が非常に多かったのは確かです。

そんな彼ですが、ある時を境に、性格や考え方、行動が、大きく変化します。
武田信玄に大敗した「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」です。
ここで家康の人生は終わっても、まったくおかしくありませんでした。

当時、日本最強軍団のひとつとして考えられていた武田信玄が、家康という人間の性格や考え方のスキを巧みについた戦いでした。
一枚も二枚も上の、知恵と思想とチカラを持った武将だったのです。

その頃の家康は、「待てない」「知恵ない」武将そのものでしたね。
普通の戦国武将でしたら、ここで一生は終わりです。
ですが、家康は、並々ならぬ「運」の持ち主で、生き残ります。

「三方ヶ原」以降、彼は相当に勉強したことでしょう。
詳細は省きますが、性格や人物像が、ここから大きく変わっていきます。

「変わった」部分と、「変えた」部分の両者があると思いますが、彼には、その後、いろいろな事柄が降りかかってきますね。
幸運ばかりではありませんが、各場面で知恵が見事に発揮されます。
彼の知恵によって引きよせたものも、たくさんあります。
悪知恵と、とらえられるようなものも含めて…。

信長と秀吉の二人から、さまざまなものを学べたと思います。
武田信玄という存在も、大きなものだったと思います。

* * *

有名な「関ヶ原の戦い」は、一日で決まったような印象を持つ方もいますが、それは単に最後の局面であって、実際には、何カ月もの戦いが行われています。
じわじわとワナにはまる石田三成、息子の秀忠(ひでただ)がやって来ないという想定外の出来事に頭を悩ます家康など、局面が二転三転していき、最後は、家康の予定通りの結果となります。

「裏切り」というキーワードが数多く登場する「関ヶ原の戦い」ですが、この感覚は後世の人間のとらえ方次第かもしれません。
息子の秀忠が率いる徳川軍の主力戦力が間に合わないということ以外は、ほぼ彼の思惑通りだったとも考えられます。

まともに自力で戦に勝った実績のない三成が、勝てる相手ではありません。
まして、野戦(野原で戦う戦闘)で、家康に挑むとは、無謀にもほどがあります。
「三方ヶ原」の時の、若い頃の家康と武田信玄に似ていますね。

きっと家康も思ったことでしょう。
今なら自分が信玄だと。

「三方ヶ原」のときと違うのは、ここで三成の人生が終わったこと。

この頃には、家康は、すっかり「待てる」武将に変貌していますね。
信長が持っていた忍耐力と、タイミングを知る眼力が、しっかり家康にも備わっています。

「待つ」を通り越して、「間に合わない」という大失態をしでかした徳川本体軍の息子の秀忠に、最初は激怒して会いもしませんが、もうすでに「短気ではない」家康です。
いつしか許します。でも後に、三代将軍は家康自身が決めます。

徳川本体の軍隊がいなくて、関ヶ原で勝つにはどうするのか?
家康は、「秀吉なら、どうするだろうか」と考えたかもしれませんね。

家康は、もともと豊臣秀吉の配下だった武将たちを、その知恵で使いこなします。
秀吉が持っていた知略と人心掌握術、物事の本質を見抜くチカラが、家康にもしっかり備わっていました。

「関ヶ原の戦い」の時の徳川家康は、信長と秀吉と肩を並べる力量を完全に備えています。
「三英傑」の誕生です。
この戦いの徳川家康には、若い頃の家康の姿は、もうどこにも ありません。

* * *

歴史上の戦国時代の有名な戦いの大半は、実際には、数か月単位で行われています。
「関ヶ原の戦い」のように、最終局面ばかりがクローズアップされがちですが、それでは、その戦いの本質を見誤ってしまいます。

たとえば、信長の「長篠の戦い」の勝利の要因は、鉄砲と馬防柵にありましたと、短絡的な学校教育がされてしまいます。
もっと本質を知ると、歴史はより面白くなりますね。

* * *

さて、大河ドラマなどのテレビの時代劇では、よく、家康自身が薬草を粉にするシーンが登場します。
その姿からは、強い忍耐力、日々の努力、ものに動じない平常心などを見ることができますね。
この姿は、若い頃の超短気な人間から、完全に脱皮した姿です。

「殺してしまえ」という表現にもっとも近かった超短気な徳川家康とは、正確にいえば、若い頃の家康なのです。
それが、「鳴くまで待とう」の家康に変わるまでには、長い年月がかかりました。

彼の、長い人生の旅こそが、ひとりの人間を変えたといえます。
人が旅をつくるのではなく、人生の旅が人をつくるのかもしれませんね。

* * *

「家康が薬草を粉にするシーンは、もちろん、自身に安心な薬をつくるための行為ですが、本当は、天下をとるため長生きする必要があったからです。」と、テレビの歴史番組では語られそうです。

本当でしょうか。
たしかに、「関ヶ原の戦い」や「江戸幕府」「征夷大将軍」くらいまでは、想定内だったでしょう。
関ヶ原のときは、家康は58歳。もうすぐ還暦です。
現代の感覚であれば、80歳くらいの年齢まできていると考えてもいい年齢です。
はたして、「大坂の陣」まで想定していたかどうかは、わかりません。

最終的に、豊臣家がいない江戸幕府の体制をしっかり整えて、この世を去ります。
絶大な江戸時代300年を残して。

決して、幼少期から長い年月をかけて培われてきたものが、この結果と遺訓を生んだものではないと思います。
彼が自らを反省し、人生の途中から、自分で切り開いた結果です。

普通の、どこにでもいそうな若武者が、「鳴かぬなら、鳴くまで待とう、ホトトギス」という、しっかり「待つことができる」武将になるまでには、長い年月の努力と鍛錬があったということなのでしょう。
信長や秀吉、信玄と出会い、長い紆余曲折の人生の旅の末に、たどり着いた境地だと思います。

75年の家康の人生。当時の人間としてはたいへんな長寿です。
彼がこんなに長生きでなかったら、歴史はまた違ったものになったかもしれません。

「大坂の陣」により豊臣家が滅亡してゆくさまは、いろいろな人間の人生が絡まりあって、家康個人の意志による出来事のようには思えません。
何か別のチカラ…、歴史の神様が、最後に家康を選んだというように思えてきます。

* * *

彼の最期の「辞世の句」は、二首残っていますが、人生やりつくした感がいっぱいの内容です。

そんな彼が、最期に残したとされる「東照公御遺訓」です。

戦国時代の最後の勝者に、似つかわしくない内容なのか。
勝者だからこその境地なのか。
ただ、長い長い人生の旅だったことは、よく伝わってきます。

原文はこちらのサイトです。
https://www.toshogu.or.jp/about/


ここでは、言葉どおりに現代訳をします。

* * *

人の人生というものは、重い荷物を背負って、遠い道を行くようなものだ。
決して急いではいけません。

不自由が当たり前だと思えば、不満は生まれてこない。
心の中によくない「欲望」がわき上がったときは、「困窮・困難」な時代を思い出しなさい。

「堪え忍ぶ」ことこそが、無事に長く安らかでいられる秘訣であり、
「怒り」こそ、敵だと思いなさい。

勝つことばかりを知り、負けを知らないことは、最後に自分の身に危険がおよぶ。

自分の行いを反省し、他人の責任を責めてはいけません。
足りないことのほうが、やり過ぎてしまうことよりも、優れているのです。

* * *

徳川家康は、信長や秀吉のように、やり過ぎることはありませんでしたね。

ここまでお読みいただき、がっかりさせて申し訳ありませんが、
実は、この遺訓は、家康自身が本当に残したものなのか、後世の誰かが作ったものなのか、はっきりしていません。

確かに、あの天下の覇者にしては、内容に少し重厚感が足りないような気もします。
本人であれば、もっと加える内容もあったことでしょう。
組織のトップとして、ここに触れるだろうかという部分もあるように感じます。
トップを支える立ち場の人間の存在が、見え隠れしているような気もします。
他の多くの武将の本物の遺訓からくらべても、庶民に少しわかりやす過ぎる気がします。
あくまで私見ですが、別人の筆かもしれません。

ですが、これはこれで、すばらしい人生の教訓であることは事実だと思います。
家康様に、目の前で こう言われたら、納得して ひれ伏したい内容です。
真偽はともかく、すばらしい存在の「御遺訓」だと思います。

* * *

昔は、この文言を「額」に入れて飾ってある光景を、学校や家庭で、よく目にしましたね。

今の20歳代の若い夫婦の家庭に行くと、相田みつをさんや、金子みすゞさんの言葉や詩を書いた「額」が部屋に飾られていることを、目にすることがあります。
そのような存在に近いものですね。

部屋に飾られる額の内容は、人の年齢によって、掛け替えられていきますね。
この御遺訓の額は、ある程度、人生経験を経て、人生を振り返る年齢になってから、飾られるものなのでしょうね。

実はかなり昔、わが家にも この額があり、子供の頃、意味もわからず読もうとして、よく途中で挫折したものです。
たいていは、一行目でストップしました。

中高年になり、何年かに一度くらい、どこともなく目にする御遺訓ですが、読むたびに、自戒の念が込み上げてきます。
自分の人生が終わるときに、こうしたことが実践できたと言うことができるだろうかと、目をつむってしまいます。

人生の旅が、人をつくる…。

このシリーズでは、旅番組をそんな視点でも、考えていけたらと思っています。
でも、重荷はおろして、気軽に読んでくださいね。

* * *

ちょうど今、NHK BSプレミアムでは、毎週日曜日の朝6時から、2000年放送の大河ドラマ「葵 徳川三代」を再放送しています。
昨年 惜しくも亡くなられた、名俳優の津川雅彦さんが徳川家康を演じています。

徳川家康役と聞くと、一番に、津川さんを思い出される方も多いと思います。
津川さんの風貌と、あの特徴的な声と口調が、家康のイメージにぴったりでしたね。

この「東照公御遺訓」を、津川さんの声で、ぜひ一度聞いてみたかったです。

あの口調を思い出しながら、もう一度、自分自身で御遺訓を振り返ってみたいと思います。

長くなりました。
旅番組シリーズの第一回目のコラムは、ここまでにします。

* * *

ヒデタダ~!
遅れおって!
この たわけが~!


 2019.6.12
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