「映像&史跡 fun」は、映像・テレビ番組・史跡・旅・動画撮影のヒントなどをご紹介するコラムです。


「旅番組」シリーズ(3)
旅番組とお城 ① / 塩の道は人の道


この「旅番組シリーズ」では、「旅」に何をプラスアルファするかが、テーマのひとつになっています。
本コラムは、史跡や歴史好きの方々にも多く読んでいただいておりますので、今回の第3回は、「旅番組」に「歴史」をプラスしてみたいと思います。

「旅番組」と「歴史・史跡番組」の目線の違いについて、「お城」をテーマに、少し考えてみたいと思います。


◇マニア目線

両番組ジャンルとも大好きな私としては、時々、頭をひねる歴史番組風の「旅番組」があります。
旅番組風の「歴史・史跡番組」ともいえるでしょうか。どちらなのか、わかりません。
はたして、どちらのファンにむけて作られているのでしょうか?
ですから、どちらの目線でも、結局 面白くないのです。

前回の「旅番組シリーズ」の「旅番組シリーズ第2回」で、「旅に何をプラスアルファするか」ということを書きましたが、「お城」に限らず、何でもそうだと思います。
旅に何かをプラスした分、そこには二面性が発生します。
旅人の目線と、マニアックな目線です。


◇マツコの知らない世界

これは、バラエティ番組のお話しですが、今、TBS系のテレビ放送に「マツコの知らない世界」という人気番組があります。
毎回ごとに特集テーマを設け、さまざまな分野のマニアや専門家を呼び、タレントのマツコ・デラックスさんと話しをする番組です。

マニアや専門家ならではの目線で、そのテーマの世界の魅力を紹介していくものです。
マツコさんは、共感したり、批判したり、納得したりします。
マツコさんの感性により、その世界の魅力がより引き出され、視聴者に、面白く その内容が伝わる、そんな番組です。

私も、時折見ますが、マニアの方々の熱い言葉により、たくさんの思い入れと愛情が伝わってきます。
どの分野でも、マニアとは、そうしたものですね。

この番組を通じて、その分野について、明るくなくても、初めての遭遇だったとしても、その面白さや魅力は十分に伝わってきます。
新しい発想や考え方にふれることもあります。
表面だけのマニアは、マツコさんに、すぐに見透かされます。

* * *

近年は、テレビ放送が全体的に、よりわかりやすく、より簡単に、より専門性を排除して、より親近感を、という潮流のように感じます。
ゲストの専門家のコメントも、短時間で、表面的で、番組に合わせたものが増えています。
ひと言ふた言しか語らせないのでしたら、それは専門家を招く場所ではありませんね。
それによる、さまざな弊害も出てきていると思っています。
マツコさんには、それも きっと、見透かされていることでしょう。

* * *

視聴者の皆が、自分が興味を抱くことについて、マニアや専門家のように、大きな好奇心をもって、調べたり研究したりするわけではありませんので、この番組での紹介も、そのマニアックさの度合いを調整することは、たいへん難しいでしょうね。

一般の客観的な目線と、そのマニアや専門家の独自の目線や考え方は、しっかり分けていかないといけないのでしょうね。
この番組では、しっかり分けられている印象を持ちます。
マツコさんも、そのような姿勢で、さらにマツコさんの目線も加えています。

ですが、一般のマニアや専門性を持っている大人たちから見れば、それが自分の興味とは違っていても、番組内容がよりマニア向けになればなるほど、ますます面白く感じていることでしょう。

* * *

数年前まで、タレントの中川翔子さんが司会をする「マニアまにある」というテレビ番組があり、これも、よく似た番組でしたが、これは、中川さんの目線と、中川さんとマニアとのお話しが中心につくられていた印象があります。
私は、この番組も大好きで、よく見ていました。
中川さんの個性に頼る部分が多かったのかもしれません。
マツコさんの番組とは、少し違っていましたね。

この二つの番組は、前述の「よりわかりやすく、より簡単に、より専門性を排除して、より親近感を」とは逆の方向ですね。
人は、自分の「知らない世界」を、番組のわずかな時間で、すべてを理解できるはずはありません。

ただ、コツやいろいろな見方を習得することで、それが未知の分野であろうと、その法則を利用して、短時間で核心にせまることもできます。
まずは、興味があろうがなかろうが、見ておきたい番組ですね、

人々が、テレビからインターネットにどんどん流れる時代に、「マツコの知らない世界」は新しいテレビの方向性を示してくれているのかもしれません。
ちょっと持ち上げ過ぎでしょうか… 重い。

さて、ここから、ちょっとだけマニア向けのお話しになります。
「旅番組」と「歴史・史跡番組」の似ているようで、大きく違う点をご紹介したいと思います。


◇お城を攻撃する…?

「お城」が被写体であれば、旅ファンに向けた「旅番組」と、歴史・史跡ファンに向けた「歴史・史跡番組」のそれぞれに、違った見せ方があると、私は思っています。

テレビ番組の中には、「(街の中にある)お城を、攻撃する側の立場で歩いてみましょう」という番組や企画が、ときどきあります。
そして、カメラが門からスタートし、石段を登りながら、天守閣に向かうのです。
発想は必ずしも悪いとは思いませんが、歴史・史跡ファンが「お城」を見る目線とは、かなり異なっている気がします。

攻撃する…? なぜ?

もちろん、観光客としてお城を訪ねる時には、このルートで天守閣をめざすことは、よくあります。
でも、このルートは、あくまで「旅番組」での観光客の目線です。

個人的には、「お城を、攻撃する側の立場で歩いてみましょう」という発想は、少なくとも「歴史・史跡番組」に必要だとは思いません。

観光客目線で、旅をしているように楽しませたいと思っているのかもしれませんが、知識欲も、見物欲も、両方とも削がれてしまうのではと思っています。
中途半端なせいか、番組内の案内人も、可哀そうに、非常に頼りなく見えてしまいます。

* * *

歴史・史跡ファンからしたら、どうして攻撃を門から始めるのか、はなはだ疑問です。

ドラマの中の「赤穂浪士の討ち入り」のシーンを思い出してみてください。
まずは塀の外側に大きな提灯を並べます。いかにも、大軍勢が攻めてきたように見せ、脱出ルートを遮断するところから始まります。
塀にはしごをかけ、中庭に侵入し、門のカギは中から開けます。そして大石内蔵助がさっそうと登場します。
本当でしたら、その日の攻撃は、前日の準備も、攻撃としては重要な意味があります。

ドラマの中の「本能寺の変」では、塀の上から鉄砲や矢を放ち、塀の上から兵士が突入します。
織田信長は、弓矢を手に、塀を乗り越える兵士に矢を放ちます。
建物は炎上し、混乱の中、門が破られます。
そして明智光秀がさっそうと登場します。
これも、攻撃という意味では、前夜の軍団の進軍ルートも非常に重要です。

演出めいていますが、これが攻撃の現実でしょう。
実際の「本能寺の変」は、だいぶ違いますが…。

* * *

大きな城の木製の「やぐら門」であれば、まずは火をかけてしまえば、門は弱体化します。
大砲があれば、それで門を木っ端みじんにします。
スパイを事前に侵入させ、内側から門を開ければ、あっという間です。
皆さんだって、何かしら考えますよね。

無傷の門の状態で、中からの手引きもなく、敵が待ち構えている門に、わざわざ突入するのですか…?
山の中のワナに、わざわざ自分でかかりにいく「イノシシ」はいません。

歴史上には、城門をあえて開け放していた戦闘もあります。
そんな門には、逆に怖くて、敵は入ってきません。
戦いとはそうしたものです。

はじめから正面の大きな門の扉を時間をかけて打ち破り、兵士を突入させる武将が、どこの世界にいるでしょうか。
そんな武将は、まず戦国時代に生き残れていないはずです。

では、なぜ、門にあんなに仕掛けが、たくさんあるのか。
そのことは、後々、書きたいと思います。

* * *

現在の皇居(旧 江戸城)には、かつて、五重、六重の桝形門(ますがたもん)が配置されていましたが、今は残っていません。
桝形門の説明も、後で書きます。
江戸城を攻撃側の目線で歩いてみましょうなんてことは、やりたくても、もうまったく、できません。

大坂城にしても、戦国時代や江戸時代に、秀吉や家康が造った防御構造は、ほとんど残っていません。
ちなみに、戦国時代の大坂の「坂」の漢字は、今の「阪」とは異なりますので、ご注意ください。
今、私たちが目にしている両者のお城は、後の時代に造りかえられた姿です。
日本中のほとんどのお城はそのような状態です。
かつての戦国時代の姿の一部を残しているお城もありますが、ほんのわずかの数です。

ですから、こうしたお城に、「お城を、攻撃する側の立場で歩いてみましょう」は、非常に「変」です。

城跡を天守閣に向かって登る映像を見ながら、攻撃を想像する、そんな歴史・史跡ファンが、はたしてどのくらい いるでしょうか。
こんな安易な「お城ごっこ」目線で、テレビ番組を見せられても、歴史・史跡ファンは納得しないでしょうね。

* * *

観光客目線での登城の映像なら、あくまで観光客目線に徹すればいいと思います。

「門を通り過ぎた石段の途中には、こんな立派な大樹があり、木々のあいだからは、こんな素敵な風景が広がっています。春には桜、夏はあじさい…。ほら、あそこに、湖に浮かぶ小島が見えますよ。お城から手を振れば、向こうからも手を振ってくれます。昔、この石段の両側に提灯を並べました。ふもとからは、さぞ、きれいに見えたでしょうね。…」のほうが、旅ファンは喜ぶはずです。

「歴史・史跡番組」には、あまり登場しない説明や映像ですので、歴史・史跡ファンも、このほうが、うれしいでしょう。

「旅番組」の中で、あえて、あり得ないような兵士の目線にするより、旅人の目線に徹してくれたほうが、私はうれしいです。

旅ファンが、石垣の構造やら、城の防御構造の説明を、本当に喜ぶとは思えません。興味を持たせる程度でいいのではと思います。
現地の観光ガイドさんなら、きっとお客さんに合わせて、話しの内容を選別するでしょうね。

きっと、この制作者は、お城マニアでも、旅マニアでも、ありませんね。
サバイバルゲーム好きか、ゲームオタクなのかもしれません。
それなら、はじめから、「お城」プラス「格闘ゲーム」のようなゲーム番組にしたほうが、はるかに面白いでしょう。

かつて、ビートたけしさんの「風雲、たけし城」という番組がありましたが、このほうがずっと潔いですし、ある意味、歴史の真実に近いのかもしれません。

若干、厳しく書きましたが、「旅ファン」と「歴史・史跡ファン」のことを、もう少し大切に考えてほしいと思っています。

このように、お城というひとつの被写体だけでも、「旅番組」と「歴史・史跡番組」では、かなり見せ方が違ってきます。
ここからは、「歴史・史跡番組」でのお城の見せ方について、少し書いていきます。

旅ファンの方々には、歴史・史跡ファンやお城マニアは、こんなところを見ているのかと感じていただけるかもしれません。
きっと、次の旅のお役に立てるかと思います。
どうぞ、最後まで、脱落しないでお付き合いくださいね。

まずは、「お城」の説明から書いていきたいと思います。


◇中世、近世、近代

この後、「中世」、「近世」、「近代」、「現代」という言葉が頻繁に登場してきますので、その意味を、先に説明しておきます。
ここでは、日本史のお話しですので、日本史の中の時代のことだと思ってください。西洋史とは、若干、異なる場合があります。

歴史に興味のない、旅ファンの方々も、この時代区分だけを知っているだけで、旅がより面白くなるかもしれませんよ。
「ああ、これは近世の武家のお庭なのね…だからこんなにハデでセンスが悪いのね…」と。

* * *

「中世」とは、おおむね鎌倉時代から、南北朝時代を経て、室町時代までです。
南北朝時代とは、簡単にいうと、日本に二人の天皇がいた時代です。

「近世」とは、おおむね安土桃山時代から江戸時代の最後までです。
安土桃山時代の始まりは、室町幕府が消滅した1573年と考えていいと思います。

「戦国時代」という表現は、室町時代の中頃の「応仁の乱」以降、豊臣秀吉の「小田原征伐」あたりと言われることもありますが、私は江戸時代の「大坂の陣」あたりまでを「戦乱の世」と考えたいと思います。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、中世の終わり頃から近世の戦国時代に活躍した武将たちです。

「中世」の次の時代が「近世」で、その後が「近代」です。

「近代」は、封建時代が終わった明治時代から昭和の戦前あたり頃まででしょうか。
「現代」は、諸説ありますが、おおむね昭和の戦後以降、現在までといったところです。近代と現代の境はあまり明確ではありません。
ただ、明治時代や大正時代、昭和の戦前までの時代は、「現代」とは言いませんね。
昭和時代後半も、そろそろ「現代社会」とは考えにくい気もします。

こうした大きな時代のくくり方は、各時代により、人々の暮らしや思想がかなり違っていることを示しています。
中世、近世、近代の人々の思想を、「現代」から想像するのは、簡単なことではありません。
「現代」の思想の基準を当てはめると、歴史を見誤ることも多くあります。ただ、変わらない本質もあります。
想像力豊かに、歴史に触れていきたいと思います。

歴史に興味のない、旅ファンの方々も、この時代区分を知っているだけで、旅がより面白くなっていただけるでしょうか。

お城と言えば「戦国時代」。次は、戦国時代をごく短く説明します。


◇戦国時代

中世の室町時代の中頃、「応仁の乱」により「戦国時代」は幕開けとなります。
血で血を洗う、まさに弱肉強食の「戦乱の時代」がやってきました。
江戸時代の「大坂の陣」をその終わりととらえれば、約150年間続きます。
当時の日本人の寿命を約50年、結婚を20歳前後と考えると、おおよそ4~6世代分ですね。長いです。
人々は、「死の危険」をかなり身近に感じていたことでしょう。

応仁の乱では、京都を中心に、関西域で二大武力勢力が激突しましたが、これが日本全国に拡大していきます。
「戦乱」とは、何かをきっかけに始まり、なかなか止められないということが、よくわかります。

日本各地で、腕に覚えのある武士たちが、立身出世を目指して、そこらじゅうで立ち上がります。
豊臣秀吉は、皆さまご存じのとおり、武士ではなく農家の出身ですね。最後は天下人まで昇りつめます。
後で、お城の土木工事の話しを書きますが、土木工事屋さんが武将や大名に成り上がったケースも多くあります。
現代の政治家の方も、そうしたケースが多いですよね。

小さな地域の小競り合いから、国どうしの大きな戦闘まで、多種多様な戦闘が繰り返されるようになります。
まさに、日本という国を統治できる人間がいない状況です。天皇でも、室町将軍でも、できません。

連携あり、裏切りあり、身内どうしの殺し合いあり、もう何でもありの暗黒時代の始まりです。
山城で寝ている城主を急襲してその国を奪ったり、軍勢どうしが河原や野原で戦闘をしたり、お城に城主を追いつめて攻撃したり、もちろん暗殺や毒殺もしょっちゅうです。
政略結婚も当たり前です。幸せがどうこうよりも、まずは生き残れるかです。

ますます戦闘の規模は大きくなり、何万人という兵士の大軍勢どうしが、大きな空間で戦うようになっていきます。
戦国時代後期、基本的に戦場は、お城からどんどん離れていきます。

かんたんにお城で戦闘をして、負けたら一族が滅亡しかねません。
城主からしたら、軽々に自分の城で戦闘をしていいわけではありません。

ですから、野原や平原で両軍が戦う「野戦(やせん)」と、お城という戦場で激突する戦闘は、同じ戦闘でも大きく意味が異なります。

お城での戦闘の場合、城主側から見たら「籠城戦(ろうじょうせん)」、攻撃側から見たら「城攻め(しろぜめ)」となります。
同じ戦場ではありますが、両者の戦法は大きく異なります。


◇城攻め

お城での戦闘というかたちの中で、前述のとおり、「城攻め」や「籠城(ろうじょう)」は、攻守がはっきりした戦闘です。

近世になると、本拠地のお城を中心に周辺域で戦っていた中世とは異なる、遠方への侵略型の戦闘が中心になっていきます。
そうなると、同じ「城攻め」でも、中世と近世は少し意味合いが違ってきます。

近世の場合は、いくつものお城を順次または同時に攻撃するという場合もあります。
相手側が、複数のお城で防衛ラインをしいて、待ち構えているようなケースもあります。
おとりの城もあります。もちろん監視用のお城もあります。

中世の頃と比べると、お城は、より複雑な、より機能的な使われ方をされはじめます。

ですから、ひと言で「城攻め」とは言っても、本当に多くのかたちがあります。

急襲もあれば、スパイの潜入もあります。
大軍勢で、お城の周囲を完全に取り囲むこともあります。
大砲で遠くからの攻撃もあります。

そして、大規模な土木工事による「城攻め」も数々あります。
豊臣秀吉は、「備中高松城の水攻め」の際に、お城の周囲に、人工的に湖を造り、完全にお城を孤立化させ、戦わずして陥落させました。
徳川家康は、「大坂の陣」の際に、大坂の街を大量に破壊して、その廃材を、大坂城の外濠にどんどん放り込み、お濠を埋めてしまいました。
その時に、あの「真田丸」も取り壊してしまいました。これで、大坂城は無防備なお城になってしまいました。

他にも、お城の地下にトンネルを掘って、城内に侵入したり、石垣を破壊したりもしました。
山城への攻撃でしたら、まずは水の補給路を断ちます。土塁(どるい…土を固めて造った壁構造のもの)や、山の道も破壊します。
川の流れを変えることもあります。

お城への食料や弾薬の補給路を断つ「兵糧攻め」などもあります。

変わったところでは、「一夜城」のようなものもあります。
「お城には、お城」と言わんばかりに、短期間に、攻撃用のお城を、攻撃するお城のすぐ近くに建ててしまうものです。

現代は、工場で、ある程度、部材や構造物を作っておいて、それを現地に運び、建物として組み立てるのが当たり前に行われますが、これを秀吉が始めたのは、かなり画期的なことでした。
お城は、基本的には、現地で木材を組み上げないと出来上がりませんが、こと戦場での一時的なお城であれば、それほどの強度は必要ありません。
きちんと機能して、何となく立派に見えればそれでよしです。
秀吉は、上流の山の中で、隠れて建物の一部を作っておいて、川で運んで、現地ですぐに組み立てたのです。戦いが終わったら撤去です。
秀吉の「一夜城」は、簡単なものから、立派なものまで、さまざまありましたね。

* * *

テレビドラマの中では、武将が「あんな小さな城、ひと飲みにしてやるわい」といった台詞もよく出てきますが、そうそう簡単なことではなかったはずです。
「城攻め」は、通常、とにかく多くの人手が必要で、金もかかります。
そして、もっとも大切なのが、攻撃のアイデアなのです。

近世のお城への攻撃方法は、信長、秀吉、家康など、天下人になるような名武将たちが、しっかり教えてくれています。
アイデアが豊富だからこそ、天下人になれたのでしょうね。

前述のお城番組のように、やみくもに最初から、刀や槍、鉄砲を持って、お城の正面の門に「なだれ込む」なんてことは、よほど小さなお城への城攻め以外には、考えられないのです。


◇攻撃型のお城

前述の「一夜城」のように、お城の中には、攻撃用の拠点に特化して造られたものもあります。
その際は、防御はかなり手薄ですが、徹底的に使いやすく、兵や馬が動きやすいように造ってあります。
そのかわり、劣勢にたったときは、脆弱だったりします。
城主は、お城の役割を十分に理解して、そのお城を運用していたはずです。

もし戦力が相手と対等の状況であれば、こうした城は戦場に持ってこいなのかもしれません。
敵からすれば、防御は手薄でも、かんたんに攻め込んでいいと判断するのは危険です。
何しろ、その城内から攻撃しやすく造られているのですから。

* * *

また、他国への侵略の場合は、前線基地の役割として、攻撃と防御をバランスよく構築するでしょう。
どちらにも利用する可能性があります。

城郭の地表の全体像を示す図面を「縄張り図」といいますが、これを見ると、お城は基本的に攻撃と防御で成り立っていることがわかります。
その軍団の個性や、武将の戦い方や思想も反映します。もちろん経済力や技術力も。

近年の、歴史・史跡番組では、攻撃拠点としての「馬出し」の重要性を紹介するケースが増えてきたように感じます。
「馬出し」とは、攻撃部隊を整列させ、また準備させる敷地のことです。

前線基地の性格が強いお城の場合は、「馬出し」の大きさや形状、配置が非常に重要な意味を持ってきます。
ただ、現代では、お城の再建の際に、馬出しもあわせて再建・整備されることは、まずありません。
馬出しの跡は、たいてい駐車場や公園、お土産店、公共施設になっています。

名古屋城は、もともと、西日本の勢力に向けて造られた徳川の攻撃拠点としての性格が強いお城です。
広大で、見事な、攻撃拠点が造られました。
映画「スターウォーズ」シリーズでは、敵の軍団の惑星のような大規模基地に、たくさんの軍隊が整列しているシーンがよく登場してきます。
歴史・史跡ファンから見ると、名古屋城は、このようなイメージに近いですね。

ここで、攻撃型前線基地のお城、山、川、野原、気象現象を使った、ある名武将どうしの壮絶な戦いをご紹介します。
すべてが解明されているわけではありませんので、私の想像も若干入っていることをお許しください。


◇川中島の戦い

「甲斐(かい)の虎」といわれた武田信玄と、「越後(えちご)の龍」といわれた上杉謙信が、真ん中の信州(今の長野県)で激突した戦いです。
甲斐とは、今の山梨県です。越後とは、今の新潟県です。

戦国時代の中頃、両者は、信州という非常に重要な場所の覇権争いをしていました。
「川中島」の場所は、今の長野市のある善光寺平の南端で、千曲川(ちくまがわ)と犀川(さいがわ)にはさまれた三角形の中州です。

川中島での二人の戦いは、おおむね5回といわれています。
あの有名な戦いは、川中島の戦いの4回目のものです。
この4回目の戦いをご紹介します。

この両川にはさまれた川中島から見て、北側に犀川、南川に千曲川です。
両川は北東に向かって流れ、川中島の北東部で二つの川は合流します。
そして千曲川の南側のすぐほとりに武田の海津城(松代城)がありました。
同じく南側で、海津城の西側3キロあるかないかのところに小高い妻女山がありました。

上杉軍は、善光寺平のはるか北の越後(新潟県)から、今の長野県長野市がある善光寺平に南下してきます。
この善光寺平は、武田と上杉が覇権を争う、ちょうど境にあたります。
善光寺をとったり、とられたりといった状況でした。
善光寺とは、「牛に引かれて善光寺参り」のあの有名な善光寺さまです。

武田の海津城(松代城)は、敵から奪い取った城ではありません。
上杉と戦うために築いた最前線基地のお城なのです。

ですから、ほぼ攻撃を主として造られ、あわせて強力な防御もあったと思われます。
相当な時間をかけ、徐々に大きく整備されていったと思います。
現在、残されているお城は、中心部分だけですので、かなり小規模な印象を受けますが、おそらく当時は、かなり広範囲に土木工事を行い、この周辺一帯を使って戦闘する設計になっていたのではと想像します。
おそらく大要塞だったのではと思っています。

水を巧みに利用した、あの真田昌幸も武田信玄の家臣でしたが、この川中島の戦いの第4回目にいた確証はありません。
さて、昌幸は、どこであの水を利用する能力を身につけたのでしょう。

この海津城は、千曲川のすぐ横に築かれています。
現在は松代城で、松代の城下町とつながっています。
どことなく、真田の上田城とその城下町、そして千曲川との位置関係によく似ているような気がします。
大きな両川にほど近い、この海津城は、とてもいい教材になりそうな気がします。

真田の水の利用については、後で書きます。

武田には独自の築城術というものがありました。
ですから、武田の造った城や砦は、みな結構似ています。
どの城も、その地域の自然を巧みに利用しているのです。

武田信玄を継いだ勝頼が造ろうとした新府城は完成していなかったといわれていますが、上田城によく似ていて、完成していたら相当な規模の大要塞だったでしょう。
上田城よりもはるかに大きな人工ダムのような巨大なお濠、それに上田城のそれより数倍はあろうかという巨大な崖です。
西に安土城があるなら、東には新府城だったのかもしれません。どちらも巨大要塞でした。

川中島の戦いの頃は、海津城(松代城)の近くに城下町などあるはずがありません。
この武田の最前線基地は、私たちが想像する以上の、千曲川流域の広域を使った攻撃用の大要塞だったのではないでしょうか。
それが、いつしか街へと変貌していったのかもしれません。

そして、真田の上田合戦のときのように、千曲川や、川の水を上手に利用した構造だったのではないでしょうか。
武田は、川の流れをコントロールする術にも長けています。

おそらく武田は、この海津城を中心基地として、城の目の前の二つの川と、その中洲を、戦闘機能の一部にして、さらに北側に広がる平原と東西南の山々を上手に利用し、一大戦場とすることを考えていたと思います。

太陽は、南側から差しています。太陽を背にして戦えるのです。
戦国時代の戦闘は、その戦闘時刻は非常に重要な意味を持っています。
この両川は、実はそれほどの深さはありません。騎馬軍団は、この広い場所を縦横無尽に走り回れます。
こんな良い場所は、そうそうありません。
そんな場所で、武田は、上杉が来るのを待っていたのです。

ここまで、幾度となく上杉と戦い、決着をつけられない武田信玄は、この4回目に並々ならぬ覚悟を持っていたことは確かです。
ここで戦うための大要塞を築いていても不思議ではない気がします。

* * *

武田軍学の中に「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」という有名な一説がありますね。
武田信玄は城を築かなかったという印象がありますが、攻撃や防御の拠点という意味で、他の武将とは違う思想を持っていたのは確かなようです。
そのとおり、大きな城は残っていません。
ですが、ひょっとしたら、その地域の山や川を利用した広域大要塞のような思想を持っていたということはないでしょうか。
立派な天守閣に、こだわりはまったくなかったようです。
規模があまりにも大きいので、通常のお城のイメージで完結できるようなものではなかったのかもしれません。
昔からある山全体を使った山城での戦闘イメージを、ずっと持ち続けていたのかもしれません。

前述の一説は、一般的には、人の心情に訴えかけるような内容も含まれており、信頼に足るリーダーの姿を、想像させます。
少し斜めの方向から、この文章を見てみると、支配する領民の住む地域全体が城であり戦場であり、領民は戦う義務を負っていると言っているように感じられないこともないです。
その地域の中には、信じられる者もいれば、信じられない者もいる。見極めが肝心である…と。

武田軍は、強力なリーダーシップで運営されているようで、実は、実力ある武将たちの単なる集合体のようにも感じます。
武田信玄というすぐれた調整役のもとに、たまたま集まって協力しあっているとも見えなくもないです。
何せ、周囲には、強力な武将のいる国ばかりです。ここはひとつ、「甲斐の国」としての団結です。
甲斐の国の武将たちは、裏切りの歴史です。
武田家滅亡の際も、家臣はみな裏切って、最後は武田勝頼ひとりになってしまいます。
すぐれた調整役がいなくなると、こうも見事に崩壊するのかと実感しますね。

* * *

さて、この大要塞だったのかもしれない海津城。

上杉謙信も、このお城のチカラはわかっていたことでしょう。
どうして、この場所に造らていたのかも理解していたはずです。

このお城の周辺、まして、この城の目前の、二つの川に挟まれた中州で戦闘することは、相当な危険性があると思ったことでしょう。
おまけに、戦闘時に、自然を上手に利用する武田が相手です。
二つの川に、どんな仕掛けを隠しているかわかりません。
このまま、二つの川を渡り、海津城に攻撃をかけていいはずがありません。

昔も今もそうですが、優れたリーダーは、一か八かの賭けは、まずしません。

この川に挟まれた中州に軍を軽々に入れるのは、危険すぎます。
この戦いの時、兵力としては武田のほうが優位にあります。
上杉は、全軍どうしの真っ向勝負だと、相当に不利だったでしょう。
中州に不用意に入ったら、脱出はおろか、全滅の可能性もあります。

いずれにしても、海津城の位置や構造からみても、武田が、この中州を決戦場所に考えていることは明らかです。
上杉としたら、この中州に、どのタイミングで、どのようなかたちで入るのか、それがこの戦いのキーだと考えていたはずです。

ドラマであるならば、最高の演出をしなくてはなりません。

あるいは、戦闘の仕切り直しも考えたかもしれません。
ですが、上杉謙信は、戦う決断をします。
上杉謙信は、自分のアイデアなら勝つチャンスがあると思ったのでしょう。
でも、脱出ルートのことも、当然、考えていたはずですね。

* * *

上杉謙信は、向かっていた海津城から方向を変え、妻女山の頂上に陣をはります。
上杉軍は、「城攻め」という正面攻撃をしないと決断します。
前述のとおり、妻女山は、千曲川を渡って、海津城とは目と鼻の先です。
これ見よがしの挑発行動です。

武田信玄も、海津城に入ります。
この上杉の動きには、相当に警戒したはずです。
相手がどのような作戦を考えているか、武田内部で相当に検討したでしょう。

ですが、この大要塞と、二つの川という立地条件です。
上杉がもし逃亡するにしても、戦うにしても、この山を下りるしか選択はありません。
待っていれば、必ず、山を下り、この二つの川を渡るはず…、そこで決戦をすればいいと思っていたのかもしれません。
とにかく待ってさえいれば、勝利は転がりこんだのかもしれません。

ですが、武田は先に動きます。

武田の作戦はこうです。
山の上にいる上杉軍に向けて、山のふもとの武田軍の半分以上が密かに山を登り、急襲して、山のふもとに追いたてます。
山のふもとでは残りの武田軍が待ち構えていて、はさみ打ちにするというものでした。
それも、あえて霧の中で、一方は山を登り、一方はふもとで待つのです。
「キツツキ戦法」と呼ばれていますね。
「キツツキ」という鳥は、クチバシで木をコツコツとたたいて、おどろいて出てきた虫を食べるのです。

この武田の攻撃のタイミングが、上杉が千曲川を渡るその時なのか、渡ってから中州には入ったときなのか、今となってはわかりません。
それが起きなかったのですから…。

これは武田軍の軍師・山本勘助が考えた作戦ですが、後に、まんまと上杉謙信のワナにはまったことがわかります。
山本勘助は、責任を感じたのか、この戦いで命を落とします。
できれば、もう一度、チャンスをあげたかったですね…。
戦国史に残る名軍師ではありました。

* * *

上杉は、海津城攻めではなく、別の戦い方を選択したのです。

武田軍の騎馬軍団の強さは当然知っていましたので、まずは軍団のチカラを二つに分けようとしたのです。
山の上に陣をはることで、武田軍に、「キツツキ戦法」のような作戦行動をとらせるためです。

ただ、この二つの軍団にはさみ打ちにされたら、二つに分けたことにはなりません。
この二つの軍団とは、同じ時間に戦わない方法を考えました。
同じ時間に、この二つの軍団が、戦場にいないようにしたのです。

ですが、いずれ、もうひとつの軍団は時間差で、その戦場にやってきます。
上杉にとっては、それまでのあいだに決着をつけることが、この戦いの最大のキーとなります。

もうひとつの軍が戻ってくるまでに、決着がつけられなければ、戦場から脱出するしかありません。
上杉は、このわずかな時間に、すべてをかけることを決断したのだと思います。

この決断、上杉謙信らしい気もします。
謙信とは、そうした武将です。
何か、戦いを楽しんでいるようにも感じられて、ちょっと恐ろしささえ感じます。

武田は、まさかそこまでと、油断したのでしょうか。
毘沙門天(びしゃもんてん)の化身を、見誤ったのかもしれません。

* * *

上杉は、武田が動き出すのを、じっと待っていました。
待ちすぎて、食料が危なくなってくるほどだったといわれています。
武田軍による「兵糧攻め」のひとつです。

霧が確実にあらわれる前日、武田軍の半分以上が山に登り始めます。
キツツキ戦法の始まりです。

しかし、その武田軍が、山頂にたどり着く直前に、上杉の全軍は山を下りていました。
武田軍が利用した霧を、上杉軍もまた利用しました。
上杉は、武田軍が霧を利用することも予測していたはずです。

前日に、上杉が、武田軍の炊飯の煙で察知したというお話しは、上杉の行動の理由を証明できないことによる、後世の作り話だと思っています。
おそらくスパイ活動の成果や、あの霧の前兆、それに上杉側が先に武田を誘発させたのかもしれません。
食料が尽きたので助けてくれとか言って、裏切ったふりをして、敵軍の陣に兵士がやってくることなど、この時代は当たり前です。
まさか、武田がそんな手にひっかかるとは思えませんが、飯炊きの煙で敵に察知されるようなことも、まず考えられません。
いずれにしても、上杉が察知してか、予定通りか、山を下りたのは確かです。

今なら、武田は、味方に携帯ですぐに連絡できるでしょうが、当時はできるはずはありません。
おまけに、深い霧です。すぐ目と鼻の先なのに、合図も送れません。
霧を上手に利用するつもりだったのは武田だけではありません。上杉もです。
最終的に、霧は、どちらに味方したのでしょうか。
今回は、上杉でしたね。

軍勢が半分以下に減ったふもとの武田軍は、両川の中州の川中島で、霧の中、山を下りてくるはずの上杉を待っていたはずです。
そして、霧が晴れてきた中、そこに、立っていたのは、無傷の毘沙門天!
上杉謙信です。
おまけに、すでに、千曲川を渡った後です。

どうして、ここに上杉謙信が!

ここにいる武田の軍勢だけでは、到底、上杉軍に歯がたちません。
とにかく、山の上に登った武田軍がふもとに戻ってくるまで、何とか持ちこたえるしかありません。
意気揚々と攻撃するつもりが、一瞬で、防御側に回ってしまいました。

ここからは、上杉の猛攻撃と、武田の防戦がはじまります。
この時に、武田軍の大事な大事な有力武将たちが、次々に命を落としていきます。
信玄の、優秀な弟までが死んでいきました。
このことは、後に、武田家滅亡の遠因につながっていきます。

しかし、上杉軍にはタイムリミットがあります。
そうそう、時間をかけてはいられません。

ここで伝説の一騎討ちが始まります。

一騎討ちが実際にあったかどうかはわかりませんが、ドラマなら、あまりにも劇的な場面です。
山から戻ってきた、もうひとつの武田軍は、もう すぐそこまで来ています。

上杉謙信の太刀と、武田信玄の軍配が、激しくぶつかる音が響き渡ります。

ドラマなら、戦場の時間が一瞬止まって、この二人だけが動いていますね。
最後は両者がにらみあって、上杉謙信はこの戦場を去っていきます。

どの作家が、こんな劇的な演出を作ったのでしょうか。
真偽にかかわらず、このシーンは、後世も、変更されることはないでしょうね。

ふもとの武田軍が敗北寸前のときに、山の上から、もうひとつの武田軍が、山頂からやっと戻ってきました。
何とか間に合ったのです。
戦局は一変し、今度は、上杉軍が絶対不利の状況になります。
そして、やっとの思いで、上杉軍は、この戦場から脱出します。

この脱出劇の時間のあと、この戦場には、どのような光景が広がっていたのでしょう。
両軍とも、想像だにしていなかった光景に違いありませんね。

* * *

さて、このときの上杉軍の規模で、海津城周辺で、全軍どうしの激突が起こっていたら、上杉軍はおそらく大敗したように思います。
上杉が、勝利か、脱出か、両方の可能性にかけるには、この戦法しかなかったように思います。
大敗は絶対に許されません。

この戦いは、どちらが勝利したとは言えません。
両者とも、ダメージを負い、帰国してゆくのです。

* * *

私がひとつ思うのは、なぜ、武田が山に登る軍勢の人数をあそこまで大量投入したのかということです。
おそらく、信玄には、今回は、謙信を絶対に逃したくないという意志が強くあったのかもしれません。
その一心が、自分の身を守ることを忘れさせてしまったのかもしれません。
山の上で、確実に戦闘を行うと想定していなければ、軍勢のこの大量投入はあり得ない気がします。

大量投入でなければ、思い通りに上杉は山を下りてこないのは、もっともですが、もし先に上杉が山を下りていたら、自分の身がかなり危なくなります。
どちらが優先でしょうか。
まあ、4回目ともなると、敵を倒したい一心になるのは わかりますが、あの武田信玄が…。

武田軍は、「キツツキ戦法」を見破られたときのリスクに、まるで準備していなかったのは事実です。
この過大な自信と勝ちたい一心がなかったら、山のふもとに、もう少し軍勢を置いていたでしょう。
それに上杉に千曲川を渡られてしまうという失態もなかったでしょう。

もし、ふもとの武田軍の軍勢がもう少し大きければ、上杉は戦闘をせずに、脱出だけを行ったかもしれません。
上杉は、山のふもとの武田の軍勢の規模を見て、戦うことを決断したのだろうと想像します。

* * *

もうひとつ思うのは、両軍のどちらかに、地元の信州勢ではない、他の有力な武将が援軍に来ていたら、おそらく決着がついたであろうということです。
今川でも、北条でも、最上でも…。この頃に、まだ連合軍という発想はありません。
中世から近世に変わっていく時代は、まだ「戦国の世」の進化過程の段階かと思います。
まだ、有力武将どうしは、同盟関係が関の山です。
後に、織田信長が合理主義を持ち込んできますが、まだまだ、そんな考え方は、戦国時代の主流ではなかったのかもしれません。

この「川中島の戦い」から、大軍勢どうしの戦いでは、有力武将といえど、もはや単独の軍では勝てないことを意味しています。

有力武将が集まる連合軍や、前述のリスクマネジメントなどの思想は、この後の、信長、秀吉、家康の時代に進化することになります。
最後の家康の「関ヶ原の戦い」では、日本が二大勢力にまで発展し、分かれて対決します。そして、勝ったほうが日本をおさめることになります。
ここで、戦国時代は終わりとなります。

そういう意味で、「川中島の戦い」は、中世の武将の最後の戦い方ともいえますね。
まさに、大将どうしの「一騎討ち」とは、そのことを暗示するお話しなのです。
この後の戦国時代の戦闘では、「一騎討ち」という武将の美学は、完全に消滅することになります。

この二人は、5年の違いはありますが、ほぼ同じ時期に亡くなったといえます。
神様が、ほぼ同時に、この二人を戦国時代から消滅させてしまうとは…。
この後、信長、秀吉、家康という新しいタイプの武将に、歴史は引き継がれていくことになります。

中世の古き武将の姿、それが、上杉謙信と武田信玄ではないかと思っています。

* * *

この戦いには、城、山、川、霧、戦法、勝負のチャンスなど、多くのものが凝縮されています。
おまけに、両軍とも、攻撃側だったり、防御側だったり、目まぐるしく立場が入れ替わります。
こんな互角の戦いは、日本史上でも、ほとんど例がありません。

いずれにしても、上杉謙信は、武田軍の軍師・山本勘助には完全に勝利しました。
ですが、最後の壁である武田信玄には勝つことはできませんでした。
武田信玄も、敗退という結果にならず、ひとまず安堵したことでしょう。

合戦では、戦略だけではない、何か人間らしい思いや心理が強く影響してしまうことが多くあります。
「川中島の戦い」もそうでした。
これを乗り越えたものだけが、天下人になっていくのですね。
上杉謙信と武田信玄、天下人まで もう少しだった武将たちです。


◇敵に塩をおくる

旅ファンの皆様に、もうひとつ、この二人に関連した、素敵なお話しをご紹介します。
古きなのか、昔も今もなのか、わかりませんが、ちょっと考えさせられるお話しです。

「敵に塩をおくる」という言葉表現を、皆さまもご存じだと思います。
苦境の状況にある敵やライバルに、助けの手を差し伸べるいうことです。

これは、一応、この言葉の現代人の一般的な解釈です。
現代での使い方としては間違いではありませんが、実は、この言葉のもととなった事がらは、こうした意味とは違うのかもしれません。

おそらく、もとの事がらは、「情けは人の為ならず」や、「敵に味方する」こととは、まったく意味が異なります。

この表現は、実はこの二人のエピソードが由来となっています

* * *

このお話しの前に、簡単にこの頃の状況を書いておきます。

武田信玄の甲斐の国(今の山梨県)は、ご存じのように、太平洋、日本海、どちらの海にも、まったく接していません。
ですから、太平洋側の海のある国々から塩を買っていたのです。
甲斐の国は、金は豊富です。

武田の甲斐の国は、今の静岡県の今川家、今の神奈川県の北条家と、「三国同盟」を結んでいました。
軍事関係も安定しています。ですから、塩も安定的に入ってきていました。
だからこそ、今の新潟県の上杉軍と、安心して「川中島の戦い」を行えたのです。

武田が、北条と今川のもめごとの仲裁に入ったり、この三家の長男に、それぞれの家から嫁をとつがせ、親戚関係になっていたりと、関係性は良好でした。

そこに大事件が発生します。
今川義元が、織田信長に「桶狭間の戦い」で敗れるのです。
でも、今川家はまだ滅亡したわけではありません。

武田は、三国同盟よりも、織田や徳川(今の愛知県)と組んで、静岡県の今川を倒すことを決断します。
三国同盟の崩壊です。
だから、新潟県の上杉と戦うことを、やめるのです。
それで「川中島の戦い」は、時を同じくして終了します。

海を持たない武田は、いつの時代も、海に、並々ならぬ執着を持っていました。
海のない国の領主は、みな同じです。

静岡県の今川、神奈川県の北条は、武田の裏切りに激怒し、山梨県の武田に塩を送ることをストップします。
だからといって、愛知県から塩が入ってくることはありません。

しばらく後に、武田は、今川を滅ぼして、念願の海を手にしますが、まだそれまでには年月がかかります。
この時に、武田は存亡の危機に陥るのです。
まさか、武力ではなく、塩で滅亡するのか?

ここで、毘沙門天の上杉謙信が登場します。
「それなら、日本海のある新潟県から塩を送るよ」

それにしても、川中島で5回も死闘を繰り返して、決着がついていない相手に、生きる上で最重要な塩を送るとは…。

周囲の国は、驚がくしたでしょうね。
いったい、あの二人はどういう関係なんだ…?
上杉謙信とは、どういう武将なのだ…?

ひょっとしたら、この上杉の行動がなかったら、この時点で、武田家は滅んだ可能性が高いとも思われます。
上杉謙信という人物…、本当に毘沙門天だったのかもしれません。

その後、今川は武田に滅ぼされ、武田は織田・徳川に滅ぼされ、上杉は織田に勝利しますが徳川に破れ、北条は豊臣に破れ、豊臣は徳川に滅ぼされます。
武田、今川、北条の長男たちは、みな哀れな最期をむかえました。

戦国時代も、ついに、ここまで来ました。
目まぐるしすぎて、もし、この時代にニュース番組があったら、毎日が大事件だらけですね。

* * *

皆さまも、人が生きていく上で、塩がいかに大切なものかは、よくご存じだと思います。

そんな大切な塩を、上杉謙信は、なんと宿敵の武田信玄に送ったのです。
一年半ほど、続けられたようです。

私は、「川中島」で幾度となく繰り返された死闘と、この塩の話しは、まったく別の次元の話しだと思っています。
戦国時代特有の政治的な理由でもなかった気がします。

現代の、言葉通りの「敵に塩をおくる」意味とは、少し違うものが、その中にあったのではないでしょうか。

後で、武田信玄の遺言の話しを書きますが、信玄は、おそらくそれに気がついたと思います。
上杉謙信は、戦うべき相手ではなかったことに…。


◇塩の道は、人の道

実は、この塩を送る話しは、しっかりとした正式の文献には残されていません。

私は、上杉謙信が、文字に残させなかったと思っています。

実は、この「敵に塩をおくる」という表現は、あくまで第三者から見た表現なのです。

文字で「上杉謙信が、敵である武田信玄に塩をおくった」と残されると、その意味を誤解されてしまう可能性があると考えたからではないでしょうか。
事実、現代でも、この通り、謙信の行動の本来の意味が少し違ってしまっています。

謙信が、塩を送った相手は、信玄ではありません。
甲斐の民に、塩を送ったのです。
敵ではなく、民に送ったのであって、民は敵ではありません。
民の中に、信玄がいようがいまいが、謙信には関心はなかったでしょう。
毘沙門天なら きっとそう為さるだろうと、謙信は思ったのかもしれません。
いや、毘沙門天に代わって、それを行ったと思っていたのかもしれません。
謙信は決して、塩といっしょに、「恩」を送ってはいないと思います。
上杉謙信とは、そういう武将だったのだと思います。

この時代は、生死をかけた戦国の時代です。
目先のビジネスや、恩や義理などが、通用する時代でもありません。
でも、人は何かを信じようとしているはずです。
謙信は、武将の存在意義や「人の道」をいつも考えていた人物だったのかもしれませんね。

そう考えると、一見無謀と思われるような、川中島での、あの神がかり的な戦い方も理解できる気がしてきます。
彼は、戦場で敵と戦っていたのではないのかもしれません。
彼が戦っていた相手は「敵」でなく、「悪」だったのではないでしょうか…。

武田信玄は、この謙信の行動で、それを理解したのかもしれません。
信玄は、家宝の名刀を、塩の御礼に、謙信に贈るのです。
そして、彼の遺言の中にも、それが登場してくるのだと思います。
そのことは、後で書きます。


◇スーパー・ボランティア

「塩をおくる」という行為を、もし越後の仏教の高僧が行ったものであったら、「敵に塩をおくる」という表現になったでしょうか。
おそらく、「他の国の民に塩をおくる」となったでしょう。
現代なら、支援物資を外国に送るようなことです。

あくまで想像ですが、「敵に塩をおくる」は、「情けは人の為ならず」のような内容に都合よく解釈され、現代まで伝わってきたのではと思っています。
あるいは、謙信を、並の武将の基準でとらえてしまったとも思われます。

「人の為ならず」のような意味は、決して悪いものではありませんが、本来の謙信の行動の意味とは、だいぶ違うような気がします。
「敵に」が加わることだけで、意味がまったく変わってしまったのではないでしょうか。
謙信は、文字にすると、そのように外部に解釈されることは、十分わかっていたことでしょう。

武将は、戦いや土木工事、名言、エピソードなどで、歴史上にその名が残っていることが多いですが、ボランティア行為というのは、非常に例が少ないように思います。自分の領国でなら当然の行為ではありますが、他の領国というのは異例です。
当時の甲斐の国(山梨県)は一応、「関東管領(かんとうかんれい)」がおさめる10か国の中に入ってはいましたが、すでに「関東管領」は名ばかりのものでした。
上杉謙信が、最後の「関東管領」といわれるゆえんは、ここにもあります。
まさにその行為は、関東管領のそれといえるのかもしれません。

ある意味、彼が残した多くの足跡やエピソード、奇行の数々の中で、私は、もっとも称賛できるものが、この「塩をおくる」行為ではなかったかと思っています。
この行為によるビジネス上の利益や、武田からのお返しが、期待できるものではありません。
ですが、この行為によって、その世の人たち、後世の人たちから、彼が得たものは、たいへんに大きかったと思います。
今現代でも、彼はしっかり、その他の武将たちとは違う、カリスマ性のある確かな存在として残っていますね。

歴史の中には、こうした、本来の意味と、後世に伝わった意味あいが異なることが少なからずあります。
今回は、「敵に塩をおくる」という表現で、両者とも、良い意味あいのものですので、それはそれでいいのかと思っています。
この言葉表現が存在しないで、「塩の道」だけでしたら、彼の行為そのものが、歴史の中から消えてしまっていたかもしれません。
当時の方々が、この行為の意味を、何とか残そうと考えたのであれば、「敵に塩をおくる」という表現でも、私は十分、納得します。

謙信とは、行為の規模は違いますが、昨年、「スーパー・ボランティア」といわれた、元気なお爺ちゃんがいましたね。
気持ちはあっても、誰でも行えるような行為ではありません。実際に、ひとりの子供の命を救ってくれました。
「私には、なかなかできない」と思った方も多いのではないでしょうか。
称賛に値する行為ですね。

謙信のこの行為に、「情けは人の為ならずならできても、さすがに、この行為は、私にはできない」と感じた他の武将も多かったことでしょうね。

いつの時代でも、為政者には、「スーパー・ボランティア」の精神を持っていてほしいものですね。


◇三国塩関係

このように、残された多くの史料には、常に二面性があるものと思っています。
まさしく、今回の「旅番組シリーズ」も、この二面性を紹介しているものです。

さて、武田信玄が上杉謙信に、塩の御礼で贈った刀剣は、今も、「塩留めの太刀」として、実際に残されています。
上杉家に代々、家宝として伝えられたもので、重要文化財です。

よく、時代劇ドラマの中では、武将どうしで、名刀のやりとりがありますが、実は、とんでもないことなのです。
現代のプレゼント交換とは、その重さがまったく違います。
大事なコレクションの中からひとつ差し上げますということでもありません。
想像するに、娘を嫁にとつがせる父親のような心境と意味合いでしょう。

* * *

さらに、裏付ける内容があります。
甲斐(山梨県)と越後(新潟県)の間にあたる長野県から新潟県にかけての千国街道は、「塩の道」と呼ばれています。今でも呼ばれています。
長野県松本市の松本城の近くには、塩を運ぶ牛車の牛をつなぎとめる「牛つなぎ石」というものも、残っています。

松本市の南側に塩尻市という市があります。
その名の由来は諸説あるようですが、この塩尻市は、武田領である諏訪のすぐお隣です。
ようするに、塩を運ぶ終着地点です。関係がないとは思えない気がしますね。

実は、この「塩の道」の周辺には、ある言い伝えがあります。
この塩の道では、「北(新潟県)から来る人々には、道をゆずってあげなさい」という風習が残っていたというのです。
今なら、「被災地に向かう救援物資を運ぶ車を、先に行かせてあげなさい」というようなものです。
上杉謙信のこの行動が、いかに当時の庶民に、理解され、尊敬されていたのかが、よくわかります。
戦国時代といえども、人の心は、ちゃんと生きていてくれましたね。

長野県出身の私としては、新潟県・長野県・山梨県の、この「三国塩関係」は、うれしい内容ですね。
この塩は、もちろん「良縁(良塩)」です。

* * *

旅ファンの皆さま、次に、長野県長野市の川中島古戦場に行かれたときは、
信玄と謙信の一騎討の銅像だけでなく、周囲の山なみも見てみてください。

霧がかかったときの千曲川を想像してみてください。

霧が晴れた瞬間、目の前に武器を手にした敵が立っているという恐怖を想像してみてください。
まさにゾンビ映画や恐怖映画のようです。

勝利するにも、タイムリミットがある。それを超えたら死の危険があります。
これも絶大な恐怖ですね。

この場所は、武将たちが、すべてをかけて戦った場所であることを、どうぞ感じてみてください。

そして、この二人の銅像の中に、敵対関係だけを想像しないでください。
宿敵、政治的思惑を超えた、何かがあることを、どうぞ感じてみてください。



◇信玄の遺言

上杉と武田のお話しの最後は、武田信玄の遺言について書きたいと思います。

武田信玄の遺言については、真偽はわかりません。
ただ、その一部は裏付けらているような部分もありますので、まったくの作り話とも言えない気がします。

「三年は、その死を隠し影武者をおけ。必ず、甲斐の国の中で、信長と戦え」は、見破られたり、実行しようとはしたができなかったことなどがあります。

この遺言の中に、「私の死後は、上杉謙信を頼れ。…信長の上に立てる奴は、謙信しかいない」という部分があったといわれています。
現実に、織田軍は上杉軍に大敗します。
ですが、謙信は、信玄の死から5年後に、突然亡くなってしまいます。これで、上杉の天下取りの挑戦は終わります。
謙信の死から4年後に武田家は滅亡するのです。

実際に、信玄の息子の勝頼は、謙信を頼ることはありませんでした。
息子とはいえ、他の家の父親の知り合いを頼れと言われても、その意味がわかるはずはありませんね。
武田内部の家臣の大半に裏切られ、武田は滅びます。頼るべき謙信は、すでにいませんでした。

前述のとおり、この遺言の真偽はわかりません。
ですが、このとおりであったとしても、不思議ではない気がします。

同じ時代に、それも お隣どうし…、謙信と信玄、その名のとおり、裏返しのようで、似た者どうしだったのかもしれません。

この二人が、もっと長生きでしたら、ひょっとしたら強力な連合軍となって、天下をとったかもしれませんね。
この二人の連合軍だったら、信長軍は手も足も出なかったでしょう。信長は家来になっていたかもしれません。
状況が状況でしたら、この二人、いい同志になっていたかもしれませんね。

歴史とは、不思議なものです。


◇高度な頭脳戦

このように、二人は、川中島で5回も大きな戦いをしても、とうとう決着がつきませんでした。
二人とも、アイデアが不足していたわけでは決してありません。
戦闘が下手なわけでも、決してありません。
二人とも、日本史上、屈指の戦闘の上手さです。

たいがいは、どちらかのアイデアが勝つものですが、最高度のアイデアどうしがぶつかると、こういうことがおきるのです。
そういう意味では、上杉謙信は、武田信玄の頭の良さと性格を利用したともいえますが、実力者として認めていた証です。
だからこそ、このような作戦を考えたのでしょう。

4回目の戦いは、上杉軍の軍略のすごさと、この状況でも負けない武田軍の底力を、日本中の他の武将が思い知ることになりました。
織田信長にとっても、この二人は特別な存在になりましたね。

* * *

戦国時代後半、毛利元就、上杉謙信、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康と…、
武将の戦い方は、高度な頭脳戦のレベルにまで達します。
お城は、まさに、武将の必勝ツールになります。
お城を造る能力、維持する能力、使いこなす能力が、名武将としての条件となっていきます。

今の時代でしたら、みな大企業の創業者であったはずです。
現代の社長さん方も、自分の城を守るのに、考えて、考えて、考え抜いていることと思います。

時に攻撃側、時に防御側、時に動きを止める…など、いつの時代も、「城を守る」のはたいへんなことですね。


◇城を守る

さて、あれやこれやの「城攻め」に対して、城に立てこもっている籠城(ろうじょう)側も、黙ってはいません。

山城であれば、人工的な土砂崩れを…。
山の上から、石や丸太を落として…。
深い谷におびき出し、両側から総攻撃を…。
山道に迷路を作って惑わして、総攻撃を…。
川にダムを造って大放流を…。
街にあえて火を放って…。
などなど。

次回の第4回では、お城自体の防御構造の一部を、ご紹介する予定でおります。

「川中島の戦い」での海津城は、前線基地の役割でしたので、かなり例外ですが、通常の「城攻め」では、たいがい事前に、城主側が軍事的に不利な状況にあり、お城に追いつめられていることのほうが圧倒的に多いです。

「城攻め」は、防御側の城主からすれば、圧倒的に不利な状況です。

すぐに降伏してもよさそうですが、そうしないのは、実は、いろいろな意味があります。
敵に屈するわけにはいかないという心情だけでは、そうはなりません。

攻撃側からみても、圧倒的に有利な立場だから、楽な気持ちでというわけにもいきません。
上杉から見た海津城がそうでしたね。

* * *

山城の場合、その山域は広大で急峻です。
どんなワナが仕掛けてあるのか、事前にすべてを把握できません。
相手側が、わざと山域に誘い入れることもあります。
城攻めのつもりが、実は背後の山城とで、はさみ打ちにされたということも、たくさんありました。

中世の山城は、建物自体の構造はまだまだ弱いものでしたが、自然の地形や特徴をいかした防御が多く、建物以外の構造物は、非常に堅固です。
おまけに、その構造の複雑さと自由度は、平地の平山城や平城以上です。

中世のお城の石垣は、まだまだ高く積み上げることはできませんでしたが、そこは土で造った土塁(どるい)です。
たとえ大雨で崩れても、短期間で改修できます。石や木材など、材料は山にいくらでもあります。
おまけに、その工事の様子は森の木々で隠されていることもあります。

山中の、川も、池も、森も、道も、谷も、みな武器にできます。
山城の場合、籠城が不利だとは、まったく言い切れません。

山が連なる山中の山城でしたら、城主の脱出ルートはたくさん造れます。
実際に、脱出して、再起を果たした山城の城主はたくさんいました。

それなら、ずっと山の中にお城を築いていればいいのに…と思われるかもしれませんが、そうもいきません。

* * *

中世の戦い方は、少数精鋭の騎馬軍団や、農家から徴兵した歩兵部隊がまだまだ中心です。
山深い山中では、かなり動きにくいですね。農地からも遠すぎます。
中世の頃までは、戦闘は、農繁期や農地を避けるのが、暗黙のルールでした。
当然、食料や農家がなくなったら、人は生きていけません。
ですが、近世になると、このルールを侵して、稲を勝手に刈り取る作戦も横行し始めます。

近世になるにつれ、馬は増え、大騎馬軍団や、職業軍人による戦闘専門の軍隊が組織されていきます。
もう農繁期の影響を受けません。一年中、戦闘できます。

大規模な鉄砲隊、馬防柵や城をつくる専門の土木要員、武器を開発する要員、石垣専門の業者なども登場してきます。
もちろん軍資金を調達するためには、貿易や商人が必要です。
兵士たちには、遊興や文化の時間も必要になってきます。

山の中だけにいて、そんなことは、できませんよね。

お城は、中世の終わりごろから、山を下りてくるのです。
農地や街を守らなければなりません。人も、武器も、馬も、お金も集めなければなりません。
お城は、その時代の状況にあわせて変貌していきます。

お城の役割と変遷については、次回の第4回「旅番組とお城②」に書きます。


◇「籠城」の目的

「籠城(ろうじょう)」のお話しに戻します。
山城での籠城のことは、先ほど書きました。

では、平地にある「平城」はどうでしょう。
「山城」での籠城よりも、不利に感じます。
そのとおり、どこからでも見えてしまいます。脱出もむずかしそうです。

ですから、平城での「籠城」や、「城攻め」を受けることは、山城とは意味が異なります。
ほぼ、脱出は不可能の前提に立たなければ、「籠城」はできません。

もちろん、敵に、その状況まで、追い込まれているのは当然のことです。
敵を城に誘い込んで、敵将の首をとることなど不可能です。

では、なぜ籠城するのか。

戦国時代には、籠城により時間を稼いでいるうちに、味方の軍団が、遠方から援軍に来てくれて、命拾いしたというケースもたくさんありました。
場合によっては、城攻めしている敵の軍団を、はさみ打ちにもできる可能性もあります。それで戦局は一変します。

実は、あの「関ケ原の戦い」はこの変形型です。
大垣城で石田三成自身は、「籠城」しているつもりではなかったと思いますが、いつしか「籠城」のようなかたちに追い込まれてしまいます。
そこが家康のすごさです。
気がついた三成は、大急ぎで大垣城を脱出し、あの関ヶ原に向かいます。
家康は決して、「城攻め」をしていません。
ですが、これも、変形「城攻め」なのです。正確には、三成に「城攻めを受けたら、たいへんだ」と気がつかせたのです。
巧みな関ヶ原への誘導作戦です。

このお話しは、「旅番組シリーズ第1回」をご覧ください。

その他に、籠城の目的は、敵との和解交渉、条件交渉のための時間稼ぎです。
両軍とも、軍団の中には、交渉に反対する勢力が必ずいます。
いつ、交渉決裂がおきるかわかりません。油断はできません。
籠城の手は緩められませんね。

本当に、もう策がないというときは、城主の自刃や脱出までの時間稼ぎです。
あとは城内の家族を敵に届ける時間です。
「城攻め」をしないかわりに、責任は城主だけがとって、残された者たちは許されたというケースはたくさんありました。

籠城中の城主は、城内の攻撃軍を立て直す時間も余裕もありません。
近世の平城では、時間稼ぎが、ほぼ籠城の目的となります。
籠城風に見せかけて実は攻撃するというのは、平城では、まず上手くいきませんね。

現代のように、上空からヘリコプターを使って、天守閣から脱出などできません。
平城で、「城攻め」を受けることは、ほぼ最終局面に近いことを意味しています。
お城の中に、脱出機能を造って、実際に城主がそれを使ったという話しを、私は知りません。

「城攻め」を受けるということは、すでに軍事的に不利な状況になっているはずです。
実際の「城攻め」に進む前の段階で、政治的に何とかするのが、城主の務めです。
現代でも、同じですよね。


◇真田の上田合戦

戦国時代後期の近世に築かれた平城で、「城攻め」をされて、「鉄壁の守り」から勝ち戦に持ち込んだケースなど、ほぼありません。
ただし、勝利をどういうかたちに考えるのかによって、結果は少し違って見えてきます。

ここで、城攻めを受けながらも、見事に目的を果たした、武将の親子のお話しをご紹介します。

信州(今の長野県)は上田城の、真田昌幸・幸村の親子は、「籠城」しながら、同時に「攻撃」するという「離れ業」の持ち主でした。
実は、敵の中には、幸村の兄の信幸もいました。

そのあたりのいきさつは、「旅番組シリーズ第1回」をご覧ください。

この上田城の「上田合戦」は、攻撃側が徳川軍で、防御側は真田家です。
真田昌幸・幸村親子は、上田城周辺地域全体を使って、徳川の大軍団に立ち向かいました。

徳川軍をお城近くの川におびき出し、隠しておいた人工のダムの水を一気に放流し、敵兵を押し流したりもしました。
上田の街の各所に、さまざまな攻撃システムをつくり、そこに敵兵をおびき出し、ゲリラ戦を繰り広げました。
お城だけでなく、街や、周辺の山や川、全体を使って戦ったのです。

上田城周辺域が、広域の大要塞のようになっていたのかもしれません。
上田城周辺の山には山城だらけです。偽装の城から、よくわからない戦闘用施設まであります。
いったい、この地域は戦国時代にどのような風景だったのでしょう。想像ができません。
真田十勇士の土地ですから、それはすごいはずですよね。

基本的に、城攻めを受ける側は、敵をおびき出して叩くのが、定石です。
ですが、敵を追い払うのがやっとで、敵の大将の首をとることは、まずできません。
籠城戦は、「お城を守る」ことに徹しないと、逆にスキをつかれて、かんたんに負けてしまうこともあります。

このように、「城攻め」と「籠城」は、同じ戦場であっても、考え方も戦い方も、まったく違うのです。


上の写真は、今の上田城の「やぐら」と崖です。
崖下は千曲川の一部で、尼が淵と呼ばれ、川が流れていたそうです
この高台の向こう側に、大きなお濠と、まるで人工ダムのような巨大プールがありました。
今は野球場や陸上競技場になっています。そのくらい巨大です。
この写真の二つのやぐらの両側に石垣づくりの橋があります。

実際には使われませんでしたが、いざという時に、この両側から、写真にある崖下の広い部分に大量のお濠の水が放流される構造だったようです。
大量に放流しても、すぐに上流の川からお濠に水が供給できる構造でした。

通常、お濠の水は防御に使うものです。

秀吉のように、攻撃する側が「水攻め」のために水を利用することはありますが、防御側がお城の濠の水を使って「水攻め」をしようとは、すごい発想としか言いようがありません。
これは、前述しました武田流の築城術のひとつです。武田のお城には、こういった施設がついている場合があります。

この写真の場所ではありませんでしたが、上田合戦の際に、真田は、実際に、上田城近くの神川のダムの大放流作戦を行い、徳川軍に甚大な被害を与えています。

真田家は、神出鬼没すぎて、どのように、とらえていいのか、よくわかりません。
ですが、この発想が、「大坂の陣」の際の、大坂城の「真田丸」へとつながっていったのは確かですね。
もし、あの時、大坂城に真田丸が四つ、五つあって、真田幸村のコントロールの中、戦闘が行われていたとしたら、歴史はどうなっていたかわかりません。

徳川方で生き残った幸村の兄、信幸の居城だった沼田城(群馬県沼田市)も、北関東一の名城だったと言われています。
真田の沼田城は、今は面影もありませんが、やはり崖と巧みな仕掛けがあったようです。
そりゃ、徳川からみたら、真田の城は、見たくも残したくもありません。江戸時代に破壊してしまいます。

* * *

真田家から見たら、「上田合戦」は、上田城から敵を追い払っただけで、決して徳川軍の大将の首をとったものではありません。
「追い払う」という時間稼ぎの戦いを、しっかりと、やりきったということです。
「関ヶ原の戦い」における役目は、しっかり果たしました。

この戦いの攻撃側の武将は、徳川家康ではなく、息子の秀忠でした。
「城攻め」の成否は、守る側の武将よりも、攻撃する側の武将の力量に大きく左右されます。

片田舎の、小さなお城の単なる「籠城」や「城攻め」と思うのは、実は大きな間違いです。
後に、この「上田合戦」は、日本史に大きな影響を及ぼすことになります。

このあたりのお話しは、「旅番組シリーズ第1回」をご覧ください。

こうした内容になってくると、もう単に、「籠城」とか「城攻め」の範ちゅうを超えていますね。
このあたりで、「戦国時代」は、いよいよ佳境に突入していくのです。
深い霧の中に、平和の光が、ぼんやりと…。

このように、「お城」の存在は、現代とは くらべものにならないくらい、その世の中で、大きなものだったのです。

* * *

旅ファンの皆さま、次に、長野県上田市の上田城に行かれた際は、上田城のあの崖や、かつての人工ダム、上田の街の中の防御システムも、見てみてください。かつて崖下には、千曲川が流れていましたよ。

上田城は、真田家の頃の姿ではありませんが、面影は随所に残っているともいわれています。

真田の「崖っぷちぶり」…、どうぞ一度、ご覧ください。

* * *

女性の皆さん…
崖とか、水とか、男って、よくこんな事を考えつくものですね。

あなたの家の小さな武将たち、砂場で何かおしゃべりしながら、遊んでいませんか。

小さい頃から、こういうの大好きなのです。


「旅番組とお城 ②」へ続く)


2019.7.15  jiho
Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.