「映像&史跡 fun」は、映像・テレビ番組・史跡・旅・動画撮影のヒントなどをご紹介するコラムです。


「旅番組」シリーズ(4)
旅番組とお城 ② / 四百年の眠りから…


「旅番組とお城 ①」からの続き)


前回コラムでは、マニアックな目線、戦国時代の概要、城攻めと籠城、川中島の戦い、上田合戦などについて書きました。
旅ファンの方々には、わかりやすかったでしょうか。
できるだけ、興味を持っていただけそうな部分だけをピックアップしたつもりです。

実は、戦国時代の戦闘や築城などの分野は、軍学や、築城術という学問にまで到達しています。
本コラムは、あくまで読み物で、解説コラムではありませんので、あまりにもマニアックな部分の説明にはふれません。
実際の旅のおともにできるとか、暮らしの中のちょっとしたトリガー(きっかけ)になってもらえるような内容を選んで、ご紹介したいと思っております。

* * *

さて、「鉄道ファン」とひと言でいっても、その中には、撮り鉄、乗り鉄、車両鉄、録り鉄、廃線鉄、駅鉄、時刻表鉄、駅弁鉄、模型鉄、展望鉄、収集鉄などなど、分野ごとにマニアがいますね。

実はお城も同じです。
天守閣、やぐら、石垣、縄張り、山城、城址など、分野ごとにマニアがいます。そこに、武将、実戦、戦略、軍学、築城術、兵器などの分野が絡んできます。
本コラムでは、総体的なお話しを書いていますので、いろいろなものが混在して出てきます。

* * *

今回のお話しは、まず冒頭の写真のお城からです。

「竹田城」です。


◇竹田城

兵庫県 朝来市(あさごし)の山の頂上にあるお城です。
旅ファンの皆さまはもちろん、お城も旅も興味がないという方でも、一度はこの風景を見たことがあるのではありませんか。

「天空の城」とか、「日本のマチュピチュ」とか、ちょっとカッコいいキャッチがついたポスターや、雑誌の誌面、もちろんテレビ番組で…。

朝来市は、兵庫県の真ん中あたりの山間部、瀬戸内海からも、日本海からも離れた場所です。
来年2020年のNHKの大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」の主人公は、あの「本能寺の変」のもうひとりの主役である、明智光秀です。
明智光秀が築いた福知山城がある京都府福知山市は、この朝来市のすぐお隣です。
来年は福知山に観光で行く旅ファンも多いと思いますが、竹田城のある朝来市中心部は、福知山市中心部から20キロあまりのところです。
福知山城も、竹田城も、日本を代表する名城ですので、まったく違うタイプの二つのお城見物に、ぜひどうぞ…。

それにしても、来年の大河ドラマのタイトルは、だいじょうぶなのでしょうか?
他のビール企業は、どうすりゃいいの? 公取さん、OKなの?

* * *

さて、この竹田城。
写真のとおり、まさに雲の上に浮かぶお城です。
白い海を進む大軍艦のようにも見えます。
歴史の彼方から突如あらわれた亡霊の城のようにも見えます。
いったいどうして、こんなところにお城が…。

昭和生まれの方々…、子供の頃や若い頃に、このお城の存在をご存じでしたか?
今のように、広く知られるようになったのは、2000年頃以降、この20年あまりのことです。
映画やテレビ番組、雑誌、ポスターなどの影響です。
それ以前は、ほとんど社会から見捨てられていたようなお城でした。

実は、見捨てられていたのは昭和の時代だけではありません。
江戸幕府が1615年に「一国一城令」を出したこともあり、このお城は廃城となります。

ですから四百年近く、放っておかれたお城なのです。
観光客も来ず、修復もされず、まさに、雲の下から誰にも知られることなく、時が止まっていたお城なのです。
誰も、雲の上に行こうとはしませんでした。

それが、四百年の眠りから、まさか目覚めるとは…。

このお城は、まさに奇跡の城ともいえます。
このお城の活動期の歴史は、なんと「戦国時代」よりも長いのです。
まさに、激動の「戦国時代」をまるごと見届けたお城なのです。
見届けたというよりも、当事者そのものです。

その歴史は、「応仁の乱」の少し前の、山名氏と赤松氏の争いから始まります。
竹田城は、山名氏側の城で、太田垣氏が初代城主だったようです。

概要は、朝来市の竹田城専用サイト をご覧ください。


◇花の乱

今、「応仁の乱」関連の書籍が売れまくっているそうですが、その複雑さは、アガサ・クリスティのミステリー小説以上です。
NHKの大河ドラマの歴史の中でも、私が記憶している範囲で、応仁の乱を扱った作品は、おそらく1994年の「花の乱」だけだったように思います。
2000年頃までの大河作品の中で、もっとも視聴率が低かった作品として有名ですが、私は大好きな作品の一つです。

おそらく、「応仁の乱」は、重要な登場人物が多過ぎ、ストーリーが複雑過ぎ、その時の主役の人物が変わり過ぎ、人物の心情が変わり過ぎ、放送回数が短い分 展開が早過ぎ、勝者と敗者がはっきりしない、名場面が地味、一般の方の事前知識が乏しいなどが、低視聴率の要因ではないかと思っています。
歴史上の日本三大悪女(日野富子、北条政子、淀君)のひとりが主人公だったというのも、少し影響したのかもしれませんね。

主人公の日野富子役は三田佳子さん、山名宗全役は萬屋 錦之介(よろずや きんのすけ)さん、足利義政役は2013年に亡くなられた市川團十郎さん、細川勝元役が野村萬斎さんでした。

今、振り返ると、他の方々も含めて、すべて、そうそうたる役者さんの顔ぶれです。
何か、現代の大河ドラマとは重みが違います。

野村萬斎(のむら まんさい)さんは、もちろん、来年の東京オリンピックの開閉会式の演出企画のトップのあの方です。
お能はもちろんですが、陰陽師といえば、この方か羽生結弦(はにゅう ゆずる)選手ですよね。

野村さんは、このドラマ「花の乱」の中で、堂々たる能を披露されていました。ドラマの中では、ちょっと異例です。
野村さんは、この細川勝元役で、顔も名前も、日本中で知られるようになりましたね。


◇萬屋 錦之介さん

個人的に、この「花の乱」の中で、亡くなる3年ほどの前だった萬屋 錦之介さんの、山名宗全役は大好きでした。
あの独特で、個性ある口調と表情です。
若い世代の方は知らないと思います。
今の役者さんでしたら、市村正親(いちむら まさちか)さんも、かなり個性的でチカラ強い口調で、きびしい表情が素敵です。
市村さんの雰囲気に、さらに迫力を加えたような方が、萬屋さんです。

もともとは歌舞伎役者でしたので、映画やテレビドラマでも、ココという時の、迫力とカッコよさ格別なものでした。
テレビドラマでは、「子連れ狼」や「破れ傘刀舟悪人狩り」の演技は忘れられません。

叶 刀舟(かのう とうしゅう)の最後の名台詞「てめえら人間じゃねえや。たたぁ斬ってやる!」は、悲しみと憎しみと怒りが、見事に混ざり合った複雑な表情で、口調も大迫力でした。さすが歌舞伎で鍛えた演技です。
子供も大人も、男性はみな、物まねしていましたね。
今なら流行語大賞です。

今の役者さんで、この台詞を言える人が、どのくらい いるでしょうか。
今の時代でも、この台詞…、ぴったり はまる気がしますね。

このドラマ「花の乱」の中の「応仁の乱」は、「大迫力の歌舞伎」 vs 「超クールな能」という激突でもありました。

来年の大河ドラマの再放送枠では、今の「応仁の乱」ブームと、東京オリンピックの演出トップという勢いにのって、「花の乱」を再放送してくれるかもしれませんね。

1994年の初回放送時は、バブル崩壊はした後でしたが、まだまだ華やかな時代の余韻が残っていました。
その時に「応仁の乱」は、ちょっと早すぎたのかもしれませんね。

「応仁の乱」のドラマやるなら、今でしょ!(ちょっと古いギャグで恐縮です)


◇東山文化

「応仁の乱」には、その後の本格的な「戦国時代」の重要な要素がふんだんに入っています。

戦国時代をどのようにとらえていいのか迷う人間たちの不安と葛藤が入っています。

銀閣寺を代表とする東山文化は、この頃に生まれてきます。
それまでの華やかな貴族文化は、戦乱の炎の中に消えていきます。

現実逃避、宗教への依存など、戦乱の世の暗さ、悲しみ、辛さ、切なさを感じられる文化です。

夜の月の光のもと、はじめて銀色に渋く輝く銀閣寺。
その光の中に、願いや救いを求めていました。

幽玄、わび、さびという日本的な文化の誕生です。
水墨画も、茶道も、枯山水(かれさんすい)の庭も、この頃に生まれてきます。

あのドクロの杖を持っていた「一休さん」もこの頃の高僧です。
この方は、おそらく天皇の息子さんですが、戦乱の世に生まれてきた、ひとりです。

時代がどのような状況なのかによって、生まれてくる文化や人間は、まったく異なりますね。
戦国時代は、さまざまなものを生んでいくのです。

「お城」も例外ではありません。
そんな戦国時代の始まりの頃のお城が「竹田城」なのです。


◇さあ、職場復帰

このお城は、戦国時代の始まり頃から、どんどん成長し、大きくなっていきます。
そして、江戸時代のある瞬間に、その機能を停止します。
突然、その時はやってきました。

今なら、まだまだ働き盛りの年齢なのに、定年退職となってしまうようなことです。
退職後、ぼんやりと山の上で静かに、時間だけが過ぎていくのを見ているような姿です。
誰からも、見られることなく、言葉をかけられることもなく…。
ただただ、雲や深い霧だけが、やさしく包んでくれていました。

でも、そのおかげで四百年も、静かに眠っていられました。
働いていた期間は、二百年くらいなのに…。

戻ってきたお城…それが竹田城です。
止まっていた竹田城の時計が、また動き出しました。

新しい城主は、現代人です。
朝来市なのか、朝来市民の方々なのか、とにかく職場復帰です。
さあ、今度の仕事は何でしょうか?

朝来市の竹田城専用サイト を見ましたら、歴史や魅力の説明はわずかでした。

「インスタ映え」の時代だからでしょうか、やたら風景写真が載っています。
ライブカメラ映像もあります。

観光目線が中心になることもわかりますが、もうちょっと、お城のいいところを紹介してほしいですね。

* * *

お城の存在意義は、時代によって大きく変わります。

現代なら、観光資源となるのは、当然の役割です。

歴史の中には、残念ながら現代まで残れず、観光資源になれなかったお城もたくさんありました。
お城は、時代の存在意義をなくした時、存在意義をはく奪された時に、この世から消滅していきます。

奇跡的に残って、四百年の眠りから目覚めさせられた竹田城は、今後、どのような役目を担っていくのでしょう。

観光資源という存在意義がなくなってしまったら、また眠りに戻るのか、そこで消滅するのか、それは新しい城主次第です。
存在意義は、決して観光分野だけではありません。

この地域の大切な宝として、永久に残っていってほしい史跡のひとつですね。

近年は、観光客が来すぎて、石垣の崩壊など、さまざまなトラブルをニュースで見聞きします。
非常に悲しいニュースです。
歴史・史跡ファンは言わずもがなですが、旅ファンの皆様も、「竹田城」を助けてあげてくださいね。

竹田城の石垣の上に、怒りの表情の、「萬屋」山名宗全が、「てめえら人間じゃねえや。たたぁ斬ってやる!」と言いながら、あらわれないように、心していってほしいと思っています。

さて、今回のコラムは、そんなお城の存在意義について、ご紹介していきます。


◇お城の役割と変遷

実は、お城は、その構造や役割において、大きな歴史の変遷があります。
大きく分けて、まずは三つに分かれます。
古代、中世、近世です。
その後は、近代、現代です。

中世、近世などの時代区分や、「戦国時代」のお話しは、前回の「旅番組とお城①」をご覧ください。

* * *

私たちが、「お城」として、すぐにイメージするもの、ある程度のかたちを目にすることができるものは、「中世の山城」か「近世のお城」です。
今、街中や、街の周辺の丘や海や川の近くにある、観光地になっているようなお城は、たいてい「近世のお城」です。

山の奥深く、山の頂上あたりにある山城は、たいてい中世の頃に築かれ、改修・拡大しながら、近世まで使い続けられたようなお城です。
ですから、前述の竹田城のように、山城とはいえ、要塞化した堅固で大きなお城もあります。

「古代の山城」の説明は省略します。今、私たちがイメージする「お城」とはかなり異なっていますので…。


1.中世の山城


「中世の山城」には、ほとんどの場合、天守閣はありません。もっとも中心的な建物でさえも、大きな家程度の規模です。
そして、それは、ほぼ山奥の山の頂上や、深い谷あいの近くなどに存在しました。

自然の地形を利用した大きな防御構造として城が形成されていました。
敵への攻撃というよりも、戦時の住まいと防御の役割です。
山のふもとなどに、小さな集落がある程度です。
その後の戦国時代ほど、頻繁に戦争はおきませんので、山奥の城と山村をそんなに頻繁に行き来していなかったでしょう。
その周辺地域の支配と、地域外からの攻撃への備えが中心でした。

今でも、山の頂上とか、断崖の近くとか、大きな谷あいとかといったところに、石垣や土塁だけが残っているお城がありますが、これらは、中世の山城で、そのお城自体が、戦場となったケースがいくつもあります。
お城に敵を追いつめたり、寝込みを襲撃したり、逆にお城に誘いこんで攻撃したりするような戦い方です。
もちろん、近世の戦国時代でも、こうした戦い方はありました。

その時代のお城は、ほぼ原形をとどめておらず、一部が残っている程度が大半です。

前述の山頂の竹田城とか、月山富田城(島根県安来市)とか、みな山の頂上ですね。
とはいえ、これらは、かなり大規模なほうです。

今「天空の城」などと呼ばれるお城は、大半がこの頃のお城です。

* * *

実は、私は小学生の頃に、中世の小さな山城が遊び場でした。
今でこそ、きちんと整備され、遊び場になることはありません。
もはや史跡です。

1970年代頃までは、まだまだ、荒れ果てた山城そのものでした。ほぼ、放りっぱなしの状態でした。
土塁や空堀の急なこと、それは転がり落ちながら遊びます。尾根の山道の急なこと、四つん這いで登りました。
あのクリーム色の土や、松の香りなど、忘れられない思い出です。
夏は、せみの大合唱で、会話ができないくらいです。
本物の城で、基地遊びや冒険遊びをしていたとは、今思うと、信じられません。
今、話題の古墳もそうです。子供たちは勝手に入って、皆、探検していたものです。
今の子供たちに、その経験をさせてあげられないのは、ちょっと残念ですね。


2.近世のお城

室町時代の「応仁の乱」以降、日本各地に、有力武将が次々に登場し、世の中は戦乱の時代「戦国時代」に突入します。
戦闘がしょっちゅう行われ、戦場だらけになっていきます。

「守り」だけでは食い止められません。「攻め」が攻撃であり、防御であり、生き残りとなっていきます。
お隣の国との戦争が頻発していきます。

そんな時代に、山奥の それも山頂の山城に、行ったり来たりしている余裕はありません。
兵士をどんどん増やし、軍団をより大きくしなければなりません。
「お城」は、山を下りてくるのです。

こうして、深い山奥から、平地に下りてきたお城ですが、戦国時代の真っただ中です。
まだまだ、地形的な防御は必要です。
山から下りたとはいえ、大きな川や海、小高い丘、崖など、自然の地形を利用することも忘れてはいません。

深い谷のかわりに、水をはった大規模な「お濠(おほり)」が登場してきます。
水のないお濠には、防御用の仕掛けをたくさん造っていきます。
「お濠」は、鉄砲の玉が届かないように、さらにどんどん広くなっていきます。
お城によっては、お濠と川や海が、つながっています。

「土塁」は、より頑丈な「石垣」になっていきます。
石垣は、どんどん高くなっていきます。
石積み工法が格段に進歩し、石垣の専門職人が登場してきました。

石垣をよじ登る敵兵に対応するために、石や油を上から落とす装置をお城に作ります。
人は真っすぐな石垣はのぼりやすいですが、ある角度にわん曲した石垣は登れません。
上空から見た石垣のラインも、複雑化していきます。

頑丈な塀で敷地を取り囲み、櫓(やぐら)と呼ぶ戦時用建物も増やしていきます。
戦闘で打ち破った敵のお城まで、自分の城の敷地に運んできます。

塀の表面は、土から、水に強い漆喰(しっくい)にかえていきます。
塀には、弓矢用、鉄砲用などの穴をつけていきます。
心配性の城主は、天守閣の外側に鉄板を貼っていきます。

お城の敷地は、曲輪(くるわ)と呼ばれる区画で整備され、いくつもの曲輪を計画的に組み合わせた、大きな城郭要塞にかわっていきます。
曲輪の出入り口は虎口(こぐち)と呼ばれ、虎口にある門も複雑な構造になっていきます。
虎口の一種である、攻撃部隊の準備の敷地「馬出し(うまだし)」は、ますます大きく、使いやすくなっていきます。

平地のすぐ近くの小高い丘の上に、立派な天守閣を立てた場合は、ふもとの御殿にすぐに下りられるようにしました。
上杉謙信も、織田信長もそうでした。
仙台の伊達政宗は、津波のこない丘の上に城を造ります。
姫路城、松山城、彦根城など、その山全体が要塞のように残っているお城も、今はわずかですが、残っています。
前回コラムで書きました武田信玄は、立派な天守閣を造るのとは別の発想を持っていました。これも戦い方のひとつですね。

そのうち、中心の城郭の周辺だけでなく、街や村など、丸ごと、防御機能を持たせるようになっていきます。
街を大きく取り囲む「外濠(そとぼり)」も作られていきます。
今でも、相手に、政治的に大切な外側をおさえられることを、「外濠を埋められる」と表現しますよね。

街の中の主要道路も、戦いを想定した作り方になっていきます。
これが、いわゆる「城下町」です。「門前町」とは成り立ちがまったく異なりますね。
今でも、その歴史の延長上に、私たちの暮らす現代の城下町都市があります。

大坂城の大阪、江戸城の東京は、都市ぐるみの巨大要塞でした。

* * *

このように、近世の戦国時代の「お城」は、山の上から、平らな場所に下りてきます。
「山城」に対して、「平山城(ひらやまじろ)」、「平城(ひらじろ)」と呼ばれています。
ですから、おのずと「お城」の構造や役割が変わってくるのです。

戦国時代後期に、浅井長政が守る山の上にある城「小谷城(おだにじょう)」に織田信長が攻撃し、浅井家が滅亡する戦いがありました。
もはや、大軍勢どうしでの戦争の時代となり、山城の限界がはっきりと示されることになります。

今、私たちが見ている街の中や周辺の丘にある「平山城」や「平城」と、それ以前の「山城」は、歴史の中で、その意味がまったく違うのです。


3.お城は、統治と軍事の拠点

ここからは、「戦国時代」が終わって、戦争のない「江戸時代」のお城のお話しです。

江戸幕府は、トップダウンで、武器の開発競争のほうにストップをかけましたので、お城の防御の進化は、ある時からほぼストップします。
おまけに、お城の数も、ひとつの国にひとつの城「一国一城令」と決められました。
たしかに、武器や軍事力のほうの開発を強力にストップできれば、防御のコストも抑えることができ、平和が長続きしそうな気がしますね。
日本の江戸時代はそうでした。

* * *

現代の世界の軍備拡張競争の抑制の動きは、江戸時代とは状況は異なりますが、発想は似ています。
だれが監視するトップになるのか、皆がトップになれるのか、かなり難しい問題ではありますね。
でも日本には、戦国時代を終わらせた、いくつかの成功例があります。
本当は、イージスシステムにかけるお金があれば、どれだけ地震や津波に備えた施設が造れるだろうかと思ってしまいますね。

* * *

さて、そうした時代の流れで、お城は、「防御」でも「攻撃」でも意味を成さなくなっていきます。
それに代わって、大きな役割として意味をもつのが「政治」です。

お城は、江戸時代から、「政治」の場所になっていくのです。
お殿様が住み、そこで政治を行うのです。

その後、江戸時代の終焉とともに、政治の場所はお役所に移っていきます。
明治時代になり、いったん「お城」は役目を終え、各地のお城は取り壊されていきます。

取り壊した理由は、軍事的な理由が主なものでしたが、やはり政治の場所がお城でなくなったことも大きいと思います。
それに、日本各地のお城は老朽化が激しく、ボロボロの状態であることがほとんどでした。

* * *

それが、ある時、息を吹き返します。

近代の戦争です。
昭和の戦時中は、実際に、お城の広い敷地を、軍事関連施設としてたくさん利用しました。
今でも、各地のお城の敷地内に、軍の旧施設跡が残っていることがありますが、それはその名残りです。

広島の原爆は、広島城のすぐ近くで炸裂しましたが、広島城内の軍事施設の中にいた人が助かったケースもあります。

同じ戦時という使い方でも、かつての戦国時代とは、また少し異なります。
ですが、空襲の対象になることも多くありました。


4.お城は、平和の憩いの場所


終戦後の平和の時代になってからは、その多くを、桜の名所など、観光の拠点につくり変えていきます。
戦国時代の頃は、食料や、燃料にできるような樹木が中心に植えられていましたので、今とは、だいぶ風景が異なるでしょう。
今は、管理されずに、やたら樹木が多すぎて、お城の建物が見えないケースもよくあります。
今後、観光の拠点をめざすのであれば、街からの見え方は重要になりますね。

現代は、戦国時代、江戸時代、戦時中とはまたちがう、平和な時代の「お城」の役割を担うようになりました。

お城には基本的に二面性があります。
いつの時代も、その時代にあわせた使われ方がされるのでしょうね。

「旅番組」にふさわしい平和な側面。
「歴史番組」にむいている戦時や統治の側面。

* * *

旅ファンの方々、次、お城に行かれた時には、お城の中には、いくつかの時代の、いろいろな施設や構造物が、混在して残っていると思って見てください。

当然、戦国時代にエレベーターがついているはずはありません。
昭和時代の大砲の砲台が、はじめからあるはずありません。
戦国時代に、お城でのんきに桜の花見をしているはずはありません。
お城に豪華な「お月見やぐら」や大きな庭園があるのは、平和な時代にそれらを造った証です。

戦国時代の城主の方々…現代のように、お城に「おだんご屋」があったら、さぞ喜んだでしょうね。


「旅番組とお城 ③」へ続く)

2019.7.17  jiho
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