「映像&史跡 fun」は、映像・テレビ番組・史跡・旅・動画撮影のヒントなどをご紹介するコラムです。


B級とは言わせない / 栃木県 佐野市


◇高校野球の「B級ニュース」


2019年の夏、昨年ほどではないにせよ、今年も相変わらず熱い夏です。
夏の甲子園大会も真っ盛りですね。

先日、たまたまインターネットのニュース記事を見ていましたら、ある記事にくぎ付けになりました。
それは「AERA dot(アエラ・ドット)」のニュース記事です。
「AERA dot(アエラ・ドット)」とは、雑誌「AERA(アエラ)」の、あの「AERA(アエラ)」のことです。
これは、朝日新聞出版のニュース情報サイトのことです。

そのニュース記事は、過去の夏の甲子園大会に出場した球児の珍姓名のお話しです。

高校野球関連の、面白い「B級ニュース」と題して紹介されていました。
もちろん朝日新聞社主催の夏の甲子園大会ですから、それにちなんだ話題提供ですね。


◇それで、よいなら…

「AERA dot(アエラ・ドット)」では、ライターの久保田龍雄氏の記事として、おおよそ次のように紹介されていました。
「これまでの球児の珍名の中で、イチ押しは、1973年の『四十八願』君です」。
これまで、難読の珍姓はたくさんあったそうですが、これが一番だというものでした。

「四十八願」
皆さん、読めますか?

私は、歴史好きということもあって、阿弥陀如来様の「四十八願」という言葉は、その文字づらだけを知っていました。
この球児の名前も、おそらく、それと関連しているのかなと感じました。

実は、私はこの歳まで、「四十八願(しじゅうはちがん)」とだけ読んで納得していたのです。
私は、このネットニュースを見て、はじめて、その読み方以外にも、たくさんの読み方があることを知り、たいへんショックを受けました。
この球児の姓の読み方は、「よいなら」なのです。

実は、調べてみましたら、読み方は「よいなら」だけでもなさそうです。
よいなが、よそなら、よそたけ、よそなが、よそはら、という読み方もあるそうです。
まったく知りませんでした。
「よ」しか共通していませんね。

* * *

でも、どうして、こんな読み方をするのでしょう。
この記事には、こう説明されていました。

「四十八願(よいなら)」は、栃木県佐野市の葛生(くずう)地域の小字(こあざ)だそうです。

小字とは、正式の地図には掲載されていないが、昔からその地域で使われている地名のことです。
住所名称の中に、「大字(おおあざ)」、「字(あざ)」の文字が使われているケースは多いですよね。
本当は、この文字の部分には別の地名が存在しているのです。
この葛生には、人物はもちろん、公園や商店などの名称に「四十八願(よいなら)」が残っているようです。

記事の紹介を続けます。
そして、「四十八願(よいなら)」という地域名称は、もともとは「黄泉野原(よみのはら)」という地名だったというのです。
この地には、阿弥陀寺があったことから、阿弥陀如来の四十八願にかけて、「よいなら」となまって読むようになったと書かれていました。
栃木県には、約100人の四十八願さんがいるとも書いてありました。

阿弥陀如来様の「四十八願」は、やはり関連していましたね。
「黄泉野原(よみのはら)」とは、コラム「神話のお話し(前編) / 日本のはじまり」の回で書きました、「黄泉の国(よみのくに)」のことです。
死者がいるのが「黄泉の国」です。
「よみがえる」の語源の「黄泉の国」です。

よくよく調べましたら、この佐野市の葛生(くずう)という場所は、大昔、死者を葬る場所だったそうです。
安養院(あんにょういん)という、阿弥陀如来様を本尊とする真言宗のお寺が現在もあるそうです。

「安養」という文字も、世の中で結構、目にしますね。
「安養浄土」とは、死者のゆく「極楽浄土」のことをさします。

阿弥陀如来様の四十八の願いについては、私の知力では、説明がむずかしいので割愛します。
ただ、この願いの中には、「本願寺」や「他力本願」の文字にある、あの「本願」というものがあります。
「他力本願」の本来の意味は、現代の言葉の意味とはかなり異なっているようですが、僧侶の方や、仏教の研究者などに、「阿弥陀如来様の本願って何?」とお聞きになってみてください。

* * *

いずれにしても、

*阿弥陀如来様の四十八願

*「黄泉の国(よみのくに)」を意味する「黄泉野原(よみのはら)」という言葉からきた「よいなら」

*死者を葬った土地と、安養院という極楽浄土を意味するお寺

という事柄から、「四十八願」と書いて「よいなら」と読むことに納得できました。

「○○と書いて、××と読む」は、現代でもたくさんありますね。
漢字の意味と、言葉の音の意味、両方の意味を持つ「漢字」表現の素晴らしさですね。

でも、「よみのはら」がなまって、「よいなら」に変化したとは少し強引な気がします。
他にも、多くの読み方があることを考えると、意図的に読み方を変えたとも想像できます。


◇葛生(くずう)

この佐野市のことを調べていましたら、この「葛生(くずう)」という地域のことも、少しわかってきました。
そういえば「栃木県葛生町」という地名のフレーズに、何となく聞き覚えがあります。

そうです。葛生町は、2005年に、佐野市と合併したのです。
そういえば「栃木県田沼町」というのも、何となく記憶があります。
みな「佐野市」になったのですね。

「そうだ、葛生はセメントの街だ」
やっと思い出しました。

埼玉県の秩父市も、関東最大のセメントの街ですが、葛生もそうでした。
戦後の日本の街の復興と発展に、切っても切り離せないセメントです。
ですから早くから鉄道が敷かれていましたね。
何かのテレビ番組で、古い鉄道の映像を見たような記憶があります。

葛生という地名ですから、文字通り、植物の葛(くず)がたくさん生えているのかもしれません。
くず餅が名物なのかもしれません。
私は、何ぶん、栃木県佐野市は自動車で通過するばかりで、これまで立ち寄ったことがありません。
情報不足で申し訳ありません。

* * *

「くずう」という言葉表現は、崩れやすい崖のある土地を意味することもあるようです。
「う」や「ふ」は、古代から、特定のある場所を意味する言葉だと聞いたことがあります。

信州の山国育ちの私は、「ごろう」という地名は、石がゴロゴロ転がっている山のある場所を意味していると聞いたことがあります。
北アルプスの野口五郎岳や黒部五郎岳は、そうした意味です。山深い地域に「ごろう」という地名は結構あります。
「くずう」も、植物の葛(くず)ではなくて、「崩れやすい場所」という意味なのかもしれません。

そこは、セメントの材料である石灰岩のとれる山がある場所です。
崩れやすい場所なのかもしれませんね。
地名とは、流行に左右されたり、不動産価値によって、やたらに変更していいものでもありませんね。


◇神聖な場所

「葛生」が、かつて、どうして死者を葬る「黄泉の国」だったのか。
私なりに、少し理解したような気がします。
これは、あくまで私の想像です。

日本各地に「賽の河原(さいのかわら)」といわれる場所はたくさんありますね。
もちろん、そこには、死者の国との境界である「三途(さんず)の川」が流れています。
火山の近くの温泉の噴気孔がある場所とか、白色のくぼ地であるとか、神聖な場所です。
人が住むことができないような、何か異様な風景であるのは間違いありません。
「賽の河原」で石を積み上げる行為は、現代でも行われますよね。

コラム「神話のお話し(前編)/日本のはじまり」では、黄泉の国と、地上の世界の出入り口が、火山の噴火口を連想させることを書きました。
神様だけは、そこを出たり入ったりできます。

古代、この葛生の土地は、どんな光景だったのでしょう。
もしかしたら、白色の石灰岩が露出した場所もあったかもしれません。
地図を見ましたら、しっかり小規模の川が流れています。
栃木県がある北関東は、火山や温泉だらけです。

石灰岩の台地でもっとも有名なのは、山口県の秋吉台ですね。
人が住めなさそうな広大な荒涼とした地域です。その土地は、生き物の気配をあまり感じさせません。
巨大な鍾乳洞があり、無数のたて穴が、地上にクチを開けています。
現代でも、そこに落ちて戻れなかった、シカやイノシシなどの動物の無数の骨が見つかります。
今は知りませんが、かつては日本軍の兵士の訓練場所でした。
深い迷路の穴に迷い込まないように、特に注意していたようです。

葛生は、化石の宝庫のようです。
化石の意味はわからなかったでしょうが、何か動物の骨が石になっていることは、原始古代の人たちもよく目にしていたでしょう。
鍾乳洞のたて穴に落ちた動物たちの骨も、大量にあったかもしれません。
原始や古代、葛生の風景は、そのようなものだったのかもしれません。
ここが、死者の国である「黄泉の国」の出入り口と信じられても不思議はありませんね。

後で書きますが、この周辺には、原始人の集落もあったようです。
そして、ここが、死者を葬る場所となっても、何の不思議もありません。
葛生は、決して忌み嫌う場所ではなく、神聖な出入り口、死者を安らかに送り出す場所、願いや祈りの場所として、たいへん重要な場所だったのかもしれませんね。
これからも、大切にしていってほしい場所と地名です。


◇葛生化石館

石灰岩が大量にあるということは、大昔、ここは海の底?
案の定、「佐野市葛生化石館」という存在を、ネットで見つけました。
大量に、アンモナイトや海の生き物の化石が出るようです。

調べましたら、2012年ですが、来館者数は17000人あまりです。
おそらく小学校の見学もかなり数字に入っているでしょう。
ローカルの小さな博物館というものなのでしょうか。

私は、これまでの人生で、「葛生化石館」を見たことも、聞いたこともありませんでした。
博物館は割と好きなほうですが、まったくの初耳でした。


◇北関東

東京に住んでいても、あまり北関東二県(栃木・群馬)の方々に出会うことはありません。
同じ北関東でも、茨城県人には不思議と多く出会うのに不思議です。
東京から、栃木・群馬に旅する人は、相当多いのにちょっと残念です。
考えようによっては、地元でしっかり経済が回っているとも感じます。

北関東三県は、その方言がサウンド的に似ています。
東北のすぐ南の地域ですが、東北弁とはまったく違います。
三県の方言は似てはいますが、三県それぞれに特徴があり、意外と違いはわかります。

栃木県出身のお笑いコンビ「U字工事」が、栃木弁を上手に利用して漫才をしますね。
「ごめんね、ごめんね~」の名物ギャグがありますね。
私の好きな正統派の漫才コンビです。
栃木弁は耳ざわりが非常に心地よく、やさしい感じがいいです。
私の個人的な印象では、北関東三県の中では、一番ソフトな感じがします。

語弊があってはいけませんので書き加えます。
栃木弁が「かんぴょう」なら、群馬は「こんにゃく」、茨城は「納豆」ということです。
どれも、たいへん おいしく、私は大好きです。この違い…私の頭の中では整理されています。

北関東三県の方言は基本は同じで、そこに、その県独自の色合いがついてくるのかもしれませんね。
北関東自動車道でつながりました。仲良くしましょうね。

南関東(東京・埼玉・千葉・神奈川)は、北関東とは一線を画して、方言の雰囲気がありますが、ここも四都県で特徴が違います。
西日本の方々には、聞き分けるのは少しむずかしいかもしれませんね。
同じ関西弁でも、大阪、京都、奈良、和歌山、兵庫で、雰囲気が違うのと同じです。
そんな方言のお話しは別の機会に…。

「北関東」は、「南関東」に決して引けは取りませんよ。
経済規模や流行だけが、基準ではありません。
北側に雄大な山々、南に広大な平地、ドカンと広がる青空、すばらしい地域です。


◇骨だけがいい


さて、「葛生化石館」の話しに戻します。
早速、ネットでその博物館を調べましたが、その充実の内容にビックリ仰天しました。

ニッポンサイの全身骨格化石があるそうです。
古代日本にサイがいたとは…。

世界最小のナウマンゾウの全身骨格化石もあります。
世界最小とは、大人のサイズの話しなのか、子供の象の化石なのかはわかりません。

* * *

話しは変わりますが、今年の3月、アフリカのキタシロサイという種の最後のオスが死にました。
残ったのは、メスの2頭だけです。
ミナミシロサイを使って、科学のチカラで絶滅を防げるかどうかの瀬戸際です。
今、ある生き物の絶滅の様子を見ているのかもしれませんね。

* * *

さて、館内写真を見ると、おもちゃ箱をひっくり返したような、所狭しの展示物です。
もちろんアンモナイトや植物などの化石も豊富です。
ナウマンゾウ、アケボノゾウ、ヤベオオツノジカ、クロサイ、ニッポンサイ、トラ、ニホンザル、ウサギ、クマなどのハクセイや骨格がたくさん陳列されているようです。

昨今は、リアルな再現恐竜や大型古代動物のロボットなどが流行ですね。
今年は、昆虫の大型ロボットも大人気のようですね。
巨大クモの前で、幼子はみな泣いていますね。でも貴重な体験です。
リアルな再現ロボットは、それはそれで迫力満点でいいのですが、この骨だけというのも、絶対に必要なモノです。

トラとライオンは、頭の骨以外は、ほぼ骨格は同じだそうです。
どうして頭だけの違いで、あのように外見がまったく違うのでしょうか。
おそらく脳に秘密があるのかも…。

骨だから、わかること、感じることは、たくさんあります。
骨だけだからこそ、子供たちそれぞれに、肉のついた想像の動物の姿が違うのです。
今、学校教育の現場から、人間の全身骨格人形が激減しているそうですが、未来の科学者の創出に影を落とさないでしょうか?


◇博物館と好奇心


この葛生化石館は、なんと入場無料のようです。
建物もそこそこ立派で、学芸員もいるそうです。無料とは信じられません。
この時代に何とも、太っ腹な姿勢で立派です。

よく博物館は、「よりたくさんの人に見てほしい」という発言をしますが、大半は入場料収益が目当てです。
「この地域から未来を担う科学者が育ってほしいから、いくらでも時間をかけて何度でも見てください」なんて発言を聞いたためしがありません。
「とっとと見て帰れ」の博物館が、世の中にどれほど多いことか…。

展示方法が立派で、展示種類が豊富なら、いい科学者が育ってくるとは限りません。
歴史に名を残した多くの有名画家たちは、ろくに絵画館に足を運べませんでした。
数枚の素晴らしい絵から、すべてを吸収したのかもしれません。
ファーブルも、自然そのものが昆虫館でしたね。
博物館はテーマパークである必要はないのではと感じます。

葛生化石館では、手作り感いっぱいの、小さな体験学習なども開催されているようですよ。
学芸員に、どんどん質問してみましょう。

* * *

来訪者のいろいろなブログを読んでいましたら、感激したというものも少なくありませんでした。
説明してくれる人の話しで、10倍楽しめたというのも読みました。
なんと、「はとバスツアー」で見学したというものも見つけました。

都会の立派な博物館のような展示を期待していると、少し違います。
でも、この手作り感というか、ローカル博物館の魅力が、たっぷり詰まっていそうな雰囲気です。

おそらく、人それぞれの好奇心の量で、すばらしいと感じるか、つまらないと感じるかが違うのだろうと思います。
博物館側の仕掛けも確かに大事ではありますが、まずは、自身の好奇心の量を探ってみるのもいいかもしれません。

* * *

建物の外観写真も、ネットで見ました。
建物は、古い役所建物の払い下げのような雰囲気を漂わせていますが、この手の絵が描かれた博物館に、だいたい悪いところはないと思います。
管理者の思想があらわれるものです。
小学校や中学校も、外観や校舎内の雰囲気で、皆さんもおおよそ推測できますよね。

おまけに、周辺には、美術館や工芸館のような施設もあります。
結構、長時間いられそうな場所ですね。
こうした空間を歩くだけでも、癒しを感じます。

* * *

実は、ネットで、「葛生化石館」で画像検索すると、建物のロビー風のところに、ある恐竜の模型が置いてあります。
展示ではありません。おそらくオブジェのようなものでしょう。
それも、恐竜の上半身だけです。
でも、私は、これにも目が釘付けになりました。

今の時代に、こんな昭和感たっぷりのレトロなオブジェが…。
別の意味で、吸い込まれました。
子供たちにとっては、こういう、一見大したことなさそうなものが、後々たいへん大きな意味を持ってきます。

おそらく一緒に写真を撮ったり、触ってみたり、話しかけてみたり…。
この恐竜には、名前がつけられているのかもしれません。
こういうものを残す感覚を、博物館にはずっと持っていてもらいたいものです。

「四十八願(よいなら)」も、栃木弁も、化石館も、良いものは良いのです。
地味ではあっても、「B級」のはずがありません。一流です。


◇くずう原人まつり

ネットで、いろいろなものを調べているうちに、面白いイベントを見つけました。
この葛生では、毎年、「くずう原人まつり」というイベントを8月に行っているようです。

専用サイトの写真には、いい大人が原始人の格好でポーズをとっています。
お顔は知的な現代人ですが、格好はやる気満々ですね。

化石発掘体験、古代体験はもちろん、料理、音楽ライブ、アイドル、フラダンス、チアダンス、和太鼓、ミニ動物園まであります。
本物のレーシングカーまでやってきます。写真には、さのまるも写っていました。
周辺の学校の生徒たちによるステージもあるようです。
ご高齢の方…、昔の紙芝居のおじさんも来るようですよ。

古代人の衣装を着てみたい方も多いでしょうね。
古代人パレードとか、化石ゆるキャラとか、大型恐竜は登場しないのかな?
ギャートルズのゴンやドテチンはいないのかな?
インディ・ジョーンズは発掘に来てくれないのかな?

それにしても、この「何でもあり」の充実の内容には、本当に驚きますね。
それに、このアットホーム感は、地域イベントならではのものですね。
実に楽しそうです。
この夏、このイベントだけでも、たっぷり思い出を作れそうです。

地域イベントで、ここまで豊富な内容は、あまり見たことがありません。
今年で32回目というから、ずいぶん古くから行っていたのですね。

今年も、8月24日(土)、25日(日)に開催されます。
東京から、もう少し近ければ、見に行きたいところですね。
外の地域から行かれる方は、地域のイベントですので、迷惑をかけないように…。

まさか、葛生の森の中で、密かに、こんな原始のお祭りが行われていたとは…。

「むらおこし実行委員会」という団体が主催しているようです。
詳細はこちらを。
https://genjin.info/


◇さのまる

大きな高速道路が通ることには、光と影がありますね。
そのおかげで、スイスイたどりつけますが、ついつい通り過ぎてもしまいます。

歴史好きの私は、戦国時代の真田家の「犬伏(いぬぶし)の別れ」の場所が栃木県ということは知っていましたが、その「新町薬師堂」が佐野市にあるということは、今回初めて知りました。
その市の名前に関心を持っていませんでした。うかつ でした。

私は、ゆるキャラに接することは多いので、佐野市の「さのまる」が数年前に、ゆるキャラグランプリで優勝したことや、実際に「さのまる」と会ったことは何度もありました。

「さのまる」の頭の上には、佐野ラーメンのどんぶり鉢が乗っていますね。
そのどんぶり鉢に、英語で「SANO」の模様が並んでいることは、今回初めて知りました。
芸当が細か過ぎです。でも立派です。

私は、実は、さのまるの、このラーメンのどんぶり鉢以外はのことは、その格好を不思議には思っていましたが、気に留めることもなかったので調べてはいませんでした。

それが今回、いろいろ調べているうちに、やっと理解できました。
刀に見立てて腰に差しているのは、名物の「いもフライ」だそうです。

どうして犬が袴(はかま)を着用しているのかも、ずっと不思議でした。

そうか、あの「犬伏の別れ」のことなのか!?
「犬伏」の「犬」。
真田家の武士の袴(はかま)なのか。

なぜ、こんな簡単なことに今まで気がつかなかったのか…。
でも、世の中に「犬伏の別れ」を知っている方がどのくらいいるのだろうか?
でも、この「こだわり」が大切なのですね。
だからこそ、ゆるキャラグランプリで優勝できたのでしょう。

まさか、「さのまる」の「まる」は、当時NHKで大ヒットした大河ドラマの「真田丸」に乗っかろうとしたのではないでしょうね。
さのまるが、犬伏の別れのお堂に、大河の俳優を案内した姿は、たしかに想像に難くないです。

* * *

ほとんどのゆるキャラは、「ふなっしー」のように、しゃべってくれないので、ゆるキャラ(ご当地キャラ)の深層を知る機会がほとんどありません。
ふなっしーも、黄色はもちろん食べものの梨の実、水色の部分は千葉県船橋市の青い海、あの赤色のリボンは、もともとは赤いお魚です。

ゆるキャラたち、各地のご当地キャラたちは、結構深いところまで、表現しているのです。
もっと早く教えてくれよと言いたくもなりますが、そこは、調べてから初めて気づくというのも悪くはないですね。
みな、決して「ゆるいB級」とは言わせませんね。

* * *

ゆるキャラは、テレビで見ているのと、実際に会うのとでは、印象がまったく違います。
実際に会うと、テレビで見ているよりも、はるかに好印象です。
おまけに、あの暑さと戦いながら がんばる、けなげな姿には感動すら覚えます。

お父さん方、ゆるキャラとあなどってはいけません。
ゆるキャラを見抜くチカラは、ビジネスのチカラ、働くチカラ、人間のチカラそのものです。
童心にかえる必要はありません。大人の目で、ゆるキャラを見てあげてほしいですね。
子供たちは、そんな目線でしっかり見ていますよ。

さのまる…、犬の武士だったのか。ちょっと見直しました。
化石のことは表現しなかったようです。
次は、原人の格好もしないとね…。


◇犬伏の別れ

ここで、簡単に「犬伏の別れ」をご紹介しておきます。

戦国時代はこの頃、各地の武将たちの争いが、そろそろ佳境をむかえつつあります。
そのころの日本は、有力武将が大きな領土を持つ時代を経て、有力武将どうしが直接対決する時代から、有力武将が連合軍を形成し戦うようになってきました。
連合体制はどんどん大きくなり、とうとう日本全体が、徳川家康側と、石田三成側の二つの大勢力に分かれて、決戦をむかえるところまで到達します。
武将たちは、日本各地で、どちらかの陣営に加わり、各地で戦いが始まります。
これに便乗して、勢力拡大を図ろうとする、したたかな武将もたくさんいました。

各地の武将は、まだ、どちらの陣営が最終的に勝利し、日本の覇権を握るのか、見極められていません。
関西地区から遠い地方には、なかなか正確な情報が届いていなかったかもしれません。
しかし、武将としての力量は、圧倒的に家康のほうが上です。

各地の多くの武家は、どちらに勝利が転んでも、自分の家は確実に残るような選択をしはじめます。
関ヶ原の戦いまでに、その準備ができた武家と、準備できなかった武家、両天秤をしたくてもできなかった武家などもたくさんあったと思います。
大半は、家康側に主な領主を、三成側に領主の弟とか、父とか、一族といった分かれ方かと思います。

毛利は特殊な位置でしたが、毛利も両天秤です。小早川もこの流れの中です。
前田は、利家が死んでしまったので、両天秤が間に合いませんでした。でも策略を巡らせます。
伊達は便乗組です。黒田官兵衛は一応、家康側ですが、いつでも両天秤にできたはずです。
島津は結果的に両天秤でした。

秀吉恩顧の武将たちは、家康と毛利の出方次第だと思っていたかもしれません。
関ヶ原の前に、家康と毛利が手を組んで、恩顧勢のほとんどは家康に従います。
私は個人的に、上杉や宇喜多は判断の誤りか情報不足だったと思います。

このあたりのことは、コラム「旅が人をつくる / もうひとつの関ケ原」で書いていますので、よろしければご覧ください。

* * *

信州(今の長野県)の上田を本拠地とする真田家は、家康側に味方して、会津の上杉軍を討つため、家康軍に追いつくために栃木県にやってきます。
この段階で、初めて、真田親子三人で、両天秤戦略を相談して間に合うはずがありません。

家臣団の調整、上田への安全な帰路、武器や兵糧のことなど、事前に調整しておかなければならないことは山ほどあったでしょう。
父弟の側、兄の側のあいだで、家臣の最終調整も相当に時間がかかったでしょう。
家臣の中にも、真田親子のように二つに分かれた家もあったと思います。

当時の戦国時代は、敵側の有力家臣の動向を常に監視していました。
現代でいえば、ライバル企業の有力な研究者や部課長の能力を把握するということです。
場合によっては引き抜きます。
戦国時代も頻繁に行われ、引き抜かれたふりをして敵側に潜り込むスパイも多くいました。
特に関ヶ原前後は多かったと思われます。
大坂城内には、スパイの役割の武将がたくさんいたと思います。
戦国時代の戦の勝敗は、事前の人の調略次第で大きく変わりました。

寝返りや裏切り、一族を二つに分けるというのは、相当に準備期間がかかったと想像します。
今回は、まして、そのタイミングや、徳川の監視を逃れなければなりません。
犬伏での、親子の会話は、すべて徳川につつ抜けのはずです。
へたに隠れた行動をとると、逆に危険です。大っぴらに見せつけないと危険です。
さあ、これから犬伏で三人で会いますよと公言しないと、逆に危険です。
状況がどうであろうと、三人まとめて討ち取られたら、元も子もありません。
長男が、父と弟を説得したというかたちを見せつけなければ、真田の両天秤戦略は成功できません。
だからこそ、現代まで、「犬伏の別れ」のお話しが残っているのだと思います。

現代であれば、あえてマスコミの目にさらして、身の危険をかわすようなケースです。
この状況は、世間も、家康の家臣も見ています。家康は、うかつな行動をとれません。

真田が、上田を出発するときには、犬伏で最後の別れをすることも含め、詳細に計画は決めてあったでしょう。
沼田城の小松姫のお話しも、この戦略の中の出来事でしょう。

真田は、石田三成の挙兵の報告を待つため、ゆっくりと進軍していきました。
三成とは、しっかり日程を取り決めてあったことでしょう。
真田にとっては、三成の実力に、関心がなかったかもしれませんね。
「関ヶ原の戦い」がどんな結果になっても、関ヶ原後を見据えての行動です。

同時に上杉軍の参謀である直江兼続とも、計画は示しあわせてあったはずです。
ほぼ日程に狂いがなく、三成の戦略は進んだと思われます。

このあたりのことは、コラム「旅が人をつくる / もうひとつの関ケ原」で書いていますので、よろしければご覧ください。

* * *

真田昌幸は、もともと武田信玄の配下でしたので、家康はかつての宿敵です。
家康は、何が何でも、真田家、前田家、島津家を、特につぶしたかったふしがあります。
結果的には、この三家は、苦労の末したたかに生き残ります。
さすがにしぶとい名門の武家です。
この時代の日本人のしぶとさには、ほとほと感心しますね。
ここは、昌幸の長男の信幸(信之)が家康側で、父の昌幸と、次男の幸村(信繁)が三成側となります。

ここまでの戦国時代で、両天秤に失敗して滅んでいった武家は数知れません。
武田家が滅ぶ中、その家臣の真田家が無傷で残ったのも、うなずけます。
真田家は、それが主君であろうがなかろうが、他家と運命を共にするという発想はなかったと思います。
真田家だけには、限りませんが…。

関ヶ原後に、両天秤をした武家は、それぞれの事情でみな苦労はしますが、しっかり生き残れます。

真田家も、もちろん長男の信幸が立派に跡を継いでくれます。
おまけに、大坂の陣で弟の幸村が大変な武功と家名を、兄に残していってくれました。

現代まで、小さな真田家が、これほどまでの知名度と武勇で、その家名が残っているのは、ひとえに、昌幸と幸村の、この時代の功績の賜物です。
残った信幸もまた、立派な武人の姿に感じます。
この三人が、両陣営に別れる最後の瞬間が、「犬伏の別れ」なのです。

* * *

賢明な真田家の三人です。
コラム「旅番組とお城③ / 馬と虎と犬と」でも書きましたが、真田家は忍者の国です。
情報収集に手抜かりがあったとは思えません。

三成が、家康の術中に、はまっていく気配を感じとっていないはずがありません。
三成側が負けることも想定はしていたことでしょう。
万が一、三成側に勝利が転がり込めば、真田家は政権の中枢の武家になります。
毛利は、ある段階で、三成のチカラを見限り、家康と手を組みます。
そして家康と毛利で、三成をワナにはめます。

とはいえ、時は、戦国時代です。何が起きるかわかりません。
誰が裏切るかわかりません。

真田家のように、両天秤をここまで大っぴらに堂々と、しっかりと行えた武家も少なかったかもしれません。
ほとんどの武家は内密に行動していました。真田家は、内密にできない事情もありましたね。
堂々とした態度も戦略のうちですが、それにしても、犬伏といい、この後の上田城合戦といい、残っている話しがみな見事で痛快です。
犬伏の直後の沼田城の小松姫のお話しも、戦略の一部でしょうが、いいお話しにも聞こえます。

* * *

真田家の判断は、この時代には、まったく正しい判断だったと思います。
いや、弱小武家の立場としては、それ以上の、大胆でしたたかな判断だった気もしますね。
結果的に、これだけの家名をとどろかせるのですから、大胆な戦略は見事に成功します。
この時代、そのためなら死など怖くなかったかもしれませんね。
現代と、死生観がまったく違います。

「犬伏の別れ」の際、三人はどんな顔をしていたのでしょう。
泣いたのか、意外と晴れやかな表情だったのか…。
それぞれ、頼むぞ…だったのは間違いないと思います。

NHKの大河ドラマ「真田丸」の時の、「大坂の陣」の最期の幸村は笑顔でした。
あの笑顔が素敵な俳優の堺雅人さんが演じました。
「この首をとり、手柄にせよ」の幸村最期の言葉の真偽は、よくわかりません。
ドラマには、ありませんでした。
しかし、幸村は、真田家のために、しっかりと役割を果たしたと思ったかもしれませんね。

* * *

栃木県の人物のお話しではありませんが、この「別れ」の場所から、真田家の二つの険しい道が始まったのは確かです。
江戸時代になり、分かれた道は、また一つになります。
武家の当主の親子でなければ、このような悲劇は起きませんでしたね。
その家臣の中でも、同じような別れがあったことでしょう。悲劇はトップの人間だけではないことを、忘れてはいけませんね。
何とも言えない、お別れの物語です。
現代にも、こうした「犬伏の別れ」があるのでしょうか。
少なからず、あるのでしょうね。

* * *

さて、皆さんは、「味噌パン」という菓子パンをご存じでしょうか。
今も長野県や群馬県の北部で人気のパンです。
私は、それ以外の地域で、あまり見た記憶がありません。
長野県出身の私も、子供の頃から大好きなパンです。

味噌をパンに塗ってあるものではありません。味噌の味が絶妙なバランスで練り込んであるパンです。
私の勝手な推測ですが、真田家の支配地域と重なっているような気もしなくもないです。
特に長野県では、南部と中東部です。群馬県は沼田市がある北部です。

もともと真田家の主君の武田家は、携帯食の開発にも長けていたと聞いたことがあります。
長い年月の後、味噌パンにまで進化していても不思議ではありません。
個人的に、真田と聞くと、味噌パンを思い出してしまいますね。


◇佐野厄除け大師 と かんぴょう

さて、関東の方なら、まず見たことがあると思いますが、毎年、年末になると「関東の三大師、佐野厄除け大師」というテレビCMが流され始めます。
妙に落ち着いたレトロ感と、あの鐘の音が、頭から離れなくなります。もう数十年は放送していると思います。
このCMが始まったら、年末とお正月だと関東の方々は感じるのです。

西日本の方には、あまり馴染みがないかもしれませんが、東日本で、栃木県といえば、「いちご」と「かんぴょう」です。
関西は「かんぴょう」をほとんど食べませんね。
私は、歳を経てきたこの頃、「かんぴょう巻き」のおいしさにやっと目覚めました。
でも寿司とは別のもののような気がします。
何か軽いけれど、深い味わいのかんぴょう巻きです。
舌と心にしみます。


◇皇海ヴェリィー


栃木のいちご「とちおとめ」は、関東では、もちろん一大名ブランドです。
近年、高級いちごの「スカイベリー」という品種も見かけるようになりましたね。

この名称の中の「スカイ」は、栃木県の名峰「皇海山(すかいさん)」の「スカイ」だそうです。
まさか、皇海山のスカイだとは思ってもいませんでした。
てっきり「空」のことだと思い込んでいました。

安易な「空」よりも、「皇海」のほうがはるかに素敵です。
この命名センスはすばらしい。
漢字とカタカナのほうが売れるかもしれませんね。
中国なら、漢字プラス日本語のカタカナでしょう。

* * *

この皇海山は、もちろん百名山のひとつで、どことなく、いちごの姿に似ています。
大きく立派な「いちご山」です。
地味な山ですが、いかにもプロの山通が好きになりそうな山ですね。

佐野市も、もちろん、いちごの産地です。


◇見事な紅葉

栃木県北部は、奇岩の山のオンパレードです。
あまり観光名所の紹介で見たことはありませんが、その奇岩ぶりにはちょっと驚きます。
奇岩の風景が好きな方々には、必見の地域です。

紅葉シーズンなどは、わざわざ日光まで行かなくても、このあたりの奇岩の紅葉も実に見事です。
北関東の紅葉ぶりは、それは見事です。
この地域の紅葉ぶりは、他所ではそうそう見かけません。
おそらく日本のトップクラスだと思います。


◇坂上田村麻呂と小野篁

今回は、高校野球の球児の珍名から、思いがけず、佐野市のすばらしさを発見できました。

実は、今回、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)のことも書こうと思っていました。
「佐野」の地名の由来には、田村麻呂が東方征伐で進軍した道路の左側の土地を意味しているというものも、ひとつの説としてあるようです。

北関東には「毛野(けの・けぬ)」や「那須(なす)」という一族の勢力がいたそうです。
毛野は、「上毛野」と「下毛野」に分かれ、呼び方も変化します。
上毛野は、「上野(こうずけ)」の国となり、その後、群馬県となります。
下毛野は、「下野(しもつけ)」の国となり、その後、栃木県となります。
ようするに、毛が抜けたのです。

群馬県には「上毛(じょうもう)」という呼び方も残っています。
「上毛かるた」は、群馬県ではよく知られています。
群馬県と栃木県の間を走る鉄道を「両毛線(りょうもうせん)」と現代でも呼びます。
他所から見たら、まるで、毛つながりの、兄弟県、姉妹県ですね。

* * *

坂上田村麻呂は、佐野市を左側に見ながら、東北の勢力の征圧に、二度この辺りを通っています。
栃木県の矢板市には、小野小町の伝説を含めて、いくつものお話しが残っていますね。

百人一首にも登場する、平安時代の政治家で歌人で学者の「小野篁(おのたかむら)」は、「上野の国」の国司でしたが、都に戻る途中で、東京の今の上野の寛永寺あたりに、滞在していました。
「上野殿」と呼ばれていたという説があります。
そこから東京のこの辺りが「上野(うえの)」となります。これは、上野の名称の由来の一説ですが、私はこれを信じたいと思っています。

この上野の場所にあった「小野照崎神社」は、寛永寺建立のため、台東区の下谷(したや)に移されました。
「上」から「下」とは、江戸っ子のしゃれでしょうか…。

このあたりの田村麻呂のお話しは、またの機会に書きたいと思います。


◇B級じゃなくて、一流

私は、佐野市のことを、「さのまる」と「佐野厄除け大師」しか知らなかったのが恥ずかしいです。
佐野ラーメンも、いもフライも、東京ではまず見かけません。

佐野市は、東京都心から、日帰りも十分できる距離ですし、次は素通りせずに、化石館と安養寺、佐野ラーメンといもフライを楽しみに出かけたいと思います。
今は、佐野市に、人気の大型ショッピングモールもあるようですね。

それにしても、近年の北関東の観光名所の充実ぶりには目を見張るものがあります。
今までは、それほどとも思っていませんでしたが、近年はテレビ映像を見ただけで、結構そそられます。
北関東も、石川県の金沢みたいに、その見た目にもチカラを入れ始めたのだなと実感しています。

さのまる、化石館、スカイベリーのように、見た目だけでなく、内容にも「こだわり」を持たせていかなければ、すぐに人は去ってしまいますね。
ちょっと応援したくなってきました。

* * *

ちょうどお盆休みになりました。
知り合いの佐野さんは、どうしているでしょうか。
ちょっと電話でも、久しぶりにしてみます。

「もしもし、ねえ、佐野市の、さのまる、佐野ラーメン、化石館、スカイベリー、犬伏の真田家…、知ってる?」
「みんなB級じゃなくて、一流だよ。」

* * *

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http://www.city.sano.lg.jp/kuzuufossil/


2019.8.12 jiho
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