「映像&史跡 fun」は、映像・テレビ番組・史跡・旅・動画撮影のヒントなどをご紹介するコラムです。


お盆に思い出す / 東京都 中野区(1)

【概要】犬公方 綱吉の生類憐みの令と犬囲い。やりすぎだワン!。犬囲いのその後。江戸城 開かずの間。中野の大盆踊り大会・盆ダンス・盆ディスコ・盆フェス・盆ジョビ。中野サンプラザ。


◇朝からワイドショー


お盆の時期に入りましたね。
仕事や学校がお休みの方も、お休みでない方も、お盆は平等にやってきます。
体験、感動、骨休み…、いろいろあるのがお盆です。

私はほとんど、朝のテレビのワイドショーは見ませんが、お盆休みだから、気分がのんびりしたのかもしれません。
二日程前、何とはなしに、朝からワイドショーを見ていました。

たまたま、テレビで「羽鳥慎一(はとり しんいち)のモーニングショー」を少しだけ見たのです。
「モーニングショー」は、テレビ朝日系のテレビ番組で、朝の情報バラエティ番組です。
ずいぶん昔からこの名称は変わっていませんよね。ちょっと安心します。

* * *

「モーニングショー」を、たまたま見ていましたら、私の地元の東京都中野区の話題が登場したではありませんか。
「そうだ、そういえば、今年の中野駅前大盆踊り大会に、忙しくて行けなかったのだ」と思い出しました。
今年は、今話題のNHKの「筋肉体操」の影響でしょうか、「筋肉盆踊り」もあると聞いていたので、楽しみにしてはいましたが、時間がつくれませんでした。

その模様が、この番組で放送されたのです。
「今どきの盆踊り」事情という紹介でした。
この盆踊り大会は、年々規模が大きくなって、昨年は、世界的なロックスターのボン・ジョビの耳にも届いてツイートされましたね。
「盆ジョビ」です。
これまでの盆踊りの概念を飛び越えた、その内容が話題になりましたね。

この盆踊りのテレビ映像を見た方は、よくおわかりだと思います。
まるで、若者が集まる「夏フェス」を彷彿とさせます。
「DJ(ディージェイ)」という、いわゆる進行役が、しゃべりながら、その場をどんどん盛り上げます。
それは、まるでコンサート会場のようです。
でも、盆踊りなのです。
コンサートと盆踊りの融合のようにも見えました。

* * *

この会場が、東京都中野区の、JR中野駅北口を出て、有名な「中野サンプラザ」を通り過ぎてすぐの、大きなビルに囲まれた公園です。
そこは「中野セントラルパーク」と呼ばれる地域で、その真ん中に「四季の森公園」があります。
「パークアベニュー」という名称もありますが、その区別は、私にはよくわかりません。
いずれにしても、そのあたりの芝生と木々に囲まれた広場です。

この「大盆踊り大会」自体は、毎年8月の開催で、今回が7回目です。
中野セントラルパークでの開催は、今年が初めてだそうです。

内容に関しては、後で書きますが、このコラムは「映像&史跡fun」ですので、この中野セントラルパークのある場所について、少し歴史を書いてみたいと思います。


◇犬公方(いぬくぼう)

お話しは、一気に江戸時代にタイムトリップします。

いわゆる犬を大切にするという「生類憐みの令(しょうるい あわれみのれい)」は、江戸時代の1684年前後からと言われています。
始めたのは、もちろん「犬公方(いぬくぼう)」と呼ばれた、徳川五代将軍の徳川綱吉(とくがわ つなよし)です。
綱吉の死まで、25年あまり続きます。

動物たちの殺生はもちろん、商売、虐待は禁止です。
内容も、年を経るにつれ、エスカレートしていきます。
天下の悪法といわれてしまうこの法令ですが、少し考えてみたいと思います。

私たちも、小学校の時に、「人間よりも犬を大切にした馬鹿な法令で、綱吉は愚かな将軍」というイメージをすり込まれていたように感じています。
今でこそ、その研究が行われていますが、昭和の頃の教育にはまず反映していませんでした。
おそらく綱吉死後の江戸時代の教育と同じだったかもしれません。


◇開かずの間


徳川家には15人の将軍がいましたね。
その中には、勉学が好きで、非常に頭の良い将軍もいました。

初代家康、三代家光、五代綱吉、八代吉宗、十五代慶喜は、頭ひとつ出ているかもしれません。
有力な家臣を見抜く目だけはあったのかもしれない他の将軍たちもいましたが、本人の実行力や積極性はあまり感じられませんでした。

あるターゲットの者を、悪評や、でっちあげで、その地位の評判を下げるというのは、家康のよく使う手でした。
家康に限らず、戦国武将の戦術の一つではありました。
綱吉も、だれかに、そのターゲットにされた気もしないではないです。

* * *

綱吉のその死も、徳川将軍家 最大の不審死です。

おまけに、物騒な怨念やお化けのお話し、「開かずの間」のお話しまで、ご丁寧に作られています。
「開かずの間」とは、絶対に開けてはいけない「アンタッチャブル((触れることのできない部分)」な、江戸城大奥にある、ある部屋のことです。
六代目からの将軍には、この異様なプレッシャーは、それは恐怖だったはずです。
「大奥」の大改革が始まるのは、八代将軍の吉宗からです。

詳細は割愛しますが、この気味の悪いプレッシャーは、現代人にも、のしかかっています。
もし、江戸城の本丸御殿を再建しようとなったときに、あの「開かずの間」の「宇治の間」はいったいどうしたらよいでしょう。
言い伝えどおりのことをしないといけないのでしょうか。
真実はまったく闇の中ですが、再建の時の、後世の方々の判断に任せるより仕方ありません。

綱吉の奥様のお墓には、金網がかけられましたね。
この金網は、徳川家の中で犯罪を犯したもの、反逆したものを意味しています。
奥様は、鷹司信子様です。
今でも、鷹司家は日本の名家のひとつですね。

「宇治の間」に関しては、いろいろなお話しがあります。
公式発表の、二人がほぼ同時に病死したなど、まったく信用できるものではないと思います。
奥様による将軍殺しの説も、到底、信じられません。
江戸城の中に、二人を同時に消したい人物が、複数いたとしか思えません。

私は旅館や茶室を訪れたとき、ついつい、その部屋の名前を確認するのが習慣となっています。
これも、この「宇治の間」の影響です。
△盛り塩△


◇生類憐みの令

皆様に涼しくなっていただいたところで、将軍 綱吉のお話しに戻ります。

綱吉の独断政治に、反感を抱いた武士たちは、おそらく相当いたはずです。
綱吉が死んだとたんに、手のひら返しのごとく、ボロクソに批判が始まります。
「生類憐みの令(しょうるい あわれみのれい)」もその中のひとつのような気がします。

現代でも、死後の「手のひら返し」は、しょっちゅうありますね。
逆に、死んだとたんに美化されて、他人に上手く利用されてしまうこともあります。

* * *

「生類憐みの令」は、たしかに日本史でも特異なようにも見えます。

まず、私の小学生の頃の教科書には、次のようにありました。
今、思うと、子供だましのあまりにも、おかしな話しです。
子供でしたから納得もしましたが、そんなお話し、通るわけない…。

綱吉の母の「桂昌院(けいしょういん)」が、信用する僧に相談します。
綱吉に世継ぎの男子が生まれるように祈願をお願いするのです。
しかし、なかなか叶いません。
その僧は、「将軍様は、前世で殺生したことで、男子に恵まれません。お世継ぎが欲しければ動物を大切にしてください。将軍は戌(いぬ)年生まれですので、犬を大切にしてください」と語るのです。
僧の祈祷の効果が出ないことを、さも将軍自身の前世のせいにするとは、何とも見苦しい言い訳です。
それでも桂昌院は納得し、息子の綱吉に「生類憐れみの令」を出すように言います。
綱吉は、母親の願いを聞き入れて、この法令を作ります。

こんな、安っぽい物語…、幼稚園の絵本でも、もっと説得力があります。

* * *

綱吉は、非常に勉学が好きで、それは学問もよくできたと言われています。

コラム「7月7日は会える日 / 七夕さま」で書きました「湯島聖堂」や「昌平坂学問所」をつくったのも綱吉です。
この学問の殿堂は、まさに、近代日本の学問の扉を開かせた場所ともいっていい場所です。
彼の前半の治世は見事で、世の中からも絶賛されるものが多くありました。
「生類憐みの令」が出るまでは…。

この法令は、踏み込んではいけない「禁断の世界」に足を踏み入れてしまったようにも思います。
武士の存在価値をも考え直させるような「アンタッチャブル(触れることのできない部分)」に触れてしまいました。

現実に、「生類憐みの令」に関連して、庶民には次のようなお達しが出ます。
「野犬を捕まえるために必死に追いかける武士たちを、庶民は笑ってはいけない」というものです。
武士からしたら屈辱の場面です。でも上様からの命令です。
庶民に笑われても、命令には従わなくてはなりません。
「生類憐みの令」によって、切腹、処刑、流罪になった者は、庶民ではなく、下級から中級の武士ばかりだったとも何かで読みました。

「生類憐みの令」の中には、「鷹狩り(たかがり)」や「犬追物(いぬおうもの)」の禁止も含まれています。
この二つは、鎌倉時代ごろから、武士が弓道の腕を、磨いたり、維持するために行われてきた武士の特権のひとつでした。
庶民に、その姿を威張れる場面でもあったでしょう。
関連した武士の仕事や職業もたくさんあったでしょう。
それが今度は、犬を追いかけ、犬の番をするのです。
現代の「番犬」ではなく、犬を見守る「番人間」なのです。

私たちが想像する以上に、その当時の武士の反発心は、どんどん大きくなっていったでしょうね。
おまけに、処分されるのは武士ばかりです。

* * *

ただ、この法令も、学問に秀でた将軍だからこそ生まれてきたとも考えられます。

江戸幕府が誕生してから、80年あまりです。
1615年の大坂夏の陣からは、70年あまりです。

今日はちょうど8月15日の「終戦の日」です。
1945年の終戦から74年です。
感覚的に似ているかもしれませんね。

戦国時代と比較して、武士とは、どのような位置づけに変わっていたでしょうか。
平和な時代に、腰にさす刀は「無用の長物」だったのでしょうか。
むしろ戦時下の人たちのほうが、生き物の命の大切さを考えていたかもしれませんね。

実は、綱吉のこの時代は、人間の「捨て子」が大量にありました。
堕胎も頻繁だったようです。もちろん生活苦や食糧難もあったでしょう。
高齢者を山に置き去りにしてくることも始まっていたようです。
病人も、道路に放りっぱなし…。
犬猫の避妊などできません。大量の野犬が人を襲うことも多かったようです。

命を軽んじる、さらには、「死」を尊いものから忌み嫌うものに感じるようになってきていたのかもしれません。
戦国時代とはまた違う、道徳観や倫理観の欠如が起きてきていたのかもしれません。
他方、街の中でも、自然動物からの危険などが起こっていたようです。

今の日本はどうでしょうか。
バレなければいい、他人の痛みがわからない、産んでも育てない等の「モラルハザード」や、野生動物の住宅地への進出は起きていないでしょうか。
人間社会は、平和な時代になったらなったで、いろいろな問題が生まれてきますね。

綱吉の江戸時代も、そうだったようです。

* * *

学問をたくさん学んだ綱吉です。
儒教の思想にも傾倒していたはずです。

社会の中に、もう一度、倫理観や道徳観、命の大切さを尊重する意識を、復活させたいと考えたのかもしれません。

私は、この法令の発端が、前述の将軍跡継ぎの悩みにあるとは、到底思えません。
学問に長けた綱吉が、そんな理由で、幕府の大量のお金を私用に使ったとは思えません。

ある思想や理想にもとづいて、社会問題への対策のために、しっかり作ろうとしたのが「生類憐みの令」ではなかったかと思っています。
それが、徐々に思わぬ方向に、勝手に進み始めたのかもしれません。

お金が動くということは、かならず配下でも利権が動きます。
最初は喜んだ武士たちも多かったでしょう。

そのうち、武士たちの心の中や周囲に、思わぬ問題がわきあがってきたのではないでしょうか。
それが、ある頃から、表立っての言動となってあらわれてきた可能性もあります。

庶民も、動物と人間の待遇の違いや、商売や暮らしの不自由さに、我慢の限界を超えつつあったかもしれません。
「犬公方」と呼ばれるようになっても不思議はありません。

法令を修正したり、戻る機会を逸してしまった将軍夫妻は、同時に消されたのかもしれません。
大奥の権力闘争も背景にはあったでしょう。
その場所は、大奥の中の奥でした。


◇犬囲い

もう少し早い段階で、この法令を、ほどほどのところで、おさめておけば、よかったのかもしれませんね。

江戸の中には、いくつもの「犬囲い(いぬかこい)」、「犬小屋」と呼ばれた犬の収容・飼育施設がつくられます。
その最大のものが、今のJR中野駅周辺だったのです。

完成当初、広さは16万坪、おそよ、東京ドーム10個分ほどともいわれています。
最終的には、30万坪程度までになったようです。
「中野セントラルパーク」も、丸ごと、その中に入ります。
このパークの敷地でさえ、ほんの一部にすぎません。

* * *

私は、この法令は、現代の動物愛護の精神も、その中に含まれている気もしますし、教育的な思想も入っています。
ですので、もともとの発想は悪くなかった気がします。

でも、いきなり、それで押し通そうとすると、思わぬ事態が引き起こされる可能性が高くなります。
綱吉は、何かに追い立てられるように、一気に動き出しましたね。

時間をかけて、社会や武士の不満のガスをしっかり抜きながら、徐々に進めていけばよいものを、いきなり大規模な「犬囲い」を作っては反感を買います。
野犬に家族を殺された者たちは、どう感じていたでしょう。
漁師、猟師、畜産農家、稲作などの農家たちは、どのように生計をたてていけばいいのでしょう。

人に害を与えた犬はせめて、人間と同じ罪を与えるのも、社会システムを維持するひとつの策だったかもしれません。
江戸時代にも、人になつく、癒してくれる、やさしい犬たちだって、たくさんいたはずですから、それらとは区別してもよかった気がします。
将軍という特別な地位ですから、ある意味、強引さも わからなくもないですが、人心を読み解くのを忘れてはいけませんね。
これは、現代でもまったく同じだと感じます。

* * *

一方、イスラム圏を除く世界各国には、古くから、牛や豚のように、犬を食べる文化がしっかりありました。
ほぼ中東を除く全部と考えていいと思います。ただ英国は、犬を狩猟の仲間として大事にしてきた歴史があるとは思います。
今、世界の犬食文化は、少しづつ減ってきています。日本は、もちろん戦後には消滅しました。

ただ、人間は食糧危機をむかえたら、どのような行動をとるかはわかりません。
今、世界人口が爆発的に増え、温暖化による環境変化も起きています。
私が子供の頃に教わった、さまざまな野菜や果物、お茶、米などの名産地が、どんどん北上しています。
数十年後、東北や北海道で止まってくれるでしょうか。
外国は、これからも日本に食糧を売ってくれるでしょうか。
今の子供たちの幸せそうな顔を見ていると、これから来る食糧問題が心配でなりません。
今日は、終戦の日です。そんなことも頭をよぎりました。


◇やりすぎだ ワン!

さて、綱吉は、良かれと思って出した法令が、武士たちのプライドをズタズタにしてしまったのかもしれません。

徳川家には、皆さんもご存じのとおり、徳川御三家がありました。
紀州(和歌山県)、尾張(愛知県)、水戸(茨城県)の三家です。
徳川本家で何かあったときの予備の徳川家です。

綱吉の五代以降、将軍の座をめぐって、この三家は、それはすさまじい政争がはじまり、幕末まで続きます。
最後は、鹿児島の島津家も入ってきます。

この政争では、大奥も深く関係します。
八代将軍の吉宗以外は、ほぼ大奥の統制がとれませんでした。
吉宗は、大奥を上手に使って、将軍の座についたともいわれていますね。
将軍の有力な側近たちも、大奥を上手に利用しましたし、大奥の権力闘争は、表の政治の混乱に拍車をかけました。
暗殺、謀略、裏切り、密告、政略婚姻、もう何でもありとなります。
よく大奥を舞台にしたテレビドラマに描かれる、「絵島(江島・えじま)」を主人公にした「絵島生島事件(えじまいくしまじけん)」は、そんな中のひとコマです。

綱吉の死は、そんな江戸幕府の混沌の始まりだったように思います。
その死を喜ぶ人たちも、たくさんいたのでしょうね。

* * *

ここで、この法令のエスカレートしたものを、少しご紹介します。

*魚や鳥を生きた状態で販売禁止。冷蔵庫のない時代にです。
*釣り禁止。
*ウナギやドジョウも禁止。
*エビ、貝も禁止。昆虫に関しては、よくわかりません。
*鳥が巣を作った木の伐採禁止。これは実際に処刑もありました。
*へび使いの芸は禁止。動物をつかった見世物が禁止されました。
*動物虐待を見つけて、密告したものには賞金授与。
*将軍が道路を通るときも、犬や猫をつなぐことは禁止。数年前に、日本のあるマラソン大会で、犬にぶつかって優勝必至のチームが負けましたね。許されるのでしょうか。

実際に、遠い島への流罪、切腹、死罪までありました。
ですが、その処分は、下級中級の武士ばかりで、庶民への「おとがめ」はそれほどなかったとも、いわれています。

病気の牛や馬をやたらに捨ててはいけない。
これは病気の蔓延防止の意味から、昔から行われていたようですし、「生類憐みの令」が廃止されてからも続いたようです。
野犬の収容も続けられました。これは現代も同じですね。

私は、子供の頃に、街でよく野犬の集団を見ましたが、まさに動物園のオリから逃げた猛獣そのものです。
映画「バイオハザード」で登場する狂犬そのものでしたね。あまりの恐怖に凍りつきます。
今、地方で、クマが住宅街に出没することがありますが、それと同じようなものでした。
野犬の集団は、今の日本では、まず見なくなった光景です。安心して暮らせますね。

* * *

東京の世田谷区の小田急線沿線に「喜多見(きたみ)」という場所があります。
ここには武家の喜多見さんがおり、病気の犬の治療の施設がありました。
仕事ぶりが気に入らなかったのか、綱吉の逆鱗にふれ、処分されます。


◇無茶苦茶だ ワン!

中野区の犬囲いは「中野御用御屋敷」と呼ばれ、それは広大な敷地でした。
その広さは前述しました。
まるでお城を作るような大規模土木工事だったようです。築城の名家、藤堂家も加わっています。
いったい何万人が工事にかり出されたのでしょう。
中野村や宝仙寺の敷地を強制的に接収です。

総工費は、実態はよくわかりませんが、現代の感覚からいうと、数百億円から数千億円程度なのかもしれません。
それよりも何よりも、維持費は莫大のはずです。
工事や費用を負担させられて、破綻した藩や武家もあったようです。
戦国時代の「天下普請(てんかぶしん)」にも似ていますので、政治的に利用された側面もあったでしょう。
天下普請とは、将軍の命令で全国各地の大名が強制的にさせられる土木工事のことです。

施設の完成当初は、犬が10万匹はいたようです。

ちょっと調べましたら、今の日本には、わかっている範囲で犬が約900万匹いるそうです。
昨年でしたでしょうか、はじめて猫の数が犬を越えたと、ニュースになっていましたね。
近年の猫ブームの影響ですね。

それにしても、中野の施設だけで10万匹とは…。
25年後には、数を管理したとはいえ、相当増えていたのかもしれませんね。

それより何より、えさ代を、周辺地域に負担させるとは無茶苦茶な話しです。

かつての江戸では、野良犬に、庶民がご飯の残りなどを与えていましたが、この法令により、飼い主と誤解されないようにと、えさを与えなくなってしまいます。
「生類憐みの令」の精神とは、ますます逆行していきます。
そして、犬を中野に集めてきては、周辺住民がえさ代を負担するのです。

法令とシステムが、まったく整っていませんね。
私は現代の中野区民ですが、何か腹が立ってきました。
これが、庶民の不満となって、いつしか爆発するのです。


◇あわれ…

ですが、この法令により、野犬が激減して安全な街になったという効果も見逃せません。
この時代に、動物を治療するという施設があったことも評価できます。
「生類憐みの令」には、光と影があったようですね。
まるで、綱吉の人生のようです。

人気を落としていった綱吉ですが、最後に、彼を奈落の底に叩き落したのが、あの「忠臣蔵」です。
江戸城内での刃傷事件から、吉良邸への討ち入り、赤穂浪士たちの切腹までの事件です。

綱吉からすれば、よりによって、どうしてこんな時にといった事件でしょう。
この事件の内容は割愛しますが、この事件は、まさに武士の忠義や、そのあり方を、将軍家に問いているような事件です。
かつては、あれだけ褒めたたえられた綱吉でしたが、すっかり人気が没落しました。

赤穂浪士の切腹は1704年です。
綱吉夫妻は、1709年に亡くなります。綱吉64歳です。
何か、人の「哀れ」と「憐れ」を感じます。


◇ワンちゃん、大好き

そんな、中野にあった巨大な犬の施設ですが、面影は残っていません。
地名や井戸などに若干の名残りがあるだけです。

ですが、区役所には、五匹の犬のモニュメントがあります。
五匹とは、五代将軍を意味しているのでしょうか。

私は中野区民のひとりとして、動物愛護の精神や、犬への愛情という部分を、中野区のPRや「街おこし」にもっと活用してもらいたいと思っています。
東京には、小規模ではありましたが、喜多見だけでなく、四ツ谷や大久保にも「犬囲い」がありました。
連携して、犬のイベントでも行ってほしいですね。
「世界の犬サミット」でもいいです。
「動物愛護」のイベントでもいいです。

中野区として、他のどの区よりも、綱吉の光の部分に、もっと焦点を当ててあげてもいい気がします。
個人的には、愛される「犬区」であってほしいですね。


◇犬囲いのその後

そんな綱吉の時代の、広大な犬の収容施設には、八代将軍の吉宗(よしむね)によって、桃の木が植えられ広大な公園となります。
ここから、桃の花の「お花見」が始まります。
吉宗は、東京各地に、桜の木もたくさん植えていきます。
現代の東京の桜の名所の多くが、吉宗によるものです。

鷹狩りも復活し、この中野周辺は、将軍家の鷹狩り場に戻ります。

幕末になると、中野の広大な敷地は、物資の集積地にもなり、粉や醤油、味噌といった製造業が盛んになっていきます。
味噌屋さんは、今でも多くあります。
この製造技術が、戦争での火薬や弾薬に活かされていきます。

開発がどんどん進み、昭和になると、日本帝国陸軍中野学校がつくられます。
もともとは日本陸軍の諜報機関があり、そうした兵士を養成する学校でした。
ですから、軍服をあえて着用させずに、市民の中に溶け込むような取り組みもあったようです。

その影響があったのか、なかったのか、今の中野は、何にでも変身できるコスプレや、サブカルチャーの聖地ともいわれています。
それがお目当ての外国人観光客もたくさん訪れます。
極たまに、商店街で、不思議なキャラ姿や、セーラームーン、アニメキャラとすれ違うこともあります。
まさか、どこかのスパイではないでしょうね。目立ちすぎです。

この聖地は「中野ブロードウェイ」と言われている建物です。
妙にベタな名称ですが、1966年に開業した当時は、おそらく今の「六本木ヒルズ」に当たるような建物だったかもしれません。
高層階が住居、低層階が商店街の複合ビルです。
ですが、開業当時とそれほど変化していません。
逆に今は、妙に昭和チックなレトロ感がいい味を出しています。

お子さん連れで、ここを訪れる時は、親御さんは覚悟してください。
いや、親御さん世代のほうが、子供たちを置き去りにして突っ走りそうです。
そして、その中は、「まんだらけ」だらけです。
地下の食料品街も、独特の雰囲気をかもし出していますよ。
ブロードウェイ隣の、巨大ないわゆる歓楽街も昔のままです。
巨大な調理関連の学校には、日本全国から学生が集まってきます。
「つけ麺」の発祥も中野です。まさにラーメンの激戦区です。
眼の仏様、新井薬師様もすぐ近くです。

* * *

軍の施設が多くあったこともあり、この周辺地域には、今でも、軍人の子孫の方々の家も少なくありません。
戦後は、軍から警察関連の施設や学校、病院になります。
2001年まで、警察大学校がありました。今は府中市に移転しています。
今でも、大きな警察病院は、中野のこの地に残っています。

今は、各地方には、拠点の大病院がありますが、昔はあまり ありませんでした。
地方で、大きな交通事故にあって、その場所で治療が難しい場合は、よく東京の警察病院のお世話になったものです。
今でも、警察関係者の患者はもちろんですが、一般の方もたくさん利用していると思います。

2001年、警察関連の施設が移転し、そこに広大な敷地が誕生しました。
今、東京の下町に、「東京スカイツリー」がありますが、この中野の敷地も候補地のひとつでした。
すぐ隣の新宿に高層ビルが林立していることは影響したでしょうね。

この敷地は、近年「中野セントラルパーク」として開発され、早稲田、明治、帝京などの大学施設や、キリンホールディング(キリンビール等)や栗田工業、東映アニメーションの本社がやってきました。
ここは、比較的、地盤がしっかりしており、海抜40メートルほどありますので、山手線の内側や下町地域、世田谷区・大田区などの南部よりも標高が高い地域になります。そのあたりも考慮したのかもしれません。

このすぐお隣には、あの「中野サンプラザ」があります。
盆踊り大会は、この建物の前でも行われています。

綱吉さん、自分が整地した広大な中野の土地が、まさかこんな進化をとげるとは想像もできなかったでしょうね。


◇中野サンプラザ

中野サンプラザは、新人歌手が初めてコンサートを開催することも多い場所です。
新人アイドルもたくさんコンサートを行います。
また演歌歌手や、かつての歌謡曲の大スターたちも、歳を経てコンサートを行ったりしています。

建物の前には広場があり、いかにも地方からアイドルのコンサートを見に来た素朴な青年たちを、よく見かけます。
服装といい、持ち物といい、すぐにそれとわかります。でも、何かうれしい気持ちになりますね。

私は時々、「誰のコンサートなの?」と彼らに尋ねることがあります。
すぐに、「〇〇というグループの、××さんです」と、なまりのある口調で答えてくれます。
まず、無視する子はいません。
オヤジの私は、「ああ、あの かわいい娘ね」とか適当なことを返すと、うれしそうな顔をするのです。
本当は、私が知っている娘など、ほとんどいません。
「気をつけて、帰んな」とか言って別れるのです。

中野サンプラザの広場には、中高年の大集団も時折あらわれます。
ピカピカの うちわ とかを持参しています。楽しそうな笑い声も聞こえます。

ほとんど、毎日、タイプの違う集団を見かけます。
毎日毎日、何か、やっているのです。
昔は、人の数より圧倒的に多い、10万匹の犬が、ワンワン吠えていた場所なのに…。

新人からトップまで、アマチュアからプロまで、大規模から小規模まで、小さな子供や若者から年寄りまで…、何でも飲み込んでいたのが中野サンプラザです。

* * *

数年後には、この建物は取り壊されて、新しい高層ビルになります。
この独特の三角形の建物デザインや、「中野サンプラザ」という高い知名度の名称を残すかどうかが議論されているようです。

「ランナー」や「大きな玉ねぎの下で」の大ヒット曲を持つロックバンド「爆風スランプ」のボーカルである「サンプラザ中野くん」も心配して活動していましたね。

個人的な話しですが、昨年引退した安室奈美恵さんの、デビューした頃の中野サンプラザのコンサートの「トライ・ミー」をネット動画サイトでよく見ました。近年まで見ていました。今はネットで見ることはできません。

この時のアムロちゃんは、百人の芸能関係者、百人の音楽関係者がいたら、その二百人がすべて「この娘は売れる」と言わしめた逸材でした。
これほどの新人は、それ以降、あまり記憶にありません。

中野サンプラザは、新人タレントやミュージシャンの登竜門のような存在でしたね。
中野区の若者にとっては、成人式の門出の場所でもあります。
出発の場所、それが「中野サンプラザ」だったのです。

いずれにしても、太陽の光がさんさんと差し込み、人々の笑顔が集まる場所になるような新しい建物になってほしいと思います。
「中野セントラルパーク」とセットで、素晴らしい施設になってほしいものです。
数年後には、今の建物が史跡となっているかもしれませんね。
その時には、また「映像&史跡fun」で、コラムを書きたいなと思っています。


◇フェス

さて、そんな「中野セントラルパーク」で初めて開催された「大盆踊り大会」です。
もしかしたら、新時代の盆踊りの予感かもしれません。

このコラムの冒頭で、「フェス」のようだと書きました。
60歳代くらいまでの方でしたら、この言葉のイメージはおわかりいただけるかもしれません。
それ以上の年齢の方々には、初めて耳にする言葉だという方も、少なくないと思います。

「フェス」とは「フェスティバル」のことで、日本の場合、お祭り、祭典のような意味あいです。
それどほ深い意味はありません。流行の呼び方くらいなものです。
近年、「フェス」と呼ばれるスタイルが大流行です。
夏は特に多いですが、一年中あります。

音楽コンサートに似ていますが、もっと広い意味の一大音楽イベントをイメージします。
そこには、しっかりステージがあり、出演アーティストが多数います。
特定のアーティストだけではないことのほうが多いですね。
時間もかなり長いです。
徹夜もあれば、キャンプスタイルもあります。

* * *

大きな音楽フェスのようなものといえば、昔でいえば、1969年のアメリカの「ウッドストック」、1985年のイギリスの「ライブ・エイド」を思い出します。
そこには、社会的な目的がしっかり存在していました。
それに共感したアーティストや観客が集まったのです。
この二つは、決して音楽だけのイベントではありませんでした。

* * *

現代の日本のフェスなら、「フジ・ロック・フェスティバル」、「ロック・イン・ジャパン・フェスティバル」、「サマーソニック・フェスティバル」、「ライジング・サン・ロック・フェスティバル」などが大きなフェスで、中規模、小規模を入れたら、相当な数があります。
東京でも、秋になるとジャズ系の音楽イベントがたくさんありますね。これもフェスといっていいと思います。

日本のハロウィンの街のイベントは、まだ、まとまりのない集結のようなものですが、いずれは、だれかが大規模なフェスのかたちにしてゆくのかもしれませんね。

昔の、ウエスタン・カーニバル、フォーク・ジャンボリー、ニューポート・ジャズ・フェスティバル、静岡県のつま恋で行われていた一連の音楽イベントも、今でいうフェスに近いものだったと思います。

中高年の皆様も、若い頃に行った。コンサートや音楽イベントを思い出してみてください。
その頃のエネルギーや感情を思い出してみてください。
その頃の親たち世代は、渋い顔をしていませんでしたか。
今のフェスに集まる若者も同じだと思います。
むしろ数十年前のほうが、自由で、選択の幅や間口が大きかったかもしれません。
今のほうが、整い過ぎている気がしないでもないです。

今の日本のフェスは、もちろんビジネス的要素はありますが、それだけでは、なかなか人は集まりません。
観客それぞれに、満足したいこと、味わいたいことがあります。
純粋な音楽ファンばかりとも思えません。
その時間と場所を、多くの人と共有することも大切な要素です。
仲間たちとの飲食も重要な要素です。
そこには、ちょっとした旅や冒険の要素も加わっています。

考えようによっては、大阪万博も、オリンピックも、フェスだったかもしれません。
大きな祭典でしたが、感動や喜びを共有しました。

今、日本の多くの方々は、来年の東京オリンピックをワクワクしながら待っていると思います。
チケットがなくても、何となく、その会場に行ってみたいと思われている方も多いでしょう。
フェスの会場に向かうこととは、そんなワクワク感に近いのかもしれません。


◇BONダンス、BONデイスコ

近年、「DJ Celly(セリ)」さんという女性が注目を集めてきましたね。
今回のような、「洋楽で、盆ダンス」の仕掛け人のような方なのかもしれません。
世界的なロックスターのボン・ジョビさんも、それに応えたことのようです。

今回、盆踊りに使用された洋楽曲を、ネットで、できる限り調べてみました。
正確さに欠くかもしれませんが、少しご紹介します。

*恋のナイト・フィーバー
*セプテンバー
*ボーン・トゥ・ラブ・ユー
*ドント・ストップ・ミー・ナウ
*リビン・オン・ア・プレイヤー
*イッツ・マイ・ライフ
*YMCA
*ダンシング・クィーン
*君の瞳に恋してる
*ラビン・ユー・ベイビー
*ロング・トレイン・ランニン ほか

誰もが知っている、70年代から80年代の大ヒットの洋楽曲ばかりです。
ボン・ジョビやクィーンの曲も入っていますね。
どうやって、盆踊りに合わせたのかは、わかりません。
すごい発想ですが、外国人にも、大うけしそうです。

ここに、あの「DJ KOO(コー)」さんが加わっているのですから、異常な盛り上がりになるでしょうね。
「EZ BON DANCE」と銘打っています。
なかなかの名称ですね。

「DJ KOO(コー)」さんとは、人気バンドの「TRF」のメンバーだった方です。
テレビにも、たくさん出演されていますよね。
3秒あれば、人の心を「テンション・マックス」に持っていける人は、今や、徳光和夫さんか、「DJ KOO」さんかといったところですね。
テレビ映像からも、その盛り上がりが伝わってきました。

このイベントには、アニメの「エヴァンゲリオン」の主題歌を歌う、アニソン歌手の高橋洋子さんも登場したようです。
名付けて「エヴァ盆」です。

盆ダンス、盆ジョビ、エヴァ盆、盆ディスコ、EZ BON DANCE、など、若者がワクワクしそうなフレーズが満載です。
今年は、そこに「筋肉盆踊り」です。
今回のコラムでは、その筋肉にはさわらないでおきます。
「納涼、盆踊り大会」の名称もいいですが、若者にはワクワク感が足りないかもしれませんね。


◇いろいろな、丸い輪

テレビの「モーニングショー」で紹介されたような、音楽コンサートやフェスのような、派手な音楽や演出は好きではないという意見も、もちろん理解できます。

自分が、どんな盆踊り会場に行きたいのか、どんな音楽で盆踊りをしたいのかによっても、意見は分かれると思います。

盆踊りの歴史は、平安時代からとか、室町時代からとか、いろいろな説があります。
もともとは死者への供養の意味あいも強かったでしょう。

人が踊るということは、そこに何かの思いが込められています。
供養であったり、捧げものであったり、喜びの共有であったり、さまざまにあろうと思います。

中には、今は亡き人とともに訪れた盆踊り会場に、亡き人の思い出を探しに来る方もいるでしょう。
幸せに踊る、見ず知らずの家族の姿を見るために、その会場に来る方もいるでしょう。
何かやさしい、提灯(ちょうちん)の明かりが見たくて、会場にやってくる方もいるでしょう。
中には、人々の喧騒の音がまったく聞こえず、やぐらの上の太鼓の音しか耳に入らない方もいるでしょう。

実は「フェス」に集まる人と、「盆踊り」に集まる人々は、本来かなり違うのです。

大盛り上がりの「フェス」のような会場に、冒頭写真のような、ゆかた姿の小さな女の子を肩ぐるまする親子の参加は、少しむずかしいかもしれません。
「踊るポンポコリン」や「ドラえもん音頭」で、親子で踊ることもできません。

ロックコンサートのような盛り上がりは苦手という方もおられるかもしれません。
音楽という意味では、クラシック音楽のフェスもあります。
もちろん、民謡や和太鼓、三味線等の伝統音楽だってあります。

実際に、音楽フェスに行きたくても、なかなか行くことができない方も多くおられます。
いろいろなかたちの音楽と踊りを、「盆踊り大会」で体験してみるというのも楽しいかもしれませんよ。

数十年前に、世の中で「河内音頭」が大流行したことがありましたね。
その時の盆踊りは、河内音頭だらけでしたね。
音頭や、○○節は、昔から盆踊りの定番でした。

かつて、小中学校でフォークダンスが流行していたときは、盆踊り会場でフォークダンスもありましたね。
キャンプファイヤーのようでした。

大昔から、その時代ごとに、好きな音楽で、好きなスタイルで踊る…、それが盆踊りなのかもしれません。
流行に従っていいのだと思っています。

いろいろな丸い輪があっていいのだという気がします。

* * *

大正期ごろから、政府は軍事色を強め、市民を統率管理するために、いろいろなシステムを導入していきますが、町内会や隣組なども、もともとはその流れのものです。
すたれていた「盆踊り」を復活させ、地域の結束力強化と、住人の把握のために利用したと聞いたこともあります。
世代を越えて、踊れる内容のスタイルに強引に推し進めたのかもしれません。
正直よくわかりません。

世代を越える、趣味嗜好を越える、その目的を越える、という盆踊りは簡単ではないと思います。

今回の中野の盆踊り大会も、この内容では参加できない、したくないという方も多いかもしれません。

もし可能なら、一週間を通して、今日は昔ながらの音頭と民謡、今日は親子で楽しめる踊り、今日は歌謡曲の踊り、今日は和太鼓と三味線、今日は民謡とお盆の風情を楽しむ日、今日はロックフェス、今日は世代を越えて千秋楽など、分けてもらえると参加しやすいし、他のジャンルの良さも味わえるのかもしれませんね。
世代間、思想間の、ギャップも乗り越えられるかもしれません。

人によっては、全部、参加したいという方も少なくないでしょう。
中野区は、特に外国人が多い区です。彼らにも、門戸を開けてあげたいですね。
恥ずかしがらずに、いかに参加したくなるようにできるのか、盆踊りが好きになれるか、それも大きな課題かもしれません。

* * *

見ず知らずの人たちと、笑顔で、ひとつの輪をつくるなんてことは、今や盆踊りくらいしかありません。
外国人からしたら、日本の国旗の赤い丸は、太陽ではなく、この丸なのかと感じるかもしれませんね。


◇思い出す…

盆踊りは、心に一生残るような、家族の思い出、親子の思い出がつくられることも多いものです。
盆踊りは、心に「ふるさと」を宿してくれたりもします。

ですから、目に映る、その光景はかなり大切です。
見た目の華やかさよりも、大切なものが、盆踊りにはあってほしいものです。

盆踊りの風景を見ながら、亡き人たちの顔や踊る姿を思い出してみるのも、盆踊りのいいところかもしれませんね。

* * *

徳川綱吉は、理想は高くて立派でしたが、強引さゆえに失敗しました。
「盆踊り」は、だれかが引っ張て、皆で楽しんでいるようで、実は、皆で何かを思い出しているような気もします。
自由な発想で、これからも進化していってほしいと思っています。

* * *

今週のコラムは、二本でした。
まずは、栃木県佐野市(さのし)のお話し、そして上野(こうずけ)の国から、東京の不忍の池あたりにやって来て「上野殿」と呼ばれた小野さん、そしてその地が上野(うえの)になったお話し、最後は中野のお話しでした。

最後に、昔のドラマ「裸の大将放浪記」の山下清を演じた、芦屋雁之助(あしや がんのすけ)さんの台詞のように…。
「野」に咲く花のような、二本のお話しだったんだな。そうなんだな…。

皆さま、良い「お盆」を…。

* * *

江戸時代の中野のワンちゃんたちの写真は次回で…。
コラム「おいぬさま / 東京都中野区(2)」へつづく。


2019.8.15 jiho
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