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ダンボみたいに…【後編】/ 東京都 中野区(4)
【概要】江戸時代のゾウさんの長い旅。ゾウの日は孫と…?。映画のダンボみたいに…。中野にあったゾウ園。浜離宮にもいたよ。京都御所にも行ったよ。吉宗さんにも会ったよ。宝仙寺。
コラム「ダンボみたいに…(前編)/ 東京都中野区(3)」よりのつづき
◇ゾウの日
皆さん、「ゾウの日」という日をご存じですか?
4月28日、この日が日本の「ゾウの日」です。
8月12日、この日は「世界ゾウの日」です。
世界の記念日です。
2012年に、ゾウの保護慈善団体が制定したものです。
日本では、とっくに「ゾウの日」がありました。
いずれにせよ、多くの動物園で、こうした記念日に、ゾウさんたちに ごちそうをあげたり、記念イベントを行ったりしています。
* * *
ゾウが、まるまる一個のスイカを、前足で踏みつぶしてから、鼻でつかんで食べる姿を、よくテレビで見ますよね。
ゾウは、踏むものに合わせて、チカラを相当に加減調整していると聞いたことがあります。
チカラが無駄に入りすぎると、大切な足を傷つけてしまうからです。
おそらく、お豆腐を壊さずに足を乗せることもできるだろうとも聞きました。
鼻と前足を使って、相当に敏感に感じとっているのだろうと思います。
人間が足先で行える行為と、どの程度ちがうでしょうか。
人間は自動車のブレーキを、足のチカラ加減で調整しますが、ゾウにもできそうな気がします。
親ゾウが子ゾウの頭に、長い鼻をのせて、よくなでるような行為をしますが、どのような感触なのでしょうか。
人間の親が子供の頭をなでるのと、おそらく同じチカラ加減なのでしょうね。
* * *
日本の「ゾウの日」が、どうして4月28日なのでしょうか?
それは、江戸時代に日本にやってきたゾウに関する、ある出来事が、4月28日だったからです。
江戸時代の前に、日本にやってきたゾウのことは、コラム「ダンボみたいに…(前編)/ 東京都中野区(3)」で書きました。
今回のコラムは、江戸時代にやってきたゾウの出来事を書きたいと思います。
◇ゾウさん長崎に到着
以下、歴史上に登場します日付は、旧暦です。
現代の暦では、おおよそ一か月遅れだと想像してください。
現代の日本の「ゾウの日」は、歴史上の旧暦の日付をそのまま使用しています。
1728年(享保13年)6月、2頭のゾウを乗せた貿易船が長崎に到着します。
その二年程前に、八代将軍 徳川吉宗(よしむね)が、中国の商人に発注していました。
今のベトナムあたりから2頭のゾウが運ばれました。
オスが7歳、メスが5歳だったそうです。
長崎の十禅寺村で飼われはじめます。
文献では、メスは3か月後に、病気で亡くなったとあります。
ゾウ使いが二名と、通訳がひとりいたようです。
◇江戸に向けて出発
翌年の1729年(享保14年)3月13日、長崎を出発します。
おそらく、江戸までの、道のコース設定や各藩との調整、道の整備や橋の工事に、半年以上かかったのだと思われます。
メスを亡くし、残ったオスの精神状態や、雪がなくなる暖かい季節まで待つことも考慮されたでしょう。
おそらく、桜の花を見ながらの出発だったと思います。
4月16日に大坂に到着します。
4月26日に京都に到着します。
新緑の美しい京都だったと思います。
大坂から京都という短い距離に、10日間をかけていることは、おそらく、さまざまなイベントや沿道サービスが、ゆっくり行われたのだと想像します。
◇京都の喜び
そして4月28日、京都で、霊元上皇(れいげん じょうこう)と中御門天皇(なかみかど てんのう)の上覧が行われました。
通俗的な言い方で恐縮ですが、、おじいちゃんと孫が一緒に、ゾウさんを眺めたということです。
中御門天皇の父親の東山天皇(ひがしやま てんのう)は、すでに亡くなっておられました。
中御門天皇はこの時 27歳くらいです。その後、36歳あまりで亡くなります。
想像するに、おじいちゃんと一緒に、ゾウに出会ったこの日を、生涯、忘れることはなかったでしょう。
お父さんにも、見せてあげたかったでしょう。
このような和歌を残されています。
「時しあれは 人の国なるけたものも けふ九重に みるがうれしさ」
「九重」という言葉が使われていることは、とにかく最高の喜びが込められている気がします。
この日の出来事がなければ、日本の「ゾウの日」は生まれていません。
この時のおじいちゃんと孫の喜びは、現代、「ゾウの日」となって、しっかり残されました。
日本の「ゾウの日」の、本当の意味は、おじいちゃん、おばあちゃんと孫が、一緒に、ゾウに会う日なのかもしれません。
* * *
この上覧には、ゾウに官位が与えられたという逸話も存在します。
ですが、信憑性には欠けます。
◇江戸に到着
東海道経由で、5月24日、今の神奈川県川崎市と東京都大田区の間に流れる多摩川のところまでやってきます。
江戸時代は、江戸の防衛のため、多摩川に橋はかけられていませんでした。
現在よりも、川が深く造られていたかもしれません。
そこで、江戸幕府は、周辺の六郷(ろくごう:今の東京都大田区南部の村々、雑色・八幡塚・町屋・高畑・古川・道塚)や川崎の民衆に、船を集めさせ、その上に板を敷いた仮設の橋を作らせます。
今の多摩川であれば歩いて渡れるでしょうが、船を使った橋を作ります。
実は、小屋を乗せた船を特別に作って多摩川を渡ったという説もあり、実際のところはわかりません。
江戸幕府の人たちは、ゾウが泳げることを知らなかったのかもしれませんね。
あの巨体ですから…。
今も、東京都大田区には、「雑色(ぞうしき)」という駅名があります。たしか地名には残っていないと思います。
その駅あたりは、ちょうど多摩川を渡った、かつての六郷の集落の一部でした。
この「雑色」は、鎌倉時代の雑務専門の下級役人の名称で、今でいう、役所の、昇進できない臨時雇いの職員のような人たちです。
駅名だけに、なぜ残したのかは知りませんが、「象色」であったら素敵なのにと、いつも思ってしまいます。
* * *
さて、ゾウさんは、品川で一泊(?)し、5月25日に「浜御殿(はまごてん)」に到着します。
浜御殿は、将軍家の別邸です。今でいう、プライベート別荘といったところです。
今の、東京の「新橋駅」からほど近い「浜離宮(はまりきゅう)」のことです。
5月27日に、いよいよ将軍と対面します。
将軍 吉宗は、「江戸城の大広間から見た」という記述が残っていることから、ゾウは江戸城に入ったと思われます。
遠くから見たのか、ある程度の距離まで近づいたのかは、わかりません。
◇そりゃあ ゾウ 大騒ぎ
この長崎から江戸への旅は、約80日間かかっています。
道中の沿道は、それはもう大騒ぎだったようです。
それは、ゾウが通るときだけではありません。
事前準備も大わらわだったようです。
事前に通達が出ています。
*道をきれいに掃除すること
*ゾウの飲み水を用意すること
*寺の鐘つき禁止
*牛や馬を、一定距離以上離すこと
*犬や猫をつないでおくこと
庶民は沿道の家から出てはいけないというものもありましたが、はたして守られたでしょうか。
実際に、ゾウの背には、現地からきたゾウ使いが乗っていました。
他にも、峠の石畳の整備、道端の毒草の除草、橋の補強、大量の食糧の準備などの話しが残っています。
箱根越えと、大井川の渡しは、かなりたいへんだったようです。
ゾウの扱い方の注意書や、飼育方法を書いたものもありました。
餡(あん)の入っていない饅頭を、一日50個という話しもあります。
このゾウを描いた絵も数知れず。
幕府の御用絵師もしっかり描いています。
お土産物、グッズ、雑誌、関連商品も数知れず。
江戸時代中期以降は、旅行の大ブームもあり、今の、観光ガイドブック、観光名所絵はがきのような商品が、飛ぶように売れていた時代です。
歌舞伎の演目「象引(ぞうひき)」と、このゾウの旅との関連性はわかっていませんが、当時の庶民の最大の娯楽演劇であった歌舞伎です。
こんな大ブームにのらないはずはないと感じますね。
北九州の宿屋さんの宿帳には、「白象」という記述が残っているとか。
しゃれなのか、本当なのか、よくわかりませんが、完全に楽しんでいますね。
現代の日本各地でも、ゾウが登場するお祭りや神事が、結構 残っています。
江戸時代に着火した大ブームの火は、今でも消えていないのかしれません。
◇どうして?
吉宗は、どうしてゾウを日本に呼んだのでしょうか。
前回コラム「ダンボみたいに…(前編)/ 東京都中野区(3)」でも書きましたが、江戸にゾウがやってきた頃は、さまざまな政治的暗躍で二転三転していた暗い時代を、吉宗の登場で一掃された時でした。
吉宗は、桜や桃のお花見名所づくり、庶民の投書箱である「目安箱(めやすばこ)」の設置、庶民向けの病院、街の消防隊など、庶民が喜びそうな政策を次々に行っていきます。
「赤ひげ先生」や、「大岡越前」が登場してくるのも、この時代です。
まさに吉宗の時代だからこそ登場してきた、歴史の中のキャラクターたちです。
贅沢ざんまいの大奥の女性たちを、半分以上減らしたのも吉宗です。
逆に、街に戻ったこの女性たちは、華やかな文化を城の外に持ち出してくれて、江戸文化がますます盛り上がっていきます。
ですが、幕府の財政は火の車です。
ケチケチ倹約、増税など、きびしい改革も断行していきます。
百姓一揆も激増します。
吉宗の政治は、硬軟(こうなん)織り交ぜたような政治です。
結果的に、江戸幕府は安定財政の健全組織に戻ります。
* * *
さて吉宗は、どうしてゾウを、日本に、そして江戸に、呼んだのでしょうか。
前回コラムの最後に書きました、「動物図鑑」を、たまたま吉宗が見つけて、ゾウを見たくなったのは理由ではないと思います。
これだけの政策を行う吉宗です。
私欲で、費用や労力が莫大にかかる、ゾウの旅を行うはずはないと思います。
動物図鑑の話しは、真偽はわかりません。
この動物図鑑が、ゾウを呼びよせるアイデアのきっかけになった可能性はありますが、理由ではないはずです。
また、吉宗自身が、長崎にゾウを見に出かけるほうが、はるかに短期間で安上がりです。
でも、それではだめなのです。
京都で皇室の方々にご覧いただくことはもちろん、東海道、山陽道、九州道、そして江戸の多くの庶民に見せることが最大の目的だったと思います。
単なる「人気取り」とも違う印象を持ちます。
おそらく、徳川綱吉(つなよし)の時代に、地に落ちた江戸幕府の求心力と信頼、将軍の威光を、復活させる一環で、ゾウの旅を考えたのではと思います。
庶民には、日ごろの増税への不満のガス抜きの意味も大きかったでしょう。
一揆の相談よりも、ゾウの話しで持ち切りのほうが、だんぜん安心です。
このゾウの旅で、各地で仕事が生まれ、臨時収入も与えられます。
将軍が各地に出向くよりも、ゾウが顔を見せたほうが、はるかに安全で効果絶大だと思います。
こうした動きは、現代でも、しっかり行われますよね。
ほかにも考えられそうな要因はありますね。
* * *
なぜ、トラや、クジャクなどではなく、ゾウなのか?
なぜ、長崎から江戸なのか?
なぜ、海路ではなく、陸路なのか?
なぜ、大規模な事前準備や土木工事、事前通達を行っているのか?
しっかりとした理由と行動が、そこに見てとれる気がします。
* * *
庶民は、ゾウに熱狂することで、日々の苦しさを一瞬でも忘れることができたのかもしれません。
沿道から、ゾウに手をあわせた庶民も少なくなかったと思います。
暮らしは厳しいけれど、吉宗さんなら、まあいいか…?!
◇浜離宮
このゾウは、その後、浜御殿(浜離宮)で十年ほど飼育されます。
今の浜離宮は、当時、将軍家の別邸「浜御殿」と呼ばれていました。
いわゆるプライベート別荘です。
現代でも、プライベート別荘は、一族の休暇だけでなく、政治的に利用されることがたくさんありますね。
鷹狩りの場所でもありました。
現在の浜離宮は、高層ビルに囲まれてはいますが、芝生がきれいで、樹木も花もたくさん。
海の水も引き込まれ、太陽の日差しもさんさん、それは自然豊かな公園です。
東京の都心の一角であることを忘れさせてくれるような風景です。
今は、大きな屋敷部分は残っていませんが、かつては大きな掘に囲まれ、ゾウの脱走の危険も少ないように感じます。
来年の東京オリンピックでも、多くの選手たちが、気分転換に訪れるかもしれませんね。
実は、この浜御殿(浜離宮)は、ゾウがやってくる4年程前に、火災で、屋敷や庭の大半が崩壊していたようです。
ゾウがくるまでに、どの程度まで復旧していたかは、わかりません。
ですが、いろいろと利用されていたようではあります。
もし、今の自然豊かな公園の風景に近いものだったら、ゾウには快適な住まいだったかもしれませんね。
歴史ファンの方々でしたら、新橋駅の近くにある、明治時代の「新橋停車場」の復元建物を見てから、歩いて浜離宮に行かれるのもいいと思います。
ここからは水上バスで、墨田川方面の観光名所に向かうこともできます。
浜離宮近くには、近年にできた名所として、宮崎駿さんの大時計、ドラマやCMの撮影にもよく使われる「イタリア街」もありますよ。
◇中野へ
ゾウは、12~3年は浜離宮で暮らしたようですが、ある時、民間に払い下げられたそうです。
ゾウが番人を殺したという話しもあります。
江戸幕府が、えさ代などの管理費用の負担にたえかねたなどの話しもあります。
本当のところはわかりません。
今の中野区にある成願寺(じょうがんじ)の近くに小屋が造られ、中野村の源助(げんすけ)さん他2名が飼育することになりました。
足をくさりでつないでいたようです。
どうも、敷地はあまり広くなかったと思われます。
源助さんの素性もはっきりしません。
中野で茶店を開いていて、えさを浜御殿に届けていたという話しもあります。
この中野にも、江戸庶民の多くが見物にきたようです。
著名人も来ています。絵も残っています。
1749年頃に、ゾウはここで亡くなったそうです。
おそらく、28歳あたりかと思われます。
ゾウの寿命は70年程度だそうですので、早い死だとも考えられます。
とはいえ、そこは自然界ではありません、
人間が行う飼育方法など、それほど確立していなかったと思われます。
おまけに、ベトナムあたりよりは、日本ははるかに北に位置しています。
今の平均気温よりも、江戸時代は低いです。
餌は、どの程度の質と量だったでしょう。
栄養状態はどうだったでしょう。
現代の動物園とは、比較にならなかったかもしれませんね。
ゾウは癌にならないとも聞きますが、何かの病気にでもなったら、江戸時代では対処できなかったかもしれません。
まして、ゾウにとっても、一頭だけの孤独な暮らしです。
あれだけ賢く、家族で集団生活をする動物です。
精神的な病だって、おきていたかもしれません。
この状況で、28年は、がんばって生きたほうなのかもしれません。
今の中野区 中野坂上近く。木製の橋「淀橋」と神田川。大通りは青梅街道。
現在の位置と変わっていません。
* * *
中野に行ってから、あまり長く生きていなかったようですので、浜離宮にいたときから、何か病気で、死の予兆があり、最後のときを過ごさせるために、わざわざ中野に移したとも考えられます。
江戸幕府が、手を焼いて、世話を放棄したのであれば、浜離宮内で密かに処分すればいいだけです。
あるいは、中野の飼育環境が劣悪で、命を短くしたのかもしれません。
中野の源助さんに、ゾウが渡された事情が、どうもよくわかりません。
いいほうに解釈すれば、将軍様への、ゾウの最後の御奉公として、庶民にもう一度触れられるようにしたのかもしれません。
庶民に、最後のお別れの機会を与えたのかもしれません。
飼育費用の削減や、番人殺しだけで、中野に移したのではないのかもしれません。
もし、そうした理由での移転だとしたら、吉宗の人気や評価に傷をつけてしまいます。
江戸の庶民も、生き物を、最期まで、しっかり看取るのも飼い主の務めだと考えていたと思います。
浜離宮から中野に移転するにあたって、一体何があって、幕府が何をしようとしたのかは、よくわかりません。
たしかなことは、ゾウは中野に来ても、江戸庶民に大人気だったことです。
庶民は、浜離宮ではゾウに会えませんが、中野では会えたのです。
◇宝仙寺へ
源助さんら貪欲な商売人に、最後まで商売に利用され骨までしゃぶりとられた、江戸幕府は最後は見捨てたなどの論評を目にすることもありますが、はたしてそうだったのでしょうか。
源助さんは、たしかに、饅頭や薬でひと稼ぎしたようですが、ゾウの死後、数年で亡くなったそうです。
どのような人物だったのか、まったくわかりません。
ビジネスのライバルだった者が、ライバルの死後に、その者の評判を悪くするために、悪評を流すということはよくあります。
源助さんが、悪徳商売人だったのか、善意の動物愛護者だったのかは、わかりません。
* * *
現代にも、動物ビジネスはたくさんあります。
たしかに、密猟業者もいます。悪徳ブリーダーもいます。動物たちを途中で放り出す動物園経営者もいます。
悪徳ペット販売業者、無責任な多量ペット保有者、動物虐待もあります。
ですが、動物を扱うすべての人たちが、そうではありません。
今、犬や猫、ふくろうなどに会える「動物カフェ」が大人気ですね。
動物の理美容、動物病院などもたくさんあります。
動物写真家もたくさんいます。
動物園もそうですが、たしかに商売ではありますので、そこには、いろいろな仕掛けはあります。
ですが、そこで働く人たちを見ていると、動物への愛や感謝が、根底にはあると思っています。
大多数の従事者は善意ととらえていいのだと思います。
* * *
江戸時代の、このゾウのケースも、飼育放棄、ビジネス上の撤退、利益優先とは、違うような印象を持ちます。
江戸幕府は、ゾウの飼育に苦労はしたでしょうが、処分ということはしていません。
江戸幕府から、どこかほかの藩に送るということもできなかったはずはありません。
幕府が、最後まで、しっかり看取ってあげたようにも感じます。
中野での最後の期間は、源助さんらが饅頭や薬など、しっかり商売をしてはいましたが、飼育にかかる莫大な費用をねん出するためには、当然の手段です。世話人たちの暮らしも、かかっています。
庶民たちも、ゾウのためなら、入場料やお土産代が少々高くても、寄付のつもりで払ったかもしれません。
中野村の源助さんという方、本当は商売人ではなく、牛や馬の世話に慣れていて、それらの病気治療もでき、最後まで責任を持って職務をまっとうする方だったのかもしれません。
ひょっとしたら、綱吉の時代に、中野の「犬囲い」で、犬の世話や治療を行っていた人なのかもしれません。
源助さんと中野という場所の関係性がもうひとつ理解できません。たまたま、中野だったとは思えない気がします。
将軍が鷹狩りの際に立ち寄る、中野の宝仙寺がすぐ近くというのも、偶然ではない気がします。
饅頭や薬を売っていたのは、別の便乗組か、他の二人の世話人だったのかもしれません。
江戸時代ですから、強制的な飼育命令だった可能性もあります。
民間人や商売人が、ゾウの飼育を引き受けるのも、どうも理解に苦しみます。
一年ちょっとで、「頂いたゾウが亡くなりました」で、幕府に納得してもらえる話しなのでしょうか。
もしかしたら、幕府は、ゾウがきちんと最期をむかえられるように、それなりに人選をしたのかもしれません。
* * *
実は、吉宗は、「生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい」を出した、五代将軍 綱吉(つなよし)のことを、比較的高く評価していました。
この「生類憐みの令」と綱吉については、コラム「お盆に思い出す / 東京都中野区(1)」で書きました。
綱吉は、結果的に、庶民から不人気となり、哀れな最期となりましたが、「生類憐みの令」の根底にある大切な思想を、吉宗はしっかり認識していたように感じます。
綱吉は、その時代のさまざまな暗躍の中で、すっかり悪者にされ、そのまま歴史の中に封じ込められていった気がします。
「憐み(あわれみ)」、「命の尊さ」の思想は、吉宗の時代に、しっかりつながっていたのかもしれません。
そして、このゾウは、しっかり旅立てたのではと思っています。
最期まで商売に利用された、かわいそうなゾウだったのではない気もします。
庶民がこのゾウの大冒険旅行を楽しんだだけではなかったかもしれません。
ゾウさんも、それなりに楽しんでくれたのかもしれません。
* * *
亡くなったゾウの、二本のキバや骨、身体の皮が残されたそうです。
現代では、ペットの動物が亡くなっても、写真や動画、飼育小屋や首輪などが残せます。場合によってはお墓や納骨堂もあります。
当時は、亡くなった動物を偲ぶものを残すのも容易ではありません。
商売として、身体の一部を残して ひと稼ぎするという側面もないわけではありませんが、庶民にとっては、キバや骨、皮を見れば、その巨大な大きさや、勇ましい姿を、思い出すこともできたでしょう。
それを見たら、鳴き声だって、耳に聴こえてきそうです。
江戸の庶民だけでなく、旅の道中で目にした庶民たちも、みな、その時の感動や感謝を思い出すことができます。
亡くなってからも、貪欲に、ゾウで商売したという意見は、少し違う気がします。
このゾウさんが、権力者の思惑や、商売人たちの道具にされた面を否定はしませんが、当時の庶民に何かを与えたに違いありません。
今、いくらパンダが政治的な道具だとはいっても、パンダが、私たちに与えてくれるものはたくさんあります。
現代に生きる私たちは、このゾウのことを、思い出すことはできません。
想像することしかできません。
ですが、今、私たちの身近で一緒に生きている動物たちに、それを投影することはできます。
綱吉の思いは、吉宗を経て、現代にも伝わってきているのかもしれませんね。
* * *
ゾウの長い旅は、今の中野区で終わります。
ゾウの皮が江戸幕府に献上され、キバや骨、皮の一部は源助さんのものとなります。
源助さんの死後、キバや骨、皮の一部は、将軍家につながりの深い、中野区の宝仙寺(ほうせんじ)におさめられます。
ひょっとしたら、最初からその予定だったのかもしれません。
宝仙寺の宝として残っていたそれらのものは、昭和の戦争で焼失したようです。
一部が残っているとも聞きますが、詳しくはわかりません。
江戸幕府は、ゾウの皮の一部は手元に残しましたが、豪商に売り払ったり、政治的な贈答品に使ったり、自分たちだけの宝にはしませんでしたね。
* * *
このゾウが、中野で飼われていた場所の、現在の風景写真をご紹介します。
東京都中野区の「中野坂上(なかのさかうえ)」にある「朝日が丘公園」です。
中野区本町2-32 です。
◇ダンボみたいに…
最後に、米国映画「ダンボ」をご紹介します。
ダンボは、耳が大きく空を飛べるゾウですね。
ディズニーがつくりだした有名なキャラクターです。
本年2019年春、実写映像とコンピュータグラフィック映像を駆使して映画がつくられ、公開されました。
ちょうど、この夏、DVDやブルーレイのレンタルや販売が始まりました。
特に動物好きの方々にはおすすめの名作映画です。
監督は、名監督のティム・バートンさんです。
彼は、アニメーションを学び、ディズニースタジオの実習生を経て、大監督へと駆け上がっていった方ですね。
その独特の映像世界は、だれもマネができません。
主な作品は、バットマン、シザーハンズ、チャーリーとチョコレート工場、アリス・イン・ワーダランド、ビートルジュース、スリーピー・ホロウなど、名作ばかりです。
卓越した才能は、その映像制作テクニックだけではありません。
そのメッセージ表現力も、相当に巧みで、わかりやすく、相当に深いものがあります。
彼の映画は、繰り返し観ることで、さらに感動を深めていくことができます。
映画「ダンボ」も、そのひとつでした。
さすがティム・バートンさんと言いたくなる、見事な映画です。
そして、さすがディズニーです。
* * *
この映画には、身体的、精神的、家庭環境などに、複雑な問題をかかえた人物がたくさん登場します。
でも、心は健全か、それ以上です。
ダンボは、そんな人たちに囲まれているのです。
ダンボは、映画の中で、決して台詞をしゃべりません。
でも、その気持ちは、私たちにしっかり伝わってきます。
この映画は、まさに動物の心をくみとる、人間の心を表現しているともいえます。
映画の中の台詞に、「みんな、行き場がないのよ」というものがあります。
行き場がないのは、サーカスの動物たちだけではありません。
人間もまた、他に行き場がないのです。
でも、新しい行き場所の扉を開けるカギは、自分自身がかかえているはずなのです。
映画の終盤に、英語表記の「Dream(ドリーム)」の「D」の文字が、どこにいくのか注目しておいてください。
この映画を観終わったときに、ゾウの姿が、これまでと違って見えるかもしれませんね。
次に動物園に行ったときに、ゾウのオリに真っ先に行きたくなるかもしれませんね。
この映画の中の、私が好きな台詞に
「友よ、最良の旅路とは、家へ帰る道のことだよ」というものがあります。
江戸にやって来たゾウさんに、もし帰り道があったなら、どんなだったでしょう。
ダンボみたいに、なれたでしょうか。
江戸のゾウさんも、家族に会いたい、故郷に帰りたい、と思っていたのでしょうか。
お江戸のゾウさんも、もうちょっと、お耳が大きかったら…。
私は、江戸幕府も、江戸の庶民も、ゾウさんを、最期までしっかり見送ったのだと思います。
毎年やってくる4月28日、長い旅をして江戸にやって来たゾウさんと、おじいちゃん おばあちゃんと孫がゾウさんを笑顔でながめる姿を、思い浮かべたいと思います。
* * *
さて、次回は、このゾウが飼われていた中野区の小屋のすぐ近くにある「成願寺(じょうがんじ)」のことを書きます。
東京で、自動車を運転される方でしたら、「中野長者橋(なかのちょうじゃばし)」という名称を、一度は聞いたことがあると思います。
「長者」って何?
「長者橋」って何?
成願寺は、この「長者さま」と切っても切り離せない関係にあります。
それでは次回に…。
ゾウさん、ありがとう。
2019.8.25 jiho
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