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長者さまと成願寺 / 東京都 中野区(5)

【概要】中野長者 鈴木九郎の成功物語。娘の小笹の悲劇。怪しい九郎伝説。南北朝時代って何?。長者様って誰?。源平藤橘と下克上組。足利尊氏と義満。摂政関白・江古田沼袋原の戦い・成願寺散策。


前回コラム「ダンボみたいに…(後編)/ 東京都中野区(4)」で、江戸でゾウが飼われていた、今の東京都中野区の公園のことを書きましたが、今回は、そこから徒歩で10分あまりのところにあります「成願寺(じょうがんじ)」という名刹(めいさつ)をご紹介いたします。


◇長者さま

さて、「長者さま」という言葉、現代では、単体ではあまり使われていませんね。
「億万長者」、「長者番付」など、組み合わせた言葉に名残りがあります。
今は、単なる富裕層ではなく、ひと握りの、かなりの巨万の富を持つ富裕層をイメージしますね。
あまり仏教とのつながりを考えずに、この言葉を使っている気がします。
もともとは、仏教の信者で、強く帰依している富裕層の人たちを意味していたこともあったようです。

日本の昔話に、「わらしべ長者」という有名なお話しがありますね。
わらの束 数本から、物々交換の後、大きな財を成した人のお話しです。
現代のネット上にも、「わらしべ長者」という人たちがいますが、少しイメージは異なりますが、共通する部分もありますね。

「長者さま」になるという現象は、しっかり現代でもありますね。

もともとは、仏教の教えや信仰につながりが深かった、「長者さま」という呼び方です。

さて、東京都中野区の成願寺の話しを始めたいと思います。


◇熊野信仰と鈴木九郎

成願寺のお話しの「前おき」として、ちょっとだけ、「鈴木」というお名前について書きます。
ちょっとだけ、お付き合いください。

鈴木という姓は、日本では、佐藤さんに次いで二番目に多い姓です。
二番目とはいえ、佐藤という姓と、それほどの数の差はありません。
この二つの姓は、日本で断トツの多さです。

鈴木という姓は、古くは、神職や武家に多かったお名前だそうです。

和歌山県の熊野地方では、稲穂(いなほ)のことを、「ススキ」や「スズキ」と呼んでいたそうです。
稲穂は、古代より、神事でたいへん重要なものですね。
稲の束を積み上げたものを「穂積(ほずみ)」といい、その真ん中に立てる木を「鈴木(すすき・すずき)」と呼んだそうです。
木に鈴をくくり付けていたという話しも、何かで読んだことがあります。
鈴木さん、穂積さんの姓のルーツは非常に近かったようです。

実際に、鈴木一族は、紀州(今の和歌山県)の熊野神社や王子社の神官を務めていました。
鈴木という姓は、熊野信仰とは切り離せない重要なお名前なのです。

鈴木姓の方々は、徳川家つながりの方との婚姻も多かったため、東日本には鈴木さんが今でも、たくさんおられます。
熊野神社の信仰は、布教していった先で定着して暮らす傾向があったようですね。
これなら、日本中にたくさんの鈴木さんがおられるも、よくわかります。

紀伊半島の、伊勢をはじめ、吉野や熊野あたりが、どうして信仰の重要な拠点なのかは、コラム「神話のお話し」で少し書きました。
よろしければ、参考にご覧ください。

* * *

さて、愛知県出身で、メジャーリーグで大活躍された鈴木イチローさんに似たお名前の、「鈴木九郎(すずき くろう)」さんのお話しです。

九郎さんは、1371年頃に紀州(今の和歌山県)で生まれ、1440年に亡くなります。
九郎さんの家の先祖も、神職や武家だったようです。
彼は、いずれ、莫大な財を成し、「中野長者(なかのちょうじゃ)」と呼ばれるようになります。
九郎さんが生まれた時は、室町時代です。

九郎さんの人生や伝説のお話しをするにあたって、この時代の基本的な内容を知っておくと、わかりやすいと思いますので、少しだけ書きたいと思います。


◇南北朝時代

鎌倉時代と室町時代の間に、二人の天皇がおられた「南北朝時代(なんぼくちょうじだい)」がありました。

ちょっと考えてみてください。
日本で、南朝(なんちょう)と北朝(ほくちょう)それぞれに天皇がいて、両勢力が覇権を争っていたのです。
国民として、どんな気持ちになるのか、現代からは想像もできませんね。

* * *

鎌倉幕府が倒れ、室町幕府が開かれるのが、1336年です。
その直後に、南朝と北朝に国が二分するのです。

室町幕府の三代将軍 足利義満(あしかが よしみつ)により、南朝と北朝が統一したのが1392年です。
この間の、57年間が「南北朝時代」です。

* * *

足利義満は、絶大な権力を持ち、京都の金閣寺を造った、あの将軍です。
義満のことは、コラム「ダンボみたいに・前編」で、少しだけ触れました。
簡単に人物像を書いていますので、よろしければご覧ください。

義満は、1408年に病気で急死します。
義満の死後、有力な戦国武将が各地で台頭しはじめ、1467年に、戦国時代の始まりといえる「応仁の乱」が始まります。

鈴木九郎さんは、南北朝時代に生まれ、南北朝の統一、義満の栄華の時代を経て、武士が群雄割拠した戦国時代前夜の時代まで生きた方です。
日本史上でも、稀にみる激動の時代です。
まさに鈴木九郎さんの苦労話しが、そこにありました。

* * *

私は、九郎さんにまつわる伝説には、時代背景が絡んでいると思っていますので、南北朝時代のことをもう少し続けます。

南北朝時代をごく簡単に言いますと、京都を中心とした「北朝」側と、紀伊半島の吉野・熊野地方を中心とした、今の大阪・和歌山・奈良の「南朝」側による激烈な戦いの時代です。
それぞれに天皇がおられました。
三種の神器は南朝側にありました。

この戦いは、もとをただせば、天皇家の複雑な相続問題に始まります。
相続問題はいつの時代にもおきていましたが、特にこの頃は複雑です。
そこに鎌倉幕府の倒幕、足利氏の身内の争い、足利氏と新田氏の争い、有力武将たちの出現などが加わり、いよいよ分断となり、対決となります。


◇鎌倉幕府打倒へ

鎌倉時代の鎌倉幕府は、 源頼朝(みなもとのよりとも)からの源氏の将軍は最初の三代だけで、その後は公家の将軍ばかりでした。
源氏ではなく、藤原氏から将軍が選ばれ、藤原将軍、摂家将軍とも呼ばれていました。
藤原将軍の後は、天皇家から将軍が選ばれていました。
ですが、実権を握っていたのは、ずっと北条氏(ほうじょうし)です。

鎌倉幕府の北条氏は一応、平氏の流れだと言っていましたが、実際は関東の弱小土豪の出のようです。
後の戦国時代に登場する小田原あたりの北条早雲(ほうじょう そううん)からの北条氏は、別の北条氏です。
そちらは平氏の流れです。

鎌倉幕府の北条氏は、もともとは平氏側として、源氏の源頼朝の監視役でしたが、北条氏の持前の陰謀と知略で、平氏を倒し、源氏を追い出し、天下の覇者にのしあがった家です。
言ってみれば、これも変形の「長者どの」かもしれません。

一方、今の群馬県や栃木県あたりには、歴(れっき)とした、「八幡太郎義家(はちまんたろう よしいえ)〔源義家〕」の孫の代から始まる足利氏(あしかがし)と新田氏(にったし)という、大きな源氏の勢力がいました。
この勢力が、鎌倉幕府打倒に立ち上がります。


◇源平藤橘(げんぺいとうきつ)

ちなみに、源氏とは、皇族の中から皇室を離れてその臣下になり、その時に、天皇からもらった姓のお名前のことです。

源氏には21の家系の流れがあります。
21の中の清和源氏とは、清和天皇から始まる源氏の流れのことです。
源義家や頼朝、義経、足利、新田は、清和源氏の中の「河内源氏(かわちげんじ)」という流れになります。
その大元は、今の大阪あたりでした。

南北朝時代の雄、足利尊氏(あしかが たかうじ)は、京都生まれです。
新田義貞(にった よしさだ)は、群馬県生まれです。

日本史の中で、ビッグネームの武将として登場してくる、「源の(みなもとの)何々」という武将や、武田、斯波、畠山、今川、細川、佐竹、小笠原、吉良、南部、山名、最上などの有名武将は、この河内源氏の流れです。
一応、徳川家も。

* * *

「平氏(へいし)」も、源氏と同様の姓で、源氏よりも少し早く、姓をもらっています。
だいたい源氏と同じような流れで、こちらは四つの流れがあります。
「平の(たいらいの)」で始まる歴史上の人物たちは、たいがい桓武天皇(かんむてんのう)からはじまる「桓武平氏」の流れです。

ちなみに「平家(へいけ)」とは、平氏の中の清盛中心の一族のことを意味します。
言葉の意味と使い方が、少し異なります。

一方、「源家(げんけ)」という言葉がないわけではありませんが、あまり認識されていません。
おそらく、鎌倉時代の頼朝以外に、特定の一族が中央政権の中枢にいたことがなかったからかもしれません。
頼朝と義経が中枢となって盤石な鎌倉政権をつくっていたら、源家が定着したのかもしれませんね。

「平の(たいらの)何々」という武将や、戦国時代の北条、種子島、対馬の宋などは平氏の流れです。
源平合戦で源氏に敗れたこともあり、なかなか世に出てくるにはむずかしい平氏たちでした。
一応、織田家も平氏の流れです?

* * *

「藤原(ふじわら)」と「橘(たちばな)」の姓は、もっと歴史が古く、飛鳥時代や神話までさかのぼります。

「藤原(ふじわら)の何々」という武将、奥州藤原氏、上杉、直江、伊達、山内、比企、桐生、宇都宮、大友、などが藤原氏の流れです。
藤原氏には、何といっても、五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)がありますね。
日本史の中の各時代の天皇家の近くには、いつもこの五摂家がいます。現代の皇室でも。

楠木正成(くすのき まさしげ)は、橘(たちばな)氏の流れです。

戦国時代ころまでの日本史のたいはんは、源氏、平氏、藤原氏、橘氏の、この四つの家が、日本を動かしていたともいえます。
橘氏は、他の三氏よりは地味ですが…。

特に、奈良時代から平安時代は、「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」の時代ともいえるかもしれません。

* * *

昔から、平氏と源氏は、ある頃から、交互の順番で、日本の覇権を握ってきましたので、戦国時代の武将たちも、そのことに、やっきになります。
「やられては、やりかえす」、その繰り返しです。

ちょっと振り返ってみます。
藤原道長ほか藤原摂関家(藤原氏)
各天皇~白川上皇の院政時代(源平の台頭)
源平のライバル関係(源氏・平氏)
平清盛(平氏)
源頼朝(源氏)
北条義時ほか北条氏(平氏)
足利尊氏から義昭まで(源氏)
信長・秀吉(平氏)
徳川家康(源氏)

* * *

形式的には、室町時代の源氏の足利の時代の後は、どうしても平氏でなければなりません。
織田信長は、織田家は平氏の流れだと言っていましたが、本当のところはわかりません。
信長は、天下人になる直前で命を落としますが、秀吉が平氏と藤原氏の地位を手にします。
後でご説明します。

そうなると、徳川家康は源氏でなければなりません。
新田家の流れの中に、得川家という家があり、それが後の徳川家につながると、将軍様はいっていましたが、本当のところはわかりません。

豊臣秀吉は、皆さんご存じのとおり、農家の出身です。
正真正銘の庶民です。
ですが、「日輪(にちりん)の子」とか、訳のわからないことを言い出します。
「臣」の文字も、つけたくて仕方なかった文字です。
この「臣」は、天皇から頂戴する文字で、天皇家の家臣を意味しているからです。

奈良時代、中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、ある時から藤原鎌足となります。
この「臣(おみ・とみ)」も、先程と同じ意味で、その後、天皇から「藤原」の姓をもらいました。
藤原鎌足は、645年の「大化の改新(たいかのかいしん)」で、後の天智天皇とともに、蘇我氏(そがし)を討ち取った、あの人物です。
天皇家にとっては、最大級といっていい大功労者ですね。
「元号」というシステムも、ここから始まると、現代では定めています。

源氏も、平氏も、藤原氏も、みな本当の姓は「朝臣(あそん)」といいます。
橘も、後に「朝臣」に昇格します。

昔のテレビの時代劇では、この「朝臣(あそん)」という呼び方を、しっかり入れていましたね。
私も、子供の頃に、「あそん」て何だろうと、ずっと思っていました。
子供心に「誰かと、遊んでいるのか」と思っていたものです。

ですが、これでは、テレビドラマがわかりにくくて仕方なかったのでしょう。
私のように、妙なことを考える輩(やから)もいます。
いつしか、消えてしまいました。

* * *

先程、天皇から姓をもらって、皇室の外に出ることを書きましたが、実はこの姓にも順位がしっかりありました。
「朝臣(あそん)」は、上から二番目のものです。
皇族を除いた順番では、事実上、最上位です。
源平藤橘は、これにあたります。

「源の」、「平の」、など、「の」が入る呼び方は、天皇から名前をもらったことを意味しています。
ですから秀吉も、本当は「豊臣の秀吉」となります。
私の子供の頃は、たしかそう聞いた気もします。

鎌足は、「藤原の鎌足」となります。
源の頼朝、源の義経、平の清盛…、みな同じです。
「徳川の家康」は、さすがに聞いたことがありませんね。

それにしても、前述の北条、織田、徳川、豊臣…、武将の皆さんは、みな「お名前長者」になりたがりますね。
どうしてでしょう?


◇もうひとつの「長者さま」

実は、「長者」という呼び方ですが、お金持ちや富裕層というものとは別の意味もありました。
その一族や一門の、最高位のトップの人物という意味です。

よく、その分野に精通していることを、「長(た)けている」と言います。
長所短所では、長所は優れている部分を意味しています。
「長者(ちょうじゃ)」の「長」は、「長(なが)い」という意味ではなく、優れているということを意味しています。
ですから「長けた者」、すなわち「優れている者」という意味です。

「長者」の言葉の元は「氏長者(うじのちょうじゃ)」ですので、その一族で最も優れている者という意味になります。
最も優れているもの、すなわちその一族のトップの代表者となります。

これは、その人物が所有するお金の量や武力とは関係ない気がします。

* * *

実は、平安時代の頃まであった「氏上(うじのかみ)」という呼び方が、「氏長者(うじのちょうじゃ)」に変化していったようです。
「氏上(うじのかみ)」とは、その一族を代表する最高位の人物を指していたようです。
「氏神(うじがみ)」は、人間ではなく神様のことで、発音が似ていますので、区別しようとしたのかもしれません。
「氏子(うじこ)」、「氏社(うじしゃ、うじやしろ)」という言葉は、今でも残っていますね。
もちろん「氏(うじ、し)」は、名前の下に残っています。一族や個人名に付けますね。

「源氏の氏長者」、「藤原氏の氏長者」では、たしかに長いし、ややこしい気がします。
「氏長者」から、「氏」を取ってしまっても、意味は通じますね。
「藤原氏の氏長者」が「藤氏長者(とうしのちょうじゃ)」で通じるのであれば、このほうがいい気がします。
「氏」が、その前後の文字のどちらにかかっていても、それほど問題ではない気もします。
前の文字にかけて、後ろの「長者」の文字だけが、ひとり歩きしても不思議はありません。

とにかく、一族のトップの特定の人物である「長者」が、かつての「氏上」と同じ意味であればいいのです。

成功してお金持ちになった者を意味するようになってきたのが、いつからなのかは、私はわかりません。
「わらしべ長者」と、名門一族の「長者」が、どうして同じ「長者」という言葉なのかは、よくわかりません。
ですが、どちらにも、富が集まりやすいという意味では、共通しているようにも感じますね。
富が集まると、権力も大きくなり、場合によっては武力も大きくなります。

現代でも、相手を、冗談やもち上げる意味などで、「〇〇社長」、「○○王」、「〇〇姫」、「〇〇御殿」、「〇〇屋敷」とか使いますが、「わらしべ長者」の「長者」も、そのたぐいなのかもしれませんね。

先ごろ、ある日本女性が「笑顔のシンデレラ」と呼ばれ、英国でさっそうと登場してきましたね。
こうした表現…、しゃれていて、私は大好きです。

「中野長者」という呼び方も、中野地域の一族のトップの地位という意味ではなく、お金持ちという意味と、半分は持ち上げの意味だったのかもしれませんね。
いよ、中野長者!
今の若者たちなら、「中野長者、ハンパねぇ~!」

このことは、最後に、もう一度 書きます。

* * *

一族や一門のトップの意味で、「長者」と呼ばれる地位の方々は、源氏、平氏、藤原氏、橘氏にも、各時代にしっかりいました。
「長者」という言い方は、源氏と藤原氏にはしっかり残っていますが、平氏と橘氏は、この「長者」という言葉を使っていたかは、私にはよくわかりません。
でも、その地位の人物はしっかりいました。

他の一族でも、その一族の最高位の権力者を「長者」としていました。
お金持ちだとか、武力があるとかとは、別のものです。
とにかくその一族、一門のトップの最高権力者、兼、最高実力者です。
その方に逆らうことはできないという存在です。

藤原氏の場合は、「藤氏長者(とうしのちょうじゃ)」といいます。

こうした長者には、基本的に、その一族出身者でなければなれません。
政略結婚や養子縁組には、こうした意味もあります。

豊臣秀吉は、平氏長者と藤氏長者になっていましたが、武力と政治力で、ほぼでっち上げ、強引になりました。
天下人になるため、どうしても必要な「長者さま」の地位です。

「源氏長者」の初代長者は、一応、足利義満でした。
もちろん徳川家康もなりました。

* * *

日本中の武士を統率できるのは、一応、形式的には、「源氏長者」か「平氏長者」だけだったのです。
ですから、その氏の長者は、その氏から輩出された「将軍」よりも上の地位の人間といえます。

もちろん足利義満のように兼務もありましたが、長者が将軍を指名することもできました。
実際に、足利将軍の中には源氏長者でなかった将軍も多くいます。

「平家にあらずんば、人にあらず」という有名な言葉は、平清盛(たいらのきよもり)の弟の時忠(ときただ)が言ったものですが、まさに、その時代を握った一族にしか言えない言葉です。
清盛は、もちろん平氏の長者の地位にあった人物です。
ですが、清盛を中心とした平家は、源氏に戦で敗れ滅亡します。
平氏と平家の違いは先ほど書きました。
平家は滅んでも、平氏は滅んではいません。

源氏は、源家をつくれませんでしたが、しっかり、日本の武士たちのトップである「源氏長者」の地位を維持します。
藤原氏は、多くの藤原家をつくり、日本の公家たちのトップである「藤氏長者」の地位を維持します。
平氏と橘氏は、うまくいきませんでした。

いざ、戦争となると、氏や家の長者が誰かなどとは言ってはいられませんが、さあ統治となった段階で、この「長者」の意味は絶大なものとなってきます。

天下人をめざした戦国武将たちが、どうして源平の長者にこだわったのかは、ここに理由があります。

「長者」には、こうした意味や使い方もありました。

* * *

ここでひとつだけ…、先程、豊臣秀吉も「藤氏長者」となったと書きました。
正確には、「豊氏長者」なのです。よくわからない長者名を勝手につくってしまいました。
一度、藤原秀吉になってから豊臣秀吉になったのです。
「藤氏長者」を「豊氏長者」に無理につなげようとしたようです。

藤原氏側からみても、どうしても秀吉を藤原姓にしなければならない事情がありました。
秀吉が関白になってしまったからです。
「摂政・関白(せっしょう・かんぱく)」という役職は、ある時から藤原氏が独占しています。
ですので、どうしても秀吉を藤原姓にいったんしなければならなかったのです。
秀吉は、ここをついてきたのです。
藤氏長者の地位を手に入れました。
そして豊氏長者になるのです。

* * *

今年の皇位継承の前の議論の時に、なんと、「摂政(せっしょう)を置く?」という選択肢の言葉が、テレビから聞こえてきましたので、たいへん驚きました。
現代でも、そんな可能性が実際に出てくるのだな、私たちは日本史の中で生きているのだなと実感しました。
摂政とは、実際の天皇に代わって、皇位継承の権利者に、天皇の仕事を任せること、あるいはその役職のことです。
実際に、昭和天皇は摂政をされていました。

関白とは、成人後の天皇を公家が補佐すること、あるいは公家のその役職のことです。
摂政から、そのまま関白になることも多かったので、ほぼ天皇の代わりを摂政関白が行っていたといえます。
最高権者はもちろん天皇ですが、摂政関白のチカラは絶大でした。
藤原氏の一族は、江戸時代が終わる頃まで、その地位を独占していたのです。

今の皇室の方々から、「藤原氏」という言葉が出てくると、ドキッとしますね。
今の時代に、藤原氏一族が摂政に復活することは、まず考えにくいですが…。

* * *

「中臣」から「藤原」へ、その「藤原」から「豊臣」へ…。
秀吉が、藤原鎌足から続く名誉ある「藤氏長者」たちの仲間入りを果たし、公家を支配下に置こうとしたのは見え見えです。
庶民が、名門一家に入り込んで、乗っ取りを図ろうとしたということですね。
秀吉の死後の豊臣家のことを考えた上での行動のようにも見えなくもありません。

ようするに、公家のトップ藤原家の「藤氏長者」と、その段階までの武士のトップクラスだった織田家の「平氏長者」の地位の両方を手にしようとしたのです。
強欲にもほどがあります。
豊臣家が、万が一の時に、どちらか一方ででも生き残れればと考えたのかもしれませんが…、それは考えすぎですね。
単に、強欲だったのでしょう。

歴史では、庶民上がりが大きな権力を手にすると、時として、欲に見境がなくなりますね。
周りが止めようとしても、無理だったでしょう。

逆に、徳川家康は、その生き方として、「やりたりないこと、やりすぎることは、いけない」と肝に銘じていましたね。
豊臣家は、大大名の武家のひとつでも十分だったのに、淀君は、家康にまんまと、その性格や気性のスキをつかれてしまいました。
強欲は、人にスキをつくりますね。

気になったので、ウィキペディアで「藤氏長者の一覧」を見ましたら、何と秀吉は削除されています。
その期間だけ空白なのです。ちょっと笑ってしまいました。

勝手に、よくわからない「長者さま」を強引に作りだし、源平藤橘に仲間入りしようなど、信長だって、家康だってしてはいません。
信長や家康のように、源平一族の中でくすぶっているような弱小一族を見つけるほうが、まだソフトなやり方ではあります。
以前の秀吉なら、そうしたでしょうに…、お名前に相当なコンプレックスがあったのでしょうか。
「長者」という地位と名称は、人も歴史も狂わせますね。

秀吉は、日本史にいろいろな汚点を残していきました。
「朝臣(あそん)」の名を傷つけた罰ですね。
歴史が豊臣家を許すはずがありませんね。

「中野長者」になった鈴木九郎さんは、だいじょうぶだったでしょうか。
目がくらんではいなかったでしょうか。


◇現代の「長者さま」

現代の一般の家庭や一族では、世帯主や筆頭者、本家の長男が、その家や一族で一番の最高権力者とは限りません。
影の最高権力者である「長者さま」が、冷蔵庫やテレビを独占していることも、よくありますよね。

それはさておき…。

日本の明治以降の家長制度は、昭和の終戦とともに消滅し、今は自由平等社会になりましたね。
これは軍事的な統治の意味合いも強かったので、復活することは、今は考えられませんね。

一般の家の家系では、強い男系思想も、ほぼなくなってきています。
夫婦別姓も議論される時代になりました。
現代の日本は自由になりましたね。
でも、長い日本の歴史からみれば、ほんの短い期間です。
家や家族のあり方は、時代とともに変化していくのでしょうね。

源平藤橘の子孫はもちろん、元大名の名家、財閥、大きな武家や商家などは、今はどうなっているのでしょうね。
「長者」や「家長」、「当主」などと呼ばれる人物が実際にいる家や一族が、今でもあるかもしれません。
そのおかげで、ある意味、平穏が保たれているというこもあるかもしれませんね。

* * *

終戦により、日本の大財閥も解体されましたが、事実上、今は復活しています。
持ち株会社の制度は、源氏や平氏の構造にも似ています。
冠に大企業名がついたグループ子会社を、山ほどの数 所有する大企業グループはたくさんありますね。
本当に一族で分担していることもあります。

企業グループや一族を守るひとつのかたちではありますので、否定はしません。
でも、権力や富が集中しやすいのは確かですね。
長者の歴史が証明しています。
長者どうしの競争も大規模になりますね。

先般も、大企業のある不祥事で、その企業グループの長者のような人が、一瞬だけ会見に登場し、その後は、その傘下の会社のトップが会見をするばかりという光景をテレビで見ました。会見に失敗した人物は交替しました。長者のような方は、その後一切見なくなりました。
企業とはいえ、その規模や影響力は、源氏や平氏と変わらない気もします。いや、それ以上かもしれません。
マスコミも含め、長者さまには手を出しにくい雰囲気が漂っているのを、少し感じました。
源平藤橘の長者たちとは、こうしたものだったのかもしれませんね。
バブル期の金融機関にも、こんな雰囲気があった気が…。

よくわからない「金持ち長者」だけでなく、最高位としての「長者」の名称が今でも残っていたらいいのにと、少し感じてしまいました。
「長者」は、いち企業の「CEO(最高経営責任者)」よりも、はるかに上の地位だと思います。

現代でも、最高権力者としての「長者さま」が、日本の各分野にしっかり存在しているのは確かなようです。


◇戦乱の世を生きる

さて、後で、東京都の中野・杉並・練馬・池袋・渋谷、そして埼玉から横浜にかけて行われた大戦争「江古田・沼袋原の戦い」のことを少しだけ書きますが、ここに登場する「上杉」という姓は、元は藤原氏の流れです。
藤原氏は、源氏や平氏とは、少し違います。

藤原の姓は、奈良時代から始まっており、この家は、さかのぼると神話にまでたどりつきます。
先程、藤原鎌足のことを書きましたね。
この一族は、歴史が深すぎて、勢力が大きすぎて、よくわかりません。

ついでに、さらに、ややこしい関係をご紹介しますと、源氏の足利尊氏の母は、藤原氏の流れの上杉氏の娘で、尊氏の異母兄の母は、一応、平氏の流れの北条氏の人間です。
有力な家どうしの、複雑な姻戚関係は、日本史の中ではつきものですね。
できるだけ戦争を避ける、味方を増やすという意味では、仕方のないことです。

* * *

奈良時代から室町時代は、源氏、平氏、藤原氏、橘氏、この四つの一族の流れをくむ名家が、日本を動かしていたともいえます。
「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」の時代です。

今、教科書から、内容がどんどん削除される時代です。
「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」という名称も、削除されているかもしれませんね。

源平ばかりがライバル関係であったわけではありません。
この四家のライバル関係は、その後の日本史にずっと影響します。
でも、私は、源氏と平氏の関係性と、源平と藤原氏の関係性は、何か少し違うようにも思います。

* * *

とはいえ、源氏と平氏の間でも、源氏なのに裏切って平氏に寝返る者、平氏なのに源氏に寝返る者もたくさんいました。
源氏でも、藤原氏と組んで、他の源氏と戦うこともしばしばです。

その一族や一門の上層部なら、そんな家柄や流れのことを論じていても、毎日、夜にはしっかりご飯を食べられます。
中下層の武士たちは、そうはいきません。
明日の暮らしをどうするのか、生きるか死ぬかの選択に、しばしば迫られます。
裏切り、寝返り、密告…、それは生きることを選択することだと感じます。

現代の感覚で、戦乱の世に生きていた人々の行動を理解するのは、扉をひとつ開けなければいけない気がしますね。


◇絶対的な地位の藤原氏


さて、室町幕府の関東管領という非常に重要な役職で、藤原氏の流れの上杉氏と、源氏の足利将軍は、はたして、どちらが上なのでしょうか。
上杉氏は藤原氏勢力の武力担当といえるかもしれません。
ひとつの勢力となった場合に、かなり微妙な関係ですね。
さらに、初代足利将軍の尊氏の母の実家は、上杉です。
このことは、この後書きます「南北朝時代」にも影響してきます。

戦国時代、源氏の重要な流れの武田家と、藤原氏の流れの上杉家も熾烈なライバル関係にありました。

源氏や平氏は武士、藤原氏は公家というイメージが強いですが、実はみな武力勢力そのものです。

* * *

鎌倉時代に、藤原氏の流れの奥州藤原氏は、源頼朝(みなもとのよりとも)により、頼朝の弟の義経(よしつね)とともに滅亡となりました。
奥州藤原氏は、まさに、義経を上手く利用され、源氏に滅ぼされたという図式です。
これで、北関東だけでなく、東北地方にがっちり源氏勢力が入ってきました。
津軽氏は、もちろん源氏の流れです。

ですが、ほかの藤原氏の一族は盤石です。

藤原氏は、天皇に近い公家の地位をいつの時代も牛耳っていましたので、源氏と平氏の両者にとって、藤原氏は政治的には重要な一族です。
源氏も平氏も、武力で支配できても、天皇家の周辺では藤原氏のチカラが必要になってきます。
あるいは、藤原氏を上手く利用しないと安定した政権支配がむずかしいともいえます。

藤原氏側からみれば、もし武力で対抗できなければ、公家として政治や文化で対抗しようと考えたことでしょう。

江戸の幕末に、京都から東京に天皇を移し、首都を移動させたのも、ここに遠因があるようです。


◇下克上組もお名前で苦労?


織田信長も、豊臣秀吉も、徳川家康も、おそらくは下克上(げこくじょう)で成り上がった武将たちです。
本人たちは、平氏だの、源氏だのと言っていましたが、本当のところはわかりません。
つながっていたとしても、細い糸のようなものかもしれません。

* * *

一応 平氏の流れの織田信長が、源氏の武田家ひとつを滅亡させても、源氏の流れは絶えませんが、藤原の流れの上杉はそう簡単には滅亡させられませんね。
信長は、天下統一が見えてくるまでは、上杉家に相当に気を使っています。
何しろ、藤原鎌足からの歴史です。
「大化の改新」の藤原鎌足以降、天皇家周辺には、ずっと藤原一族がいます。
平氏のライバルの源氏たちとは、違う存在です。

また、織田信長に「桶狭間の戦い」で敗れた今川家は、清和源氏の河内源氏の吉良氏の分家です。
吉良氏とは、「忠臣蔵」のあの吉良上野介の一族です。
「足利将軍家が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えたら今川が継ぐ」とまで言われた超名門の家です。

浅野内匠頭の浅野家も、清和源氏の土岐氏の流れですから、清和源氏の中の摂津源氏です。
吉良家は、同じ清和源氏ですが、河内源氏です。
「赤穂事件(忠臣蔵)」の頃の源氏長者は、徳川家です。

家康は一応、源氏の流れですが、実はよくわかりません。

「徳川」とは、秀吉の「豊臣」と同じように、「朝臣(あそん)」を頂く際に、家康にのみ与えられた「徳川」姓でした。
基本的には、徳川家の姓は「松平(まつだいら)」です。
「徳川」姓は、政治的、軍事的に象徴的に使った名前で、徳川家でその使用を許された人物は初期の頃のごくわずかな人たちだけです。

実は、家康は、徳川家康になる前に、藤原家康になっています。
源氏なのか、藤原氏なのか、はっきりしてと言いたいところですが、源氏にとっても、藤原氏にとっても、家康とつながりを持つことは政治的にも重要な事柄です。
家康は、何といっても、戦国時代を勝ち抜いた武将で、むかうところ敵なしです。
平清盛、源頼朝、足利義満に匹敵する武将です。

家康は、源氏と藤原氏の両方の名前を手にして、その時々に合わせて使い分けます。
さすが「たぬき親父」です。

最終的に、どちらの姓が有利か考えたことでしょう。
天下統一を果たしたとはいえ、戦国乱世は、まだ完全に終わっていません。
源平の順番からしても、日本の武将たちのトップの統率者の地位としても、それは「源氏」を選びますよね。

源氏として「徳川」を名乗ることになる際に、本物の源氏の吉良家が相当に尽力したようです。
家康は「源氏長者」になります。

徳川家と吉良家のこうした関係性を考えると、「赤穂事件(忠臣蔵)」の内容がどうであろうと、江戸幕府が、吉良家と浅野家、どちらを選択するかは一目瞭然です。
でも、私は、「赤穂事件(忠臣蔵)」は、それだけではなかったと思っています。

私は、「赤穂浪士の討ち入り」には、こうしたこととは関係なく、とてつもない大きな陰謀が仕組まれていたと思っています。
吉良も、大石も、上杉も、そして将軍の綱吉も、ワナにはめられたのではと感じています。
何しろ、その時の江戸幕府内には、陰謀の超エリートが存在していました。

発端となった江戸城内での刃傷事件については、何かの陰謀とは思いませんが…。

その人物は、討ち入りの翌日に、吉良邸を眺めにやって来ます。
私は、その人物の筋書き通りに「討ち入り」が行なわれたと感じています。
その人物は、現代に残る、この討ち入りに関する史実をすべて把握していたと思っています。
大石が行ったスパイ活動や秘密行動もすべて把握した上で、それを利用して、さらにワナを仕掛けたと考えています。
そのお話しは、また12月に…。

* * *

さて、下克上組の苦労の話しに戻します。

今川義元(いまがわ よしもと)が「桶狭間の戦い」で、織田信長に敗れます。
源氏の今川義元を討った、平氏の織田信長という構図です。
でも、今川家が滅亡したわけではありません。

その後、義元の息子の氏真(うじざね)は、今川家が武門の名家として生きていくことをあきらめます。
武力ではなく、政治や文化で、今川家をもう一度復活させる道を選びます。
信長は、それならばと、今川家を大切にします。
あの信長にしては、優しすぎる気がしますが、何しろ源氏の名門の家でしたから、源氏全体を敵にまわすような波及効果を避けたのかもしれません。
何しろ織田家は、平氏だと言っているわけですから。
まだまだ室町将軍の源氏の足利家には、おとなしくしてもらっていなければいけませんね。

藤原氏の上杉家、源氏の武田家も、信長からみたら同じだったでしょう。
この源氏と藤原氏という二つの一族には、時に仲良くしてみせたりします。

今川家は、政治や文化の面で、天皇家ともつながりも深く、利用価値が高かったと思われます。
これは徳川家康の江戸時代になってからも同様で、今川家はけっして武力に頼る家ではなくなります。

江戸幕府の儀式や典礼を仕切る家を「高家(こうけ)」といいますが、これは今川家、吉良家、石橋家などです。
すべて源氏です。とにかく重要な行事は、この高家が取り仕切ります。

* * *

さて、平氏の流れの織田信長がいなくなり、同じく平氏の流れの、小田原の名門 北条氏は、なんと庶民上がりの秀吉に、「小田原征伐」で敗北しました。ですが、滅亡はしていません。
秀吉は、「小田原征伐」の後、この名門 北条氏をもう一度大きく復活させようとしたふしがあります。
でも、跡継ぎが早々に亡くなり、上手くはいきませんでした。

* * *

いわゆる「下克上組」は、名門の「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」を、歴史から、簡単に葬り去るのは抵抗があったのかもしれませんね。
どんな反動があるかわかりません。
何しろ、源と平は、日本各地に存在し、歴史の中で、繰り返し突如あらわれてくるのですから。
天皇家の周辺には、鎌足から続く、天皇が信頼する藤原一族がいました。

歴史の流れの中に、上手く溶け込むのも、天下人の資質ですね。
たかが「お名前」、されど「お名前」。
骨の折れる、むずかしい仕事ですね。


◇お名前ドロドロ

鈴木九郎さんが生きた時代は、戦国時代の前でしたので、まだ「下克上組」が、それほど大きな存在になっていません。
九郎さんも、先祖がいくら神職を務めた名家といえども、この「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」につながっていなければ、立身出世はむずかしかったでしょうね。

* * *

奈良時代、平安時代、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代の長きにわたる、「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」の、ドロドロした関係と戦いの歴史は、それ以降の日本史にも多大な影響を及ぼしていきます。
特に、戦争が絡むときの連合体制には影響していました。

「あんた、どこの家のもんじゃ。先祖はどこじゃ。どこの出じゃ。どこと、つながっておるんじゃ。」
こんな話しは、今の日本のお年寄りも大好きですよね。

いつの時代も同じだと思います。
もちろん外国であっても、かなり大事です。
今の日本よりも、外国のほうが、本当はむずかしいような気がします。

* * *

日本には、やたらに、たくさんの姓がありますね。
外国と比べても、ちょっと多過ぎるくらいです。
同じ読みでも漢字が違ったりします。

でも、何か、華やかで、日本的な歴史やつながりがあって、歴史ファンには、このドロドロ感がたまりませんね。
歴史の「探りがい」があるというものです。
日本で安心して暮らしたいときに、このことに背を向けることは、なかなかできませんしね。

鈴木九郎さんは、何かお名前のプレッシャーやコンプレックスはあったでしょうか?
でも、お名前のパワーが、関東に来て、これから発揮されます。

南北朝時代の話しに戻ります。


◇室町幕府

前述のとおり、足利と新田の二つの武家は、もとは同じ清和源氏の一族です。
源義家の孫から始まります。

この二つの有力武家を中心とした武士勢力と、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が結束して、北条氏(ほうじょうし)を中心とした鎌倉幕府を倒します。
北条氏は、歴史的にみても、清和源氏と後醍醐天皇の系統の天皇家の、共通の因縁ある敵だったのです。
まさに、結びつく同志でした。

鎌倉幕府が倒れた後、後醍醐天皇のもとで、新しい政治体制が始まりますが、すぐに、とん挫してしまいます。

後醍醐天皇側と、足利尊氏側で対立が起きます。

もともと家系的には、清和源氏と後醍醐天皇が上手くいくとは思えないような気もします。
新田氏は、足利氏の反対側につくのが思惑だったような気もします。

南朝側は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)、河内源氏の新田義貞(にった よしさだ)、橘氏の流れの楠木正成(くすのき まさしげ)、村上源氏の北畠親房(きたばたけ ちかふさ)などです。

北朝側は、室町幕府の初代将軍 河内源氏の足利尊氏(あしかが たかうじ)と弟の直義(ただよし)、高師直(こうの もろなお)などです。
ちなみに、源氏長者は北畠親房です。

先程、初代源氏長者は一応、足利義満だと書きましたが、絶対王者の義満が「初代は俺だ」というのですから、仕方ありません。
それまでの源氏長者は村上源氏です。義満の河内源氏ではありません。
区別したかったのでしょうね。
絶対権力者は、初代であるとか、ライバル家のことに、異常にこだわるものです。

* * *

1336年、北朝側の足利尊氏(あしかが たかうじ)によって室町幕府が開かれ、新しい天皇を即位させます。
これにより、日本で同じ時に、二人の天皇がいることになります。

基本的に、室町幕府は北朝側ですが、裏切りや内紛がおきます。
政治をつかさどる幕府があるとはいえ、もはや日本の政治どころではありません。

足利尊氏の弟の足利直義(ただよし)は、兄とともに「両将軍」と呼ばれていたほどの実力者でしたが、室町幕府の重臣の高師直と対立し、失脚の後、なんと南朝側につきます。
北朝から南朝へのまさかの寝返りです。
おそらく高師直は、弟よりも兄のほうが、手なづけやすいと思っていたのかもしれません。

この時の、南朝の直義や上杉、北畠の側と、北朝側の高氏一族のあいだの、遺恨はすさまじいものがあります。
身内を殺された恨みは相当なものです。

直義は軍勢を立て直し、兄の尊氏と高師直らを攻撃し撃破します。
高師直らは、直義側の室町幕府の要職である関東管領の上杉家に滅ぼされます。
ここで藤原氏の流れの上杉が、たいへんな存在感を示します。
高氏一族は、容赦のない一族皆殺しで、滅亡します。

この時代の動向に、姓や家系は、本当に影響していなかったのでしょうか?
家柄の上下や優劣が、心理面に作用していたことはなかったでしょうか?
あまりにも深い遺恨には何が作用していたのでしょうか?

かつての北朝側の勝手な内紛は、あまりにも見苦しい感じがします。

尊氏らは地方に逃れ、弟の直義との対決に備えます。
その後、直義や上杉がいる南朝は、尊氏に敗れます。

尊氏は、政治はもうひとつでしたが、戦争にはめっぽう強かったですね。
後醍醐天皇は、三種の神器を北朝に渡します。

上杉は、尊氏の母の実家です。
おまけに、今や藤原氏一族の最大の武門の名家です。
天皇家の周囲には藤原一族の公家がたくさんいます。
宿敵の平氏ならともかく、藤原氏の名家を滅亡させるわけにはいかないと考えたかもしれません。
尊氏は、上杉を許して、以後、関東管領は上杉謙信まで代々続いていきます。

尊氏さん、寛容すぎではありませんか?
平家の寛容さが、源氏の復讐を招いたのを知らないはずはありませんよね。
その後の、源頼朝も、北条氏も、そこは失敗しませんでしたよ…。
何か不吉な予感が…。


◇足利尊氏

初代将軍というと、源頼朝や徳川家康など、強力なリーダーシップと決断力をイメージさせますが、どうも足利尊氏という人物は、その二人とは大きく違っていたようです。
尊氏と親しかった、当時の高僧、夢窓疎石(むそうそせき)は、その文献の中で、尊氏の勇猛ぶりや寛容さをほめてはいますが、やさしすぎ、繊細さや決断力に欠けると言っているようにも感じます。

寛容にも限度があるでしょうし、政治には繊細さも必要です。
まして決断は、早すぎても、遅すぎてもだめです。
尊氏の、優柔不断さや大ざっぱさが、南北朝を生んだとも考えれないこともないです。
天皇が二人いた時代とは、なんとも…。
ひょっとしたら日本という国が、これをきっかけに、二つの国に分かれていた可能性もあったと思います。
もし分かれていたら、現代にも続いていたかもしれません。
天皇制の危機であったとも感じます。

頼朝や家康だったら、南北朝時代を生み出さなかったでしょう。
日本史上、こんな危機はこの時だけです。
最高権力者には、武力にあわせて、政治力が、なにより求められますね。


◇足利義満

そして、尊氏の孫の代に、無慈悲な大将軍、足利義満が登場し、南北朝が統一されます。
良くも悪くも、日本を丸ごと手中におさめたいという貪欲な実力者が、すぐに登場してくれたことは、日本にとっては幸運だったような気もします。
南北朝に分断してから57年後の統一でしたが、これが100年を越えるような長い年月になっていたらと思うとゾっとします。
源平藤橘が、日本全体に広がって、ごちゃごちゃに入り乱れて存在していたことも、幸いだったと思います。
統一を成しとげて、16年ほどで義満は急死しましたが、この統一は立派な業績だと感じます。
強い「天下統一」という思想がいつごろから生まれてきたのかは知りませんが、ひょっとしたら義満あたりからなのかもしれませんね。
義満が建てた金閣寺は、今の京都観光の象徴のような建物で、京都に恵みを落としてくれています。
義満が横暴な大権力者であったとしても、統一の功績に免じて、私は許してあげたいと思います。

* * *

それにしても、室町幕府のスタート時は、もはや、兄弟争い、内紛、裏切り、復讐、勢力拡大、源氏と藤原氏の関係性…、わけがわかりませんね。
平安時代後半から戦国時代まで、政権のトップの力量が足りないと、安定性を欠き、すぐに武力衝突が勃発します。

現代でも、武力衝突が起きないだけで、政争はすぐに始まります。
人間の歴史とは、そうしたものですね。

さてさて、足利尊氏、後醍醐天皇ら有名な人たちが、この世から去っても、南北朝時代はまだまだ続きます。

* * *

このあたりの複雑さから、日本史が嫌いになっていく子供たちも多いですよね。
親族どうしの争い、内紛、裏切り、復讐などは、それに接する子供たちの年齢によって、とらえ方にも違いがおきます。
日本史に触れる前に、何を見聞きしてきたかも重要なのかもしれませんね。
免疫力がついていないと、歴史自体が嫌いになりそうです。

「渡鬼(渡る世間は鬼ばかり)」や、大河ドラマは、早めに触れさせたほうがいいのでしょうか?
近年なら「半沢直樹」や「集団左遷」などのビジネスドラマなのでしょうか。
悪役、意地悪たちの悪行を見るのも、時には人の成長に役立ちます。
日本史がスムーズに頭に入ってくるようになるかもしれませんね。

* * *

さて、鈴木九郎さんが生まれた1371年は、こうした歴史上の有名人らが亡くなってから30~40年後になります。
でも南北朝時代であるのは間違いありません。
いずれ絶対王者になる足利義満(あしかがよしみつ)は、まだ13歳。
世の中は、南朝と北朝に真っ二つです。

九郎さんは、南朝側の英雄たちの話しをたくさん聞かされて、育ったことでしょうね。
北朝内のゴタゴタ劇は、どの程度まで知っていたでしょうね。
その後、足利と新田の関係性を知らずに、関東に向かったのでしょうか…。


◇南北朝統一

1392年、北朝側の室町幕府三代将軍の足利義満が、一応、話し合いによる統一を果たします。
鈴木九郎さんが、二十歳くらいのときに、南北朝統一がなされました。

ですが、これは騙し討ちで、北朝側の戦略による勝利です。
楠木の一族は、義満に戦で敗れます。
南朝はここに終わります。
南朝は、軍事力と政治力、知略で負けたのです。

鈴木家は、熊野神社の神官の一族だったと書きましたが、武家でもあったようです。
熊野神社は南朝側だったはずです。
もちろん歴史ある由緒正しい神社ですので、攻撃を受けることはありません。

九郎さんは、おそらくこの頃は紀州(和歌山県)に暮らしていたと思われます。
二十歳くらいで、自分たちの陣営が敗北して、どのように感じたでしょうね。

* * *

両勢力の戦いは、鎌倉から関西という地域だけで行われていたわけではありません。
日本各地で、南朝側、北朝側となって争いが起こっていました。
1392年に統一がなされたとはいえ、日本全国がすぐにおさまるはずがありません。

まして、武力の強いものが、その地域、その地域で勝利する時代に入っています。
一族であっても、裏切り、復讐、下克上が、当たり前のように行われるようになっています。

この時代の混乱は、その後、「応仁の乱」を生み、さらに、身分や素性に関係なく日本全国でチカラのある武将たちが、我こそはと立ち上がらせるきっかけになりました。
戦国時代へと、まっしぐらに突き進みます。

戦う武人たちが、歴史の中で、どのように生まれ、育ち、台頭し、戦いの歴史がどのように進んでいくのか、この頃の歴史を見ると、よくわかります。
人が争うというのは、感情や意志だけではなく、連鎖という環境がそうさせるのだということも、よくわかります。
室町時代の歴史は、国の統治や管理という意味でも、教訓がたくさんありますね。


◇関東へ、中野へ

九郎さんは、1400年前後くらいに、武蔵国(今の東京都中野区)にやってきます。
どのような理由で、和歌山から東京にやってきたのかはわかりません。
もともと、先祖からの鈴木一族が、このあたりに暮らしていた可能性も考えられます。

九郎は、元南朝側という不遇の立場に見切りをつけて、新しい職業となって、新天地に活路を見出そうとしたのかもしれません。
中野あたりが、最初から目的地だったのかもしれません。

今の東京の中野区、杉並区、練馬区、世田谷区、渋谷区、新宿区あたりは、南朝側だった新田勢が勢力を持っていた地域です。
紀州の熊野神社と同じ名前の神社が、今でもたくさん残っています。
九郎さんがやってくる以前にも、すでに紀州人による布教が行われていたのかもしれません。
すでに、鈴木という姓の方々が、たくさんいたのかもしれません。

実は、東京の各地に、紀州に関連した地名や建物がたくさん残っています。
和歌山県の方々、東京に来て、少し優越感に浸れるかも…。
このあたりのことは、次々回のコラムで少し書きます。

江戸時代の八代将軍 徳川吉宗(とくがわよしむね)も紀州からやって来た将軍でしたが、相当に、江戸と紀州の関係を研究していたようです。

* * *

そんな今の東京にやって来た、九郎さんですが、この中野区周辺地域は、足利や新田に滅ぼされた鎌倉幕府の北条氏の残党勢力も残っていたようです。

中野区沼袋の禅定院(ぜんじょういん)は、もともと伊藤家の菩提寺で、伊藤寺とも呼ばれていたそうです。
伊藤家は、鎌倉幕府の北条氏の家臣だった家です。
このお寺は南北朝時代になってから建てられていますので、南北朝時代に、伊藤家が南朝と北朝のどちらについていたのか、はたまた元鎌倉幕府勢力として存在していたのかは、よくわかりません。


◇江古田・沼袋原

また九郎の死から15年後には、1455年から1483年まで、関東の地で続く、元北朝の源氏の流れの足利氏と、やはり元北朝の藤原氏の流れの上杉氏による「享徳(きょうとく)の乱」が起こります。
また上杉が登場してきましたね。源氏と藤原氏の対決です。
元北朝内での争いというよりは、もはや戦国時代です。

これも足利尊氏の寛容さが残した、「置き土産」のようにも感じますね。

皆さま、だいじょうぶでしょうか。
頭の中で、「源平藤橘」が、ぐるぐる回っていないでしょうか…。
ひとまず、平と橘は忘れましょう。
関東に平氏の流れの北条早雲がやってくるのは、もう少し後の時代です。

* * *

ちょうど中野区の江古田(えこだ)や沼袋(ぬまぶくろ)付近では、この源氏の足利氏と、藤原氏の上杉氏の戦いの一環で、1477年、太田道灌(おおたどうかん)と豊島泰経(としまやすつね)による「江古田・沼袋原の戦い」が起こります。

豊島泰経とは、池袋のある豊島区(としまく)の、あの「豊島」のことです。
豊島氏は上杉氏の流れです。

太田道灌は、東京の人たちには、江戸城の大元をつくった人として、その名がよく知られていますね。
太田氏は、清和源氏の中の「摂津源氏(せっつげんじ)」です。
足利の「河内源氏(かわちげんじ)」とは、また違います。
ですが、同じ清和源氏ではあります。
この摂津源氏は過去に、なんと平氏と組んで、河内源氏と戦ったことさえあります。

太田道灌は、一応、今回の足利と上杉の争いでは、清和源氏の足利側です。
策士の道灌ですから、どう転ぶかはわかりません。

この「江古田・沼袋原の戦い」は、関東の戦国時代の幕開けを意味します。
この戦いは、日本史の教科書にはほぼ登場しませんので、かなりマニアックな戦国時代初期の合戦です。

現代の大都会の中での出来事だったこともあり、史跡がほとんど残っていないのも、知られていない理由かもしれません。
地方なら、大合戦の史跡になっていると思いますが、なにしろ東京には目立つ歴史史跡が多すぎて、こんな大きな戦の歴史でも、ほとんど隠れてしまっています。

城のひとつでも残っていたら違ったのでしょうが…。
かつての練馬城は、今は、としまえん遊園地の中です。

練馬区にある「としまえん」は、かつての練馬城って…。
東京の港区にある「品川駅」みたいなこと…。
千葉県にある「東京ディズニーランド」みたいなこと…。

今の埼玉県から東京・横浜まで、江戸城、岩槻城、河越城(川越城)のほか、石神井城、平塚城(豊島城)、練馬城、小机城、豪徳寺の招き猫などなど面白い話しが目白押しなのですが、何せ、教科書には存在しない日本史なのです。
「江古田・沼袋原の戦い」のことは、また機会がありましたら…。

* * *

さて、九郎がやってきた関東の地は、南北朝が統一したからといって、元南朝勢力、元北朝勢力、独立した存在感の上杉の勢力、元鎌倉幕府の勢力などが、入り乱れて勢力争いを行っていた時代だったのです。
中野区、杉並区あたりは、元南朝の新田氏の勢力、紀州の勢力が多くいた地域とも想像できます。

現在も、新宿区と中野区との境近くには、「熊野神社」という大きな神社があり、新宿地域の鎮守さまです。
もちろん紀州の熊野神社と深い関係があります。
ここも、鈴木九郎さんとは非常に関係の深い神社です。

中野区や新宿区あたりには、九郎さんがやってくる前から、すでに鈴木一族がいたのかもしれません。
この神社のお話しは、次々回のコラムでご紹介します。

いずれにしても、九郎さんは、南朝側の人間として、思想を持っていたのかもしれません。
間違いなく言えるのは、熊野信仰の強い信者だったことです。
そして、新しい職業選びこそが、彼の成功の第一歩となります。
こんな戦国時代前夜の時代です。
新天地で、軍事や土木関連の仕事なら、成功できると考えたのかもしれません。


◇馬の商売

鈴木九郎さんは、紀州の熊野神社の祭祀をつとめた鈴木氏の末裔で、武士でもあったようですが、中野にやってきて、馬の売買で生計をたてていたそうです。
中野の土地開拓にも尽力したようです。

時代は、前述のとおり、南北朝の戦いの時代と、戦国時代のあいだの、ひと時です。
というよりも、これからくる戦国時代の準備の時期で、ひとまず大きな戦乱はおさまっています。
関東でも、武士団に、軍馬が高値でとぶように売れたのかもしれません。

後で、成願寺にあります、鈴木家と源義経(みなもとのよしつね)のことを書いた案内板の冒頭部分の写真をご紹介しますが、九郎さんに軍馬の知識があっても不思議はありません。

ここからは、九郎に関する、ある伝説を書きます。
伝説と書きましたが、この中には、おそらく事実であろう内容と、まるで絵空事の作り話が混在していると思われます。
二つに分けて書きたいと思います。
まずは、成願寺に残るお話しです。


◇中野長者

九郎さんは、ある日、馬を売買する「馬市(うまいち)」に馬をつれていき、馬の売買で大儲けをします。
そして、その儲けを浅草観音にすべて奉納するのです。
今の東京下町の浅草寺のことです。

馬市に行く前に、浅草の観音様と約束したためです。
九郎さんは、目の前のお金ではなく、観音様との約束を選択したのです。
その頃の日本では、中国のお金の「大観通宝(たいかんつうほう)」が使われていました。

その後も、中野の広大な原野を開拓し、馬を育て、馬の売買に成功し、大金持ちとなり、「中野長者」と呼ばれるようになります。

その後、九郎さんのひとり娘の「小笹(こざさ)」さんが若くして病気で亡くなってしまいます。
九郎さんは悲しみ、僧侶となって、1438年に、今の新宿の熊野神社の敷地に「正観寺(しょうかんじ)」を建てます。
前述の「江古田・沼袋原の戦い」の40年程前の、まだ平和な時代です。

正観寺は、200年後の戦国時代が終わった江戸時代初期に、九郎さんの屋敷跡に移され、寺の名を「成願寺(じょうがんじ)」と改称します。
これが現在の成願寺です。
昭和の戦災で焼失しましたが再建されました。

熊野神社は、成願寺から徒歩でも行ける距離で、成願寺の南東の方向です。
現在の成願寺の本堂の近くにある「長者閣」の目の前に、九郎さんのお墓があります。
お墓は東を向いています。
ひょっとしたら、成願寺本堂よりも前に、お墓がこの地にあったのかもしれませんね。


◇九郎の伝説

九郎さんに関しては、他に伝説があります。

九郎さんは、稼いで蓄えた大量のお金を、ある場所に運んで隠そうとします。
それが今の新宿の熊野神社あたりだというのです。
今の、高層ビル街の隣にある新宿中央公園は、その熊野神社にも隣接しており、今でも、周辺地域よりも、標高が若干高く、小さな丘の山のような形状の場所です。

中野の九郎さんの家から、そのお金の隠し場所の熊野神社には、神田川を越えていくことになります。
下人にお金を背負わせて、ある橋を渡って運んでいました。
下人は橋を渡って行くのですが、帰りはいつも九郎さんだけです。
そのため、いつしか、その橋を「姿見ずの橋(すがたみずのはし)」と呼ぶようになったそうです。

ようするに、隠し場所の秘密を守るために、九郎さんが下人を殺害していたというのです。
さらに、その死体を、熊野神社の池に放り込んでいたというのです。
熊野神社の横には大きな池がありました。

この行いが、たたって、九郎さんのひとり娘は、結婚式の夜に、大蛇に変身し、熊野神社の大きな池に飛び込んでしまいました。
その結婚式の夜に、黒い雲が熊野神社からわき上がり、カミナリが鳴り響いたというのです。
九郎さんは、ざんげし、僧侶となり、正観寺(成願寺)を建て、中野に七つの塔を、そして、高田から大久保の地に百八の塚をつくりました。
そして娘の供養をしました。

これが、もうひとつの伝説です。

* * *

個人的な印象ですが、日本史の中で、こうした表現と内容レベルのものは、たいてい敵やライバルの作り話が多いです。
ねたみ、しっとのたぐいかもしれません。
この橋のネーミングは、怪しさがプンプンします。

前述のとおり、元南朝側で、熊野信仰の強い信者の九郎さんです。
おまけに商売で大成功もしています。

前述のとおり、鎌倉幕府を倒した足利や新田勢に恨みを持つ者、元北朝の足利勢力、上杉勢力、ビジネス上のライバルで嫉妬している者など、九郎さんの周りには、敵やライバルがたくさんいたことでしょう。
熊野信仰におけるライバルもいたかもしれません。

だいたい、儲けたお金を、山や森に隠すでしょうか。埋蔵金でもあるまいし。
堅固な蔵をつくって、用心棒を雇うほうが、現実的で安心かもしれません。
熊野神社に運んだのは、隠す目的ではなく、奉納だった可能性もあります。

この内容からすると、九郎さんと熊野神社を切り離し、九郎さんの評価を地に落としたくて仕方のない者たちがいたとも考えられます。
九郎さんが残した財産や土地、建造物を狙っていた者も多かったかもしれません。

熊野神社の中に、九郎さんを良く思わない人物がいたとも限りません。
奉納金額で、神社ともめたということはなかったでしょうか。
周囲の鈴木一族内で、彼の遺産について、もめたということはなかったでしょうか。

この伝説は、九郎さんへの悪意に満ちています。
九郎さんの娘の悲劇に乗じて、こんな作り話を創作したのかもしれません。

少なくとも、九郎さん自身が、この話を聞いていたはずはないと思います。
彼の死後に生まれた話しのように思います。

そして200年後、熊野神社から、場所を移転させ、寺の名を変えさせたのは、江戸幕府であった可能性はないでしょうか。
この伝説に出てくる、橋の名前まで変更させます。
橋の改名のお話しには、徳川将軍が登場します。
単なる橋の改名にしては、何か妙です。
江戸幕府が、何かの対立関係に決着をつけたとも考えられなくもありません。
それは次回のコラムで書きます。

* * *

この恐ろしい伝説は、まるで架空の絵空事です。
成願寺のお話しのとおり、これらの話しと、事実は分けたほうがいいと思います。

ですが、古代から、こうした、一見、絵空事のようなお話しにも、モデルになるようなエピソードが隠れていることはあります。

ひょっとしたら、橋の上から、お金を持ったまま川に飛び込んで逃げようとした下人がいたのかもしれません。
用心棒か何かが、その下人を斬り殺したのかもしれません。
まったくのハプニング事件だったのかもしれません。
たまたま、それを町人が見ていたというこもあったかもしれません。

また、悪党どもが、お金を奪いに来て、用心棒たちと斬り合いにでもなったかもしれません。
いずれにしても、何らかの血生臭い出来事があった可能性も否定はできません。

まったくの想像ですが、そんなエピソードが、この恐ろしい伝説の元になったとも考えられなくもないです。
まったく元ネタがなかったお話しではないのかもしれません。

九郎さんによる正観寺(成願寺)の建立には、そうした供養の意味もあったのかもしれません。
よくわかりません。

* * *

九郎さんが、本当に強欲で、殺人もいとわない悪党であったのならば、もっと現実味のある悪党話しが、他にもたくさんあってもよさそうなものです。
お金持ちだったのは確かでしょうが、権力をかさに着てという話しも残っていません。
おまけに、これだけの私財を投げうって僧侶になるとは、悪党にできるでしょうか。
浅草観音の話しとは、かなり距離がある気がします。
家族も、このひとり娘、ただひとりだったのかもしれません。

いずれにしても、中野に大きな塔を七つも建てられるとは、相当な財力です。
江戸時代の「紀伊国屋文左衛門(きのくにや ぶんざえもん)」級か、それ以上ですね。
その塔のひとつが、前回コラムのゾウにまつわる、同じく中野区の宝仙寺の三重塔だそうです。


◇成願寺

鈴木九郎さんが建てた「正観寺」は、200年後の戦国時代が終わった江戸時代初期に、九郎の屋敷跡に移され、寺の名を「成願寺」と改称したと前述しました。
改名の理由が、宗教的なものなのか、政治的なものなのか、私にはわかりません。
前述のような、政治的な外圧があったのかもしれません。
お寺の名称や場所を変えるということは、大きな理由があったはずです。

「正観寺(しょうかんじ)」の名称は、浅草観音ゆかりの九郎のお話しがありましたので、理由は想像できます。
「正観」という言葉は、仏教で大切な意味があります。

「成願寺(じょうがんじ)」の「成願」という言葉も、仏教では時折見る言葉ですね。
平家物語にも「所願成就円満(しょがんじょうじゅえんまん)す」という言葉が登場します。

「願いが成る」「願いが叶う」「願いが満ちる」あたりの意味なのでしょうか。
人によっては、中野長者の九郎さんにあやかって、「成功を願う」という方もあるでしょうね。
現代でも、人々のさまざまな願いに応えてくれるお寺なのかもしれません。

いずれにしても、お寺が現代まで残ってくれたおかげで、九郎さんの伝説にも出会うことができました。
ありがたいことです。

* * *

2019年、今年の夏、成願寺の写真を撮ってきました。
東京の都心とはいえ、境内に入ると、室町時代に戻ったような、緑豊かな静かな空間が広がっています。

お盆の時期でしたので、お墓参りの人たちが時折いました。
そうした中に、何かビジネスで成功したような青年実業家風の若い男性が、散歩のような体で、ひとりでゆっくり見て回っていました。
ひょっとしたら、儲けた有り余るお金の使い道に悩んで、成願寺に立ち寄ったのかもしれません。
さらなる成功を願ってのことだったのかもしれません。
お金の良い使い道を、見つけてほしいものです。

成願寺は、座禅や写経、読経、仏像彫刻など、さまざまな仏教体験ができることでも知られています。
詳細は、「成願寺サイト」をご覧ください。

成願寺:東京都中野区本町2-26-6

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「山手通り(環状六号線)」の車道からは、このダルマ様がよく見えますね。




風情のある竹垣(たけがき)ですね。
娘の「小笹(こざさ)」さんの名に、ちなんでいるのでしょうか。
単なるバス停ですが、何かホッとします。




中国風の竜宮城の門のような入り口です。
ここを通ると「六地蔵様」が迎えてくれます。
死後、この六地蔵様のうちの一人に、助けてもらうことになるのですね。




たくさんの観音様や、たくさんの羅漢様も迎えてくれます。
「ほほえみ観音」の、この小さな娘さんは、「小笹(こざさ)」さんなのでしょうか。







境内では、中野長者の鈴木九郎さんの物語が紹介されています。




「大観通宝(たいかんつうほう)」とは、室町時代の日本で使用されていた中国の北宋銭です。
邪鬼の横に銭が…。それとも、銭の横に邪鬼が…。
いかにも高そうな高層マンションの横にも、銭が…。




昔は、こうした井戸が、たくさんの個人の家にもありましたね。
地べたの暮らしも、いいものです。



境内には、ワンちゃんも…。
名前は、クロかな、シロかな? それとも、コザサ?



門を出ると、そこには首都高速道路の「中野長者橋出入口」。




◇安らかに

数年前に、成願寺の、ある仏様の像の中から、人骨の一部がたくさん出てきたそうです。
鑑定の結果、老いた男性と、身体の弱そうな若い女性の骨だとわかったそうです。
おそらく九郎さんと、娘の小笹さんの骨ではないかということだそうです。

このコラム「映像&史跡 fun」は、歴史の深層や真偽をあれこれ考察することをモットーにしてはいますが、このお話しには、これ以上触れないでおこうと思います。
私の中では、父娘を、このまま像の中で、静かに眠らせてあげたいと思います。

* * *

それにしても、稼いだ財のすべてを、お寺や神社、娘のために使って、亡くなっていくとは、すごい長者さまです。
「長者さま」というのは、本当は、成功したお金持ちや、一族のトップではなく、そうした方々のことをいうのかもしれませんね。
「長けている」という意味を、何か間違えていたのかもしれません。

* * *

この成願寺のすぐ隣には、「山手通り(環状六号線)」という東京の幹線道路が通っています。
その地下を首都高速道路の「山手トンネル」が通っており、このお寺の隣には、「中野長者橋出入口」が造られています。

東京で自動車を運転される方でしたら、交通情報などで、一度はこの名称を聞いたことがあると思います。
新宿、渋谷、中野、杉並、世田谷あたりで、クルマを所有してお住まいの方でしたら、時に使う出入口ですね。

この「中野長者橋出入口」…、長者への入口なのか、はたまた長者からの出口なのか、出入口のすぐお隣の成願寺から、九郎さんが一台ずつ見定めているのかもしれません。
この出入口のネーミング、なかなかいいですね。

次からは、邪心を捨てて、「観音様、長者さま」とクチずさみながら、通過したいと思います。
くれぐれも、成願寺を、わき見運転しないようにしましょう。

* * *

次回は、今回の九郎さんの伝説に登場しました「姿見ずの橋」についてご紹介します。
「姿見ずの橋」という橋は、古い歌謡曲でも有名な神田川に、名前を変えて今でも同じ場所に存在しています。

伝説に出てきました「熊野神社」と、死体を放り込んだという池、中野区や杉並区にある熊野信仰や新田一族に関わる神社やお寺は、次々回のコラムでご紹介します。

新宿の高層ビル群に隣接する「新宿中央公園」の隣にある「熊野神社」は、成願寺(正観寺)が最初にあった場所です。
その境内の一角に、何か室町時代の山の中のお寺を思い起こさせるような雰囲気の風景も、小さいながら見つけることができました。
こんな現代の大都会のビル群のすぐ近くに、室町時代がひっそりと残っていたとは驚きです。
次々回に、その写真をご紹介いたします。


2019.9.6 jiho
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