「映像&史跡 fun」は、映像・テレビ番組・史跡・旅・動画撮影のヒントなどをご紹介するコラムです。


よどみ(1)/ 淀橋・内藤新宿・高遠

【概要】甲州街道と青梅街道の謎。江戸の街道と宿場。伊那谷の桃源郷 高遠。江戸東京は坂だらけ。新宿御苑は馬だらけ。猿橋で笹子餅はいかが…。さあ、よどみの世界へ。


前回コラム「長者さまと成願寺 / 東京都中野区(5)」で、中野長者 鈴木九郎(すずき くろう)さんの成功物語を書きました。
その中で、恐ろしい伝説の話しをご紹介しましたが、その伝説の中に登場した「姿見ずの橋(すがたみずのはし)」は、現在でも、同じ場所で残っています。
今回のコラムのテーマは、4回にわけて、その橋や、姿がなかなか見えない「よどみ」のお話しを書きたいと思います。

この伝説を、ここでもう一度、ご紹介します。


◇九郎の伝説

室町時代、鈴木九郎さんは、馬の商売で儲けた大量のお金を、ある場所に運んで隠そうとします。
それが今の東京都の新宿にある熊野神社あたりだというのです。
今の、高層ビル街の隣にある新宿中央公園は、その熊野神社にも隣接しており、今でも、周辺地域よりも、標高が若干高く、小さな丘の山のような形状の場所です。

中野の九郎さんの家から、そのお金の隠し場所の熊野神社には、神田川を越えていくことになります。
下人にお金を背負わせて、ある橋を渡って運んでいました。
下人は橋を渡って行くのですが、帰りはいつも九郎さんだけです。
そのため、いつしか、その橋を「姿見ずの橋(すがたみずのはし)」と呼ぶようになったそうです。

ようするに、隠し場所の秘密を守るために、九郎さんが下人を殺害していたというのです。
さらに、その死体を、熊野神社の池に放り込んでいたというのです。
熊野神社の横には大きな池がありました。

この行いが、たたって、九郎さんのひとり娘の小笹(こざさ)さんは、結婚式の夜に、大蛇に変身し、熊野神社の大きな池に飛び込んでしまいました。
その結婚式の夜に、黒い雲が熊野神社からわき上がり、カミナリが鳴り響いたというのです。
九郎さんは、ざんげし、僧侶となり、正観寺(成願寺)を建て、中野に七つの塔を、そして、高田から大久保の地に百八の塚をつくりました。
そして娘の供養をしました。

これが、その伝説です。

この伝説は、もちろん絵空事(えそらごと)です。
これに関しては、前回コラム「長者さまと成願寺 / 東京都中野区(5)」で考察を書いていますので、よろしければご覧ください。

この「姿見ず(すがたみず)の橋」は、今の東京都と中野区の境界を流れる神田川に架かる短い橋のことです。
青梅街道(おうめかいどう)が、この橋を通っています。
現在は「淀橋(よどばし)」という立派な名称になっています。
冒頭の写真は、江戸時代に描かれた淀橋の絵です。


◇嫁の出立


皆さまもよくご存じのように、婚礼には、さまざまな儀礼的・慣習の内容が、今でもしっかり残っていますね。
プロポーズ、婚約、結納、結婚式、披露宴、ご祝儀、嫁入り道具、仲人、新婚旅行、結婚届…、今はだいぶ省かれるようになったものも多くなりましたが、さすがに、プロポーズ、婚約、結婚、結婚届は最低限、残っていますね。
これは、ふたりだけでもできます。

そうした中に、「嫁の出立(でだち)」というものがあります。
今でも、関西や名古屋など、古い慣習がたくさん残る地域には、それを きちんと行う方々も、たくさんおられると思います。
ある意味、両親の願いが込められていますので、なかなかやめられないというのも、よくわかります。
嫁ぐ日に、花嫁が家を出る方法、道順などが決められているのです。
似たケースで、葬儀にも、しっかり残っていますよね。

この「姿見ずの橋(淀橋)」も、その伝説から、嫁ぐ日に、この橋を渡らないようにと伝えられていたそうです。
お祝いの日に、縁起が悪いという発想でしょう。
明治時代には、かなり大きなご供養の行事も行われたようです。

この「淀橋」のお話しを書く前に、少し江戸時代のお話しを書きたいと思います。


◇江戸の街道と宿場


江戸時代は、江戸の日本橋を起点として、日本各地に向かう重要な街道がありました。
もっとも重要な「五街道」は、東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道です。

江戸の中心部には、他にも、青梅街道、川越街道、水戸街道、鎌倉街道、中原街道、五日市街道などもありました。
現在の東京でも、国道何号線と言うよりも、これらの名称のほうが十分通じます。

今回の「淀橋」がある青梅街道は、江戸時代初期に、石炭を青梅から江戸に運ぶために、しっかりと整備されたようです。

* * *

江戸の日本橋から、五街道の最初の宿場を「江戸四宿(えどししゅく)」と言いますが、四宿は各街道の重要な最初の宿場で、非常に栄えた宿場町となります。
「内藤新宿(ないとうしんじゅく)」は、甲州街道・青梅街道など。
「品川宿」は、東海道。
「板橋宿」は、中山道・川越街道など。今の板橋区役所、板橋本町あたり。
「千住宿」は、奥州街道・日光街道・水戸街道など。今の北千住駅あたり。

* * *

「宿場(しゅくば)」とは、もともとは、街道にある、交通や通信に関する専門役人がいた町を意味していました。

奈良時代あたりの古代日本の道には、二種類ありました。

ひとつは、「駅路(えきろ)」と呼ばれる、中央政府と地方官庁を結ぶ重要な連絡・通信のための道で、約16キロごとに「駅家(えきか・うまや)」という施設があり、それら施設の間の道で使用する馬を「駅馬(えきば・はゆま・はいま)」と呼んでいました。
時代劇に登場する「早馬(はやうま)」は、こうした馬たちのことで、特急の連絡便を意味しています。
こうしたシステムを「駅制(えきせい)」といいます。

もうひとつは、「伝路(でんろ)」と呼ばれる、中央から地方に人間が出向く、または地方どうしの、役所などの重要拠点をつなぐ道でした。
ここでは「伝馬(てんま)」が使われていました。
現代でも、ハイヤーとタクシーが違うように、駅馬と伝馬には違いがありました。
見た目も違いますよね。
これを「伝制」といいます。

これら全体を総称して、「駅伝制」といいます。
古代に、中国から入って来た制度で、「駅」という施設、「駅馬」「伝馬」という駅の間を走る馬、重要な拠点を結ぶ道路という、交通通信システムです。

現代でも、それほど違いはありません。
〇〇駅があり、その間を電車が走り、駅では荷物を積みかえます。人も移動します。
トラック輸送でも、拠点基地どうしをトラックが走り、その地域に別のトラックで配送します。
郵便物でも同じです。
それぞれの個人宅まで、荷物がやってくるというのは、もちろん近代になってからです。

「駅路」と「伝路」の関係は、今の高速道路と国道の関係によく似ているような気がしますね。

* * *

「駅伝」という日本発祥のスポーツがありますが、これも、このスタイルから命名されたようです。
「たすき」を、駅(中継所)ごとにつないで、運んでいくのです。
「エキデン」は、世界で通用する用語にもなりましたね。
世界の人たちが、この言葉の由来を知ったら、きっとビックリするでしょう。
でも、意味はすぐにわかるはずですね。

陸上競技での、超長距離リレーです。
いつか五輪種目になってほしいものですね。

* * *

少し時代を飛ばして、江戸時代になって、五街道やそれに次ぐ主要街道と、道中奉行が旅人、伝馬、旅籠(はたご)、飛脚(ひきゃく)、橋などを管理する制度が整備されます。
家康の頃から始まり、八代将軍 吉宗の時期にほぼ完成しました。

宿場には、一定数の馬と、関連施設、使用人が、いなければいけない規則でした。
輸送荷物は、基本的には、宿場につくと積み替えていました。
この行為が、街の発展だけでなく暗躍集団の温床にも発展していきます。

宿場にあった宿泊施設は、大名が使う高級宿の「本陣(ほんじん)」や「脇本陣(わきほんじん)」、庶民が使う食事・風呂付きの「旅籠」、庶民が自炊する「木賃宿(きちんやど)」などがありました。
歴史の偶然ですが、まさに「キッチン(きちん)宿」とは、よく名付けられたものです。
女性や子供が安心して宿泊できる施設は、その旨、表示がされていました。
団体用宿泊施設もありました。観光ガイドブックもありました。

古代も、江戸時代も、こうしたシステムは、ほとんど変わっていないのですね。


◇甲州街道と内藤新宿


「淀橋」を通る「青梅街道(おうめかいどう)」は、内藤新宿から、中野宿、荻窪、東伏見、田無宿などを通り、青梅宿に至り、その先の奥多摩の山々を越えて、甲府で甲州街道と合流する街道です。

「内藤新宿」は、五街道の「甲州街道」も通っています。
甲州街道と青梅街道は、新宿で別れて、甲府でまた出会うという、二つの街道なのです。

前述のとおり、甲州街道は、江戸日本橋を起点にした街道で、甲州(今の山梨県)の方面に向かう街道です。

最初の宿場が「内藤新宿」で、次が「下高井戸宿」です。
今の山梨県甲府市の宿場「甲府柳橋宿」を通り、今の長野県下諏訪町の宿場「下諏訪宿」までの街道を、「甲州街道」といいます。
「下諏訪宿」とは諏訪大社下社のある宿場町です。
この下諏訪宿で、もうひとつの五街道「中山道」と合流するのです。
甲州街道は、「四十四次」の宿場を通りました。

この諏訪を経由する道のルートは、神話の時代から、日本にとっては、軍事的、政治的に、たいへん重要なルートでした。
諏訪のお話しは、コラム「神話のお話し・後編 / 因幡の白うさぎ」でも少しだけ書いています。

甲州街道は、東海道と中山道の間の位置にあり、江戸に直結する、幕府にとっては軍事上たいへん重要なルートでした。

ですが、甲州街道は、中山道よりも、道路整備が遅れていたり、旅のコストがかかったこともあり、少し距離は長くなっても、中山道を使う旅人が多かったようです。

* * *

「内藤新宿」という宿場は、江戸時代の元禄の頃、1700年頃になってから、新しくつくられた宿場町です。

甲州街道には、日本橋から下高井戸宿のあいだに、それまで宿場がなく、商人たちが、今の新宿あたりに新しい宿場をつくるように幕府に願い出て、それが実現しました。

でも、江戸幕府が、商人や町人の嘆願だけで、かんたんに実現させるはずはありません。
そのことは、あらためて書きます。

人や物の移動には、どうしても馬が必要になりますので、たしかに新宿あたりに、それを管理する人や馬、施設があったら便利だと感じます。
新宿あたりには、青梅街道もあります。
神田川の近くで、鷹狩りなどを行っていた未開発の広い土地も近いです。
こうして、新しい宿場町が誕生しました。

もし、この時代に内藤新宿が誕生していなかったら、下高井戸宿があった、今の高井戸あたりに高層ビルが林立していたのかもしれませんね。
後世の鉄道の山手線のルートも違ったことでしょう。

* * *

甲州街道は、もともと徳川将軍が、窮地となった際に脱出するルートです。
甲州街道からは、その時の状況により、東海道や中山道に、いくつかのルートで向かうこともできます。

もともと甲州の地は、江戸の防衛上からも重要な場所で、江戸時代になってからは、幕府直轄か、徳川家の領地です。
ですから、この甲州街道沿いには、徳川家の信頼の厚い武家たちが配置されました。

将軍は、江戸城の半蔵門から脱出し、甲州街道に向かうのです。
「半蔵」とは、伊賀の服部半蔵のことです。

今の皇室の方々も、プライベートでは、この半蔵門と、明治期につくられた乾門を使われます。

山梨県の甲州忍者のもとは、山本勘助が伊賀からその秘伝を伝えたもののようです。
信州の真田の忍者たちにも伝えられたと思います。

江戸時代、この甲州街道付近には、鉄砲隊も配置されていました。
新宿区の「百人町」という地名は、家康の重要な家臣であった内藤家が率いた「伊賀組百人鉄砲隊」からきています。

この鉄砲隊は、江戸各地にあった鉄砲隊組織のひとつで、大元締めは服部半蔵でした。
もちろん、半蔵の屋敷は、半蔵門を出た先にあり、甲州街道へとすぐにつながる地点です。

江戸城本丸に今も残る「百人番所」という建物の、「百人」とはこれを意味しています。
甲州街道は、実は、他の街道とは少し性格が違っていたのです。


◇内藤家

この「内藤新宿」の「内藤」とは、家康と同じ三河出身の、譜代(ふだい)の家臣「内藤家」のことです。
前述の「百人鉄砲隊」のあの内藤家です。

内藤家は、家康の信頼が厚い、軍事にすぐれた武家であったようです。
江戸をつくるにあたって、家康は、馬を走らせられるような広大な土地を内藤家に与えます。

まだ江戸時代初期は、乱世が完全に終わっていません。
軍の主力兵器のひとつとして、馬は、その量も、質も求められていた時代です。

江戸の防衛のため、江戸の中心部から少し離れた西部を流れる大きな多摩川には、橋を架けられません。
ですが、この多摩川と江戸の間にある、江戸城の西側方面には、まだまだ大きな土地が広がっていました。

江戸幕府は、信頼できる三河武士の内藤家に、上屋敷を今の神田のあたりに、下屋敷を今の新宿に与えます。

室町時代、馬の商売で大成功した、中野長者 鈴木九郎さんの屋敷があった中野は、新宿の西隣りです。


◇上・中・下

ここで、地方の藩からみた「江戸藩邸」のことを少しだけ書いておきますね。
これを知っておくと、日本史や時代劇ドラマがわかりやすくなります。

上屋敷とは、江戸中心部に置かれた、藩主やその家族が暮らす屋敷。
中屋敷は、隠居や世継ぎが暮らす屋敷。上と中を分けることは、何かと政治的に重要です。
下屋敷は、地方にある国元などとの連絡用や荷物の管理などに使う屋敷です。
江戸は火事が多かったため、下屋敷は避難場所にもなりました。ですから比較的、江戸の郊外や、海の近くなどに置かれました。
基本的にはこうしたことですが、この三つの屋敷は、それぞれの藩の事情によって使い分けられたと思います。

今の新宿あたりは、もちろん江戸時代は郊外です。
内藤家には下屋敷でした。




◇高遠藩主の内藤家

内藤家は、江戸時代の元禄の頃に、高遠藩(たかとうはん)の藩主になります。
将軍は綱吉です。
内藤新宿がつくられる、ほぼ直前です。

ここからは、「高遠(たかとう)」のことを少し書きます。

高遠藩とは、今の長野県の諏訪(すわ)地方と伊那谷(いなだに)北部の地域をおさめていた藩です。

今の伊那市(いなし)の中には、「高遠」という地名がしっかり残っています。
高遠城の桜は名所として、その名が全国に知れ渡っていますね。
もともと武田家の領地だった時代もありましたので、日本史の中にも時折登場する有名な「高遠」という名称です。

高遠は、諏訪湖(すわこ)に近く、伊那谷の北部にあり、南アルプスの雄大な景色の中にあります。
伊那谷とは、南アルプスと中央アルプスにはさまれた、かまぼこをひっくり返したような谷形状の地域です。
谷とはいっても、広大なスケールの谷です。

* * *

伊那谷は、北部と南部では、森林の植生が少し違います。

大古、この伊那谷のかまぼこ部分には、大きな氷河があったと聞いたことがあります。
南アルプスと中央アルプスの間の谷が、氷で埋まっていたというのです。
その氷が解けて天竜川が生まれたのかと、妙に納得してしまいました。
実際に、南アルプスや中央アルプスには、氷河の形跡がたくさん残っています。

今のカナダのロッキー山脈の大観光地であるバンフの街のあたりも、よく似た かまぼこ形状ですが、ひょっとしたら同じ光景が伊那谷にもあったのかもしれません。
もし、人の歴史が入らず、そのままだったら、世界有数の大観光地でしたね。

先般、NHKの山番組で、アドベンチャーレーサーの田中陽希(たなか ようき)さんが、「伊那谷北部は、北海道の林に似ている」と言っていました。
たしかに、その通りで、緑が奥深い伊那谷南部の地域とは、少し違って見えます。
山登りをされる方でしたら、よくご存じだと思います。
すがすがしい日差しを感じる林や森のような気がしますね。

高遠城は、江戸時代の構造が残されていますが、戦国時代の武田氏の時代の特徴も残してくれています。
曲輪(くるわ)の組みあわせ方が、戦国時代の中期の頃を感じさせます。
この城で、実際に戦闘を行うことを想定しています。
山本勘助がつくった「勘助曲輪(かんすけぐるわ)」も残っています。

「曲輪」の説明は、コラム「旅番組シリーズ・旅番組とお城 / ③馬と虎と犬と」で少し書きました。
高遠城は、すばらしい名城のひとつですね。


◇絵島

今回の4回にわたるコラムでは、鈴木九郎さんの娘の「小笹(こざさ)」さんにはじまり、女性がたくさん登場します。

次は、江戸時代に生きた女性、「絵島(えじま)」こと、本名「みよ」さんのお話しです。

さて、江戸時代の「絵島(江島)生島事件(えじまいくしまじけん)」で、江戸城の大奥のトップであった絵島が、処分されて幽閉された場所も、この高遠です。

絵島の兄は処刑、弟も追放です。
この事件は、1400名以上が処分される江戸城大奥史上最大の内部騒動です。

最大とも言いきれないかも…。
大奥では、各時代で、壮絶な女性の争いがおきています。

この事件当時の七代将軍は、幼ない子供で、単なるお飾りの将軍です。
大人たちが、周囲で、壮絶な政治闘争の真っ最中でした。
このあたりのことは、コラム「ダンボみたいに・前編」で、新井白石や吉宗について、簡単に書きました。

この大奥の大騒動は、大ヒットしたテレビドラマの影響で、やたら詳しい奥様方もたくさんおられると思います。
事件の内容は割愛します。

* * *

絵島の地位は、将軍と直接会える、特別中の特別のものでした。
今も、高遠には、絵島が幽閉された「絵島囲い屋敷」が残っていますが、その厳重さは尋常ではありません。
まさに監獄です。

江戸城大奥から監獄とは、まさに天国から地獄です。
政治闘争の激しさがわかります。
絵島を生かしたのには、理由があったと思います。

* * *

江戸から高遠までの道である、甲州街道と高遠への道は、ほぼ将軍家の直轄地域を通ります。
外様大名はもちろん、他の譜代藩に接することも、ほとんどありません。
とはいえ、敵は徳川幕府の中にもいます。

幕府の秘密を知り過ぎている絵島を、護送し幽閉する場所として、高遠は最適です。
高遠藩主は、あの新宿つながりの内藤家でした。

甲州街道を使って、甲府徳川家の藩内を通り、諏訪の高島藩(たかしまはん)を通らずに、高遠藩に入ることも可能だったと思います。
仮に、諏訪の高島藩を通っても、安全だったとは思います。

もし絵島が秘密を口外したら、すぐに処刑したか?
私は、それでも、幕府はそうはしなかったと思います。
何かが、あったはずです。
まだまだ利用価値はあると考えていたかもしれません。
どこかの敵に、絵島を暗殺されるわけにはいかなかったと思います。

絵島は、この事件について、一切クチにしなかったと、史料には残されています。
内藤さんだけには、もしかしたら…。

しばらく後、高遠藩主の内藤家は、「絵島にもう少し自由を与えてはどうか」と幕府に願い出て、絵島は、簡単な散歩だけは許されます。
なんと、将軍からお許しが出るのです。その時の将軍は八代将軍 吉宗です。
絵島は、やっと、信州の雄大な山々を眺めることができたのでしょう。

絵島のお話しは、いったん、ここまでにしますが、内藤家も思惑だらけに見えますね。
普通なら、こんなお願いを幕府に行うはずがありません。
「将軍様、私は、知っていますよ…」

甲州街道には、そんな女性の傷心の旅の歴史も残っているのです。

このお話しのつづきは、次回に書きます。


◇馬の道

この高遠藩は、今の長野県の諏訪湖南部と八ヶ岳地域、伊那地方を領地としていました。
もちろん、すべてつながっています。
ある意味、諏訪の高島藩を、囲んでいるように配置されています。
江戸時代の藩の配置は、基本的に、江戸幕府の維持、防衛、監視のために考えられていました。

伊那地方は、伊那谷の北部で、中央アルプス(木曽山脈)を挟んで、農耕の名馬の木曽馬(きそうま)の産地のすぐお隣です。

もちろん、高遠藩の領地には八ヶ岳があり、現在でも牛や馬の大放牧地帯です。
現代でも、八ヶ岳山麓での、馬でのトレッキングなんて最高です。
テレビドラマの、馬を使った戦闘シーンや、大軍勢での進軍シーンも、この地で撮影されることもしばしばです。

高遠藩の領地は、新宿からスタートし、山梨県の甲府を通り過ぎ、長野県の諏訪や伊那の地域に、街道でまっすぐつながっていたのです。
馬と街道、軍事と防衛という意味では、馬を熟知した内藤家を、江戸時代の元禄期に高遠藩主にするのは、まったく良い人選だとも感じます。
馬に精通し、馬の道を管理する、それが内藤家だったと思います。

「新宿」と、長野県の小さな街の名「高遠」が、どうしてつながっているのか不思議に感じている方も多いと思います。
これは偶然でも何でもありません。
つながる理由が、しっかりあったと思います。
でも、馬だけがその理由ではありません。
内藤家がどうして「高遠」なのか、そのあたりは次回に…。

* * *

下の写真は、今の新宿にある広大な敷地の「新宿御苑(しんじゅくぎょえん)」です。
元は、内藤家の下屋敷だったところです。
今も、池も大きく、自然豊かで、都会の真ん中とは思えない景色が広がっています。
今だって、馬がもし走れたら、馬には天国でしょうね。
それにしても、この敷地の広さは、もはや屋敷ではありませんね。




長野県と東京をつなぐルートは、現代でも、軽井沢を通る中山道と、この山梨県を越える甲州街道のルートが、二大ルートです。
それ以外は、あっても、かなり険しいです。

中山道や日光街道からも、江戸に馬を供給してはいたでしょうが、やはりこの甲州街道のルートが大きかったのではと思います。
甲州の八ヶ岳の馬、木曽の馬たちは、おそらくこのルートで江戸にやって来たと思います。
交通手段だけでなく、江戸郊外の開拓や農業にも、馬や牛は絶対に必要です。

長野県には、近い将来、山梨県南部を通り、南アルプスの地下をトンネルでぶち抜いて、リニア新幹線が通り、東京から伊那谷南部に直結するルートが加わります。そのまっすぐ延長上に名古屋があります。

長い日本の歴史にまったくなかった、新しい道のルートができることになります。
これまでの日本史の主要な道のルートは、馬が通れることが基本です。
この新ルートが、日本史にどのような影響をもたらすのか、楽しみなようで、心配でもありますね。


◇裏ルート

現代の高速道路の中央道は、山梨県はもちろん、長野県の伊那や諏訪地方から見れば、東京へとつながる交通の大動脈です。
松本方面からも、このルートとなります。
高速バスも頻繁に走っています。
もちろん甲州街道と並走しています。
その重要性や役割において、おそらく感覚的には、江戸時代もこれと同じではなかったかと思います。

現代の、中央道や、甲州街道が進化した国道は、東名高速道路や東海道が進化した国道1号線の、補完や予備といった側面がありますね。
トラック輸送でも、東名や第二東名がダメな場合には、中央道を使います。
関西と関東をつなぐ重要な二大ルートです。

江戸時代の中山道や甲州街道は、東海道の補完や予備という意味では、まったく同じでした。
関ヶ原の戦いに向かう、徳川軍も、東海道と中山道に分かれて進軍しましたね。

* * *

実は江戸時代には、この甲州街道に、さらに補完や予備のルートがつくってありました。
それが、今回の新宿から中野へ、さらに青梅へ、その後、奥多摩の山々を越え甲府に至るという、山越えのルートです。
青梅街道は、甲州街道が使えないときの別ルートでもあり、裏ルートという役目もありました。
「甲州裏街道」とも呼ばれていたそうです。

甲州街道は、大きく深い川に近い谷あいを通るため、大雨の際のがけ崩れのリスクがあります。
それを補うのが、山の頂上付近を越えるルートなのです。
密輸や逃走、暗躍にも、この裏ルートを使いました。

ですが、青梅から甲府へのルートは、山の中の険しい道です。
その山々が、御岳山(みたけさん)や奥多摩湖のある奥多摩の山々です。
「大菩薩嶺(だいぼさつれい)」も、ありました。

裏ルートなだけに、日本史には数々の暗い事件が残っていますね。
それが「大菩薩峠」の小説にも、つながっていきます。

昭和生まれの方々でしたら、小説や時代劇で有名な、中里介山(なかざと かいざん)の「大菩薩峠」を思い出されると思います。
もちろん、この峠は、大菩薩嶺にあります。
この山は、深田久弥(ふかだ きゅうや)の「日本百名山」のひとつで、「大菩薩岳」と表現されています。
今も登山者がたくさんやってくる、有名な山ですね。

もちろん、江戸時代では、主要な山越えの旅のルートです。
むしろ、富士山や江戸方面がよく見え、眺望抜群のルートです。
もちろん歩きでの話しです。
江戸時代、健脚で身軽なら、こちらのほうが楽しめたかもしれませんね。
でも、馬は無理だったでしょう。


◇猿橋とお餅


谷あいを通る甲州街道のほうには、見事な木造の大きな橋の「猿橋(さるはし)」や、武田勝頼の最期に絡んだ「岩殿(いわどの)城」などもあり、見所もたくさんあります。
山梨県大月市です。

岩殿城(岩殿山城)は、急峻な崖の上にあります。
明治時代に、後に大日本帝国陸軍の大将となる乃木希典(のぎ まれすけ)が、攻防戦研究のために登りました。
後に「二百三高地」で有名になる、日露戦争でのロシアの旅順(りょじゅん)要塞を攻撃陥落させた戦争では、参考になったでしょうか。
たしかに岩殿城は、高所にある要塞です。

若い世代の方々…乃木坂の乃木とは、この乃木将軍のことですよ。

歴史ファンや、旅ファンの皆さまには、「猿橋」は一見の価値ありです。
今では、甲州街道の山深い地域の谷あいで、江戸時代を感じることができる場所はほとんどありません。
ですが、この猿橋は、江戸時代の雰囲気たっぷりです。
下の写真、江戸時代にタイムトリップしたかのように見えませんか。

通常、深い谷には、吊り橋を架けるのがふつうです。
ですが、これは「はね橋」という建築様式です。
江戸時代でも、相当に有名な観光地だったようですね。
古い絵も残っています。

川の両側から、何頭もの猿が体を重ねて、谷に橋を架けたという伝説から「猿橋」と名付けられたと、何かの本で読みました。
何という素晴らしい想像力と表現でしょう。猿の姿が目に浮かびます。
現代人が、この橋の形状を見て、このような表現ができるでしょうか。
見事な橋の名です。

山深い街道に、こんなに立派で、おしゃれな橋をつくるとは…。
谷を渡れれば、それでいいという考えでは、まったくなかったのでしょうね。

「橋と谷と川と山しか、ないじゃないか…」
江戸時代を感じるのに、これだけあれば十分です。
名物の餅でも食べて、この橋を眺めていれば、江戸時代の旅人気分になれそうです。




私は、JR鉄道がまだ昔の「国鉄」の頃、このあたりを電車に乗車して通った際に、大月駅で聞こえてきた、「笹子餅(ささごもち)、いかがですか~」という物売りさんの声を忘れられません。
谷あいのせいなのか、昼間でも薄暗い駅の景色の中で響いていた、心地よい、物売り声の思い出です。

私の遠い記憶の中の音色ですが、この呼び声は、まだ残っているのでしょうか?
また聞いて、そして食してみたい「笹子餅」です。

きっと江戸時代の旅人たちも、私と同じ思いだったと思います。

* * *

今、甲州(山梨県)のお土産として、「信玄餅(しんげんもち)」は大メジャーですね。
東京の百貨店で、いつでも買えます。

私も、甲府にある生産工場の見学までしました。誰でも見学できます。
とても面白かったですし、甲府に行くたびに、また行きたくなります。
本当に、こんなにぜいたくなお餅を、武田信玄は食べていたのでしょうか。

* * *

江戸までもう少しという距離の、山梨県の甲州街道、静岡県や神奈川県の東海道には、名物のお餅や、まんじゅうなどが盛りだくさんです。
昔の街道と名物は切り離せません。
静岡がらみでは、「安倍川餅(あべかわもち)」や「今川焼き」なんてのもありますよね。

「きなこ」を砂金に見立てて、家康さまを喜ばすとは、なんとも素晴らしい忖度(そんたく)の「安倍川餅」です。

「今川焼き」は「大判焼き」などとも呼びますよね。
実は、これは本当は、江戸の神田の今川橋近くで商売していた今川さんが、生み出したお菓子です。
でも、静岡県の戦国大名の今川家の名前と組み合わせて宣伝し、大ヒットし、日本じゅうに広まりました。

「桶狭間(おけはざま)でも、お侍がみんな食ってた、今川焼き」とか物売りたちが言いそうです。
そういえば、その今川家は、静岡を出て、江戸の品川で高家品川家(こうけしながわけ)となって、江戸幕府の儀式などの文化部門をずっと支えていました。
高家品川家の皆さん、「今川」の名が残ってうれしかったかも…。
きっとお客さんが来たら、出していたでしょうね… 今川焼き。

江戸時代の旅人も、現代人も、それほど違わないものを食べて喜んでいたのですね。

人々が、時間をかけて、ゆっくり旅をすると、こうした名物にも出会えますし、新しい名物も生まれてくるものですね。
現代の旅は、最終目的地に早く移動しすぎなのかもしれません。
駅伝のように、ひと駅ずつ、つながっていません。

次の宿場まで、この餅で、もたせよう…。
次の宿場には、こことは違う、あの名物があるそうだよ…。
名物は、宿場ではなく、「街道」の中から生まれてきたのですね。


◇坂だらけ…

さて、内藤新宿を出発して、すぐに神田川があり、そこに「姿見ずの橋(淀橋)」が架かっていました。

今は、この橋を渡って向かったすぐ先が、「中野坂上(なかのさかうえ)」という場所です。

青梅街道を、新宿から中野方面に向かうと、急激に坂を下りていきます。
そして、その坂のもっとも底の場所に神田川が流れています。
神田川に架かる「淀橋」を渡ると、また中野坂上に向かって急激に坂を上っていくのです。
江戸時代も今も、その地形はあまり変わっていません。
この地形からすると、大昔は、相当に氾濫を繰り返した大きな川だったようにも感じます。

* * *

東京という街は、実は坂だらけです。
城下町というと平坦な土地をイメージしますが、東京はまったく違います。
とにかく武蔵野台地を、それはたくさんの数の川が長い年月をかけ、削りまくりました。
人が暮らし始める前は、おそらく氾濫だらけだったと思います。

ですから今でも、川の流れの周辺は坂だらけです。
多摩川流域は、恐ろしいほどの崖の連続です。

江戸幕府は、江戸の中心部にあった山や丘を削って、干拓に使っていきましたので、かつての山は平坦になっています。
ですが、川の周辺は、相変わらず坂です。

皇居南東部や下町方面は、ほぼ海で平らな湿地帯でしたので、その辺りは今でも平らです。
とにかく東京の山の手の地域は、坂だらけで、でこぼこなのです。

街の近代化と、自動車や電車で移動する慣習が、そのことを忘れさせているだけかもしれません。

* * *

乃木坂(のぎざか)、欅坂(けやきざか)…。
今の芸能界も、東京にある「坂」だらけ…。

実は、東京は、「坂上(さかうえ)」、「坂下(さかした)」だらけでもあります。

東京の武道館や靖国神社には、「九段坂(くだんざか)」があります。
坂に、九段の段差をつけて、休みながら登らなけらばならないほどの坂でした。
特に、馬や馬車、荷車などが、たいへんだったのでしょうね。
この坂の頂上には、海上の船から見るための灯台がわりの「常夜灯(じょうやとう)」が史跡として残っています。
それほどの坂でした。

今でも、この坂でボールでも落とそうものなら、まず拾えません。
クルマのアクセルも、結構 踏み込みます。

待ち合わせでも、坂の上なのか下なのかで、まったく違います。
だからこそ、「坂上」、「坂下」の地名が必要なのです。

地方から東京に遊びに来て、「坂」の地名を見たら、覚悟が必要ですね。
上りも、下りもある、ジェットコースターのような街です。

アイドルたちも、そういうことだったのか…?

* * *

江戸時代、「だらけ」だったのは、「坂」だけではありません。

いよいよ、坂から転げ落ちて、今回のコラムのテーマである、深い「よどみ」に足を踏み入れたいと思います。
そこは、「よどみ」だらけ…。

それでは次回に。


2019.9.12 jiho
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