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神話のお話し・前編 / 日本のはじまり

【概要】因幡の白うさぎ。古事記と神話。八の不思議。古代の世界観。三種の神器の誕生。黄泉の国。天照大神(アマテラスオオカミ)と大国主神(オオクニヌシノカミ)。天の岩戸と八百万神。イザナギとイザナミ。スサノオとヤマタノオロチ。

今回と次回の2回にわたり、日本の神話のこと、日本のはじまりのことについて、書いていきたいと思います。
前回コラム「一位は鳥取県/あこがれの鳥取砂丘」で、鳥取県の一位選出、鳥取砂丘のことなどを書きましたが、今回と次回でも、山陰地方の魅力の一端を、少し書きたいと思います。


◇「因幡の白うさぎ」は、古事記のなかに…

今や「恋人の聖地」と呼ばれるようになった、鳥取市の「白兎海岸(はくとかいがん)」です。
「白兎」とは、「白色のうさぎ」のことです。あの両耳が長く、ピョンピョン跳ねる「うさぎ」のことです。

白いうさぎの海岸?
そうです。神話「因幡(いなば)の白うさぎ」の海岸です。

* * *

鳥取県や島根県の方々には信じられないことかもしれませんが、今や、日本の他の地方では、このお話しの認知度がかなり低くなっています。
昭和生まれの方々でしたら、断片的な認知ではあっても、ほとんどの方が知っている神話の名称ですよね。

でも、名称は知っていても、「最後にうさぎがサメ(ワニ)に食べられて終わり」というように記憶している人も多くいます。
もしかしたら、そうした現代訳の絵本もあったのかもしれません。
それでは、このお話しはまったく意味を持ちません。

現代の子供たちが、どの程度知っているのか?
悲しい現実がそこにはあります。
「因幡の白うさぎ」を知らない子供たちが、どうして「だいこくさま」のことを知ることができるでしょうか。まして「小泉八雲」のことも。
「ゲゲゲの鬼太郎」を知ってくれているのは、せめてもの救いですが…。

* * *

皆さん、「因幡の白うさぎ」の神話をきちんと覚えていますか。
子供の頃に、幼稚園の「読み聞かせ」で聞いたかもしれない、絵本で読んだかもしれない、など、はっきりと覚えてはいないが、何となく記憶の端っこに残っているという方も多いと思います。

近年は、日本の古い神話や昔話を、残酷な場面があるからと、子供たちに読み聞かせしないと聞いたことがあります。
たしかに、昔話によっては、少し控えたほうがよいと思われる話しもあります。
ですが、十把一絡げ(じっぱひとからげ)に、全部 無くしていいものでもありません。
人は、広島の原爆ドームを目にできるからこそ、その恐ろしさを実感できます。
時には、目をそらしてはいけないこともあるような気がします。

* * *

さて、この「因幡の白うさぎ」の神話ですが、これは、あの「古事記」に残されている神話です。
古事記は700年代の奈良時代にまとめられた歴史書で、史実と、いわゆる神話が混在したもので、かなり簡略化した表現で書かれています。

昭和生まれの方々が知っている「因幡の白うさぎ」は、現代風に、かつ物語風に訳されたものです。
ですから訳によって若干の内容の違いがあります。
本来の名称は「稲羽之素兎」です。
細かい部分の違いはともかく、非常に簡単ではありますが、大筋をご紹介したいと思います。


◇「因幡の白うさぎ」の冒頭

出雲の国(今の島根県出雲市)の神様のある団体一行が、因幡の国(今の鳥取県鳥取市周辺)にいる女神「ヤガミヒメ(八上比売)」に会いに行くために出発します。

その団体一行の大きな荷物の袋を担がされたせいで、ひとりだけ、一行から遅れて歩いているのが、このお話しのもうひとりの主人公「だいこくさま」です。

この「だいこくさま」こそが、後の「オオクニヌシノカミ(大国主神)」です。
「オオクニヌシノミコト(大国主命)」ともいわれています。

* * *

「だいこくさま」とはいっても、あの七福神の「大黒様」とはまったく別の神様です。

「大国」と「大黒」が両者とも「だいこく」と音読されるだけでなく、大きな袋を背中に担いでるので、どうしても混同されてしまいますね。
「大黒様」は農業や財の神様で、「大黒柱」という言葉はここからきています。

ちなみに、七福神の中に、もうひとり、大きな袋を持っている「布袋様(ほていさま)」という笑顔のでっぷりお腹の神様がいます。これも別の神様です。
布袋様のあの袋が「堪忍袋(かんにんぶくろ)」といわれるもので、中にはお宝がいっぱい。
七福神の中で唯一、実在のモデルがわかっている神様です。
中国の僧侶だそうです。
「堪忍袋の緒が切れる」とよく言いますが、ある意味、深いところでつながっている深層心理ですね。
お宝も忍耐も、どちらも我慢 我慢…。

* * *

この神様の団体一行とは、「オオクニヌシノカミ」とその兄たちのことです。
オオクニヌシは八十一人兄弟の末っ子なのです。
八十人の上の兄は「八十神(やそがみ)」と呼ばれています。


◇「八」の不思議

後のために、ここでちょっとだけ脱線して、説明を書きますね。
神話や昔話の中では、ひんぱんに「八」とう文字が登場してきます。
これは現代のように「8」という数を意味するものではありません。
例外もありますが、基本的には異なります。

現代は0から9までの10種類の数を使う十進法が世界で採用されていますので、感覚が少し異なります。
数の最大値は、時代や地域によって異なりますので、「3」までしかない地域であれば「三」は最大値を意味します。「7」であれば「七」が最大値を意味します。
「8」までであれば、それが最大値であり、無限大を意味し、宗教的な聖数を意味します。
ですから、数としての8つではなく、数がかなり多いこと、無限大、偉大なことなどを意味していると思ってください。

* * *

神話の中の「八十神(やそがみ)」とは、「80人の兄たちの神様」ではなく、意味は「たくさんの数の兄たちの神様」となります。

今でも、「千代に八千代(やちよ)に…」、「八百万神(やおよろずのかみ)」、「八百屋さん」、「八重子さん」、「八雲」、「江戸八百八町」、「口八丁手八丁」、「ウソ八百」、「八ヶ岳」なんて山もあります。
「モンゴル800」はわかりません。
みな「8」という数に意味はありませんね。

* * *

今でも、数と意味が混ざり合った「三大○○」、「四天王」、「七不思議」などの表現がありますが、その名残りです。
数と偉大さの両方を意味しています。
古代から受け継がれる人間の言葉の文化の不思議さの一端ですね。

ちなみに「八は末広がりで、縁起がいい…」の話しは、後世の人の後付けで、だじゃれ みたいなものです。
でも、これも民族の言葉の文化ですね。
国によって、さまざまにありますから、注意したいものです。

日本の神話の中で、「八」の文字が出てきたら、それは数としての意味ではなく、多いとか、偉大とか、無限大とかを意味するものと思って読んでください。
「九」の不思議は、また機会がありましたら…。


◇古代の世界観

神話を理解するには、その世界観と人間関係を、ある程度知っておかないと、よくわからなくなってしまいます。
名前も難しいものばかりですね。
私は国学や神道の研究者ではありませんので、不十分な部分もあるかもしれませんが、ここで本当に簡単に、少しだけ説明しておきます。

* * *

当時の世界観は、垂直構造になっており、最上部には、神様のいる天上界の「高天原(たかまがはら)」、その下に人間が生きている「中つ国(なかつくに)」、死者がいる地下の「黄泉の国(よみのくに)」で構成されていました。

「葦原中つ国(あしはらのなかつくに)」と言う場合は、日本の国土のことをさします。

ちなみに、山陽・山陰地域の「中国地方」の「中国」は、この「中つ国」のことではありません。
畿内にあった古代ヤマト王権からみて、距離を意味する「近国」、「中国」、「遠国」という区分の言い方からきています。
今でも、「近畿」、「近江(滋賀県)」、「遠江(静岡県)」などの名称に残っています。

古い地域名には、それぞれの漢字にしっかり意味と歴史があり、とても興味深いですね。
安易に変更していいものではないと思います。

* * *

さて、神様は、そのチカラと徳、条件により、三つのそれぞれの世界を行ったり来たりできるのです。

「因幡の白うさぎ」に登場する「だいこくさま」は、「オオクニヌシノカミ(以下オオクニヌシと記述)」という名前になる前は、「オオナムチ」という名前でした。

実は、前述の他の兄たちとは、後に壮絶な戦いが繰り広げられることになります。
オオナムチは、実は二度死んだと書かれています。
ようするに、「黄泉の国」と他の国を行ったり来たりしたのです。
それぞれの世界で結婚までしています。

* * *

後で書きますが、「古事記」は、神話という架空のお話しのように書かれていますが、実は、史実をきれいなベールで包んで巧妙に表現された歴史物語と解釈できなくもありません。
科学技術が存在する現代ですから不思議さを感じますが、当時の人々であれば、説得力抜群の物語であったことでしょう。

オオクニヌシの「二度の生き返り」が何を意味しているのか、文字づらだけで判断するのは危険です。

後述しますが、古事記は、邪馬台国や出雲大社、畿内の古代ヤマト王権など、断片的に判明している史実と符合している部分もたくさんあります。
神話を、ただの絵空事と判断するのは危険ではないかと思います。
個人的には、史実が巧みに隠されていると考えたいと思っています。


◇アマテラスオオカミ

さて、前述の、天上界の「高天原」には、あの「アマテラスオオカミ(天照大神)」がおられます。
「アマテラスオオミカミ(天照大御神)」ともいわれます。

現代でも、日本国民の総氏神様として鎮座されていますね。
あなたのお宅の神棚にも御札(おふだ)がありませんか。

* * *

「アマテラスオオカミ(以下アマテラスと記述)」は、女神様といわれていますが、高天原の神様の中の神様として君臨している最上の御方です。
神話の中で幾度も登場する神様ですが、ものすごい長生きなのか、何度も生まれかわったのか、三つの世界を行き来していたのか、それはわかりません。

あるいは、現代の歌舞伎役者や落語家の名前にもよくある「何代目○○」のように、特定の名前を世襲するといったことがあったかもしれません。
有能な者だけが、その名前を受け継いだかもしれませんし、あるいは年月や時間という概念が必要ないほどの絶対的な存在であったのかもしれません。
現代の日本でも、アマテラスは、偉大な名前であり、絶対的な存在であることは確かです。


◇「イザナギ」と「イザナミ」

ここで、アマテラスのお父さんとお母さんの二人の神様のことを少し書きます。

父が「イザナギノミコト(以下イザナギと記述)」で、母が「イザナミノミコト(以下イザナミと記述)」です。
もちろん夫婦の神様です。

多くの方々にわかるように、かなり現代風に通俗的に書きますのでご容赦ください。
お二人より以前の神様のお話しは割愛します。

* * *

この夫婦の神様が、まず淡路、四国、九州、隠岐、壱岐、対馬、佐渡、本州の島を生みます。
このあと、たくさんの島を生んでいきます。

神様ですから、そこは、島(大地)を生むのです。

そのうち、火傷(やけど)がもとで、婦人のイザナミが亡くなり、死者の国「黄泉の国」に行ってしまいます。
実は、イザナミは神様なのに、「黄泉の国」から他の世界に戻ることができなくなります。

夫のイザナギは、黄泉の国に、亡き婦人に会いにいきますが、壮絶な夫婦の争いが勃発してしまいます。
詳細は割愛しますが、イザナギはやっとの思いで、地上の「中つ国」に戻ってきます。
「黄泉の国から戻ってくる」…これが「よみがえる」の言葉の起源です。

* * *

イザナギは、黄泉の国を脱出した後、きれいな水で禊ぎ(みそぎ)を行います。
イザナギが禊ぎを行った場所は、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐が原」と書かれています。

これは「中つ国」のある場所です。いったいどこの場所でしょうか。
今の宮崎県宮崎市がかなり有力と言われていますね。

その後、イザナギの子供として、たくさんの神様が生まれてきます。
イザナギの身体の一部が神様になって生まれてくるという表現です。

ようするに母親は特定されていません。あるいは隠されたかもしれません。

そして、最後に生まれてきた三人の神様が、「アマテラスオオカミ」、「スサノオノミコト」、「ツキヨミノミコト」です。
日本神話の中で、最重要な神様の中の三神です。

* * *

「アマテラスオオカミ」には「天」を、「スサノオノミコト(以下スサノオと記述)」には「海」を、「ツキヨミノミコト」には「夜」をおさめさせます。

イザナギとイザナミのあいだに生れた、たくさんの神様たちと、イザナギの身体の一部から生まれた神様たちによって、世界はおさめられることになります。
神様によって、それぞれ役割が分かれているのです。
今でも、日本各地にある有名な神社で、それぞれの神様を祀っていますね。


◇「天の岩戸」と「八百万神」

アマテラスの弟のスサノオは、いたずら好きで乱暴者であったため、怒った父のイザナギは、スサノオを追放します。

スサノオは、姉のアマテラスを頼っていきます。
最初、アマテラスは弟をかばってあげますが、そのうちにスサノオの乱暴癖がまた始まります。

このときにアマテラスが隠れたのが高天原の「天の岩戸(あまのいわと)」です。

岩の扉でふさいだ暗い洞窟のようなイメージです。
洞窟と表現するのは違うのかもしれません。
いずれにしても暗い暗い世界です。

天上界のお話しですので、特定の場所にあまり意味はないかもしれませんが、その場所は、九州説や畿内説など、日本各地にあります。
実在した邪馬台国の場所論争とあわせて、現代でも論争は絶えませんね。

* * *

お隠れになったアマテラスをめぐって、日本各地にいる大勢の神様たちが「天安の河原(あめのやすのかわら)」に集まってきて相談会議を行います。

ここで「八百万神(やおよろずのかみ)」の文言が初めて登場します。
前述の「八」の説明のとおり、「たくさんの数の神様たち」という意味です。

大勢の神様たちの説得によって、アマテラスは隠れている場所から出てくるのです。

この説得の中で、頭のよい神様、踊りが上手な神様、チカラ持ちの神様、ニワトリなど有名なキャラクターが登場してきます。
このときに、三種の神器の「鏡」と「勾玉(曲玉)」が作られるのです。

アマテラスが、隠れていた場所から出てきて、高天原に平和と明るさがおとずれるのです。

* * *

このページの冒頭の写真は、九州の霧島山の高千穂の峰々です。
皆さんご存じのように、九州は火山だらけの島で、今でも噴火を繰り返す大火山がたくさんあります。

阿蘇、九重、霧島、桜島、雲仙、由布岳…。
阿蘇は世界最大級です。
まさに九州は、ひとかたまりの「火の国」なのです。

たしかに、大きくクチを開けた火口は、死者が住む地下世界「黄泉の国」への入り口のような恐ろしさを感じますね。
九州には、こんな出入口がそこらじゅうにあるのです。


◇出雲の国のスサノオ

さて、アマテラスが戻った後、乱暴なスサノオは、またも追放され、出雲の国(今の島根県出雲市)にやってきます。

当時、出雲の国には、「ヤマタノオロチ(八俣の大蛇)」という八つの頭を持つ怪物がいて、みな困っていました。詳細は割愛します。

そこは、腕に覚えのあるスサノオです。
怪物に酒を飲ませて、みごとに退治します。

この怪物の体内から出てきた剣が、後に「草なぎの剣」と呼ばれるようになります。
スサノオは、アマテラスにこの剣を献上するのです。

「草なぎの剣」は、後に、ヤマトタケルの東方征伐や、源平合戦でも登場するあの剣で、三種の神器のひとつとなります。

* * *

令和の御代になる際に、テレビで、箱に入った三種の神器の映像を見た方も多いと思います。
皇位継承に必ず必要な大切なものですが、くわしく知りたい方は、どうぞネット検索してみてください。

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さて、スサノオは結婚し、この出雲の国に住もうと、住まいを建てることにします。
これが後の「出雲大社」への始まりです。

スサノオが詠んだ日本最初の有名な和歌が伝えられています。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻隠みに 八重垣作る その八重垣を」。

文字通りの単純な意味は、「幾重にも雲が重なる出雲の地に、妻を住まわせるための住まいを建てる、垣根をしっかり立てて…」といったところでしょうか。

「八重垣」という文言から、かなり厳重な防衛をほどこした壮大な宮殿と解釈する学者さんもいるようです。
例の「八」の文字も、たくさん使われていますね。

* * *

紆余曲折の後に、この住まいは宮殿となり「出雲大社」となっていくのです。
出雲大社は、今でこそ建物の高さはそれほどではありませんが、古代には、奈良の東大寺級の規模で、超高層建築であったことは判明しています。

このスサノオの子孫こそが、「因幡の白うさぎ」の主役の「オオクニヌシノカミ」なのです。
やっとオオクニヌシが登場してきました。


◇神話は架空のお話し?

ここまでの神話を、架空の物語と考えるのか、史実に限りなく近い物語と考えるのかは自由です。

イザナミが火傷がもとで死ぬとは、何を意味しているのでしょうか?
イザナミは、どうして「黄泉の国」から戻れないというストーリーなのでしょうか?
アマテラスは、イザナギの子供ではありますが、イザナミの生んだ子供ではないという事実は、何を意味しているのでしょうか?
そのときの一族にしかわからないことですね。
何か妙な、生々しいリアリティ(真実・現実・事実・本質)を感じます。

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「隠れる」、「かばう」などのアマテラスの一連の行動や寛容な姿勢をみると、「乱暴な弟に苦労するやさしい姉」のような姿を想像してしまいます。
それに、あの鏡と勾玉(まがたま)… 現代でも、それは女性の必需品といっていいかもしれません。
「草なぎの剣」は、あくまで弟から献上された品物で、チカラの象徴でもあります。
三種の神器(鏡・玉・剣)は、こうして誕生しました。

* * *

「神様が島を生んだ」とは、支配地域の拡大とも考えられます。

イザナミの火傷と、「火の国」九州とは、何か関係があるのでしょうか?
かつての婦人イザナミを、あそこまで悪く表現する必要性があったのでしょうか?

夫婦喧嘩のすさまじい会話も、神様が集まって相談・説得するというくだりも、妙に人間味が感じられるお話しです。

* * *

「アマテラス(姉)」と「スサノオ(弟)」の関係は、一族内での権力闘争とも考えられます。

「ヤマタノオロチ(八俣の大蛇)」とは、乱棒狼ぜきの複数の地方豪族たちのことかもしれません。
ここにも「八」の文字が入っていますね。

「ヤマタノオロチ」に酒を飲ませるとか、残酷なシーンも妙にリアルです。
もともと「ヤマタノオロチ」が体内に所持していた剣(草なぎの剣)は、スサノオの剣が対決で折れたほどの立派な剣で、敵が持つ、この世で最強の剣だったとも考えられます。

今の島根県や鳥取県は、古代から「鉄」の先進地域で、古事記編纂の頃にはすでに、日本独自の製鉄法「たたら製鉄」のことが登場しています。
「草なぎの剣」が誕生したのも、おそらくこの製鉄技術があってこそだとも感じます。

* * *

「鏡」は、暗い洞窟(世界)に太陽光を反射させて照らし入れるのに、うってつけの道具でもあります。

「何度もよみがえる」という表現も、後の戦国時代の武将たちでさえ、「私は誰々の生まれかわり」だの、「神の化身」だのと、本気で語っています。

神話は、まったくの架空なのか…、それとも事実をもとにつくられた物語だったのか…、よくはわかっていません。

* * *

いずれにしても、この垂直構造の三つの世界観〔神様のいる天上界の「高天原(たかまがはら)」、人間が生きている「中つ国(なかつくに)」、死者がいる地下の「黄泉の国(よみのくに)」〕は、ひょっとしたら現代にも引き継がれているような思想ですね。

神話は架空のようにも感じますが、支配地域の拡大、一族の権力闘争、各地の有力者の関係性、戦争の記録ととらえれば、その後の日本の歴史と、そう変わりはありません。
もし、史実に基づいている、あるいはモデルになった歴史があるのであれば、まさに大河ドラマのようなものですね。

とはいえ、私は、神話のままにとどめておくことも、大切な意味のあることだと思っています。

不安定な決着をつけるよりも、両者で勝手に言いあっているくらいでおさめておくほうが、平和で経済的ともいえますね。
古代から二千年以上、日本人が、そうしてきたように…。

もう一度言います。
ここまでのお話しは、人間ではなく、神様の歴史のお話しです。


◇「アマテラス」と「オオクニヌシ」

やっとここで「オオクニヌシノカミ(大国主神)」の名前が登場しましたので、「因幡の白うさぎ」の話しに戻りたいと思いますが、もうすでに話しが長くなりました。

次回のコラムでこの続きを書きたいと思います。

アマテラス、その弟のスサノオ、スサノオの子孫のオオクニヌシの関係性を、よく覚えておいてください。
アマテラスと、オオクニヌシは、もとは同じ神様一族であって、まったく別の一族の者ではないのです。

* * *

「因幡の白うさぎ」の物語は、オオクニヌシの人柄(神柄?)を表現するのと同時に、その後の兄たちとの関係を暗示させるお話しでもあります。
その後の、アマテラスとオオクニヌシの関係と、オオクニヌシのやさしい人柄と行動こそが、その後の日本の基本構造を決めたといってもいいかもしれません。
どうして古事記に「因幡の白うさぎ」のお話しが、わざわざ残されたのか?

「うさぎは最後にサメに食べられたとさ…」などと、簡単にかたづけられてしまうようなお話しではありませんね。
次回のコラムで続きを書きます。


◇神話は宝もの

「平成から令和へ / 元号って?」の回で、「元号」の始まりと、「天皇」という称号は、645年の「大化の改新」から始まったと書きましたが、実は天皇家の歴史は、それよりもさらに千年近く前から始まっていたのです。

いわゆるファラオが支配した古代エジプト王朝は、紀元前3000年頃から始まり、クレオパトラ母子の死とともに消滅します。
約三千年の歴史で終焉したわけです。

アマテラスの子孫の天皇家は、エジプトよりも時代が遅れて始まりましたが、それに匹敵する歴史の長さになりましたね。
今現在も継続中です。
ちょっと身震いしそうな話しです。

不思議な部分をたくさん秘めた日本の神話ですが、大切にしたい日本の宝のように思います。
それでは次回で…。

白うさぎちゃん…出番まで、もうちょっと待っててね。

* * *

コラム「神話のお話し・後編」につづく。

2019.5.25 天乃みそ汁
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