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みゆきの道(3)
御蔵と御浜 / 芝・三田.1

【概要】西郷隆盛と勝海舟の会談。薩摩藩上屋敷と蔵屋敷。落語の芝浜。NECスーパータワー。芝さつまの道。御穂鹿嶋神社・藤原藤房。妙定院の土蔵。


コラム「みゆきの道(2)薩摩どん」では、東京の三田・芝・高輪あたりの大名屋敷のことを書きました。
薩摩藩島津家の強大な「薩摩パワー」をご紹介しましたが、今回と次回のコラムは、この芝・三田地域の現在の様子を写真でご紹介します。

コラム「みゆきの道(2)薩摩どん」の中で使用した地図の一部を下に拡大しました。
黒色の点線部分を今回歩いて、写真を撮ってきました。


全行程約4キロメートル、撮影しながら、案内板の説明を読み、ゆっくり歩いて3時間ほどかかりました。
地下鉄「赤羽橋」駅からスタートし、一周し、赤羽橋駅に戻るコースです。
途中、旅行会社の歴史散策ツアーらしき中高年グループ10数名とすれ違いました。
ガイドさんは、いったいどんな話しをしているのでしょうか?

* * *

黄色の江戸時代の大名屋敷地域の北部の一角で、江戸時代は薩摩藩島津家・久留米藩有馬家などの屋敷があり、今は、慶応大学、NECスーパータワー、綱町(つなまち)三井倶楽部などの建物があります。

①が、薩摩藩の上屋敷で、江戸幕府が焼き討ちをした屋敷です。
②が、薩摩藩の蔵屋敷で、西郷隆盛と勝海舟が、二回目の会談を行った場所です。
⑧が、有馬家の上屋敷だった場所です。

大名屋敷地域の中部である高輪や泉岳寺、南部の御殿山あたりは、あらためてご紹介します。

さあ、芝・三田地域の、江戸時代や幕末の記憶を探しに、歩いてみたいと思います。


◇赤羽橋

江戸時代の歌川広重をはじめ、多くの絵に描かれている「赤羽橋」は現在もあります。
今の渋谷川に架かる橋です。
渋谷川は、江戸時代には、新堀川、金杉川とも呼ばれており、特に渋谷川下流域のこの地域では「古川」とも呼ばれていたようです。
赤羽橋近くには「新堀橋」という小さな橋もあります。
浅草にあった新堀川とは別の川です。

赤羽橋は、周辺の大名14家が当番制で維持管理を行っていたそうです。
この赤羽橋の北側には、「中の橋」という橋があり、この両者の橋の間の河岸で、魚の行商人たちが商売をしており、「ちょろ河岸」と呼ばれていたそうです。

後で、落語の「芝浜」のことを書きますが、主人公の魚屋さんが商売をしにやって来たのは、この場所のことかもしれません。

赤羽橋から見える東京タワーと増上寺の森(右端)です。

クルマで通過すると、そこが橋であることも気がつかないかもしれません。
赤羽橋の上には、首都高速道路が渋谷川に沿ってつくられています。


◇妙定院

赤羽橋のすぐ近くに、江戸時代を思い起こさせるような壁が見えます。
「妙定院(みょうじょういん)」です。

妙定院のサイト

上記サイトに、妙定院、増上寺五重塔、赤羽橋が一緒に描かれた、江戸時代の絵が紹介されています。
渋谷川の上流(北側)から描いた絵です。

妙定院には、文化財である土蔵が二棟残されています。

このあたりの大きな大名屋敷の周囲は、低い塀ではなく、江戸時代のこうした二階建てくらいの高さの土蔵のような建物で囲まれていました。
ですから、そうそう、人が残り越えて屋敷の敷地に入れるようなものではなかったはずです。

妙定院サイトでは、蔵の内部の写真が紹介されています。
後で、薩摩藩の蔵屋敷での、西郷隆盛と勝海舟の会談のことを書きますが、この会談の部屋は、もしかしたら、こうした内部の板の間だったのかもしれません。

東京タワーのすぐ隣に、こんな静かな江戸時代のような落ち着いた空間が残っているとは、たいへん素晴らしいことですね。
増上寺や東京タワーの喧騒に疲れたら、どうぞ足をお運びください。



◇三田地域

赤羽橋を渡って、桜田通りから、かつての有馬家屋敷の方面を眺めた写真です。
奥にある高層ビルが、かつて有馬屋敷にあった高層の「火の見やぐら」を思い起させますね。
有馬家のお話しは、次々回のコラムでご紹介します。


桜田通りからは、東京タワーが、ずっと見え続けます。
おそらく、東京タワーの位置は計算して建てられたと思います。



◇芝さつまの道

しばらく歩き、「NECスーパータワー」の超高層ビルを目指して、左に折れると、そこには「芝さつまの道」があらわれます。
ここは、薩摩藩の上屋敷があった場所です。

屋敷の敷地の説明を書いた「芝さつまの道」という案内板が設置されています。
ここには、実際に、道のような遺構がつくられているわけではありません。
薩摩藩が目指した「明治維新への道」をあらわしているのかもしれません。




この噴水…、私には桜島に見えてしまいます。

* * *

薩摩藩上屋敷は、1868年に、江戸幕府によって焼き討ちされた屋敷です。

幕末に、江戸幕府側が、先手を打って「大政奉還」をしたため、薩摩藩は江戸幕府総攻撃の大義名分を失ってしまいます。

西郷隆盛は、江戸幕府を武力攻撃し、滅亡させることに強い執念を持っていました。
薩摩藩は、江戸幕府攻撃の口実をつくるため、尊王攘夷思想の「浪士組」を使い、あの手この手で、徳川将軍家側(幕府)を挑発します。

そんな中、前述の「赤羽橋」あたりで、浪士組の清河八郎が、幕府の刺客に討たれます。

薩摩藩に敵意を持つ諸藩にも、薩摩藩はあえて挑発を続けます。
幕府は仕方なく、そうした諸藩を中心に、浪士組の拠点である薩摩藩の上屋敷に討伐軍を送り襲撃してしまいます。
井伊直弼が生きていたら、絶対に、そんな挑発に乗らなかったでしょう。

* * *

大政奉還後のちょうどその頃、京都から大坂に退いていた、幕府軍や会津藩らは、この焼き討ち事件をきっかけに、一気に薩摩藩との戦いに突き進みはじめます。
この後、「鳥羽伏見の戦い」という「戊辰戦争」のきっかけが起こります。

こうした薩摩藩の挑発に乗らなかったら、明治政府の中に徳川将軍家がしっかり入っていたのかもしれません。
徳川慶喜の怒りは、薩摩藩へのものよりも、江戸幕府側の過激な諸藩へのもののほうが、大きかったのかもしれませんね。

幕府側は、この薩摩藩上屋敷の襲撃事件を、諸藩だけの責任にしようとしますが、すでに状況は、幕府対薩長の戦いの方向に一気に進んでしまいます。

西郷隆盛は、薩長を「官軍」にして、徳川将軍家を「賊軍」にして、完全に討伐する計画を突き進めます。
西郷隆盛の政治家としての力量が、しっかりわかる部分ですね。
この頃の隆盛は、まるで徳川家康のようです。

尾張徳川家と福井藩越前松平家は、薩長側につき、江戸総攻撃の後方支援を行います。
もはや、徳川将軍家だけで徳川家一族をまとめることは、完全にできなくなってしまいます。
京都から江戸までの地域の多くの武家も、尾張徳川家がついた官軍に従っていきます。

そして薩長の官軍は、江戸近くまで、あっという間に、やって来ることになります。
とはいえ、官軍には軍資金や物資がまったく不足していました。

西郷の「さつまの道」は、いよいよ江戸の直前までやって来ました。

* * *

この薩摩藩上屋敷焼き討ち事件で、薩摩藩上屋敷は焼失し、周辺の庶民からは「薩摩っ原(さつまっぱら)」と呼ばれたそうです。

薩摩藩には、おそらく想定内の出来事だったでしょう。
むしろ思惑どおりです。
上屋敷のひとつを失うことくらいは、徳川家から日本全体を奪うことに比べたら、小さなことだったでしょうね。

前述の噴水の水を見ていると、その強い思いが今でも噴き上がっているように感じてしまいます。
この形のモニュメントといい、「芝さつまの道」というネーミングといい、実に見事ですね。
現代がつくる歴史遺構の記念碑とは、こうありたいものです。


◇NEC スーパータワー

下の写真は、この「芝さつまの道」のお隣にある「NECスーパータワー」です。
この建物は1990年完成で、かつてのスペースシャトルのような形で、まさにバブル期の贅沢な建築物ですね。


私は、ビル完成の数年後の時期に、あるきっかけで、このビルの おそらく最上階にとおされましたが、そのすごさに圧倒されたことを憶えています。
まさに、その時代の経済界のトップの城が、ここなのだと感じました。
その時代、一部の業界で、「三田」といえば、このNECを意味していましたね。

本物のスペースシャトルは、もういません。
私にとっても思い出深いこの建物ですが、平成時代の遺構として、ずっと残っていってほしい建築物です。

* * *

上の写真の一番左側の、横から見たビル(どちらが正面かはわかりません)の真ん中あたりの四角の部分は、風が吹きぬけられるように巨大な穴が開いています。
近隣周辺へのビル風対策だと聞いていますが、バブル期は、「何でもいいから、お金をかけろ」という信じられない時代でしたね。
NEC日本電気の本社ですが、今は、業績不振により、野村不動産の所有です。

ちょうど この日、ビルのてっぺんでは、写真のような高所作業が行われていました。
まさか、2本のワイヤーだけとは…。

ビルの玄関前では、銀色に光り輝くモニュメントの改修?工事が行われていました。
このモニュメントは、その中心部を通り抜けられる構造で、その空間の形が、このスーパータワーと同じ形なのです。
ひょっとしたら、何か「門(ゲート)」をイメージしているのでしょうか。

薩摩藩屋敷の黒門は有名でしたが、薩摩パワーにあやかって、NEC日本電気は、新しい時代への門を、無事に通過できるでしょうか。
スーパーな時代を再び…。

よくよく、このスーパータワーを見ると、「蔵」のように見えないこともないですね。

* * *

このビルの敷地には、「薩摩屋敷跡」と書かれた碑が建っていますが、実はその大部分は、伊予松山藩松平隠岐守と祖を同じくする同族の松平伊勢守の屋敷などがあった場所です。
屋敷の主が、かなり入れ替わるので、誰の屋敷の跡とは表示し難かったかもしれません。
端っこスレスレで「薩摩屋敷跡」の碑を置いてしまったのかもしれません。

この碑には、「西郷吉之助 書」の文字がありますが、西郷隆盛(西郷吉之介・吉之助)とは別人です。子孫の方の書のようです。
スーパータワーのビル自体は、薩摩藩屋敷ではない屋敷の、おそらく大庭園の池があった場所ではないかと思います。

* * *

現代の石碑は、実際の場所から数十メートルほど離れていることが、よくあります。
都市化の波の中にある現代なら、数十メートルは誤差の範囲でしょう。

「薩摩屋敷跡」の碑も、前述の「芝さつまの道」の場所のすぐ近くですから、まあ、それほど目くじらを立てるほどの話しでもないかもしれません。
広大な薩摩藩の上屋敷です。下駄を勢いよく蹴り上げて届くほどの距離なんて、誤差の範囲ですね。
要は、江戸のこの地域であることが重要だと思います。


◇薩摩藩 蔵屋敷跡

NECスーパータワーを通り過ぎ、数分のところに、下の写真のような工事現場がありました。
ここは、三菱自動車の本社ビルがあった場所です。
三菱自動車本社は、近くの田町ステーションタワーに移転しました。

いつも ここを通り過ぎるとき、ビル一階の三菱自動車のショールームに、たくさんのクルマが並んでいる様子が見えました。
「パジェロ」などのSUV車が世界を席巻していたことを、よく憶えています。
都会の街中でも、パジェロの大きな姿をよく見かけましたね。

そういえば、NECのパソコンと、三菱自動車のパジェロの黄金期は、同じ時代だったような気がします。
「三田」の二大パワーが、世界で炸裂していましたね。

今、この場所では、超高層ビルが建設中です。
三菱系企業の拠点になるそうです。
「スーパータワー」が、もう一本できるのでしょうか。


実は、この場所も、薩摩藩とは切っても切れない場所です。
というより、江戸東京の運命を変えた場所かもしれません。

ここには、薩摩藩の「蔵屋敷(くらやしき)」がありました。
江戸時代の「蔵屋敷」というのは、それぞれの藩の米や特産品などを江戸に運び込み、蓄えたり、流通させたりするための倉庫兼事務所のような役割です。

下の地図のように、薩摩藩の蔵屋敷の敷地は、海に張り出していますね。
ほぼ小さな港のような形に見えます。
今のJR田町駅はすっぽり入っていますね。


昔の薩摩藩蔵屋敷の絵を見ますと、屋敷は陸側にあり、海側には広い空地と塀などがあります。

多くの船でやって来た物資をまずは陸揚げし、倉庫である蔵に置き、すぐ近くの上屋敷や、高輪方面の屋敷に運び込んだことでしょう。
これだけ屋敷間が近ければ、武器や闇物資、暗躍者の輸送もやりやすかったかもしれません。

実は、明治初期の第一京浜道路側の蔵屋敷の写真を見ると、おそらく黒一色の二階建ての土蔵?一部木造?に見えます。
ですから、本コラムの冒頭で紹介しました妙定院の蔵のような白色と黒色ではないような気がします。
蔵ですから窓は、ほぼありません。

暗闇での陸上の物資輸送はもちろん、人の出入りが、わかりにくい建物ですね。

要人の極秘会談の場所にはもってこいのような場所と建物に感じます。
両者が船でやってくることも可能ですね。
薩摩藩からしたら、上屋敷が焼失して、この場所を極秘会談に使うことを予期していたようにも感じてしまいます。

薩長の官軍による、江戸総攻撃について、薩摩藩代表の西郷隆盛と、江戸幕府代表の勝海舟による会談は、一度目は、ここから少し南にある高輪(たかなわ)の薩摩藩邸、そして二度目はこの蔵屋敷で行われました。

会談と「江戸無血開城」については、コラム「みゆきの道(2)薩摩どん」で書きました。

* * *

この蔵屋敷の場所には、下の写真の中の「全景」の石碑が、本来建っていました。
ですが、前述のとおり工事中ですので、今は保管状態にあるようです。
石碑には、「田町薩摩邸」と書かれていますね。

超高層ビル完成後に、この場所に、再び設置されるものと思います。
個人的には、蔵屋敷の外観を一部でも再建してほしいですが…。




◇御穂鹿嶋神社

上の地図の薩摩藩蔵屋敷の隣に「鹿島神社」と書かれた場所がありますが、この神社は今も、「御穂鹿嶋神社(みほかしまじんじゃ)」として同じ場所に残っています。
「御穂神社」と「鹿嶋神社」がひとつのお社となり、祀られているのです。

お名前に「穂」の文字を持つ方々…、ぜひ一度…。
「ho」の文字を持つ小生もお参りしました。

古い絵では、「鹿嶋神社」がこの場所に、少し陸側の奥に「御穂神社」が描かれています。
御穂神社は室町時代後期、鹿嶋神社は江戸時代の創建です。


「御穂神社」の御祭神は、藤原藤房(ふじわらのふじふさ)です。
藤原藤房は、後醍醐天皇の側近として、鎌倉幕府の倒幕に尽力した公卿です。
藤原藤房は、天皇家に忠臣した人物として知られています。

ある時期に消息不明になりますが、この芝の地に庵(いおり)をつくり暮らしたという伝説が残っており、地元の人たちは、彼の死後、多くの人に慕われた彼を祀って、その庵の場所に神社を建てたというお話しが残っているそうです。

さらに、今の静岡県の三保地域の漁民がこの地に移り住んでいたため、静岡の「御穂神社」を勧請したということだったそうです。
藤原藤房を御祭神とする「御穂神社」は、こうしてできたと、いわれているようです。

薩摩藩蔵屋敷のすぐ近くに、藤原藤房を祀った「御穂神社」があったとは、まさに、徳川幕府を倒し、天皇中心の国家をつくる薩摩藩の宿命のように感じてしまいます。

* * *

「鹿嶋神社」は、皆さまよくご存じの常陸国(今の茨城県鹿嶋市)の鹿島神宮のことです。
江戸時代に、常陸国の鹿島神宮の社殿が、この芝の浜に流れ着いたそうです。
台風や洪水、地震などで太平洋岸に流出し、江戸湾を流れ、この地までやって来たのでしょうか。

常陸国の人々がやって来て、この社殿を船で引っ張って帰ろうとしましたが、途中でまた流出し、この地に戻って来たそうです。
神様のお告げと考え、この地にお社をつくりお祀りしたそうです。

2004年にこの二社を合祀し、2006年に新社殿「御穂鹿嶋神社」が造られました。



この「御穂鹿嶋神社」のすぐ目の前には、小さな公園があり、その向こうには、JRの各線路や、新幹線、モノレールを見ることができます。
モノレールと新幹線を、同時に写真撮影できる場所です。
この日、私も、10分間ほど ねばってみましたが、そのチャンスは来ませんでした。
待機時間が短すぎ…。

新幹線は、このあたりでは相当にゆっくり走行しますので、山手線の普通電車に追い抜かれる新幹線を見ることもできますよ。


◇芝浜

前述のこの付近の地図を見てください。
「芝浜」、「網干場(あみほしば)」、「物置場」の文字がありますね。

そうです。この地は、落語の演目で知られる「芝浜」の場所なのです。

下の写真の、この小さな公園が、かつての海岸線で砂浜だったということです。
前述の神社のお社は、この砂浜のすぐお隣にあったのです。

今の線路から海側は、江戸時代にすべて海の中でした。


御穂鹿嶋神社のすぐ横には、長い砂浜が広がっていました。

漁師が、網を干す場所や、漁の道具の物置があったのは、そのためです。
落語の演目「芝浜」に登場する魚屋の夫婦は、この芝浜の漁師であり魚屋なのです。

* * *

ここは、小さな「本芝公園」ですが、大学の落研の学生や、落語家を目指す人が、一度はやって来る場所ですね。
「御穂鹿嶋神社」には、元落語家で寄席文字を復興させ、落語の研究に尽力した橘右近が寄進した「芝浜囃子の碑」が建っています。

少し前に、JR山手線の新駅「高輪ゲートウェイ」駅の駅名選考の際に、地元住民が希望する駅名投票の3位に「芝浜」という名があったのは驚きましたが、そのくらい親しまれている地名だということですね。
実際に芝浜のあった場所は、この新駅とは結構 離れていますので、誤差の範囲かは微妙なところです。
まあ、「品川駅」は品川区ではなく港区にあるくらいですから、港区なら、その程度も誤差のうちかもしれません。


◇芝浜のふたり

落語の演目「芝浜」は、たいへんよく知られていますね。
おそらく落語の演目の人気投票では、上位5位までに入るでしょうね。

お笑い部分は少ないですが、非常に優れた人情ばなし、感動ばなしですね。
単なるお笑い芸ではない、「落語」の素晴らしい要素がたくさん詰まっています。

落語家さんの大ベテランらの腕の見せ所ですね。
若手の落語家には、かなりの難敵なのかもしれません。

落語家さんによって、まったく別の味わいがかもし出されますので、落語の聞き比べもできて、とても楽しめる演目です。
今は、ユーチューブなどで、聞き比べができますので、まだ未体験の方は、どうぞ一度お聞きになってください。
どの落語家さんの「芝浜」が好きかによって、その人の一面がわかるような気もしますね。

落語「芝浜」に登場する、魚屋さん夫婦…、あなたは、どちらの立場に感銘を受けますか?

今、結婚しない若者が増えていますね。
こんな夫婦愛のかたちもありますよ。

* * *

この「芝浜」の落語は、幕末から明治初期に生きた三遊亭圓朝の作ともいわれていますが、確かではないようです。
亡くなられた先代の五代目 三遊亭円楽さん(以前にテレビ番組「笑点」で司会者もされていました)が、生涯最後の演目が「芝浜」になりました。
五代目 円楽さんの「芝浜」も、それは素晴らしい内容です。

* * *

いずれにしても、「芝浜」のお話しの原型は、幕末には出来上がっていたのかもしれません。
西郷隆盛や勝海舟が生きていた時代です。

薩摩藩の蔵屋敷での、西郷隆盛と勝海舟の会談では、どのような会話がされたでしょう。
もともと旧知の間柄です。
雑談もあったはずです。

ひょっとしたら、こんな会話があったかもしれませんね。
(私は鹿児島弁では表現できませんので、標準語で…)

(西郷)この前、42両の入った財布をどこかで落としたんだと思うのだが、どこを探しても見つからないんだよ。砂浜を歩いたから、海の中に落としたかもしれないな。
(勝)奉行所に届けられているかもしれませんよ。
(西郷)いやいや、拾った人が、その金で、どこかで幸せになるなら、そのままでいいよ。
(勝)江戸の民のことを、よく考えてくれて、たいへんありがたい。
(西郷)それにしても、蔵とはいえ、暗すぎで申し訳ないね。
(勝)ハハハハ、夜明けは、きっと近いですよ。


* * *

先程、薩摩藩蔵屋敷の跡にあった三菱自動車本社の移転と、ビルの建て替えのことを書きましたが、この田町駅周辺は、数年で大変革する地域で、すでにいろいろな企業の本社が集まってきていると聞いています。

品川駅から高輪ゲートウェイ駅(2020年暫定開業・2024年本開業)、そして田町駅、さらに浜松町駅までの、広大な再開発地域のラインは、この地域全体の風景を一変させるかもしれませんね。
リニア新幹線の東京の玄関口は品川駅になる予定ですが、前述の4駅の中心は、いずれ「高輪ゲートウェイ駅」になるかもしれませんね。
泉岳寺の赤穂浪士たちもビックリするでしょうね。

「高輪ゲートウェイ」という駅名論争はさておき、この芝から三田、高輪にかけての地域は、「門」、「道」という言葉が、大きなキーワードになりますね。
そして、もうひとつのキーワードが「坂」です。
次回コラムで、この「坂」のことをご紹介します。
はたして、坂の上に大きな白い雲はあるでしょうか…。

* * *

個人的には、再開発ついでに、この「芝浜」跡の「本芝公園」に海水を引き込んで、もう一度、砂浜を再現させてほしいと思っています。
小さな人造の海岸でもいいのですが、難しいでしょうか…?
財布や商売、夫婦愛、禁酒の神様とかも…。
三菱さん、何とかなりませんか。

こんな話しを書くのは、ここまでにしましょう。
また、夢になっちゃいけねえ…。

* * *

今回のコラムの「芝・三田の大名屋敷の地域巡り」は、ここまでにします。
次回の「みゆきの道(4)坂の上へ / 芝・三田.2」では、この続きを巡ってみたいと思います。

「みゆきの道(4)坂の上へ / 芝・三田.2」に続く


2019.12.4 jiho
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