「映像&史跡 fun」は、映像・テレビ番組・史跡・旅・動画撮影のヒントなどをご紹介するコラムです。


みゆきの道(4)
御坂と赤穂浪士 / 芝・三田.2

【概要】赤穂浪士討ち入りと預かり大名家。大石内蔵助と新井白石。水野忠之と大岡越前。綱坂と綱町三井倶楽部。坂の上の雲。福沢諭吉と慶応大学。慶応仲通りと水野監物。義士祭。


コラム「みゆきの道(3)御蔵と御浜 / 芝・三田.1」では、薩摩藩上屋敷跡と蔵屋敷跡、芝浜などをご紹介しました。
今回のコラムは、その続きをご紹介いたします。

コラム「みゆきの道(2)薩摩どん」の中で使用した地図の一部を下に拡大しました。
今回の芝・三田巡りは、黒色の点線部分を今回歩いています。

前回コラムでは、赤羽橋をスタートし、下の地図の田町駅あたりまでたどり着きました。
今回は、そこから⑧と書かれたあたりまでを歩いてみます。


①が、薩摩藩の上屋敷で、江戸幕府が焼き討ちをした屋敷です。
②が、薩摩藩の蔵屋敷で、西郷隆盛と勝海舟が、二回目の会談を行った場所です。
⑧が、有馬家の上屋敷だった場所です。


◇坂の上の雲

司馬遼太郎さんの有名な歴史小説「坂の上の雲」は、幕末の明治維新から日露戦争あたりまでを描いた、壮大なお話しですね。
主人公の、秋山好古(あきやまよしふる)と秋山真之の秋山兄弟は、伊予国(今の愛媛県)松山藩の藩士の家に生まれました。
もう一人の主人公、正岡子規(まさおかしき)も松山の出身です。

正岡子規の東京都台東区根岸の家は、一度焼失しましたが、同じ姿で再建されています。

「坂の上の雲」はテレビドラマ化され、2009年から3年にわたり、NHKテレビで放送されましたね。
阿部寛さん、本木雅弘さん、香川照之さんが、主演されました。
まさに「大河の中の大河」のようなドラマでしたね。
大物俳優が次々に出演し、各場面で見ごたえがありすぎて、毎年の大河ドラマがかすんでしまいそうです。

サラ・ブライトマンが歌ったドラマの主題歌もヒットし、その時の映像にあった、ある山の尾根にある坂道のことも話題になりましたね。
新潟県にある「小蓮華山(これんげさん)」の雷鳥坂でした。

もともと、長大で難解な部分もあるストーリーですが、未体験の方は、テレビドラマでもいいので、ぜひ見てみてください。

日露戦争時の日本海海戦の時の、秋山真之の電文「本日天気晴朗(せいろう)なれども波高し」はたいへん有名ですが、軍略の知識を持たない一般の人には、その意味の深層はわかりにくいですね。
この名台詞は、本木雅弘さんが言いました。
ドラマでは、3年かかって、この言葉にたどりつきましたね。
待ちました…。

さまざまな時代の日本の歴史を学んでから、この歴史小説やドラマに触れると、また違って見えてくるような気がします。

* * *

タイトルの「坂の上の雲」の「坂」は、実際に存在する特定の坂を意味しているものではなく、近代化に向かう人々の苦難の道を意味していると思います。

まさに、今回歩いています、この大名地域には、秋山兄弟が生まれた伊予松山藩の松平隠岐守の屋敷がありました。
前回コラムで紹介しましたNECスーパータワーも、伊予松山藩と同族の屋敷跡です。
そして、薩摩藩島津家こそ、この地域の中心にいました。

* * *

今回のコラムで歩くコースは、海抜0メートルに近い高度から、ある山の地域の坂を登っていき、頂上までたどり着きます。
前回コラムのコースは、平地をずっと歩いてきましたが、ここからは結構な急坂を登っていきます。

まずは平地で江戸幕末の雰囲気を味わい、坂の途中の慶応大学で明治時代を、坂の頂上あたりで大正から昭和を、その頂上から平成を眺めることになります。
この坂の途中で、伊予松山藩の松平隠岐守の屋敷があった場所を通ることになります。

まさに今回のコースは、「坂の上の雲」のように、幕末・明治維新・近代化という「坂」を登っていくのです。

* * *

「坂の上の雲」では、「まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。」という言葉で始まります。

今回のコースの坂の頂上にも、近代化の象徴が、壮大にそびえ立っています。
現代でも、そこは、繁栄と富の象徴にも見えます。

さあ、坂の上に向かって、歩みを始めましょう。




◇そのまんま

上の写真は、慶応大学のすぐ近くにある「慶応仲通り商店街」の一角にある、「まんまや」という古民家居酒屋の建物です。
もちろん現代の居酒屋さんです。
もはや、古民家というよりも、江戸幕末期の民家や居酒屋のように見えますね。

坂本龍馬、西郷隆盛、新選組などが、今にも、戸を開けて顔を出しそうです。
「おまんま、食うたかえ…」

一番上の右側の案内板には、「水野監物(みずの けんもつ)屋敷跡」の説明が書かれています。


◇赤穂浪士

ここで、お話しは江戸中期にさかのぼります。

旧暦の元禄15年12月14日(新暦1703年1月30日)に、赤穂浪士が、吉良邸に討ち入りを行い、吉良上野介(きらこうずけのすけ)の首を、この地域のすぐ南にある、泉岳寺(せんがくじ)の浅野家の墓前に供えます。

江戸城内での刃傷事件と、吉良邸への討ち入りの詳細は、ここでは割愛します。

討ち入り後、泉岳寺に到着した赤穂浪士は44名です。
途中、2名が、幕府の大目付の屋敷に、討ち入りの報告と訴えに向かいます。
赤穂浪士のひとり、寺坂吉右衛門(てらさか きちえもん)は、この隊列から離れていました。

江戸幕府は、赤穂浪士46名を4グループに分け、その身柄を、この付近の大名家に預けます。

1.肥後熊本藩 細川越中守の下屋敷(高輪の「大石良雄外十六人忠烈の跡」)に、大石内蔵助ら17名。
2.伊予松山藩 松平隠岐守の中屋敷(三田)に、大石主税ら10名。
3.三河岡崎藩 水野監物忠之の中屋敷(三田)に9名。
4.長門長府藩 毛利甲斐守の上屋敷(今の六本木ヒルズ)に10名。

1番の細川屋敷は泉岳寺のすぐ近く、2番と3番の三田地域の2か所どうしは すぐ近くで、泉岳寺からも歩いて行けるほどの短い距離。
4番だけが、そう遠くはないですが、少し離れているという場所です。

旧暦の元禄16年2月4日(新暦1703年3月20日)に、46名は各屋敷で切腹となります。
寺坂は1747年、83歳で亡くなります。

* * *

上の写真の古民家居酒屋の場所は、その赤穂浪士9名が預けられた水野監物(みずのけんもつ)の屋敷跡のすぐ近くで、石灯篭は庭にあったものだそうです。
水野監物とは、第四代 三河岡崎藩主の水野忠之(みずのただゆき)のことです。

* * *

「監物(けんもつ)」とは名前ではありません。
かつて律令社会の頃から、朝廷が武家に与えた官職のひとつで、倉庫の管理、出納事務などをつかさどる意味の官職名です。
コラム「みゆきの道(2)薩摩どん」で、典膳(てんぜん)、大膳(たいぜん)、修理(しゅり)、治部(じぶ)、刑部(ぎょうぶ)などのことを書きましたが、同じようなものです。
官位と結びついて、朝廷から与えられた名誉ある官名です。
「百官名」の詳細は割愛します。

* * *

水野家は、清和源氏の流れを組む名家で、徳川家よりも歴史は古いです。
徳川家康の生母である於大(おだい)は、水野家から松平家に嫁いできました。
時代劇ドラマでも、「水野〇〇」という有力な大名がよく登場しますね。

江戸時代に、水野一族は、下総山川藩水野家、駿河田中藩水野家、三河岡崎藩水野家、三河吉田藩水野家、遠江浜松藩水野家、出羽山形藩水野家、肥前唐津藩水野家などがありました。

この水野家の中で特に有名なのは、江戸幕府の後期(11~12代将軍時)に老中になった水野忠邦(ただくに)ですね。
肥前唐津藩水野家の藩主でしたが、江戸幕府の老中の地位を目指して、わざわざ遠江浜松藩に転封(てんぷう / 領地移転のこと)を画策し、老中にまで登りつめます。
「天保の改革」は有名ですね。
「遠山の金さん」は忠邦の腹心でしたね。

そして、その次に知られるのが、水野忠之(ただゆき)かと思います。
こちらは三河岡崎藩主です。
家康の故郷の藩を任せられているのは特別な意味がありました。
赤穂事件の後、京都所司代を経て、幕府の老中にまでなります。
そして、八代将軍 吉宗を、大きく支えることになります。
吉宗は、人材を見つけ出す能力に長けていましたが、多くの逸材たちの過去の実績や行動をしっかり見ていました。
こちらは「享保の改革」で、「大岡越前」が登場しますね。

なにか水野家は、時代劇ヒーローにご縁がありますね。
だから、「水野」の名を、テレビでよく耳にするのでしょう。


◇大岡越前

ここで、ちょっとだけ脱線します。
ちなみに、「大岡越前」の時代劇ドラマは、古くは民放で、加藤剛さんが主演をされていましたね。
近年は、NHKで、東山紀之さんが主演して、不定期で放送されています。
私は、どちらの「大岡越前」も大好きです。

ソフトな雰囲気のNHK時代劇「大岡越前」も、今の時代には あっていますよね。
時代劇でありながら、温かい現代劇の味わいも感じます。
私はキャスティング(配役)も好きです。
この「ほっこり感」は、民放の大岡越前にはなかった気がします。

東山紀之さんは、時代劇「必殺シリーズ」の中村主水(なかむらもんど)も演じられますが、個人的には大岡越前の東山さんのほうが好きですね。
津川雅彦さんの姿を、この「大岡越前」で、もう見ることができないのは非常に残念です。
個人的には、寺田農(てらだ みのり)さんが演じる、「大岡越前」の妻の父親である吉本作左ヱ門がお気に入りです。
津川さんと寺田さんの、大ベテランどうしのかけあいは面白かったですね。

「大岡越前5」は、NHK-BSプレミアムで、2020年1月10日スタート、金曜夜8時です。
また、ほっこりできる時代劇タイムが戻ってきます。

この新シリーズでは、田村亮さんが演じる、勝手掛老中として松平乗邑(のりさと)が登場するようです。
前述の水野忠之の後任が乗邑ですから、水野忠之は登場しないでしょう。
本物の水野忠之は、老中を辞任した翌年に病死しています。


◇大名家の赤穂浪士対応

さて、「水野監物(みずのけんもつ)」こと、水野忠之のお話しに戻ります。

「細川の水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」

これは、江戸時代の赤穂浪士討ち入りの後に、江戸の街にかかげられた落首(らくしゅ)のひとつです。
「落首」とは、人がたくさん集まるような場所に、匿名で、世の中や政治を風刺した短文を、立て看板のようなかたちでかかげたものです。
長い文章は「落書(らくしょ)」といいます。

とはいえ、誰でも立てていいというものでもありません。
こんな大それた大名家批判を、庶民や下級武士がかかげることなどできるはずがありません。
塀に、小さく落書きするのであれば、できたかもしれませんが、それも相当な覚悟がいりますね。

この落首の意味は、「細川家と水野家は赤穂浪士に手厚く丁重に対応しているのに、毛利家と伊予の松平久松家は赤穂浪士への対応が冷たい」というような内容です。
あからさまに大名家の名称を出さなくても、すぐにどの大名家のことかはわかったはずです。

とはいえ、そんな各大名家の赤穂浪士たちへの対応を、一般の下層の人々が知るはずがありません。
おそらく、これは幕府内の一部、上層階級が絡んで作られたものに違いないと思います。


◇赤穂事件を利用

コラム「よどみ(2)群馬県vs.山梨県」でも書きましたが、五代将軍綱吉の頃はもちろん、4代から7代までの将軍期は、群馬の徳川家勢力と、山梨の徳川家勢力の壮絶な争いの最中です。
まずは、綱吉ら群馬勢が勝利した状況でしたが、赤穂事件後は、山梨勢が巻き返し、群馬勢の五代将軍 綱吉が死に、山梨勢が実権を握ります。
その後に、和歌山から吉宗がやってきて、両者を一掃してしまいます。
政権がかわるたびに、大老や老中などの幕閣たちも総入れ替えになります。
幕末まで、こんな権力闘争の繰り返しです。
徳川将軍家が盤石だったのは三代将軍までのお話しです。

* * *

もともと、赤穂事件を、将軍 綱吉の追い落としに利用しようとしたのは、おそらく幕府内の山梨勢だと、個人的には思っています。
吉良を下町に移転させ、吉良に悟られないように、赤穂浪士に討ち入りをしっかり実行させることができるようにお膳立てしたのも彼らのような気がします。
あくまで個人的な印象です。
この道筋を作ったのは、あの頭脳明晰な策略家ではないかと、個人的には感じています。

綱吉の後に、幕府の実権を握る新井白石(あらいはくせき)と間部詮房(まなべあきふさ)ですが、間部にこの計画を立案するチカラはないと思います。
この後の時代の数々の暗躍を仕切る、新井白石の頭脳をもってすれば、この程度のお膳立ては、たやすいと感じます。
白石や間部、そして六代将軍 家宣(いえのぶ)は、もちろん山梨勢です。

* * *

討ち入り後、赤穂浪士の処罰を決定するにあたり、幕府内は、助命派と厳罰派に分かれます。
学者も、僧も、幕閣も、大名家も、それぞれに分かれていたと思います。
大名家は、あえて意思表示しない家も多かったでしょう。

五代将軍 綱吉や、綱吉の側近の柳沢吉保の側の、学者の荻生徂徠(おぎゅうそらい)は強硬な厳罰派。

徳川家の学問分野の中心にいた林家一門(本来は綱吉とともに聖堂や学問所をつくった仲)や、後に八代将軍 吉宗らのブレーンとなる学者の室鳩巣(むろきゅうそ)は助命派です。

実は、林羅山(はやしらざん)から始まる林家という学者一門は、やはり学者である新井白石の最大の敵ともいえます。
白石の推挙で、鳩巣は幕府の要職につきました。

* * *

そんな両派の戦いの中で、前述の落首が登場してきます。
助命派によるプロパガンダ(特定の思想や世論への誘導戦術)だったのかもしれません。

助命派からしたら、将軍綱吉が、お抱え学者の荻生徂徠の厳罰案を選択することを見越して、先手を打った戦術だったかもしれません。
「義」がどうの、「忠」がどうのという問題は、二の次だったかもしれません。

綱吉は、すでに「生類憐みの令」や「犬囲い」の失敗で、世論の評価がほぼ底辺まで落ちていました。
「生類憐みの令」や「犬囲い」のお話しは、コラム「お盆に思い出す/東京都中野区(1)」で書いています。

世間の綱吉人気の凋落で、ここまで風前の灯だった山梨勢は、がぜん息を吹き返していました。
赤穂浪士への厳罰処分は、群馬勢である綱吉打破の決定打にも なりえます。
その後の、江戸城「宇治の間」のお話しは、コラム「お盆に思い出す/東京都中野区(1)」で書きました。

* * *

討ち入りの時に、吉良邸の隣家で、塀越しに提灯の明かりを灯した土屋家は、白石とは深い間柄で、白石は討ち入りの翌日に土屋氏とともに、吉良邸を検分しています。その内容が鳩巣に伝えられることになります。
白石と土屋の、さも納得したやり取りは意味深ですね。
いってみれば、吉良邸の周囲はすでに幕府の情報網に囲まれていたことになります。

* * *

大石ら赤穂浪士の隠密行動など、最初から、幕府が見落とすはずがありません。
幕府には、伊賀者も甲賀者もいます。服部家も、柳生家もいます。
後に八代将軍になる吉宗が紀州から大量に連れてくる隠密集団「御庭番」もすでに、江戸で暗躍していたでしょう。
吉良邸の周囲は、情報網だらけです。

吉良邸への討ち入りを、江戸城桜田門近くの上杉家屋敷に、真っ先に情報をもたらしたのは、朝一番で仕事を始める豆腐屋さんからです。
江戸時代は、豆腐は朝一番に買う商品でした。
上杉家は、吉良邸のすぐ近くの豆腐屋さんを、早くから抱き込んでいました。
おそらく討ち入り終了前には、連絡が届いていたと思われます。

吉良は、情報戦で、いったい何をしていたのでしょう。
危機感のない対応の連続は、不思議なくらいです。
おそらく、これも幕府の上手な誘導だったと感じます。

吉良の実子で長男は、上杉家に養子に入り上杉綱憲(つなのり)となっていました。
上杉家は、討ち入り後の赤穂浪士たちを討ち取るため軍勢を仕立て追いかけようとしますが、幕府の重臣がやって来て、これを制止します。
上杉家内部の家臣の制止ではなかったようです。
ということは、上杉家内部の重臣の一部と、幕府の一部がつながっていたことになります。
もし、ここで制止させなかったら、赤穂浪士たちは簡単に討ち取られていたでしょう。

こんなところで、その後の厳罰派と助命派の争いを消されてしまっては元も子もありませんね。
上杉家は、あっさり引き上げます。

というよりも、お殿様以外の上杉家家臣は、赤穂浪士を討って、連座的にお家とりつぶしにでもなったら一大事だと考えていたことでしょう。
吉良家と浅野家の問題に巻き込まれるくらいなら、状況によっては、お殿様の綱紀を すぐに暗殺したかもしれません。
戦国時代には、こんな暗殺は山ほどあります。
上杉家の重臣が、幕府側にすぐに知らせたということだと思います。

大石ら赤穂浪士の泉岳寺への隊列も、上杉家の追っ手がこないことを確信しているようにも感じますね。

幕府にとっては、上杉家の取りつぶしの機会がなかったわけではありませんが、それよりも優先すべきこと…、幕府内の政権交代しかない気がします。

この後、上杉家を弱腰だとばかにする落首が、江戸の街に立ち並びます。
落首は、情報戦の武器であったのは間違いありませんね。


◇赤穂浪士への厳罰

そして、将軍綱吉は、荻生徂徠の厳罰案のとおりの処断を下しますね。
この頃の綱吉は、もはや独断で物事を決定できるチカラや地位を持っていなかったと思います。

山梨勢には、想定したとおりの結果だったと思います。
世の中は、綱吉の処断に不満続出でした。

落首で名を上げた、水野忠之のその後の大出世、細川家の跡継ぎに関わる次期幕府政権からの厚遇は、何を意味しているのだろうかと感じます。

* * *

赤穂浪士たちのリーダーである大石内蔵助は、かなり頭の良い、用意周到な人物のような気がします。
このような幕府の事情をほぼ把握していたのではないかと思っています。
情報収集や分析、調整、準備にかなりの期間をかけていますね。

大石が、江戸幕府内の山梨勢の新井白石らと、何らかの取引をしていても不思議ではありません。
ただ、将軍の最終処罰の決断だけは、将軍に任せたのかもしれません。

ですが、白石らが最終的に恐れるのは、この取引の存在が外部に漏れることですね、
大石ら赤穂浪士には、死んでもらわないと困ります。

大石は、もし事前に助命の約束などがあったとしても、まず赤穂浪士たちが生かされることはないだろうと、予測していたかもしれません。
だからこそ、ひとりだけ、泉岳寺に来させなかったのかもしれません。

多くの方々が感じるように、私も、寺崎吉右衛門は逃亡したのではないと思っています。
大石は、あえて、いざという時のために、真実を知る人間をひとりだけ生き残らせたと感じています。
そして、裏取引は、表に出る必要性がないまま、いつしか歴史の中に消えていったのかもしれません。

実は、日本史は、そんなことの連続です。
暗躍部分は、よほどことがないと歴史に残りません。

ですが、結果的に、赤穂浪士が忠義の志士として、討ち入りが美談として、歴史にその名を残すことになったのは、隠された部分が表に出なかったからかもしれません。
「赤穂事件」と「忠臣蔵」は、意味あいが別のものですね。
「忠臣蔵」の中の赤穂浪士は、今でも、ヒーローのままです。
赤穂浪士たちの、復讐ではない、名誉と忠義という、もうひとつの願いも、しっかりかなったのではないかと感じます。

* * *

今回の記述は、あくまで個人的な推測であり、討ち入りに関する幕府側の暗躍は史料にあまり残っていない気がします。

しかし、赤穂浪士がひとりだけ生き残ったことは紛れもない事実です。
実際の討ち入りの前に寺崎が、この隊を離れていたという説もありますが、離脱時期はあまり関係はないと感じます。
寺崎が赤穂浪士47名の中に名を連ねているのは事実です。
大石が残した明らかなヒントから、後世の人間が、歴史を読み解くしかないですね。

「余計なことは語らせません」
寺崎の近親の人々の、この言葉は非常に重く感じますね。

* * *

大石内蔵助…、こんな江戸城刃傷事件がなければ、歴史に大きく名が残ることはなかったのかもしれません。
ですが、名を残すに値する、なかなかの人物でしたね。

毎年12月14日、東京の泉岳寺や吉良邸跡、赤穂市などでは、「義士祭」などの行事が行われます。
自らの死によって、その名と生き方を残していった赤穂浪士たちです。
機会がありましたら、そんなお祭りやイベントをのぞいて見てください。

本コラムでも、もし写真が撮れましたら、ご紹介いたします。


◇キレてくれるなよ…

ちなみに、浪士を預かった細川家は、この約40年後に、赤穂事件とそっくりの江戸城刃傷事件に巻き込まれます。
この時、細川家は吉良と同じ立場ですが、斬りつけられた細川氏は死に、斬りつけた板倉氏は処刑されます。
板倉氏の乱心と逆恨み、人違いによるものともいわれていますが、詳細はよくわかりません。

理由に関わらず細川家は取りつぶしの危機をむかえますが、仙台藩伊達家の見事な機転により助けられ、細川家消滅は免れました。
赤穂浪士たちに、あれほど手厚い対応を行った細川家でしたが、立場上、理由はどうであれ、赤穂浪士を擁護することができなくなり、墓や供養塔を破却します。

この事件では、細川家や板倉家の家臣による討ち入りのような復讐劇は起きませんでした。
細川家が消滅しなかっただけでも十分な結果です。
これ以上、幕府に迷惑はかけられませんね。

徳川家にとって、細川家は大昔から大切な間柄です。
幕府は、赤穂事件の浅野家と断絶関係にあった仙台藩伊達家に、機転をお願いしたのかもしれませんね。
幕府にとっては、赤穂浪士処刑後の、幕府内の政権交代のようなことを、再び起こさせるわけにはいきませんね。

* * *

江戸城は、まるで大名どうしの遺恨の巣窟に見えてきますね。
いじめ、ノイローゼ、キレる…、小さな刃傷事件など、しょっちゅうだったと思います。
赤穂事件のように、藩どうしのビジネス戦争まで絡んでいることも多かったと思います。
幕府の上層部の方々は、それは たいへんだったでしょうね。
「江戸城内で、簡単にキレてくれるなよ…。」


◇巻き込まれたくはないけれど…

個人的には、前述の赤穂浪士4グループを預かった大名4家は、群馬勢派2家と山梨勢派2家に分かれていたのではと感じています。
あるいは、その争いの中で、何か画策を考えた家もあったかもしれません。

前述の落首「細川の水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」は、山梨勢、群馬勢の、どちらから出された指令で、かかげられたのかはわかりません。
ですが、第三者の忠義ものの武家のはずはないと思います。

批判された、毛利家と伊予松山藩松平家は、一応、浪士への対応を改善させたと残っているようですが、どの程度のものだったでしょう。
将軍綱吉や新井白石が目立った立場表明をしない中で、大名家がどちらかに極端な意思表示や処遇を行ったというのも、少し疑問に感じます。
大名家どうしの、何か知られざる戦いやかけ引きが、起きていたのかもしれません。

ともかく、後に八代将軍になる紀州徳川家の吉宗は、水野忠之の行動をしっかり見ていたのは確かだったでしょう。
すでに吉宗の暗躍集団「御庭番」は江戸に放たれていたはずです。
吉宗は、次に覇権を握る山梨勢が誰かを、しっかり把握しようとしていたはずですね。

あの落首は、まさか、水野家の自己アピール?

* * *

いずれにしても、水野監物(水野忠之)の中屋敷は、このあたりにありました。
伊予松山藩松平隠岐守の中屋敷跡は、このコラムで、これから通過します。
長門長府藩毛利甲斐守の上屋敷跡は、今の六本木ヒルズあたりです。
肥後熊本藩細川越中守の下屋敷跡は、泉岳寺のすぐ近くです。

各大名屋敷では、赤穂浪士の世話どころではなかったかもしれません。
幕府の実権は、これからどうなるのか?
五代将軍の後は、どうなるのか?
これから、誰についていったら、自分の家は安泰なのか、出世できるのか?

泉岳寺周辺の大名屋敷地域は、表では平静をよそおった顔で、実はハチの巣をつついたような状況だったのかもしれませんね。

一見、単純な落首の文面ですが、赤穂浪士討ち入りという派手な表の面ではない、裏の面がかすんで見えてくる気がします。


◇落首

さて、水野忠之を評した江戸時代の落首には、次のようなものもありました。

「無理で人を困らせる物、生酔(なまよい)と水野和泉守」
生酔とは、酔っ払いのことです。
水野和泉守とは、水野忠之のことです。

他にも、「わるいもの、水野和泉守、懐中おはぐろ」などもありました。

前述の落首の少し後の時代のものですが、前述の水野家を賛美するものとは、真逆の内容です。
想像するに、忠之の対抗勢力のプロパガンダだと感じます。

こうしたプロパガンダは、今の「ステマ(ステルス マーケティング)」にもよく似ていますね。
つい最近、まさかのステマ疑惑もありましたね。

現代も、どこに、こんな「落首」が落ちているか、わかりません。
うかつに、額面どおりに受け取ると、首を落とされますね。

* * *

慶応仲通り商店街の「水野監物屋敷跡」には、石灯籠と案内板しかありません。
あまり赤穂浪士を感じることはできないかもしれませんが、泉岳寺と、三田の二か所の大名家、そして細川家屋敷の位置関係や距離感を感じることはできると思います。
そんな江戸時代の討ち入りの空気感を、感じてみてください。


◇慶応仲通り商店街

この水野監物邸跡は、前述のとおり、「慶応仲通り商店街」の一角にあります。
昭和時代の雰囲気を残す、細い商店街です。
前述の「まんまや」といい、江戸の幕末の香りも少し残っているような気がします。

そんな昭和の商店街は、東京からどんどん姿を消していますね。
現代は、こざっぱりとした、何の匂いもしない、整然とした商店街が多いですが、いろいろな匂いが強烈に入り混じる、そして生命力豊かな昭和の商店街も少しは残っていってほしい気がします。

商店街に書いてある「水野監物」って誰?
明治維新って何?
さあ、江戸時代の慶応年間から、明治の代に向かって、坂を登るぞ!


上の写真の右上の、商店街の門の向こうが慶応大学です。
大学の新しい正門に向かって坂を上ります。


◇慶応義塾大学

福沢諭吉が、蘭学塾を開始したのは1858年(安政2年)。
「慶応義塾」という呼称になるのが、1868年(慶応4年・明治元年)。
現在の三田の地にやって来るのが、1871年(明治4年)です。

明治の代になり、「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり」という言葉どおり、近代日本の学問は、この三田から始まったといっていいのかもしれませんね。

「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」
私が子供の頃に初めて覚えた偉人の名言は、ひょっとしたら、これだったような気がします。

私が、この言葉の続きである、学問によって、人の人生や生き方が変わっていくということを知るのは、そのずっと後のことになります。

* * *

慶応大学の敷地にある、古い明治時代の建築物の場所に立つと、まるで明治時代を歩いているような感覚になります。
何か、維新の香りがただよい、「学問のすすめ」という言葉が頭をよぎります。

愛知県の「明治村」でさえも、こんな感覚にはなりません。
ひょっとしたら、今でもここに「明治」の風が吹いているのかもしれませんね。

平地の「慶応仲通り商店街」から、いよいよ坂を登り始め、山の中腹に、この慶応大学の建築物が立ち並んでいます。


上の写真の左上が、今の正門です。

下の写真は、福沢諭吉の銅像と、日本最初の演説会の建物「三田演説館」です。


下の写真は、レンガが美しい、旧図書館です。





訪れたこの日、ちょうど結婚記念写真を撮影するカップルに出くわしました。
慶応大学の卒業だそうです。

よくは聞きませんでしたが、二人の関係も、この場所から始まったのかもしれませんね。
人生の坂道を、二人で登っていってほしいと思います。


下の写真は、桜通り沿いの校舎と門です。
かつての正門はここにあったようです。
ここも、豪壮な門をくぐると、すぐに坂の階段が始まりますね。




今、東京にある多くの大学では、古い時代の校舎が、次々に取り壊され、新しいデザインの建築物に変わっていっています。
たしかに、現代建築による未来志向も重要かもしれませんが、建学の精神を残すような歴史ある建築物は、ぜひ残してほしい気がします。

写真や映像だけでは、決して伝えられないものが、そこにはありますよね。
古い建物デザインが、街に合う 合わないとは別のものだと思います。
慶応大学は、たいへん素晴らしいものを、たくさん残してくれていますね。

受験生の皆さんも、勉強に疲れたら、気分転換に、目指す大学の敷地を歩いてみてはどうですか…。
何か、もうひとつ別のものを、見つけることができるかもしれませんよ。


◇綱坂

慶応大学の敷地を出てすぐの場所に、「綱坂(つなさか)」と呼ばれる急坂があります。
下の写真の坂ですが、坂の左側は工事をしていました。

通常は、階段状の落ち着いた塀がつながっています。
樹木の生い茂る この敷地は「綱町三井倶楽部」です。

大名屋敷の坂にある塀や蔵のような建物は、坂のスロープにあわせて、斜めにつくられるわけではありません。
美しい階段状につくっていきました。


下の写真の坂の右側は、今、イタリア大使館の敷地となっています。
実はここが、前述しました伊予松山藩松平隠岐守の中屋敷があった場所です。

赤穂浪士の大石内蔵助の息子の大石主税(おおいし ちから)ら10名が切腹した場所です。
古い時代の大名庭園が、今でも残っているそうです。


「綱坂」の名称は、「渡辺綱(わたなべつな)」という名の、平安時代中期の武将からきています。

嵯峨源氏の渡辺氏は、嵯峨天皇の皇子が祖であるそうです。
源仕(みなもとのつこう)は、今の埼玉県鴻巣市の箕田(みた)あたりに武蔵国守としてやってきました。
源仕は、「箕田仕」とも名乗ったそうです。

源仕の子が、源宛(みなもとのあつる / 箕田宛)で、宛の子が、「源綱(みなもとのつな)」です。

源綱は、平安時代中期に摂津源氏の養子となり、摂津国の渡辺という地(今の大阪市)に暮らします。
「渡辺綱」と名乗り、渡辺氏を繁栄へと導いたようです。

渡辺綱は、源頼光の重臣となり活躍しました。
その後、「渡辺党」と呼ばれた武士集団は、瀬戸内海の水軍になっていったそうです。

戦国時代の、毛利家の家臣の渡辺勝、豊臣家の家臣の渡辺糺、徳川十六神将の渡辺守綱らは、子孫だそうです。
有名な神社の神職をはじめ、各分野に渡辺さんは広がっていったようです。

日本全国に、「渡辺」姓の方は、たくさんおられますね。
多くの方が、この「渡辺綱」に、綱がっているのかもしれませんね。


◇綱いで…、つないで…

この渡辺綱が生まれた地は、埼玉県鴻巣市の箕田(みた)であったらしいのですが、実は、東京のこの三田の地で生まれ、これから登ります「綱坂」の山の頂上付近にある「當光寺(とうこうじ)」で亡くなったという伝説もあるそうです。
當光寺の始まりは渡辺家の内仏寺だともいわれているそうです。

當光寺のすぐ近くにある「綱町三井倶楽部」の敷地内には、渡辺綱が産湯をつかったという「綱の井戸」が残っているそうです。

「綱坂」を登り切った先が、この山の頂上となりますが、ここから桜田通りの方向に下る急坂は、「綱の手引き坂」という名称です。
これは、綱が幼少の頃に、おばあちゃんに手を引かれてよく行き来したという伝説からだそうです。

埼玉県鴻巣市の「箕田(みた)」と同じ名称の東京の「三田(みた)」、當光寺の伝説、綱の井戸、綱の手引き坂…、ちょっとそろい過ぎていて、怪しい雰囲気たっぷりです。
疑ってもキリがありませんが、どの時代にも、「仕掛人」はたくさんいましたね。

「綱の井戸」のある場所に、今「三井倶楽部」があるとは、どこまで綱に引っ張られているのでしょう。


上の写真の右上は、綱坂から見た「綱町三井倶楽部」の建物です。
あの あこがれの建物が少しだけ見えます。
後で、「綱町三井倶楽部」を紹介いたします。

右下は、この綱坂を登り切った先の正面にある、旧社会保険庁の建物です。
正確には、「旧逓信省簡易保険局庁舎」です。
1929年(昭和4年)に建設された、昭和の名建築の遺構です。

残念ですが、この建物も取り壊され、高級マンションが建設されるそうです。
ですから、この写真は、ほぼ最後の姿です。
元職員の方々、見ておくのなら急いでください。

* * *

そのマンションは、超高層のタワーマンションではないとも聞いていますが、その予定外観を私は知りません。
この歴史的建造物の一部を残すようなことも、ちらっと耳にしましたが、よくわかりません。

おそらく、そのマンション…、最高額のお部屋は、宝くじが前後賞あわせて当選しても、まだ足りないのでしょうね。

三井不動産が、まさか三井グループの迎賓館である「綱町三井倶楽部」の目の前に、雰囲気を壊すような建築物を建てるとは想像しにくいですが、かつての三田の大名屋敷地域、渡辺綱ゆかりの地、各国大使館のある地、そんな地域にふさわしい姿を見せてほしいと思います。
この山には、江戸、明治、大正、昭和、平成…、そして令和の歴史が加わるのですね。


◇綱町三井倶楽部

さて、先程から何度も、その名前が登場している「綱町三井倶楽部(つなまち みついくらぶ)」の門と建物が、下の写真です。
この山の頂上に、鎮座しています。

三井倶楽部の会員企業の関係者しか利用することはできません。

1910年(明治43年)から建設を始め、1913年(大正2年)に三井財閥の迎賓館として完成しました。
設計者は、あのジョサイア・コンドルです。
彼の残した名建築物は、東京にも結構残っていますね。
そこに足を踏み入れた瞬間に、明治時代にタイムスリップできそうです。



上の写真を見て、あまり見た記憶がないという方も多いかもしれません。
ですが、多くの皆様が目にしている光景は、この建物の裏側といいますか、庭園の方向からのものです。

庭園からの写真は、こちらのサイトから

この建物は、たくさんの明治時代を描いたドラマや映画にも使われています。
CMでも登場します。

超有名ブランドの新作発表会などのイベントでスーパーモデルが登場したり、大掛かりなプロジェクション・マッピングで演出されたショーなどの映像は、たいがいこの建物です。
この建物での超有名ブランドのショーの映像を、テレビのワイドショーなどで、ご覧になってはいませんか。
現代においても、文化やビジネス、繁栄や富の象徴としての役割を果たしていますね。

この建物は、明治・大正期のすばらしい遺構です。


◇平成を眺める

さて、三田駅の近くの平地にある「慶応仲通り商店街」で幕末や赤穂浪士の雰囲気を味わってから、坂を登りはじめ、慶応大学で明治初期の雰囲気を味わい、坂を登りながら、再び江戸時代と平安時代に思いをはせ、綱坂の終点の山の頂上にある綱町三井倶楽部で明治末期から大正の雰囲気を味わい、昭和初期の名建築も見てきました。

まさに、時代とともに坂を登ってきたわけです。
この日、私は、坂の上の空に大きな雲を見ることはありませんでしたが、坂を登る疲労はしっかり感じました。

* * *

下の写真のように、今、この山の頂上からは、山を下っていく坂の さらに向こう側にある山の上の、「六本木ヒルズ」(下の写真の右端)や、高級マンションの「元麻布ヒルズ」(下の写真の左端)を見ることができます。
平成時代を象徴するような建物ですね。

これからは、こんなキノコのような、逆さとっくりのような、かたちの高層マンションが増えていくのでしょうか。
でも、見ていて、少し楽しい姿です。

坂の上からは、いろいろなものが見えてくるものですね。


次回は、いよいよ、この山の頂上に残る江戸時代の風景を少し見てから、この山の坂を下っていきます。
上の写真の左端の坂を下っていきます。

アイドル好きの方でしたら、この坂が何かは、すぐにおわかりですね。

* * *

次回のコラム「みゆきの道(5)芝・三田.3」は、山を下って、スタート時点である「赤羽橋」に戻ります。

次回の「みゆきの道(5)芝・三田.3」へ続く


2019.12.8 jiho
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