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聖なる地(1)義士祭

【概要】赤穂浪士・赤穂義士の行列。泉岳寺の義士祭。高輪にある聖地。大石内蔵助良雄。


コラム「みゆきの道」シリーズの(2)から(6)までにわたり、東京の芝・三田あたりの大名屋敷のことを書きました。

今回のコラムは、その東京・三田あたりの大名屋敷地域のすぐ南隣りにある泉岳寺界わいをご紹介します。

つい先日12月14日に行われた「義士祭」の模様も合わせて、泉岳寺(せんがくじ)ほか、周辺にある江戸時代の古い遺構をご紹介します。

この地域は「高輪(たかなわ)」という地域です。
この高輪は、江戸時代、東海道からの江戸の玄関グチとされた場所で、大きな「門」や施設が置かれていました。
現代でも、「門(ゲート)」という名称がたくさんあり、とにかく「門」にこだわりを持つ地域です。
どうして、ここが門なのか…、それは、地形がかなり影響していますが、そのお話しはおいおい…。

実は、この高輪の地は、「門」だけでなく、人間の「生」と「死」を強く考えさせる、そんな場所なのです。
「聖なる地」と題して数回にわたり、この高輪にある四つの「聖なる地」をご紹介したいと思います。

まず最初は「泉岳寺」です。
今回は「赤穂義士」の行列をご紹介し、次回に泉岳寺をご紹介します。


◇令和最初の義士祭

2019年12月14日、私は、令和時代最初の赤穂義士の行列を見るため、何十年ぶりかで、泉岳寺に出かけました。

世の中に、大名行列というイベントは、日本各地で行われていますね。
たいはんは、観光目的のビジネス色、イベント色の強いもので、「この行列はいったい何時代?」と首を傾げるものも結構あります。
観光客の立場であれば、たしかに、お祭りイベントとして、にぎやかで楽しい時間を過ごせますが、言ってみれば、それだけです。

ですが、各地の大名行列の中には、実はビジネスとは関係のない、ある大切なテーマがあるもの、伝統の継承を担っているもの、歴史のある思想や物事を伝えるものなど、重要な役割や要素を持った行列も少なくありません。

東京の泉岳寺の「義士祭」は、観光イベントの要素もないわけではないでしょうが、それだけではないのは間違いないと思います。
愚直なまでに、史実に近づけた内容のように感じます。
観光イベントとしての性格を重視するのであれば、もっと違ったかたちがあってもよさそうです。
でも一番大事なのは、その中にある思想や伝統なのでしょう。

シンプルな行列ですが、これこそが「義士」の姿の再現のように感じます。

* * *

そういう私も、数十年ぶりですので、ほぼ内容や感覚を忘れてしまっていました。

実際に、目の前を赤穂浪士が通過するという感覚は、いくら本を読んでも、テレビや映画で見ても味わうことはできません。
義士祭の当日、かつて江戸の庶民が味わった、血まみれで通過する赤穂浪士の行列を目の前で見るという感覚…、こればっかりは、泉岳寺の義士祭に行かなければ味わうことはできません。

沿道の人たちの、ある声を耳にしました。
「江戸の人たちも、こんなふうに、赤穂浪士の行列を見ていたのかな…」

* * *

さて、この赤穂義士の行列の歩みは、義士たちが討ち入りの日に泉岳寺に向かう途中で立ち寄った、旧浅野家の屋敷が建っていた、東京中央区の中央区役所前をスタートします。
築地本願寺前、銀座の歌舞伎座、芝の増上寺を通り、金杉橋を渡り、札ノ辻を通り、泉岳寺の浅野内匠頭の墓前で終了となります。
ようするに東海道を西に向かうのです。

墓前で、この赤穂義士行列は終了となりますが、その終了の瞬間、墓前では、周囲を取り囲んでいた一般の方々から、思わず拍手がわき上がります。
この自然発生的におこる出来事は、江戸時代も現代も、変わらないのではないかとも感じます。

一般の人々の多くは、行列を見に来たのでしょうが、もしかしたら、この行列に参加したり、義士たちに賛辞の気持ちを示したいという思いも少なからずあるのかもしれません。

実際に、この義士の行列の後ろには、多くの市民が後をついてくるのです。
この行列の行進のスタートは、築地の浅野家屋敷跡からですが、そこからついてくる市民もいたでしょう。
今回も印象では、 数十名はいたような気がします。
私は、タクシーで追いかけてくる強者も実際に目にしました。

東京では、同時期に、吉良邸のあった墨田区で、吉良祭や元禄市などが行われます。
こちらは吉良家を供養する法事が中心となります。
さすがに吉良邸からの行列スタートでは、墨田区や吉良家の子孫に配慮を欠いているようにも感じます。
今は、しっかり「両成敗」がなされているのかもしれませんね。

* * *

東京 泉岳寺の義士祭は、戦災で焼失した本堂の落成を記念して、1950年(昭和25年)から始められたそうです。
行列も、60年以上の歴史があるそうです。

私は、ほんの1キロ程度でしたが、行列の後ろをついて歩きました。
これが、なかなか たいへんなのです。
今回は、コラムの写真のため必死にがんばりましたが、泉岳寺に近づいてからは、大群衆のため無理でした。

とにかく、今年は土曜日で、しかも雲ひとつない快晴です。
相当な混雑を予測し、その日のお昼までには、泉岳寺のお参りと、周辺地域の写真撮影を終わらせ、午後の行列を待つことにしました。
午前中だったとはいえ、浅野家と四十七士プラス一名の墓前には、すでに、あまりの長蛇の列で墓参は断念しました。
写経所も満杯です。
午後の人出は、ちょっとした人気の神社の初詣のような様相でした。

中高年の歴史ツアーのグループ、学生のグループ、若いカップル、外国人観光客など、とにかく老若男女…それは幅広い層の方々がやって来ていました。

とにかく境内は、大きな縁日の様相で、いい匂いがいっぱいです。
お線香の香りはどこへやらです。

知らず知らず、いろいろな会話が耳に入ってきます。
中高生くらいの若い世代のグループもたくさん目にしましたが、彼らの会話を少しだけ、ご紹介します。

浅野ってだれ?
大石よしおって、今の人みたいな名前だな。
何か復讐劇らしいぞ。
あの白いものは、人の首だって…ウケる。血までついてる。
あの履物、お爺ちゃんが履いてた。
やけに目立つハッピだな。
江戸時代もこんなに盛り上がっていたお祭りだったのか?
何か、お爺ちゃんたちの行列だな。
播州って、どこ?
赤穂って、なんのこと?
やけに塩味の甘味を売ってるな?
おみこしは、こないのか?

もはや、神社とお寺の区別も難しいのかもしれませんね。
でも、仲間どうしで楽しそうです。

外国人が、「アシャノタクミノカメ」とか、「アカァウ ギシ」とか言っているのも結構 笑えます。
とにかく、外国人の首を振りながらの笑顔を、たくさん見ました。

関西弁も、相当に耳にしましたね。
なぜ?

知識があろうとなかろうと、興味を少しでも持って、この場所にたくさんの人が来てくれるのは、すばらしいことだと思います。
その中から、少しでも、もうちょっと深掘りしてみようという人が出てきたら、それで十分な気がします。
大石良雄さんも、うれしいことでしょう。

* * *

中高年のグループもたくさん目にしましたが、彼らのこんな声も耳にしました。

子供の頃は、年末になると、忠臣蔵のドラマをよくやっていたのに、今はほどんど見なくなったよね。
子供の頃は、その意味が何だか わからなかったけれど、大人になって、初めてわかってきたわよ。
今はドラマがないから、自分の子供に、その内容を、なかなか教えることができないわね。

大石さん、創業者が突然亡くなった、大企業の副社長みたいだな。
若い世代や、ベテラン世代から、ああだこうだと言われるだけならまだしも、会社の再建の道も閉ざされ、関連企業も助けてくれない…、こんな境遇にはなりたくないよな。
こうやって、一瞬で人生が大転落するんだよな。

世代によって、こうも とらえ方が変わるのですね。

* * *

江戸城での刃傷事件から討ち入りまでのお話しは、長いし、複雑ですし、登場人物も多いし、なかなか話しをするだけでも ひと苦労のように感じますね。

人生はそこそこ長いので、少しずつ、穴埋めしながら、自分なりのストーリー完結まで探求していくのもいいのかもしれませんね。
そのうち、深入りし過ぎて、毎年 泉岳寺に墓参りに来たり、義士行列の追っかけまでして、もうひとりの義士になる人も少なくないのかもしれませんね。
それもまた、いい人生の過ごし方かもしれませんね。

赤穂事件の一連の内容は、本コラムでも割愛します。
ですが、コラム「みゆきの道(4)御坂と赤穂浪士」で、幕府側の立場からみた「赤穂事件」のことを少しだけ書きましたので、よろしければどうぞご覧ください。


◇「生き方」と「死に方」

江戸時代はもちろん、現代でも、「けんか両成敗」という場面はたくさんあります。
ですが、両者に均等の、バランスのとれた処罰などは、ほぼ存在しません。
優劣は必ず起きます。
不満、遺恨、復讐、情状酌量、温情、同情などが、だからこそ生まれてきます。

若い世代の学生さんたちには、泉岳寺で、世の中の法・温情・不条理などを学んでいってほしいものです。
そして いつか、人の生き方や死に方にまで、思いが進んでいくものと思います。
大きくなって、墓前の義士行列に拍手をおくれるような大人になってほしい気もします。

大石良雄(おおいし よしお〔よしたか〕/ 享年45)さん…、
細かく語らず、なかなかのヒントを残してくれましたね。

「生き方」と「死に方」、その両方が、この義士祭には内包されているような気がしてなりません。

泉岳寺の境内でワイワイガヤガヤ楽しむこと、墓前で手をあわせること、写経すること、お茶会に参加すること、実際に東海道を歩いてみること、義士たちにエールをおくることなど、どれも、観光イベントとはまったく違う、義士祭の重要な意味なのだろうと感じます。

さて、文章はこのくらいにして、赤穂義士の行列の写真をご紹介します。


◇赤穂義士

「赤穂義士」は、赤穂浪士、赤穂四十七士、義臣、義人など多くの呼び方がありますね。
明治政府の強い意向で「赤穂義士」という呼び方が、明治期以降に使われることが多くなったようです。
テレビや映画で、赤穂浪士が主役であれば、それは当然、「義士」となります。

江戸時代にも、「義士」という呼び方はもちろんありましたが、江戸幕府のような客観的な立場で見れば、「浪士」が正確なような気がします。
赤穂藩浅野家側を向けば、それは「義士」となります。
明治天皇への忠臣という国情であれば、「義士」のほうが納得はできそうです。
どれも間違いではありませんから、どの呼称を好むかは、あなた次第ですね。

* * *

赤穂義士 四十七士のうち、今の兵庫県赤穂市出身は大石など約半数です。
あとの半分は、ほぼ今の茨城県笠間市あたりです。
赤穂藩浅野家は、赤穂藩に移封される前の50年ほどは、茨城県の笠間藩でした。
移封されて、しばらく後に赤穂事件が起きます。

江戸城内での刃傷事件(浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかる)は、いろいろな要素が絡み合って起きたともいわれていますね。
単純な遺恨だけではなさそうです。
お家の引っ越しの時期や方角も、運に影響したでしょうか?

* * *

下の写真の姿…、血染めの小刀とは、ディテール(細部)にも こだわりが…。

なにか、「くさびかたびら」のようなものを、着ていますね。

浅野家の家紋「丸に違い鷹の羽」と、大石家の家紋「右二つ巴紋」が両方入っている着物は、ちょっと考えにくいですが、現代ならオーケーですね。
江戸時代の地下足袋の底は、おそらくワラジ…。


◇赤穂義士の行列

私は、第一京浜(国道15号)沿いのトヨタ自動車ショールームの三田店のすぐ近くにある歩道橋で、義士行列を待ちました。
午後2時40分、その行列は、陣太鼓の音とともにやって来ました。


大石内蔵助(おおいし くらのすけ)と大石主税(おおいし ちから)の親子も、もちろんいます。

実際には、泉岳寺まで来ていない寺坂吉右衛門も、ほら貝を手に、しっかりいます。
「赤穂 四十七士」のひとりであるのは、間違いありません。

現代は、黒塗りの高級車の伴走つき?

江戸時代は、おそらく、幕府の隠密が何人も周囲で監視していたことでしょうね。
幕府は、赤穂義士の隊列への外部からの襲撃や、突発的な騒ぎが起きなように監視し、泉岳寺にスムーズに入れるように準備したでしょうね。

ここは、島津家や有馬家のほか、多くの松平家の大名屋敷がある地域です。
それらの屋敷から、物見(ものみ)の家臣が大勢、状況把握のためにやって来たことでしょうね。
大急ぎで、屋敷の防備を固めた武家もあったことでしょう。

* * *

今の東京 横浜間の第一京浜(国道15号)は、江戸時代の東海道そのものです。
旧東海道は、たいていは今の国道1号線なのですが、東京から横浜の間だけは、国道15号線がそのルートです。
国道1号線は、東京 横浜間の交通量の増大などにより、今は、江戸時代に海であった場所を通っています。

* * *

江戸時代のこのあたりの東海道は、道幅がおよそ10メートルくらいであったようです。
今のこの道路は片側3車線ですので、おそらくこの片側車線くらいの幅が東海道の道幅だったかもしれません。

* * *

江戸時代、下の写真の左側は、ほんの数メートルも行けば海岸線でした。
江戸時代のこのあたりの東海道は、ほぼ海岸線ぞいの道です。
右側は、大名屋敷やお寺、神社など。

江戸時代後期には大きくひらけた この地域ですが、江戸時代前期はある理由で、庶民はあまり暮らしていません。
この理由は、次回以降にあらためて書きます。


江戸時代、旧暦の元禄15年12月14日(新暦1703年1月30日)の討ち入り当日、赤穂義士たちは午前8時頃から9時頃の間に、このあたりを通過したはずです。
江戸時代であれば、いくら冬でも、もう仕事の真っ最中の忙しい時間帯です。
このあたりで働く武士も町人も、農民も、漁師も、この異様な状況に気がつかないはずはありません。

上の写真の行列の前方の、いちょうの木がある場所は、「高輪大木戸」という大きな門(石垣)の跡ですが、討ち入りの頃はまだありませんでした。
この写真の手前に、「札ノ辻(ふだのつじ)」という江戸の重要な場所があり、そこを問題なく通過しています。

* * *

今は道路端の歩道を歩く義士の行列ですが、当時は、おそらく道の真ん中を歩いたことでしょう。
この季節、参勤交代の大名行列に、ぶつかるはずはありません。
大名かごは、幕府が事前にストップさせたでしょう。
江戸城への出仕も終えている時間だと思います。

荷車、牛車、飛脚、行商人、旅人…、みな道を開けたことでしょう。

今なら、事前に義士たちがどんな目的で通るかを知っていますが、いきなり、血まみれの武装姿で、袋に包んだ生首を持った武士の行列に出くわしたら、大騒ぎにならないはずはありませんね。
負傷兵までいます。
戦国時代ではあるまいし、とにかく尋常ならざる光景ではなかったでしょう。
赤穂義士の隊列の先頭あたりで、何か事情を語りながら歩いたかもしれませんね。

史実とは少し異なる「忠臣蔵」の美談が、人形浄瑠璃や歌舞伎などで、上方で人気になるのは45年後の1748年です。
四十七士の中で、寺坂吉右衛門だけは、それを知ることになりますね。

1703年の当日、事情を知って、店や仕事場などから、通りに人々が次々に出てきたかもしれません。
現代でも、それは同じですね。
自動車のドライバーたちはみな、黒装束で槍を手にした行列に、「なんだ、あの武装集団は?」。

* * *

ちなみに、戦国時代の戦闘では、刀よりも槍による殺傷が圧倒的でした。
戦の戦死者のたいはんは、槍によるものです。
鉄砲や矢は、想像するほど、致命傷ではなかったともいわれているそうです。
心理的には恐怖そのものですが、とにかく命中率が低かったようです。
戦国武士に槍の名手がたたえられるのは、そのためです。
討ち入りでも、そうだったかもしれませんね。




ここからは、自動車を制御して、車道を歩きます。
現代は、幕府ではなく、警察にしっかり守られながらの行進です。

交差点では、自動車をすべてストップ。
右に折れ、いよいよ泉岳寺が見えてきます。
沿道は人でいっぱい。
交差点の角のお社は、「車町稲荷神社」です。

ここから泉岳寺へは、一直線の道です。

47名の行列とは、結構 大きなものですね。
ここからは、泉岳寺まで たいへんな人混みで、私は、もう行列についていくことがむずかしい状況でした。
私は、行列から だいぶ遅れて、泉岳寺本堂にたどり着きました。

義士行列は、本堂から、浅野家墓所に向かいます。

浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の墓前から、義士たちの「オー」という大きな声が聞こえてきました。
なかなか近づくことはできません。

義士たちは、墓前より戻ってきました。
周囲にいた人々から、大きな拍手や掛け声がかかっていました。

義士たちは、今日の立派な仕事を終えて引きあげていきました。

現代の赤穂義士の行列の、一連の行動は以上です。

実際の赤穂義士の行動は、細かくいえば、もう少し いろいろあったようですが、おおむね このような流れで行われたようです。
細かい部分まで再現するとなると、この限られたスペースと混雑状況では不可能かと思います。

* * *

今日の この行列の義士たちからすれば、当日の午前中には行進を開始し、少なくとも4~5時間は歩いたことでしょう。
行列の四十七士の中には、結構なお歳の方もおられましたし、外国人も数人入っていました。
吉良の首を持った方も、大石に次ぐ人気にも見えました。

* * *

現代の義士さんたち…、沿道の人々が想像する以上に、たいへんな役目だったのではと思います。

毎年、同じことを繰り返す、このことがいかにたいへんで、大切なことか…。
江戸時代の本物の赤穂義士たちは、どこかできっと喜んでくれていることでしょう。
また、来年のこの日、どうぞ がんばってください。

* * *

次回「聖なる地(2)源泉と海岳の寺」で、まず一つ目の聖地「泉岳寺」のことを、もう少しだけ書きますね。
その後に、泉岳寺周辺の、他の三つの聖地を巡ります。


2019.12.16 jiho
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