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みゆきの道(7)水天宮の行くところ

【概要】有馬家の水天宮。平重盛と人形焼き。新時代の免震神社。重盛永治と重盛永信堂。蛎殻町と有馬小学校。平清盛と唐菓子。箱崎ジャンクション。


コラム「みゆきの道(6)有馬さまの火と水」では、江戸時代に今の東京 三田(みた)にあった有馬家や水天宮(すいてんぐう)のことを書きました。

時代は、江戸時代から明治時代にかわり、三田の有馬屋敷はなくなります。
その三田の有馬家 上屋敷にあった大人気の「水天宮」は、赤坂の地を経て、1872年(明治5年)に、東京の「蛎殻(かきがら)町」の地に移転します。
このあたりには、有馬家の中屋敷がありました。


◇水天宮は新しい地へ

江戸時代、もともと この蛎殻町(かきがらちょう)付近は、隅田川河口付近で、海のすぐ近くでした。
今でも、東京内陸部の山の手地域からみると、東京湾のすぐ近くという印象です。

この地域を少し説明しますと、北から南の海側に向かって、人形にちなんだ「日本橋人形町」、牡蠣(かき)の殻にちなんだ「日本橋蛎殻町」、明確ではありませんが福岡の筥崎宮に由来?している「日本橋箱崎町」、そして人形町と蛎殻町の西側に、漁師の網置き場?の「日本橋小網町」があります。
ひとつの大きな商業圏といえます。
その名のとおり、日本橋から1キロも離れていない地域です。
今も、時折、潮のかおりが漂う、古くて新しい雰囲気の地域です。

* * *

江戸時代に、江戸の経済の中心である日本橋、金座、銀座のすぐ近くで、当時の物流の主流である水運・海運の基地であった場所です。
船で運ばれてきた物資や、漁業の産物にあふれ、人も物も金も集まってきました。

江戸時代は、商業地域というだけでなく、全国の大名家の中屋敷や下屋敷も置かれます。
この地域には、多くの大名家の「蔵屋敷(くらやしき)」が建ち並んでいました。
地方の各藩の物産品は船で江戸に運ばれ、大名家の蔵屋敷に貯蔵されます。
そこから江戸の各地に運ばれます。
大名家の私用物資から、各藩の商売物資までありました。

人・物・金が集まるところには、文化・芸能・花街の華も開きます。
歌舞伎や人形浄瑠璃などを行う芝居小屋ができます。
日本全国から、豊富な海産物や地方の名産が集まることで、料理の名店などもできます。

お醤油も、お隣の千葉の銚子から水運を使って、次々に供給されてきます。
江戸湾は、かつて海苔の大養殖地でした。
「江戸前寿司」は江戸時代後期に生まれますが、捕りたての魚、醤油、海苔…、これだけそろえば、新鮮な寿司(鮨)が誕生しないはずがありません。
江戸前寿司は、その後、日本中に広まります。

地方からは、その土地土地の名産品などを持った人たちが、この地域にどんどん集まってきたのです。
後で、人形焼きのことを書きますが、さまざまなお菓子もやってきます。

まさに日本橋も含めて この地域は、江戸の経済、文化、芸能、食の中心地となっていきます。

* * *

明治時代になると、東京の芝・三田の地域では、財閥たちの迎賓館、政治家の邸宅、大学などが建ち並びます。
そうした中、水天宮は、芝・三田地域から、人・物・金がたくさん集まる、この地にやってくるのです。

さすが、コラム「みゆきの道(6)有馬さまの火と水」で書きました、商売上手の有馬さまです。
水運、経済、文化、商売につながりの深い、この地域にやって来たことは、まさに、新しい時代の流れに乗ってやって来たということかもしれません。


◇日本橋川

日本銀行が、1882年(明治15年)に最初に建てられるのは、今の日本橋ではなく、箱崎町の永代橋近くの、今の日本IBMのビルの敷地です。
関東大震災後に、日本橋に移転します。

蛎殻町、人形町、箱崎町、小網町のひとかたまりの地域の隣には、日本橋川をはさんで、対岸に「兜町(かぶとちょう)」があります。

江戸時代のお米の商品取引は大阪の堂島が有名ですが、明治初期の初めての株式取引所の設立は、この兜町です。
今も、東京証券取引所があります。

渋沢栄一の日本最初の銀行「第一銀行」(今のみずほ銀行)も、この兜町にありました。
明治期の第一銀行を描いた絵は、教科書によく出てきますね。
この建物は、織田信長の安土城の姿を思い起こさせますね。

* * *

この日本橋川は、ある場所で神田川から分流し、隅田川に飲み込まれる、わずかの距離の河川です。
それほどの川幅ではありません。
小さな自然の川から始まり、まさに江戸時代に、完全に人間がつくりあげたような河川です。

ですが、現代にいたるまで、各時代の栄枯盛衰を見てきた川です。
この日本橋川の上には、今、首都高速道路が通っていますので、上空から川を見ることはできません。
今、この道路を撤去し、地下に高速道路を移す計画が動き始めています。
東京オリンピック後、10~20年ほどかけて景観が大きく変わっていく予定です。
高速道路でおおい隠されてきた、東京の歴史、日本の歴史を飾ってきた日本橋川が、いよいよ上空からも見えるようになります。
60~70年ぶりに、やっと川面に、日の光があたることになりますね。
東京に、歴史のある、されど新しい風景が、生まれることでしょう。
この歴史だらけの日本橋川流域のことは、あらためて ご紹介します。

蛎殻町、人形町、箱崎町、小網町のひとかたまりの地域は、もちろん日本橋川流域の経済地域です。
人・物・金が、日本中から集まる地域の隣に、金融の中心地になる兜町(かぶとちょう)が形成されていったのは当然のなりゆきですね。


◇水天宮の行くところ

明治時代、この地域には、早くに路面電車が通り、水天宮は人々をますます遠方からも集めることになります。
人口の急増は、出産ラッシュも生みますね。
明治時代の水天宮への大行列の写真には驚かされます。
水天宮は、人集めにも大貢献でしたね。

* * *

この水天宮のすぐ近くには、有馬小学校という学校があります。
有馬小学校と隣接する蛎殻公園は、江戸時代の大名屋敷の跡地で、蛎殻公園は大名屋敷を思い起こさせる風情を再現しています。
江戸時代の雰囲気を感じさせてくれる、なかなかの風景です。

東京には、学校と公園と地域防災を組み合わせた、関東大震災からの復興の位置づけの「復興小学校」と呼ばれる建物がいくつか残っています。
この小学校は復興小学校当時の建物は建て替えられたようですが、その雰囲気が継承されているようにも感じる、立派な校舎です。

この有馬小学校は、その名のとおり有馬家が残してくれた産物です。
1873年(明治6年)に、裕福な有馬家当主からの寄付金で、「幼童学所」という教育施設が建てられ、翌年、公立の小学校となります。
個人名が残る公立小学校は、たいへんめずらしいですが、水天宮といい、こうした教育施設といい、この地域への有馬家の貢献ははかりしれません。

* * *

江戸の芝・三田地域での有馬家の貢献は、火の見やぐらや水天宮の「有馬パワー」として、コラム「みゆきの道(6)有馬さまの火と水」で書きました。
有馬家が水天宮とともに行くところ…、そこは人・物・金を集め、増大させ、その地域の経済や文化を繁栄させるのかもしれませんね。
競馬の有馬記念でがっぽりというお父さんも多いかも…。

水天宮と有馬小学校と有馬記念、そして有馬温泉も、みな「有馬家」でつながっているとは、恐れ入ります。

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下の地図は、この「みゆきシリーズ」で何度も登場しているものです。
黄色の部分が、江戸時代に大名屋敷がたくさんあった、江戸の政治的・軍事的に重要な地域です。
緑色の8番の場所が、久留米藩有馬家の上屋敷があった三田の場所で、隅田川河口域の9番の地に移転しました。

◇水天宮の新しいお社

近年、蛎殻町の水天宮は建て替えられました。

以前の社殿も、風格と味わいのある社殿でしたが、今度は、まさに超現代的…、本殿自体は古式の姿ですが、全体的には、次代に向けた未来の神社の姿をしています。

下の写真は、水天宮を背面側から写しています。
正面は写真の奥からとなります。
奥の白い低層のビル建物も神社の一部です。

都会の神社の場合、大きなビルを通り抜けて本殿に向かうということも増えてきました。
私は、こうした単純な通り抜けではない、新しい演出手法も嫌いではないです。
現代の都会の中では仕方のないことでもあります。

まず、ビルを門のように見立て、一瞬、かなり暗い通路を通ります。
下の写真は、あえて、かなり明るく見えるようにしてありますが、実際にはかなり暗いです。
暗い中を、階段を登っていくのです。
階段の下では、まだ、本殿はまったく見えません。

何か、天への階段を登っていくような心持ちで、暗い階段を登っていくと、光の中から本殿が、社殿上部から少しずつ目に飛び込んでくるのです。
おそらく、これは計算した演出だと思います。


登った先は、水天宮、有馬家、平家を感じさせる空間が広がっています。
隣に自動車が走る道路は見えず、ビルがニョキニョキ、周囲を取り囲んでいるのです。
何か、タイムマシーンにのって、現代の都会の一角に、古い時代が降りてきたような雰囲気です。





参拝者は、知らない間に、鳥居を通ってきます。
神社の雰囲気をかもし出す社務所のような建物も、写真では鳥居の後ろにある 窓を最小限にとどめたビルも、デザインがよく考えられていますね。
神社のクオリティを維持するためには、こうした部分のデザインは非常に重要ですね。

お宮では、お腹の大きな女性や、腹帯を求める方々を多く見かけます。
安産祈願の申し込みの行列も見ました。
この地域の巡回バスは、たしか「子宝号」とか、「安産号」とか書いてあったように記憶しています。
地域全体で、安産を後押ししているのは、とても微笑ましく感じます。

下の写真のワンちゃんの彫像も、思い出深い方が多いことと思います。
かつての「お百度石」の存在にも、似ていますね。
お母さんの干支の玉をさするのか、生まれてくる子の干支の玉をさするのかは、よく知りません。


さあ、かっぱさんが、何人いるでしょうか?
お皿から、水がこぼれ落ちそうな子もいますね。

令和改元の大嘗祭を記念した御朱印もありました。

水天宮が、時代にあわせて どんな姿になろうとも、お母さんを安心させてくれる、そんな水天宮の雰囲気は、きっと江戸時代から変わっていないのではと思います。


◇まるごと免震

新しい水天宮のすごさは、他にもあります。
まさに未来の神社の姿をしています。

神社というと、地面の上にどっかと鎮座しているものですが、この新しい水天宮は、地盤の土台ごと、免震構造のかたまりとなっています。

地震時に免震ダンパーにより、社殿だけではなく地面ごと動くというものです。
下の写真のとおり、少し高い位置に社殿があります。
水害にも対応できそうですね。

土台と社殿を一体にして振動させる際に、下の写真の植え込みの部分が、地震時のクッション(緩衝材)となります。
ようするに、地震時、ここで地球とは切り離されるのです。

国宝級の歴史的な建物にはなかなか免震装置を取付けにくいですが、その敷地の地面まるごと免震構造にするというのは斬新なアイデアですね。

今は、建物自体を免震構造にしているケースがほとんどですが、ひょっとしたら、これからは、地面や土台まるごと免震構造なんてことも可能なのかと思ってしまいます。
いつかは、うちの町内もまるごと…。



この水天宮のすぐ近くには、下の写真のような、有名な「箱崎ジャンクション」という、首都高速道路のものすごい立体交差構造物もあり、建築マニアには、たまらないスポットの二連発ですね。


本コラムでは、水天宮自体の歴史や概要については割愛します。
下記をご覧ください。

久留米の水天宮本宮サイト

東京の水天宮サイト


◇重盛

東京のお土産で知られる「人形焼き」は、この水天宮のある蛎殻町の隣の「人形町」が発祥です。

この街には、板倉屋、重盛永信堂、亀井堂という「人形焼き御三家」の老舗のお店がありました。
今は、板倉屋と、重盛永信堂が残っています。

* * *

本コラムは歴史コラムですので、その店名のインパクトで、「重盛永信堂」を少しご紹介します。

信州の伊那(いな)の出身の重盛永治さんが、1917年(大正6年)に創業したのが、重盛永信堂です。

歴史ファンの方々でしたら、「重盛」と耳すると、すぐに「平重盛(たいらのしげもり」を思い出すことと思います。
平清盛の嫡子で後継者といわれた重盛でしたが、清盛よりも先に病気で無念の最期となります。
武勇や政治力においても、相当に有能な武将であったようで、重盛が生きていたら、その後の平家の滅亡はなかったかもしれません。

水天宮は、清盛や重盛が亡くなった後に滅亡した平家一門や、安徳天皇を弔うという側面がありますね。

そして今、この水天宮の横に重盛永信堂という人形焼きのお店があるのです。
私は、その並び建つ光景を初めて見た時に、ちょっとした衝撃を受けました。



信州は伊那出身の重盛さんの店は、大正6年に人形町で創業し、水天宮の横の今の場所に昭和元年に移転します。
ですから、その頃は、すでに水天宮はこの場所にありました。

* * *

実は、伊那の山あいの、ある地域は、平家の落人たちが逃げ込んで住みついた地域であるのは間違いないといわれています。
平家の落人たちは、鎌倉時代に、たいてい山あいの最も奥にある地域に、外界から隠れるように暮らしていました。

重盛さんが、本当に平重盛の子孫だったのか、私は知りませんが、店の場所を人形町に選んだのは、平家を弔う水天宮がこの場所にあったことが理由だったのかもしれません。
自身のルーツと水天宮を結びつけたのかもしれませんね。
なぜ、「重盛」という名が、水天宮のすぐ横に置かれたのか。
そこには何かの理由や思いがあったはずです。

* * *

平清盛(たいらのきよもり)の8人の息子たちのうち、重盛(しげもり)と基盛(もともり)は早世しましたが、他の息子たちである宗盛(むねもり)、知盛(とももり)、重衡(しげひら)、盛俊(もりとし)、知度(とものり)、清房(きよふさ)や、平家一門の教盛(のりもり)、経盛(つねもり)、資盛(すけもり)、有盛(ありもり)、行盛(ゆきもり)らも、源平合戦の中で亡くなっていきました。

「平家にあらずんば人にあらず」と語った平時忠(ときただ)や、他の家臣たちは、したたかに生き残ります。

重盛永治さんが、時忠らではなく、落人になった重盛一族の子孫であったとしても不思議はありません。
そして、平家一門の、他の誰でもない、「重盛」というお名前なのかも重要な意味がありそうです。
平家の落人たちの子孫からしたら、「平重盛」という名前には、特別な思いがあったことでしょうね。
重盛さえ、生きていてくれれば…。

* * *

よく平家の遺構には、独特なかたちの灯篭(とうろう)が建っていますね。
平重盛は「灯篭大臣」と呼ばれていましたが、これは京都の六波羅の屋敷の周囲に48本の灯篭を建てたことによるそうです。
今の水天宮も敷地の周囲に、小さな灯篭が幾本も立っています。

平重盛は、重盛永治となって、水天宮を守るために、この地に戻って来たのかもしれませんね。
「重盛永治」というお名前も、「重盛永信堂」という屋号も、何かの意味を感じてしまいます。


◇だれの顔?

米粉や小麦粉を油で揚げた甘い菓子は、奈良時代や平安時代の頃に、中国から日本に持ち込まれたそうです。
「唐菓子(からがし)」と呼ばれたようで、平清盛も好きだったようです。
たしか、NHK大河ドラマ「平清盛」でも、清盛が食べるシーンがあったと思います。

その唐菓子は、果物や木の実などの形に成型したものであったようです。
何かの形に似させた菓子という意味では、「唐菓子」と「人形焼き」は似ていますね。

平家に関係の深い厳島神社(いつくしまじんじゃ)がある広島には、「もみじ饅頭」という名物がありますが、これも人形焼きによく似ていますね。

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有名な「人形焼き」のお菓子には、今、七福神の顔がかたどられています。
この地域の七福神のお社にちなんだもののようです。

ですが、ひょっとしたら、重盛永信堂の七福神の人形焼きの顔は、本当は、海に散った平家一門の武将たちの顔なのかもしれません。
七福神となって、水天宮のこの地に戻って来たのかもしれませんね。

たくさんの「〇盛」たちのお顔なのかもしれません。


人形焼きの「人形町」…、次回のコラムで、もう少しご紹介します。

この地にやって来たのは、有馬家の水天宮や、人形焼きだけではありません。
あの「座」も、あの西郷さんも、やって来ました。

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「みゆきの道(8)花とお人形」に続く

* * *

本年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。
皆さまに 良い年でありますように…。

2020.1.1 jiho
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