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みゆきの道(8)花とお人形

【概要】人形町のからくりやぐら。人形浄瑠璃。竹本義太夫と近松門左衛門。明暦の大火(振袖火事)。遊廓 吉原。曽根崎心中と心中ブーム。江戸の大火と木やり。滝沢馬琴の南総里見八犬伝。甘酒横丁・今半・玉ひで。


コラム「みゆきの道(7)水天宮の行くところ」では、明治時代初期に、今の東京都中央区 蛎殻(かきがら)町にやって来た水天宮のことを書きました。
今回のコラムは、蛎殻町のお隣の「人形町(にんぎょうちょう)」をご紹介いたします。


◇江戸の香りの人形町

今の水天宮のすぐお隣に「水天宮通り」があり、それを北に向かうと「人形町通り」と名称が変わります。
下の写真の交差点の左奥が「人形町通り」です。

下の写真の中央部奥に、水天宮の屋根が見えます。
この通りが、「人形町通り」です。

人形町通りには、「人形町からくりやぐら(時計)」という、高さはそれほどではありませんが、一見、「火の見やぐら」のような建物が建っています。
水天宮に関係の深い有馬家の「火の見やぐら」や、歌舞伎の芝居小屋の案内板を意識したデザインかもしれません。

この「人形町」の名称は、江戸時代に大流行した「人形芝居」や「からくり人形」の人形師や人形職人たちが集まって暮らしていたことに由来します。
お人形を売るお店も並んでいたようです。
そのため、「人形町からくりやぐら」が、今ここにあるのです。

* * *

このやぐらは、毎正午に、さまざまな「からくり仕掛け」が作動し始めます。
「町火消し」の姿の人形が登場し、「木やり」の唄声に始まり、さまざまな仕掛けの動きを見ることができます。
ちなみに、江戸の町火消し「いろは47組」のうち、人形町は「は組」でした。
小規模な仕掛けではありますが、私は結構 好きです。

「木やり」の文化が、日本の他の地域にどれだけ残っているのか私は知りませんが、東京の下町あたりには、結構、愛好家が残ってくれています。
結婚式に「木やり」が披露されることもありますね。

「木やり」を、そうそう耳にするチャンスはありませんが、江戸時代からの歴史を感じさせてくれる、味わい深い内容です。
お爺ちゃんたちの、さっそうとした、はっぴ姿は「江戸の粋(いき)」ですね。

「人形町からくりやぐら」の動画は、ユーチューブあたりにも結構アップされていますので、機会がありましたら、どうぞご覧ください。

この地域の子供たち…、このやぐらと並んで写真を撮って、その成長を記録していく家族も多いと聞きます。
いつか、やぐらを越えるほどの人間になってくださいね。

個人的には、人形町通りの両側に、こうした やぐらが、壮大に十数墓は建ち並んでほしいですが…。




◇人形浄瑠璃の街へ

江戸時代は、「人形町」ではなく「人形丁」と書きました。

日本には、「浄瑠璃(じょうるり)」という、三味線を伴奏に、太夫(たゆう)が語り口調で、物語を語る伝統芸能がありますね。

その歴史をさかのぼると、かなり古い時代までいきますが、何かを言葉で伝えることを生業(なりわい)、使命と考える人は、いつの時代もたくさんいましたね。
平安時代の「琵琶法師(びわほうし)」もそうした伝道者の僧のひとりでした。
琵琶の伴奏での、絶大な権勢を誇った平家一門が滅亡していくお話しには、庶民であっても、教訓にできる内容がたくさん詰まっていますね。

鎌倉時代には、琵琶の伴奏による「平曲(へいきょく)」と呼ばれる音楽と語りのスタイルが確立します。
この平曲が、浄瑠璃へと進化していきます。

* * *

浄瑠璃へと進化した後、江戸時代の中頃、大坂で、竹本義太夫(たけもとぎだゆう)が「義太夫節」を生み出し、大人気を博します。
同じ頃、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)も大活躍します。
近松は、浄瑠璃や歌舞伎の作家です。
1703年初演の「曽根崎心中(そねざきしんじゅう)」は代表作ですね。

この二人の天才の同時期の出現が、浄瑠璃を一大芸能・一大芸術にまで引き上げます。
現代の時代劇ドラマでも、この二人は、時折 登場しますね。
浄瑠璃の詳しい説明は、ここでは割愛します。

* * *

こうした浄瑠璃に人形が加わり、「人形浄瑠璃」となります。
太夫の語り、三味線の伴奏、人形遣いによる人形…、この三つが組み合わされたものが「人形浄瑠璃」という伝統芸能です。
前述の二人の天才の出現により、人形浄瑠璃は大坂から江戸に、そして日本中で大人気になっていきます。
今は、「文楽(ぶんらく)」という呼ばれ方もしますね。
今や、世界文化遺産です。

* * *

前回コラム「みゆきの道(7)水天宮の行くところ」で書きましたとおり、蛎殻町や人形町あたりは、まさに、今でいう「ハブ空港」のような場所です。
各地方から人・物・金・文化が集まり、そして、それらを江戸の街だけでなく、地方に伝えていく役割を果たした場所です。

江戸での成功を夢見て、日本各地から、太夫、役者、人形遣い、人形師、芝居作家、三味線弾きなど、人形浄瑠璃や歌舞伎の関係者が、この地域に集まってきます。
「人形浄瑠璃」と「歌舞伎」は、題材が同じものも多く、芝居という意味では、非常に近い性格も持っていますね。

人形町は、「人形浄瑠璃」や「歌舞伎」の街となり、それを上演する芝居小屋である「座(ざ)」も次々に集まってきた地域なのです。
こうして、「人形」という、地名としては風変りな名称が定着していくのです。

「座」のお話しは、次回のコラムで書きます。


◇心中

前述の近松の「曽根崎心中」は、江戸時代中頃の江戸社会に、ある種の「心中(しんじゅう)ブーム」をつくったそうです。
近松は「心中もの」の浄瑠璃を連発します。

幕府は、社会でおきる「心中ブーム」騒動の対策に手を焼きます。
おそらく「心中詐欺」も横行したでしょう。
詳細はここでは割愛しますが、遊女と男たちの「心中話し」や「心中事件」がたくさんおこります。
こうした恋愛悲劇は、遊女と男だけでなく、武家のお姫様と丁稚(でっち)の男、裕福な豪商の娘と僧侶の男…など、たくさんの男女関係がありましたね。
江戸時代も、男女関係のもつれ話しは、庶民の大好物でした。

古典落語の「品川心中」は、暗いイメージの心中を、あえてこっけいに笑わせくれますね。
まさに、人の心の中をグサッと描いています。

幕府は、前述の「心中もの」の浄瑠璃の内容にも、かなり目を光らせますが、逆に庶民の心に火をつけてしまいそうです。
江戸城大奥でも、この話しで持ち切りだったでしょう。
しばらく後、八代将軍 吉宗が紀州からやって来て、徹底的に、大奥と江戸の風紀を取り締まります。
そのきっかけが、「絵島生島事件」で、このことはコラム「よどみ(3)大奥・絵島生島事件」で書きました。
吉宗は、芝居小屋も大掃除しました。


◇明暦の大火「振袖火事」

これは「心中」ではありませんが、豪商の娘と僧侶の男の悲恋話しこそ、あの「明暦の大火(振袖火事)」の出火原因とされたお話しです。
この1657年の江戸の大火は、「江戸三大大火」のひとつと呼ばれるだけでなく、ロンドン、ローマと並んで「世界三大大火」と呼ばれることもあります。
おそらく日本史上、最大の街の火災だったのではないでしょうか。
「応仁の乱」の京都でも、関東大震災や東京大空襲でも、ここまでは焼けていません。
広島や長崎の原爆は別として。

この「明暦の大火」は、人形町の運命を変えただけでなく、江戸城の天守や本丸御殿を失い、江戸の街の大半を焼失させ、その後、江戸の街は大改造されます。

今の東京でいえば、人形町のある中央区・千代田区・港区・文京区の全域、西の丸以外の江戸城全域、豊島区と台東区の一部を焼失したといったところです。
当時の江戸の街の八割ほどは焼けたと思われます。
新宿区・渋谷区・目黒区・品川区・大田区・江東区など前述以外の区は、まだ江戸の街とはいえない里山のような地域でした。
上野や浅草寺周辺だけは無事でした。


◇江戸の大火と鎮魂歌

270年ほどの江戸時代を通して、「大火」と呼ばれる大規模な街の火災は、江戸で、なんと49回だそうです。
同じ期間に、京都が9回、大坂が6回ですから、いかに江戸が多かったかがわかります。

紀伊国屋文左衛門(きのくにや ぶんざえもん)は、江戸復興の材木商で大商人となりますが、やはり大火で廃業します。
本コラムの冒頭のほうで、「木やり」唄のことを書きましたが、この唄はもともと、材木を扱う職業や、とび職の人たちの、労働の際に気合を入れる歌であったようです。

* * *

隅田川を挟んで、この人形町の地域の対岸は、今、江東区ですが、このあたりは、江戸時代中頃は まだ海岸地域で、その後、深川と呼ばれる埋めて地となり、そこに大火からの江戸復興のための材木の基地のような場所がつくられ、そこで巨万の富を得る材木商が次々に生まれてきます。
大火は、たくさんのものを失いますが、新しく成長する仕事や職業も生んでいきました。
江戸復興に、どれだけの材木が必要だったのか、想像もできません。

材木をよく知る人間や、家を建てるとび職の人間が、大火の延焼を食い止める「町火消し」という今の消防隊員になっていくのは、そうした背景もありました。
大火と材木という、何か不思議な江戸のサイクルのようにも感じます。

今でも、大規模な材木の貯木場を「木場(きば)」と呼び、海の上にたくさんの材木を浮かべておきますが、今、東京の海岸線は埋め立てのため、どんどん沖に向かって遠くなっています。
海の上の貯木場の「木場」も、どんどん遠くなっていっています。

深川が貯木場であった時代は、はるか昔のことで、今の深川には、その地名と「木場公園」しか残っていません。
でも、「木やり」文化と、粋でいなせで、やせ我慢の庶民気質は、そのまま残っていますね。

やせ我慢の忍耐力は、ひょっとしたら大火の中で、炎と戦うところから養われてきたものなのかもしれませんね。
それに、あの「木やり」唄は、今はたいてい、お祝いの席や、めでたい場所で歌われていますが、あの独特で荘厳な雰囲気は、何となく鎮魂歌にも聞こえてきます。
ひょっとしたら、大火で命を落とした「火消し」たちを偲ぶ唄だったのではとも思ってしまいます。
もし江戸の大火の鎮魂歌であるなら、決して絶やしていいものではありませんね。


◇なぜ、また大火?

江戸で大火が多かったのは、単に人口が多く、街が大きかったことが理由ではありません。

江戸が権力闘争をくりかえす政治の中枢だったことと、治安が維持しきれないほどの犯罪都市になったことが、その原因といわれています。
戦争のない平和な安定した時代が長くなり、命の大切さや倫理観が、庶民の中で低下し始めるのも、江戸時代中頃からです。
庶民のおかしな行動が出火原因になったりします。
五代将軍 綱吉は、それを大きく嘆いており、その一手が「生類憐みの令」でした。
この法令に関しては、コラム「お盆に思い出す」で書きました。

ある頃から、江戸では もはや、火を出さないことよりも、火災をいかに広げないかに重点が置かれていきます。

* * *

「明暦の大火」がおこった1657年は、絶対的な権力を誇った三代将軍 家光が48歳の若さで亡くなってから6年後で、まだ若年の四代将軍 家綱の時代です。
幕府の権力機構の改変期でもあり、激しい政治の権力闘争の始まりの時期です。
この後の五代、六代、七代将軍の時期は、壮絶な権力闘争の時代に入ります。
激しい権力闘争は、大奥も巻き込んで、幕末まで断続的に続きます。

* * *

近年の研究で、この「明暦の大火」の出火原因が、ある娘の振袖ではなかったことが、だいぶ解明されてきましたね。
どうして悲恋の話しや、娘の振袖と結びつけたのかはわかりませんが、大都市の莫大な数の庶民の風評の威力を利用して、何かを隠そうとした可能性もあります。
どうも政治権力の暗躍の煙の臭いが漂います。
江戸庶民の恨みの矛先を、とっくに死んでしまった若い娘さんの悲恋話しと振袖に向かわせるとは、あまりにも おかしな話しです。
この大火のお話しは、またあらためて書きますね。
ですが、人形町の歴史は、この「明暦の大火」で激変しました。

江戸は、大火のたびに、街の大改造が行われ、火災被害を避けて郊外に向かう寺や屋敷、商店、職人集団が続出します。
幕府の政策で行う場合もありました。
こうして、さらに江戸の街は郊外へと都市化が広がっていき、世界最大の人口の都市へと進んでいくのです。


◇遊郭誕生

さて、この人形町には、明暦の大火よりも ずっと前、江戸時代の初期に、遊女の仕事場である大規模な「遊廓(ゆうかく)」がつくられます。
遊廓や、とばく場(ギャンブル場)は、人が集まる場所ではなく、人里離れた「街はずれ」につくられることがよくありました。
戦国時代の武将の中には、長期の戦の場合、こうした遊廓やとばく場を、陣中につくることもありました。

とはいえ、1657年の「明暦の大火」の少し前の時代は、人形町はすでに江戸の街はずれなどではなく、大歓楽街となっていました。
人形浄瑠璃や歌舞伎の芝居小屋、寄席もこの地域に集まってきていたのです。
いつの時代も、人・物・金が集まるところに、娯楽産業はやってくるのです。

芝居小屋はあるは、寄席はあるは、遊廓はあるは、料理の名店はあるはで、昼も夜も、日本橋とはまた別の華やかな街であったのかもしれません。
日本橋がちょっとカッコよく見える表通りの商売の拠点である繁華街なら、人形町周辺は、物流や問屋の拠点というだけではなく、仕事が終わってから遊びに来る、裏通りの歓楽街でもあったのかもしれませんね。
今の東京でいえば、霞が関や大手町で仕事して、帰りに銀座や新橋に立ち寄るというようなことでしょうか。

* * *

どの時代の政権でも、どの国でもそうですが、犯罪や暗躍の温床になる可能性のある こうした歓楽街やギャンブル場を管理統制することが、権力者や政権には求められていました。
今の日本の「カジノ問題」も似ていますね。
前述の戦国武将の軍の陣中にあった、そうした場所も、実は敵の隠密行動の中心的な場所となっていました。
戦国や江戸の時代に、「ギャンブル依存症」の問題などは眼中にありませんでしたね。

* * *

この人形町にあった遊廓は、前述の「明暦の大火」の後、別の場所に移転となります。
この遊廓のお話しは、後で書きます。


◇「人形」とは…

いずれにしても、太夫による派手な語り、三味線の心地よい音色、不思議なからくり人形の面白さ、ド派手な歌舞伎のパフォーマンス、そして心中というギリギリの刺激…、まさにエンターテイメントとしての娯楽産業が、江戸では、この人形町で一気に花開きます。
そして遊廓を含めた歓楽街も、そこにはあったのです。

繰り返される江戸の大火や、時の権力者の意向で、そうした娯楽産業の拠点は、あっちに行ったり、こっちに行ったり、集まったり、バラバラになったりしていきました。

* * *

この人形町の「人形」という文字の中には、「浄瑠璃」の人形だけではなく、さまざまなものが詰まっていそうですね。

江戸時代の、人形町のあるこの地域を語る上で、重要なキーワードを少しあげてみます。
水運、大名家の蔵屋敷、江戸湾の海産物、人形浄瑠璃、人形遣い、人形師、芝居小屋、歌舞伎、遊廓、歓楽街、問屋、大火、銀座といったところでしょうか。
「人形町」と耳にして、イメージするものが、幅広くありそうですね。

人形町とは、「人形浄瑠璃」の「人形」というより、「人間がつくる、いろいろな形の街」のようにも感じてしまいます。
とはいえ、他所(よそ)ではなかなか見られない、ここだけの歴史を持つ「人形町」ですね。


◇人形文化は続く

昭和生まれの人形作家である辻村寿三郎さんの人形館「ジュサブロー館」も、近年まで人形町にありました。
今は、少年期を過ごした広島県三好市に移転しています。

辻村さんは、歌舞伎劇団に入るため上京し、そこで小道具制作を始めたそうです。
私は、子供の頃に、NHKテレビの辻村さんの人形劇番組「新八犬伝」(滝沢馬琴の小説「南総里見八犬伝」を描いた人形劇)を夢中で見ていました。
「仁・儀・礼・智・忠・信・考・悌」という八つの玉と、「犬」の文字が入っている名前の八人の剣士のお話しです。
辻村さんは、人形制作教室を開催されるなど、人形文化の伝承に尽力されていますね。
すばらしいことです。

辻村さんの人形劇「新八犬伝」は、まさに、子供向けの人形浄瑠璃と考えていいのかもしれませんね。
この番組から「文楽」の世界に向かった人もいたかもしれません。
あるいは、「ゆるキャラ」や「お人形」好きになっていった方も…。

人形浄瑠璃の人形制作技術は、これからも、日本にしっかり残っていってほしいですね。


◇八犬伝

滝沢馬琴(たきざわ ばきん)の小説「南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)」は、次回コラムで書きます歌舞伎の芝居小屋「江戸三座」が、浅草近くの猿若町に集められた1842年に発表されます。
前述の竹本と近松の百年後くらいです。
この頃に、江戸時代の歌舞伎芝居小屋の隆盛期をむかえます。
その影響なのか、残っている小説の八犬士の絵は、まるで歌舞伎役者のようで、大迫力ばかりですね。

先日、東京 歌舞伎座の近くにあります「新橋演舞場」の前を通りましたら、若い演者による現代風の「八犬伝」の演目のポスターを見ました。
今でも、しっかり「八犬伝」の舞台を行ってくれているのですね。
うれしいことです。

* * *

私は、もう何十年も、「八犬伝」の世界に触れていません。
今、テレビの中では、犬や猫だらけで、いつのまにか忘れていました。
また、触れてみようかな。
8人の犬たち。
犬塚信乃、犬川荘助、犬山道節、犬飼現八、犬田小文吾、犬江親兵衛、犬坂毛野、犬村大角。

江戸時代の架空の小説とはいえ、実在した関東管領の「扇谷(おうぎがやつ)上杉家」が、悪役にされているとは、なんともすごい話しです。
江戸時代に「吉良家」はすでに悪役の仲間入りでしたから、ついでに親戚もだったのでしょうか…?


◇甘酒横丁

前述の「人形町からくりやぐら」のある人形町通りには、下の写真のように「甘酒横丁」が交差しています。
明治時代の初め頃にあった甘酒屋の「尾張屋(おわりや)」が、名称の由来だそうです。
尾張屋は、下の写真の交差点の角の黒色の建物の場所にありました。
写真の奥に向かって、緑豊かな「甘酒横丁」の通りがあります。

このあたりには、寄席の「人形町末廣(昭和45年まで存在。新宿末廣亭は別の寄席)」、「鈴本亭(関東大震災まで存在。上野の鈴本演芸場は別の寄席)」、「喜扇亭(昭和28年まで存在)」がありました。
明治時代は、計10軒あまりの寄席が、このあたりにあったそうです。
テレビも映画もない時代まで、芝居小屋と合わせて、庶民の娯楽の中心であったのかもしれませんね。
落語家の人気もすごかったことでしょう。

それにしても、人形町だけで10軒ほども寄席があったとは、さぞ、にぎやかな街だったことでしょうね。
笛、太鼓、三味線…、いろいろな音色が、笑い声とともに通りに聞こえていたことでしょう。
朝から晩まで、寄席のはしごをする人も、きっといたでしょうね。

せめて一軒だけでも、常設の寄席施設を人形町に復活させてほしいです。
人形町ほど、寄席が街の雰囲気にマッチする場所はないような気がします。
寄席から出てきたら、目の前に江戸風情が…、甘酒屋が…、べったら漬けが…、人形焼きが…、街路樹の下に縁台が…、と欲するのは昭和生まれの人だけかな…。
テレビやネットの時代では、やはり むずかしそうですか?

とはいえ、落語や講談は、近年、人気が復活してきました。
からくり人形町…、何か仕掛けてほしいものです。








◇老舗

実は、この人形町は、昭和の太平洋戦争時の東京大空襲で、奇跡的に焼けなかった地域です。
ですから非常に古い建物が残っていたり、江戸の風情を感じさせてくれる場所が少なくありません。
江戸時代から続く老舗のお店も、多数残っています。

「江戸」を街ごと感じることができる場所は、東京にはあまり残っていませんが、この人形町は、不思議に強く感じさせてくれる地域です。

今に残る、古い風情の「たたずまい」を少しだけ…。






こうした、日本の古い光景が、そこここに残っています。


◇幕末の英雄も

上の写真の小さな通りの向こうから、幕末の英雄が、着物と下駄の姿で歩いてきてもおかしくないように感じませんか。
そうです。
この少し奥で、薩摩から江戸にやって来た西郷隆盛が暮らしていました。

下の写真は、日本橋小学校と日本橋幼稚園の共用建物ですが、この場所に西郷が暮らした屋敷がありました。
今のこの校舎は、何か明治維新を感じさせるような豪壮な雰囲気をただよわせていますね。

* * *

その屋敷は、敷地面積が2633坪、書生や下男が20数名、犬が数頭いたようです。
西郷は、大久保や木戸らが欧米に視察に行っているあいだ、東京で政府の中心的な役割をしていました。
西郷は「明治6年の政変」で下野し、東京のこの屋敷を離れ、鹿児島に戻ります。
その後、東京に戻ることはできませんでした。


芝居小屋、老舗料理屋、甘味屋、新鮮な海産物、地方の数々の名産品…、西郷は、結構 いい場所で暮らしていましたね。
薩摩藩の上屋敷がある、江戸の芝・三田のお堅い地域とは大違いです。
江戸時代に暮らすなら、やはり こちらでしょうね。


◇吉原

下の写真(前述同)には、「芳人町(よしにんちょう)」とありますね。
古い町名です。

それにしても、古い井戸に、竹垣、常夜灯、家の前の植木の列…、まるで江戸時代の長屋のようです。

この「芳人町」の「芳(よし)」は、もともと「葭(よし)」と書いたそうです。

「葭」は「あし」とも読みますが、これは川などの水辺に群生するイネ科の植物のことです。
茅葺屋根(かやぶきやね)の材料にする植物ですね。
「茅葺(かやぶき)」とは、あし、かや、すすきなど、家の屋根材の総称です。

この隅田川河口域は、かつて「葭(あし・よし)」が群生する広大な地域であったようです。
江戸時代初期から、埋め立てや開拓が進み、徐々に都市化されていきました。

「よし」という読み方は、縁起や風評を考えて、「あし」と逆の意味の「よし」と読ませているものです。
「あし」は「悪し」を連想させるため、「悪し(あし)」を「良し(よし)」に変えているケースは、日本各地で多くありますね。
「葦(あし・よし)」という漢字も同じものです。
「葭」や「葦」を、さらに「吉(よし)」に変えている場合も多くありますね。

この人形町の地域には「葦屋町(ふきやちょう)」という名称もありましたが、茅葺屋根(かやぶきやね)の茅葺職人がたくさん暮らしていたようです。
茅葺屋根と、板に石載せの屋根、どちらが安上がりなのか、よくわかりません。
おそらく瓦屋根は、一般庶民には高嶺の花です。

この「芳人町」の古い町名は、「芳町(よしちょう)」、「葭町(よしちょう)」であったようです。

* * *

江戸時代の初期に、隅田川の水辺のこの葭(よし)の大きな原っぱを埋めたて、遊廓がつくられます。
そうです。
この「よし」は、江戸時代の江戸の有名な遊廓「吉原(よしわら)」の「よし」なのです。
「葭(あし・よし)」の原っぱが、遊郭の「吉原(よしわら)」になったのです。

家康の死後、当初は、駿府(今の静岡)から遊郭の一部を江戸に移転させたようです。
江戸時代初期の1617年、この人形町に、後に浅草の北に移転する遊廓「吉原」よりも前に、「吉原」がつくられたのです。
後に、大きな街になる人形町ですが、まだまだ江戸の街はずれの、隅田川河岸のさみしい地域の時代のことです。

1657年、前述の「明暦の大火」で街が広く消失し、「吉原」は浅草に移転となります。
この頃には、もはや人形町は、街が大きくなり、遊廓が人里離れた場所ではなくなっていました。

浅草の「吉原」の正式名称は「新吉原」、日本橋人形町の「吉原」は「元吉原」と呼ばれるようになります。
日本橋人形町の遊廓「吉原」は、40年あまりで歴史を閉じました。
日本史の長さからみれば、40年は短いですが、人の一生からみたら、十分に長い年月ですね。

* * *

浅草の吉原は、水堀に囲まれ、「大門」という大きな門があり、人の出入りをしっかり管理していましたね。
人形町には、今も「大門通り」という名称の通りが残っていますが、これは遊廓の名残りです。
人形町の華やかな歴史の一部を彩る、誇りある歴史の一部であると、この地域ではとらえられているのでしょうね。
私は立派だと感じます。

人形町にあった「吉原」も、結構 大きな敷地範囲であったようです。
前述の甘酒横丁も、かつての敷地の中です。

この地から遊廓がなくなり、花魁(おいらん)たちの歩く姿が消えても、華やかな街の雰囲気は、芝居小屋や寄席、老舗料理店がしっかり受け継いていくことになります。

「人形町」という古い名称も、江戸風情を残す街の華やかさも、この地域の誇りなのであろうと、強く感じます。


◇出発の地

この人形町は、今、最先端の高層ビルに囲まれながらも、足を踏み入れると、華やかな江戸の風情を感じることができます。
老舗料理店、和の甘味処、瀬戸物、呉服、和小物、佃煮、べったら漬、甘酒、人形焼き…。
そして水天宮も。
人形町は、江戸文化の中心地だった頃の、音色や風、粋(いき)を今でも自然に感じてしまう、そんな街なのです。

江戸時代の初め頃から、人形町のあるこの地域は、いろいろな「御人(おひと)」が、たくさん集まって来ては、ここから出発していく、そんな場所でした。
日本全国の各藩の藩士たち、芝居小屋の役者や太夫、人形遣いや人形師、料理人、漁師、船頭、各種の行商人や物流業者、西郷さん、そして花魁(おいらん)たちも…。

明治時代になって、水天宮もやって来ました。
首都高速道路の「箱崎ジャンクション」や、羽田と成田の両空港と都心を結ぶ「東京シティエアーターミナル」が、この地にやって来たのは偶然ではないでしょう。
これも、水天宮の「有馬パワー」のおかげ?
次は、誰が、何が、やって来るでしょうか?

到着地であり、出発地…、それが人形町なのかもしれませんね。

* * *

次回コラムでは、いよいよ、この地域で花開いた芝居文化と「座」について、書きたいと思います。
「座」という言葉は、日本史の各時代によって、その意味が微妙に違ってきます。
人形町の「座」とは、はたして何でしょうか?


「みゆきの道(9)The 浜町」に続く


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