「映像&史跡 fun」は、映像・テレビ番組・史跡・旅・動画撮影のヒントなどをご紹介するコラムです。


みゆきの道(9)The 浜町・前編

【概要】浜町と明治座。江戸三座(猿若三座)と中村勘三郎。吉原と花魁。待乳山聖天宮と山谷堀。浅草と江戸文化。歓楽哀情。出石永楽館。勧進帳と弁慶。六芸神。上洛と上府。歌舞伎座・内子座・八千代座・金丸座・南座。


コラム「みゆきの道(8)花とお人形」では、東京都の人形町や、人形浄瑠璃などのことを書きました。
今回は、その人形町のすぐお隣り、隅田川沿いの地域である「浜町(はまちょう)」のことや、江戸の演劇文化のことを書きます。


◇浜町

今、東京都中央区の「浜町」と聞くと、有名な劇場の「明治座」を思い出す方も多いと思います。
下の写真が、今の明治座の建物です。

有名な俳優や歌手などが座長をつとめるお芝居が、いつも開催されていますね。
建物外観デザインに、江戸時代の大型の木造の芝居小屋を連想させます。
もちろん、明治時代に開業したので「明治座」という名称です。

明治座の近くには、歌舞伎の名演目「勧進帳」の姿の弁慶像があります。
弁慶のこの姿は、「山伏(やまぶし)」の格好として知られていますね。

コラム「聖なる地(4)高縄の道と聖坂」で、「高野聖(こうやひじり)」のことを書きましたが、ここで もう一度少しだけ書きます。

歌舞伎の演目「勧進帳(かんじんちょう)」は、源義経や弁慶たちが、「聖(ひじり)」の偽装をして東北に逃亡する際のお話しです。
弁慶は、何も書いていない「勧進帳」を読み上げ、そして義経を叩き、後で泣きながら義経に詫びるという物語の場面は有名ですね。
勧進帳とは、お寺の修理などのための寄付を願う文書のことで、聖たちは、勧進帳を持って、全国で寄付を集めていたのです。

「山伏(やまぶし)」は、仏教の山岳修験者のことです。
現代の今でも、しっかり存在していると思います。

勧進帳を持つ「聖(ひじり)」と、「山伏」は、厳密には違いますが、義経や弁慶らが、仏教の修行者として逃亡する格好としては山伏のほうが、いざという時にはいいような気もしますね。
山伏から聖への偽装は、その逆よりもしやすいと思います。

歌舞伎の中で、弁慶は山伏の格好で登場しますが、それが上の写真の姿です。
右手に持っているのものが、おそらく勧進帳の巻き物です。
ですから、義経と出会う、京の「五条大橋」の時の格好とは大きく違います。

* * *

この弁慶像のある緑道は、かつて水路があった場所です。
この緑道を含め西側が今の人形町で、東側が浜町です。

どうして、ここに歌舞伎の弁慶像があるのか?

それは、この人形町と浜町の地域が、江戸時代に、江戸の歌舞伎芝居の聖地のひとつだったからです。

* * *

説明が後になりましたが、今のこの地域の「人形町」という名称は昭和になってからの名称です。
人形町は、もともと「人形丁」という通りの呼び名で、その通りに接する町名としては、大坂町、堺町、和泉町、住吉町、芳町、島町などです。
すぐ近くに葺屋(ふきや)町、浜町、蛎殻(かきがら)町、小網(こあみ)町、浪花(なにわ)町などがありました。

このコラムでは、各町名を使用すると内容が混乱しますので、一応、特別な場合を除き、今の名称の広域の「人形町」という表現で書き進めます。
浜町(はまちょう)と蛎殻町(かきがらちょう)は、人形町とは区別します。

前述の各町名から、いかに大坂の影響を受けていたかがわかりますね。
江戸という街は、家康によって、ある時から急激につくられ拡大していきますが、関西からも、相当な数の人たちが移住してきました。
人形町や浜町の地域では、江戸弁と同じくらいに、大阪弁が飛び交っていたかもしれませんね。
おそらく九州弁も相当に聞こえていたと想像します。
薩摩藩島津家、熊本藩細川家、久留米藩有馬家など、この地域の発展に欠かせない九州勢の大きな屋敷がありました。


◇江戸の芝居小屋の発展

ここで、ごく簡単に、江戸時代からの江戸の演劇界(芝居小屋)の歴史を書きます。

人形浄瑠璃も、歌舞伎も、今の近畿地方である「上方(かみがた)」から、江戸にすぐに伝わってきます。
江戸時代の「上方」の文化芸能の中心は、特に京都や大坂でした。
人形師、歌舞伎役者、義太夫、三味線弾きなど、多くの芝居関係者が江戸にやって来たのです。
江戸時代の言葉表現でしたら、「江戸にくだってきた」のです。

* * *

ちなみに、江戸時代までは、京都に行くことを「上洛(じょうらく)」、「上京」と言いますが、江戸に行くことは「上府」、「出府(しゅっぷ)」と言いました。
皇室が、京都から江戸に行くことは「東下(とうか・あずまくだり)」と言います。
ですから、江戸時代まで、京都に行くのは「上る(のぼる)」、江戸に行くのは「下る(くだる)」と言いました。

今は、道路や鉄道の表現として、起点と終点の関係性でその表現を使っていますね。
東京地域や東京駅が経路にからむ場合は、東京に向かって「のぼる」という表現が多く残っています。
東京がからまないケースは、その状況で決められます。
東京の地下鉄は、「のぼり くだり」の表現を使いません。
近年、知らない若者が多いと聞きましたので、ついでに書きました。

東京を一周する山手線や、都心の首都高速道路や環状道路は、「内回り」と「外回り」という表現をしょっちゅう使います。
「外回り」は時計の針の進行(時計回り)と同じ向き、「内回り」はその逆回り(反時計回り)です。
間違えて逆方向の山手線に乗っても、目的駅には たどり着きますが、所要時間は大きく異なります。
忘れてしまったら、皇居の位置を思い出してください。
皇居に近い側の道路車線や線路が「内側」で、「内回り」です。
タクシーや電車などに乗っていて、進行方向の左側に皇居があるようなら、それは内回りです。
観光で東京に来られた方々で、もし迷ったら、「運転手さん、皇居はどちらの方向ですか」と聞けば、おおよそ位置や向かっている方向がわかりますよ。
GPSより早いかも…。

さて、「上京」の「京」は、天皇のおられる場所を意味していますので、今は江戸時代とは逆で、東京に行くことを「上京」と言います。
主に、旧江戸の街の範囲である東京23区のあたりに行くことを「上京」と言います。
東京都の八丈島に行くことを「上京」とは言いません。

「府」は、もともとは地域の統治者がいる場所や、その地域の政治機構の中心地を意味していますが、江戸時代に限っては、基本的に、徳川将軍のいる場所を意味していました。
江戸時代以外の「府」や、地方での「府」の扱いは、また違う場合があります。
家康だけは、「大御所(おおごしょ / 将軍退位後の地位で、将軍を経験した人物しかなれません)」として駿府(すんぷ / 今の静岡市)にいましたが、駿府に行くことを何と呼んだのか、私はわかりません。
家康の死後ではありますが、とにかく徳川家唯一の神様、権現様になる人物がいた場所ですから、「のぼる」という表現でも足りないのかもしれませんね。何か用語があったとは思いますが…。

家康以外に、「大御所」になったのは、2代、8代、9代、11代将軍ですが、すべて江戸にいました。
基本的に、「上る(のぼる)」は、それぞれの権力の頂点である上の方向に向かって「のぼる」のです。
将軍とはいえ、上に天皇がいたのです。
今でも、国どうしの関係性では、「のぼらない」「くだらない」慣習がたくさんありますね。

* * *

さて、話しを戻します。

この人形町や浜町あたりには、前述のとおり、関西の地名に由来すると思われる地名が、たくさん残っています。
海運や水運で栄えた「蛎殻町(かきがらちょう)」の果たした役割は、コラム「みゆきの道(7)水天宮の行くところ」で書きました。

* * *

江戸時代の初め頃、江戸には、「江戸四座」と呼ばれた四つの幕府公認の大型の芝居小屋がありました。
中村座、市村座、森田座、山村座の四つです。

「市村座(村山座)」は、人形町(葺屋町〔ふきやちょう〕)にありました。
「中村座」は京橋から日本橋を経て、1651年に人形町にやって来ます。

「森田座」と「山村座」は、今の銀座の木挽町(こびきちょう / 今の銀座の歌舞伎座の南側)あたりにありました。
人形町・浜町あたりと、銀座木挽町は、まさに江戸の芝居文化の二大聖地であったのです。

浄瑠璃の「薩摩座(さつまざ)」、人形芝居の「結城座(ゆうきざ)」も、この人形町にあり、それはそれは、賑やかな街だったことでしょう。
江戸時代の人形町あたりの絵を見ると、ひょっとしたら日本橋以上かと思うほどの規模と賑わいです。

ですが、この四つの座(市村座・中村座・薩摩座・結城座)は、1841年、この地域の大火災ですべて焼失します。
1867年の大政奉還(江戸幕府終焉)の、わずか26年ほど前です。
この地域は200年以上、芝居小屋の聖地であったのに、あと26年もってくれたら、この街の姿は、また違っていたでしょうね。

* * *

前回までのコラムで書いたとおり、このあたりは、江戸の水運・海運の中心地で、江戸の商業の中心「日本橋」のすぐ隣り、問屋もたくさんあり、料理屋さんもあり、かつては遊廓もあり、大きな大名家の蔵屋敷も建ち並んでいました。
この地域に、さまざまな大小の芝居小屋が集まってきても、何の不思議もありませんね。

大きな芝居小屋では、歌舞伎も、人形浄瑠璃も、各種演芸(曲芸・水芸・手品・落語ほか)も、何でも行えますね。
なにしろ、ここに暮らす人口はたいへん多く、それに大消費地です。
お金もザックザク。
近くの街からも とても来やすい交通網もありました。

人形町から浜町にかけての地域は、それは華やかに演劇・演芸文化が花開き、後で書きます 幕府の縛りはあったにしろ、200年以上も江戸の歓楽街の頂点にありました。

下の芝居小屋・劇場の写真は、現代まで残る「江戸時代や明治初期からの芝居小屋」の一部の例です。

左上から、皆さまご存じの、京都市の「南座」。
その右は、香川県琴平町の、いわゆる「こんぴら歌舞伎」である「金丸座」。
その左下は、愛媛県内子町の「内子(うちこ)座」。
その右は、熊本県山鹿市の「八千代(やちよ)座」です。
一番下が、東京銀座の「歌舞伎座」です。




これらは、江戸時代の芝居小屋の風情を今に伝えてくれています。
人形町や浜町にも、こうした大型の芝居小屋があったのだと思います。

* * *

下の写真は、東京浅草にある「木馬館」という、現役の小さな芝居小屋・演芸場です。
江戸時代の人形浄瑠璃の芝居小屋でしたら、このくらいの規模だったでしょうか。
人形町には、こうした小さな小屋や、落語の寄席が、江戸時代から明治時代にかけて、たくさんありました。

下の写真は、今の東京浅草の浅草寺の前の参道「仲見世(なかみせ)」の賑わいです。
江戸時代の人形町も、こうした店員2~3名の小さなお店から、大きな大店(おおだな)まで、たくさんのお店が建ち並んでいたと思います。
人形町なら、もっと大きな通りだったでしょう。
江戸時代の繁華街や歓楽街の賑わいも、このような風景だったでしょうか…。

◇出石永楽館

今、江戸時代の芝居小屋の雰囲気を、東京の大劇場で味わうことはできません。
ゆったりとした座席で、江戸時代よりもはるかに進んだ照明技術や演出で、芝居を楽しむことになります。

今の時代の舞台技術の中に、役者さんが、江戸時代の歌舞伎衣装のまま登場してきても、なんら見劣りするものではありません。
それも、すごいことではありますね。

ですが、今も、地方には、江戸時代の雰囲気を残してくれている芝居小屋も存在しています。
江戸時代の芝居小屋の雰囲気を感じていただくため、ひとつだけご紹介します。

* * *

兵庫県豊岡市にある「出石永楽館(いずし えいらくかん)」です。
この芝居小屋は明治34年の開館で、今の永楽館は大正時代のものを復元したものだそうです。
廻り舞台、奈落、花道など、江戸時代のようなシステム構造が、しっかり残っています。
なんと、板の間に座布団で、舞台を見るのです。
この痛みも、江戸時代を楽しむ ひとつですね。

下記の出石永楽館のサイトで、写真と説明を見ることができます。

歌舞伎、芝居、落語、演芸など、さまざまな内容が行われているようですね。
この豊岡市は、江戸時代の街並みがそのまま残っているような雰囲気の、すばらしい街です。
江戸時代が、それほど遠く感じない…、そんな貴重な街です。

出石永楽館のサイト


◇芝居小屋の受難

江戸時代中期、1703年発表の芝居「曽根崎心中」や、「心中(しんじゅう)」ブームのことは、前回コラムで書きましたが、江戸城大奥でも、芝居役者のことは女性たちの話題の中心だったかもしれません。

1714年、少年の七代将軍 家継の時に、「絵島生島(えじまいくしま)事件」で、江戸四座のひとつであった「山村座」が廃業となります。
山村座は、今の銀座の木挽町(銀座6丁目)あたりにありました。
大奥の絵島は、この芝居小屋に立ち寄ったのです。

この「絵島生島事件」の大陰謀のことや、八代将軍 吉宗の質素倹約の信条に、華美な遊興や芝居興行が あいいれないものであったことは、コラム「よどみ(3)大奥・絵島生島事件」からの一連のシリーズで書きました。
この事件をきっかけに、芝居小屋を中心とした娯楽産業は、幕府の厳しい監視下に置かれ、縮小し、歌舞伎の大芝居小屋「江戸四座」は「江戸三座」になります。

とにかく、江戸時代を通じて、遊興や歓楽の分野は、江戸幕府の目の敵とされていました。

* * *

江戸中期は、堕落した武士たちの根性や体力を鍛え直すため、剣術道場が江戸のそこらじゅうにできはじめ、やたらに「武士道」が叫ばれはじめます。
今に続く、武具をつけた「剣道」が生まれるのは、八代将軍 吉宗の時代です。

江戸時代の剣術道場は、技能向上というよりも、階級社会における武士の精神性の維持という側面が大きかったと思います。
剣術鍛錬の後に、大勢で歓楽街に繰り出したかもしれませんが…。


◇歓楽哀情

どの時代もそうですが、文化は、大局にあるものどうしが、同時に生まれてきたりしますね。
どちらかに偏りすぎると、バランスが崩れてしまいますし、個々の人間の中でも、精神を病んでしまったりします。
正と不正、善と悪、厳格と寛容、束縛・統制と自由。

「歓楽極まりて哀情多し(歓楽哀情・かんらくあいじょう)」という言葉がありますね。
人は、楽しさに満ちあふれた状態になると、その直後に、心の中に哀しさやむなしさが、必ずわき上がってくるという意味ですね。
精神の行き過ぎをとどめさせる言葉です。
若い世代にこそ、必要な言葉なのかもしれませんね。

これは人の心だけでなく、社会や時代も、そうなのだという気がします。
さて、2020年はどうなるでしょうか。

* * *

江戸は何度も大火にあいますが、そのたびに、前述の江戸三座をはじめ、芝居小屋の多くが、移転や再建を余儀なくされます。
江戸の大火の回数の多さは、前回コラムで説明しました。

こうした芝居小屋は、今のマスコミ的な役割を若干 果たしていましたから、政権批判をとにかく嫌う江戸幕府は、大火を利用し、芝居小屋への統制を深めたと思われます。
あの赤穂浪士討ち入りの後、庶民の心が圧倒的に赤穂浪士びいきに傾くのは、歌舞伎芝居の影響も大きかったと思われます。
幕府からみたら、思想統制の意味でも、もはや芝居小屋は放っておいていい存在ではありませんでした。

幕府の統制や、大火での被災などが大きくなればなるほど、それに立ち向かう反対のチカラが大きくなる…、これが文化のチカラですね。
後で書きますが、芝居文化は、幕末から明治期に、底知れぬパワーにあふれてきます。


◇待乳山 聖天宮

幕府は、こうした大火に乗じて、江戸の主要な芝居小屋を、1842年、その当時、江戸の街はずれの、さみしい地域に一か所にまとめてしまいます。
おりしも、この時期は水野忠邦(みずの ただくに)による「天保の改革」の真っ最中でした。
12代将軍 家慶(いえよし)の時代です。

幕府は、人形町にあった、中村座、市村座、薩摩座、結城座を、すべて浅草の聖天町(しょうでんちょう / 聖天丁)に移転させます。
江戸時代、人形町あたりに暮らす方々の、大きな落胆のため息が聞こえてきそうです。
現代なら、地域住民による移設反対運動が起きるような事がらですね。
江戸時代にそんなことをしたら、極刑でした。

* * *

聖天町は、今の東京都台東区 浅草6~7丁目あたりです。
今も、「待乳山聖天宮(まつちやましょうでんぐう)」という立派な神社があります。
東京の方でしたら、この名称を聞けば、ああ あそこかと思われる方も多いと思います。

江戸時代の絵を見ますと、実際に、かなり大きく高い山でしたが、この土はその後、江戸湾の埋め立てに使われたようです。
江戸時代は、山からの展望がすばらしかったようですね。

隅田公園の桜橋からもすぐ近くですので、お花見の際に、どうぞ一度お立ち寄りください。
私も、聖天さまにある、低山のかわいいモノレールと、大根のお供えを、一度は見てみたいと思っています。

* * *

このすぐ近くには、「招き猫」と「縁結び」でたいへん有名な「今戸神社(いまどじんじゃ)」もあります。
この神社は、新選組の沖田総司とも若干?関係があります。

聖天宮と今戸神社…、こんな個性的な神社は、あまり他所(よそ)では見ませんね。

東京以外の方にはあまり知られていませんが、浅草寺に観光で来られたら、ここもおすすめです。
よく考えてみたら、隅田川沿いは、個性的なお寺や神社でいっぱいですね。
個性的でないと、江戸での寺社競争には勝てなかったのかもしれませんね。


◇山谷堀と吉原

聖天宮と今戸神社、この二つの神社の間には、今、「山谷堀(さんやぼり)公園」という細長い緑道公園があります。
その名のとおり、江戸時代は、堀のような水路でした。

コラム「聖なる地(6)神聖な場所へ」で、江戸の三大刑場のことを書きましたが、1651年に小塚原(こづかっぱら)の刑場ができるまでは、このあたりが刑場でした。
このあたりには、お寺や墓地がたくさんありました。

* * *

「山谷堀」がいつ頃できたかは不明ですが、前回コラム「みゆきの道(8)花とお人形」で書きました、人形町の遊廓の「吉原(よしわら)」が、1657年の「明暦の大火」の後、後にできたと思われる この山谷堀の少し北西の地に移転となります。
当時は、一帯が田んぼや畑の地域で、その中にポツンと「吉原」がつくられました。

アメリカでは、砂漠の中にポツンと「ラスベガス」がありますが、その縮小版のようなことです。
江戸なら、砂漠でなくて、「ポツンと田んぼの…」です。

この「山谷堀」の水路は、何に使われたのかというと、お客である旦那衆が吉原に遊びに行くために、日本橋や人形町あたりから、隅田川を船で上流に上がってきて、前述の聖天宮あたりで、船に乗ったまま、この水路に入ってきます。
あるいは小型船に乗り換えます。
この水路の最終地点に「吉原」があったのです。
今も、この「山谷堀(さんやぼり)公園」という細長い緑道公園をたどっていくと、吉原のあった地域にたどり着きます。
街なかを歩いて吉原に向かうなど、できませんでした。
この水路は、吉原への、物資や遊女の搬送にも使用したと思います。

「吉原」の入り口の「大門」は、お医者さまが乗る「かご」以外は、歩いて入ることになっていましたから、その手前でお客さんは船を降りるのです。

* * *

「吉原」には、「お歯黒(はぐろ)どぶ」と呼ばれた、この遊廓地域の四方を、ぐるりと取り囲んだ大きな水堀がありました。
今でも、その石垣の一部が残っています。
お堀の幅は、10メートル近くはあったようです。
さらに、その堀には、あえて汚水を流れこませていました。

「お歯黒(はぐろ)」とは、既婚女性の歯を黒く塗る風習で、アジアの一部にあったものです。
これも、不倫によるトラブル防止という社会秩序統制の意味合いが強かったと思います。
平安時代の絵をみると、男性もしていますね。
皇室では、眉毛を抜き取る「引眉(ひきまゆ)」もあわせて、幕末まで行われていました。
今の時代なら、薬指の指輪を見て、気持ちを自制させるということでしょうか?

「お歯黒どぶ」という名称は、真っ黒な色の水で、臭いどぶという意味なのか、あるいは、また別の意味だったのかもしれません。
もちろん、この水堀は、遊女の逃亡阻止、外部からのお客の侵入防止のためです。

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江戸時代の初期、もともと このあたりは、その後の山谷堀のあたりに刑場もあり、お寺や田んぼだらけの、さみしい里の風景だったと思われます。
そのうち1657年に吉原ができ、浅草寺の門前や街道筋、隅田川の河岸などの賑わいも大きくなっていきました。

* * *

ちなみに、隅田川に、千住大橋以外の橋が架けられ始めるのは、1659年の両国橋(浅草からは相当遠い)からです。
江戸時代のある頃までは、隅田川には千住大橋(浅草からは相当遠い)しか架けられていませんでした。
戦術的な意味の江戸防衛のためです。

隅田川に架かる浅草付近の三つの橋…、アサヒビールの隣の吾妻橋(あずまばし)は1774年(10代将軍 家治の時代)、駒形橋(こまがたばし)は1927年(昭和2年)、言問橋(ことといばし)は1927年(昭和3年)です。
そのかわり、隅田川には、「〇〇の渡し」という、川の渡船場がたくさんつくられていました。
おそらく船は、今のタクシーやバスのような、身近な乗り物だったのかもしれません。


◇猿若町

前述の吾妻橋が架かった約70年後、今の言問橋(ことといばし)の手前の一角、浅草寺から歩いて10数分の北東の地、待乳山聖天宮のすぐお隣、山谷堀の南側、吉原からなら船で10分ほど…、とはいえ、周囲は田んぼだらけであったようですが、そんな聖天町に、人形町の芝居小屋の四座(中村座、市村座、薩摩座、結城座)が、幕府の命令で、ひとかたまりとなって、やって来ます。

幕府は、銀座の木挽町にあった森田座(河原崎座)も聖天町に移転させました。

聖天町は、中村勘三郎の名前、中村(猿若)姓にちなんで、「猿若町(さるわかちょう)」と改名します。

* * *

ちなみに、「中村勘三郎」という名跡(名前)は、江戸の幕末で途絶えていましたが、数年前に亡くなられた18代 中村勘三郎さんの父親である17代勘三郎により復活しました。
息子の18代勘三郎さんは、「中村座」という芝居小屋も、平成時代に期間限定で復活させましたね。
江戸時代で消えていた、名跡と座が親子二代で復活したのです。

平成時代に「中村座」が復活した場所が、前述の「待乳山聖天宮」の目の前の、隅田川公園内でした。
かつての聖天町(猿若町)のすぐお隣です。

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下の写真は、現在のこの地域の空撮写真に、吉原や猿若町、山谷堀を書きこんだものです。
写真中央にある塔は、東京スカイツリーです。

緑色の部分は、ほぼ田んぼや畑、荒地しかなかった地域です。
この緑色部分は、1853年当時の状況です。
ですからペリーの黒船来航の年です。
安政の大地震の2年前です。
浅草付近の隅田川には、吾妻橋しかなく、浅草寺の裏あたりが、江戸の街の端っこだったことがよくわかります。
ここから少し北に行くと、街道筋に大きな宿場町「千住宿」がありました。

* * *

猿若町は、浅草寺と聖天宮の間とはいえ、今までの人形町や銀座木挽町からみたら、まさに街はずれの辺境の地に追いやられたということですね。
浅草寺の門前ではなく、田んぼのカエルの鳴き声だらけの寺の裏でした。

逆に、興行主や歌舞伎役者たちは、奮い立ったかもしれませんね。
「俺たちが、寺の裏に、お客を集めてやる!」


◇猿若三座

さて、猿若町に移転した「江戸三座」は、「猿若三座」とも呼ばれ、中村座、市村座、森田座(守田座と改名・一時期に河原崎座が代行)の三座がひとつの通りに並んでいました。
結城座、薩摩座などもあわせて、江戸の主要な芝居小屋が集結する、演劇や芝居の一大聖地ができ上がります。

弁当屋、食堂、団子屋、寿司屋、お土産屋、行商、床屋など、多くの店も集まってきたでしょうね。
隣の農地で栽培された野菜を売っていないはずはありませんね。
今、浅草には人力車が大量にいますが、当時も、かご屋がいないはずはなかったでしょう。
今のニューヨークのブロードウェイのようであったのかもしれませんね。

江戸時代の絵や、明治初期の写真を見ると、江戸の街はずれであっても、それは華やかな光景です。

日本だけでなく、どの国の劇場もそうですが、劇場の装飾は、それはド派手なものがほとんどですね。
お客の心に高揚感を与えるだけでなく、別世界への入り口であることも感じさせてくれます。
芝居関係者の、集客への執念のようなものも感じさせますね。

* * *

何しろ当初は、お寺の墓地や田んぼに囲まれた、街はずれの地であったため、街の火災の類焼被害にあうこともなく、浅草寺参りのお客や、吉原のお客が、大勢立ち寄るようになっていきます。

かつての場所である銀座や人形町からも、きっとたくさんのお客さんが通ってきてくれたでしょう。
芝居が大好きなお客さんなら、どんなに遠くなっても、行くはずです。
遠くなったらなったで、道中で食事休憩をとりながら、今度は集団で通ったかもしれませんね。
ファン心理というのは、江戸時代も、現代も変わらない気がします。
「幕府が何と言おうと、俺たちは応援するぞ…。」

* * *

浅草寺、吉原、隅田川、山谷堀が、すぐ近くにあったことは、まさに幸運だったと思います。
吉原と芝居小屋…、帰りに浅草寺門前で食事、船は隅田川に待たせてある…、まさに江戸時代の豪遊を絵にかいたようなことだったようで、お金持ちの自慢話しだったようです。
古典落語にも、そうした話しがたくさんありますよね。

江戸時代末期の、1842年からの20数年の猿若町の大隆盛期は、幕府の思惑とは反対に、それは華やかであったようです。
幕府の浅はかな戦略が、逆の効果をもたらしましたね。
庶民の暮らしや心情心理を読み取れない権力者は、そのうち…。

まもなく幕府は、大地震、黒船、大獄、桜田門外、薩長…、芝居小屋どころではなくなっていきました。

* * *

その後、明治維新の動乱で、江戸幕府はなくなり、江戸の治安は猛烈に悪化します。
浅草は、「上野戦争」があった上野の山も、それほど遠くはありません。
この地域の治安も、相当に悪化していきました。
ある芝居一座のトップも殺害されます。
明治新政府は、この芝居小屋たちを、強制的に各地にバラバラに移転させるのです。

* * *

私は、桜の花見の季節になると、このかつての猿若町あたりや隅田公園に出かけます。
この旧猿若町の地域は今、商業地域であり住宅地域ですが、この通りがかつての…と、驚くほど静かな街です。
自動車の多い幹線道路だけは賑やかですが。

今、かつての猿若町は、町名もかわり、小さな石碑しか残っていません。
江戸時代に描かれた この歓楽街の絵や、明治初期の写真からは、信じられない思いです。
今の時代に、東京の「ブロードウェイ」であっても不思議ではなかったのに…。


◇わちきで ありんす

今現代の桜の季節、前述の「山谷堀」の跡である緑道公園で行われる、地域住民による、地域住民のための 小さな「桜まつり」は、とても素敵な、なつかしい雰囲気です。
楽しそうにカラオケ大会などを行っています。
ここからは、スカイツリーもよく見え、桜並木も とてもきれいです。

下の写真2枚は、今の山谷堀公園の風景です。
今は、写真のような川の流れはなく(青色は私の着色です)、吉原の「花魁(おいらん)」も当然いません。

「花の魁(さきがけ)」とは、本来、梅の花のことですが、江戸時代に、梅でも 桜でも、この山谷堀沿いに咲いていたでしょうか。
遊女や花魁たちは、そうした花を見ることはできたでしょうか…。

この緑道を歩くとき、江戸時代の吉原の女性たちのことを、少しだけ考えてしまいますね。
桜の咲く期間は、とても短いです。


浅草寺の北側にある、かつての猿若町や吉原、山谷堀は、今はあまり史跡としての観光地の体を成しておらず、あまり歴史的遺構として大々的に宣伝するということもないようです。

ですが、この地域は、歴史ファンには、たまらないスポットだらけです。
残された多くの地名も含めて、江戸っ子たちの「がんこさ」には感謝したいと思います。
浅草寺、仲見世、隅田公園、スカイツリーという観光だけでは、実にもったいない、そんな地域なのです。
後で、浅草のことを、もう少し書きます。


◇明治時代以降の東京の演劇業界

1873年(明治6年)、明治政府は、東京市の主要な芝居小屋を10座ほどに限定します。
・中村座(猿若座・鳥越座)
・市村座
・新富座(森田座・守田座)
・河原崎座(新堀座)
・澤村座
・喜昇座(その後、久松座・千歳座・明治座へ)
・中島座
・桐座
・奥田座(春木座・本郷座)

他に、薩摩座、結城座、辰巳座など。
もちろん、監視の目が届かない、街の小さな劇場はたくさんありました。
こんな規制に縛られる、演劇界ではありませんね。

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明治政府による、猿楽町からの強制移転で、江戸時代の幕末に大繁栄した「江戸三座(猿若三座)」のうちの、「守田座(森田座から改名)」は、猿若町から京橋近くの新富町に移転し、西洋風近代大劇場の「新富座」となります。
明治時代に、團十郎、菊五郎、左團次の「團菊左時代」という、新富座の「歌舞伎黄金時代」が到来します。
ですが、1923年(大正12年)の関東大震災により、新富座は廃座となります。

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「市村座」は、猿若町から、今の秋葉原あたり(台東区台東一丁目)に移転します。
前述の「團菊左時代」と入れ替わるように、今度は市村座の、菊五郎、吉右衛門の「菊吉時代」がやって来ます。
大正時代には、「歌舞伎座」、「帝国劇場」、「市村座」の三つが大隆盛を極めますが、関東大震災で市村座は焼失し、その後復活しますが昭和初期の火災で廃座となります。

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「中村座」は、猿若町で、またも焼失後、今の台東区鳥越(秋葉原や御徒〔おかち〕町の近く)に移転し、「猿若座」と改称しますが、明治時代に焼失し廃座となります。

ですが、近年若くして亡くなられた18代中村勘三郎さん(NHK大河「いだてん」の主役をされた中村勘九郎さんの父親)によって、前述のとおり、「平成中村座」が隅田川沿いの浅草の地に、期間限定で復活したのは記憶に新しいところです。
それ以降も、時折、外国も含めて、「中村座」は期間限定で復活していますね。

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他の芝居小屋は、悲劇の3代目澤村田之助で知られる澤村座が京橋へ、中島座は蛎殻町へ、桐座は四谷へ、奥田座は本郷へ、河原崎座は芝へ、移転しました。
浄瑠璃の薩摩座は神田へ、人形芝居の結城座は両国へ、移転しましたが、ほとんどは経営難で廃座となっていきました。
このうち、今、結城座だけが、東京都小金井市に劇団として残っています。


◇エンターテイメントの聖地

前回コラムでも書きましたが、人形町と浜町は、江戸時代の終わり頃に、歌舞伎の芝居小屋がいなくなっても、落語の寄席などがたくさん残っており、演芸関係者がたくさん集まる、まさにエンターテイメントの一大拠点は健在であったようです。

芝居小屋は、各時代の政権の意向や大火で、移転を何度も繰り返しましたが、人形町や浜町は、基本的に江戸の娯楽文化の中心地であり続けます。
明治時代にあの大歓楽街がつくられるまで…。

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明治政府の、東京各地に大きな公園を整備する政策で、東京の街は大きく改造され、各地に西洋風の大公園がつくられていきます。

浅草寺周辺にも、1873年(明治6年)には大きな都市型公園がつくられ、1886年(明治19年)には、浅草六区などの商業区画も完成しています。
浅草六区は、劇場や演芸場を備えた大きな歓楽街となっていきます。

もともと、浅草は、人形町から移転した遊廓も近く、前述のとおり江戸末期に芝居小屋が強制的に集められた猿楽町も近い、そんな賑わいのある浅草寺の門前町です。
仲見世の前身も江戸時代にはできていたようで、後の明治時代にできあがる大歓楽街の芽は、すでにあったと思われます。
明治政府は、この地を近代的な都市地域として大整備しはじめます。

電動のエレベーターを備えた、12階建ての高層展望塔「凌雲閣(りょううんかく)」ができるのは、1890年(明治23年)です。
今で言えば、スカイツリー開業のようなことですね。
あっという間に、見たこともない大歓楽街が、浅草寺近くにでき上がるのです。
雷門(かみなりもん)は、何度も建て替えられてきましたが、松下電器が今の雷門をつくってくれたのは、1960年(昭和35年)です。

大正時代と昭和時代のお話しは割愛しますが、 ずっと後、昭和時代の後半に、この浅草六区からは、欽ちゃんやたけしさんなど、大スターが続々と輩出されますね。
浅草は、今のエンターテイメント業界に、しっかりつながっています。

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ちなみに、あの「浅草花やしき」は、なんと江戸時代の1853年につくられた日本最初の遊園地といわれています。
当時めずらしい「ブランコ」があったようですが、遊園地という範疇(はんちゅう)に入るかは少し疑問ではあります。
でも、花でつくったいろいろな造形物がたくさん飾られていたようで、公園とはまた違う、庶民が遊べる行楽地であったことは間違いなさそうです。

この花やしきは、江戸時代に廃園となり、1947年(昭和22年)になってから復活しました。
いろいろな変更を行い、今でも営業しています。
ですから日本最古の遊園地ではありません。

とはいえ、あえて古い懐かしい雰囲気を残す、大都会の中の、この小さな小さな遊園地は、まさに楽園そのものに見えてしまいます。
古めかしい「花やしき」という名称を残してくれたことも、大感謝です。
江戸時代の風情を残す遊園地なんて、江戸時代のテーマパーク以外で、聞いたことがありません。
歴史ファンからしたら、まさに「江戸時代ワンダーランド」です。
近年、浅草の「江戸化」は、とどまることがありません。
歴史ファンとしては、うれしくて仕方ありません。

よくまあ、これだけのお祭りやイベントを、しょっちゅう行っているものです。
江戸時代に、明治維新、昭和の戦前戦後も加えて、面白さ抜群の浅草です。

お寺やお店を眺めるだけでなく、江戸時代の何かを体験すると、楽しさ倍増だと思います。
歴史をちょっとだけ知っておくだけでも、見え方が変わるかもしれませんよ。

大規模なイベントの、吉原の「花魁道中(おいらんどうちゅう)」は、毎年4月頃だったと思います。
各地方では、古いお祭りや行事、慣習が、次々になくなってきていますが、浅草に来れば、見つけることができるかもしれませんね。



今は、浅草には、大規模な劇場はありませんが、中小の芝居小屋や演芸場がたくさんあります。
浅草の街で、多くの人たちが楽しむ風景は、ひょっとしたら、江戸時代の風景とそれほど違わないのかもしれませんね。

いつ行っても、人々の笑顔と活気があります。
今でも、浅草に、江戸時代の風景だけでなく、江戸文化や江戸の民衆の息づかいのようなものが残されていることは、まさに奇跡のようにも感じます。
東京の他のどこにも残っていません。

今の東京は、江戸がなかったら、存在していません。
ここだけに残された、江戸時代の置き土産…、それが浅草ですね。

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ちなみに、上の写真の右下の6人は、1996年に設置された「六芸神(ろくげいしん)」というブロンズ製のモニュメントで、浅草六区にあります。
「六芸神まつり」というものもあるようです。
浅草には、とにかく妙なものがたくさんあります。

これは、演芸の6つの分野の神様をあらわしているようで、昭和の時代のスターがモデルになっているようです。
1.唄神(うたいがみ)…歌手の東海林太郎。
2.奏神(かなでがみ)…オペラ歌手の田谷力三。
3.話神(はなしがみ)…5代目 古今亭志ん生、3代目 三遊亭金馬、5代目 柳家小さんを合わせたもののよう…。
4.戯神(おどけがみ)…曲芸師で玉乗りの2代目 江川マストン。
5.演神(えんじがみ)…ご存じ、榎本健一(エノケン)。
6.踊神(おどりがみ)…SKD(松竹歌劇団)時代の 水の江瀧子。

浅草につながりの深いスターが選ばれたようです。
テレビや舞台で、全員 見ているという、本コラムの中高年読者の方々も、きっと多いと思います。

1979年からは、浅草オレンジ通りに、浅草につながりのある、芸能分野に貢献した人たちの手形が飾られるようになりました。
このようにして、文化や歴史は残されていきますね。

下町の江戸っ子なら、こう言うでしょう。
「四の五の言わず、残してやれよ。こちとら、気が短けぇんだ。」

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今回のコラムは人形町や浜町が主役ですので、浅草のお話しは、一応このくらいのご紹介にとどめますが、また別の機会に、浅草地域について書きたいと思います。

「江戸時代ワンダーランド」の浅草、どうぞ一度ご体験ください。

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さて、人形町と浜町に戻りたいと思います。

ここまでで長くなりましたので、次回コラムで後編をご覧ください。
次回は、「マダム貞奴(さだやっこ)」のことも書きます。
彼女も、相当な「江戸っ子」だったでしょうね。


コラム「みゆきの道(10)The 浜町・後編」につづく。


2020.1.11 jiho
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