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麒麟(14)天使と悪魔 / 聖徳寺の会見

【概要】NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と斎藤道三の「聖徳寺の会見」。パワー・オブ・ラブ。帰蝶のお膳立て。武将の中の二面性。下克上の中の親子。ドラマの様式美。三英傑のホトトギス。新型コロナとの戦い。


前回コラム「麒麟(13)感服つかまつる」では、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の第八回から第十二回のことを書きました。
今回のコラムでは、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」第十三回と第十四回に関連した内容を書きたいと思います。
ですが、その前に、ある楽曲をご紹介したいと思います。


◇パワー・オブ・ラブ

今、地球上の全世界が、コロナという悪魔によって、まるで支配されてしまったような状況です。
日本は、医療面でも経済面でも本格的な戦いが続いています。
今はまだ、戦いの序盤なのかもしれません。
東京在住の私は、東京オリンピックなど、まったく想像もできなくなってしまいました。

そんな中、ある楽曲をご紹介します。
80年代に活躍した、英国のロックバンド「フランキー・コーズ・トゥ・ハリウッド」の「パワー・オブ・ラブ」(1984年)という楽曲です。

これは、「救世主」のことをうたった楽曲だと言われていますね。
欧米では、超有名曲ですが、日本ではどうでしょうか…。

この曲の歌詞の中には、
「フードをかぶった悪魔から守ってくれて、バンパイアも近づけさせない」
「心配するな。すぐに駆けつけて、守ってあげる…」
という歌詞が出てきます。

そして、人間の持つ多くの雑念や邪悪を捨て、美しい人間の姿でいれば、そこには、あるパワーが宿るということを語ります。

「愛」には、不思議なパワーが宿っていて、「誰かを愛する」という気持ちには多くの無限のパワーがやってくる。
そのパワーは、邪悪を払いのけ、人間を清める。
そのことだけを考えて、ゴールをめざせ…。

そういった内容の歌詞です。
機会がありましたら、どうぞ和訳も読んでみてください。

* * *

コロナ問題で暗い日々が続く中、たとえテレビ番組で笑っても、一時的にドラマや動物番組に冒頭できても、その後すぐに、コロナのあの映像が脳裏をよぎります。
今、これを書いている最中にも、街にある地域の広報スピーカーから、コロナに関する何かを伝える内容が大音響で聞こえてきました。
ですが、グワングワンと反響して、内容が一切聞き取れません。

私は、この楽曲を、久しぶりに耳にして、何かの安らぎと落着きを得ることができたような気がしました。

「誰かを愛する」という人間のパワーは、それ以外の人間の持つどのパワーよりも強いのかもしれません。
コロナに打ち勝てるパワーになりえるのかどうか…。

よろしければ、一度お聴きになってみてください。

英語歌詞付きの音楽動画はこちらです。
パワー・オブ・ラブ


◇平手の死

ここからは、大河ドラマ内容と史実を織り交ぜながら書いていきます。

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の第十三回と第十四回では、織田信長と斎藤道三による、聖徳寺(正徳寺)での会談が描かれましたね。
個人的には、今回の大河ドラマで、非常に見たかったシーンのひとつです。
この二回分は、セットでひとつになっているようにも感じます。

第十四回「聖徳寺の会見」では、私が想像した以上の長い会見時間のシーンでした。

今の実社会から見ると、ドラマの中の道三と信長の会見は、義父と娘婿の、初めての対面の会話としては、あまりにも強烈な内容でしたね。
今の実社会では、あそこまでの激しい会話は、そうそう おきないと思います。

ドラマでの会見冒頭は、信長が殊勝で親しみを込めた挨拶をしますが、まずは道三からきつい一撃がきます。
信長はさらりとかわし、帰蝶の話しに持っていきます。

会見の冒頭から、これは通常の会見というよりも、弓矢や鉄砲を使う殺し合いではないだけで、まさに、言葉で戦(いくさ)をしているような雰囲気を漂わせています。
今のビジネス社会でも、こうしたことはよくありますね。
親族内では、なかなかおきませんが…。
このドラマでは、斎藤道三と織田信長の、言葉での戦(いくさ)を描こうとしたのではと思ってしまいます。

* * *

ここで、この会見のことを書くにあたり、前置きとして、下記に少し説明を列挙します。

・1552年、道三は主君の土岐氏らを追放・暗殺し、事実上、美濃国を手中にした。
・1552年2月、織田家の重臣、平手政秀死去。
・1553年4月、聖徳寺で、道三と信長が会談。
(道三は61歳か?、信長は20歳、帰蝶は19歳)
・1554年2月、道三は息子の義龍に家督を相続。
・1554年2月、信長は、今川氏との「村木砦の戦い」で勝利。
・1555年、道三死去。

この流れを鑑み、いろいろ想像してみたいと思います。

ここまでのコラムでも書いてきましたが、平手政秀(ひらて まさひで)は相当な策略家で、信長の父の信秀とともに、織田家をここまで大きくした重要な織田家の重臣です。
陰謀につぐ陰謀で、斎藤道三のように、主君の織田家から国を奪っていても不思議はなかったとも思っています。
陰謀や暗殺・暗躍の裏に、平手ありです。
帰蝶の嫁入りを、道三と画策した人物こそ、この平手政秀のはずです。

帰蝶は、間違いなく、道三が思惑で織田家に送り込んだ人物です。
道三が、帰蝶と平手と組んで、織田家を滅亡に追い込んでも、なんの不思議もありません。
そんな中での、平手の死去です。

信長は、平手をあえて死に追いやったのかもしれません。
実は、暗殺かもしれません。

織田家内部の状況が一変し、周囲の国々の武将たちの動きも活発化してきたため、急きょ、道三は計画変更をした可能性も考えられます。
今川、朝倉、六角など、周囲には強敵の武将だらけです。
道三は、今後、織田家とどのように関わっていくのがよいのかを、考え直していたのかもしれませんね。


◇なぜ会見を?

道三は、会見場である聖徳寺で、信長を暗殺する手もないわけではないと思いますが、ここは手を組んで、周辺地域の敵と争うと判断したのかもしれません。
あるいは、今川家との戦いに備えた準備を、すでに始めていたのかもしれません。

帰蝶がどのような役割を果たしたかはわかりませんが、お互いに、余程のことがなければ、その場で殺し合うことはないだろうという思惑(約束)の中で、会見となったような気がします。
そうでなければ危険すぎる対面です。

* * *

当時の濃尾平野の三つの大きな川は、現在とは流路が少し違いますが、聖徳寺(今の愛知県一宮市)は、尾張国と美濃国のほぼ国境で、両方の国から特別な寺として独立した存在でした。
両国にとって、中立の地のような存在だったのかもしれません。

会見には、両軍から、申し合わせたように、おろらく700から1000くらいの兵がやって来ます。
ただし、大きく違ったのは、その兵が手にしていた武器です。

* * *

道三は、美濃国を制圧した強力な武将。
それに対して、偉大な父の織田信秀と平手政秀を失った尾張国で、ここまでいくつかの小戦で実力を見せていたとはいえ、まだまだ未知数の若武者の信長です。
信長の実力を、帰蝶が道三に伝えていたのは間違いないと思います。
当時、帰蝶は、自分は斎藤家の人間だという意識が強かったように、私は思っています。

この会見は、道三側から信長へのリクエストだとされていますが、私は、本当にそうであろうかとも思っています。

信長が、帰蝶を通じて、何らかのやり取りを行い、道三の心に、会見を決意させたような気もしないではないです。
信長は、今川義元との大きな戦いが迫っており、さらに織田家内部抗争もありますから、道三と早く手を組みたいと考えていたはずです。

また、ドラマの第十四回で道三が語っていましたが、道三は、次の最大の敵は、朝倉でも、六角でもなく、今川義元だと考えていたと思います。
今川とどのように戦うのかを思案している最中ともいえます。
道三は、信長をどのように使うか考えていたことでしょう。

* * *

両者とも、会見をしたい理由は十分にあります。
それに、両軍が手を組んだら、それぞれに利がある可能性も高いです。
もはや下克上の戦国時代です。
同盟などという大げさな成約があろうがなかろうが、「共通の利益」や「互恵」という意識を共有できる相手なのかどうかを確かめることは非常に重要ですね。
現代の国際社会の中でも、「共通の利益」や「互恵関係」は、各国間交渉の基礎になっていますね。

信長とぎくしゃくしていた平手がいなくなった今、帰蝶を通じて、道三側から会いたいと言ってもらえるように、会見を信長が段取りしたと考えられなくもないと思います。

後の織田家と今川家の戦いの構図を考えても、織田家と斎藤家の互恵関係を早く強く望んでいたのは、織田信長のほうだと思います。
道三に、織田家内部にいる信長の敵対勢力をおさえてもらい、信長は、今川との戦いに勢力を傾けられるという大きな恩恵を得るのは、このすぐ後のことです。

道三にとっては、織田と今川が相討ちで両軍が大きな打撃を受ければ、「もっけの幸い」でもありますね。
道三は、自分に利のない支援をするはずがありません。
信長が、会見で「御父上にも、もっけの幸いでしょ」と言うはずはありませんが、「道三さん、そのとおりでしょ」という意味あいで話しを持ちかけても、何の不思議もありません。

信長が、実際の会見でも、もともと「商売っ気(け)」の強かったであろう道三に、将来受けるであろう大きな恵みを、ちらつかせないはずはないとも思います。

この会見は、単なる会見ではありません。
大勝負のかかった、まさに戦(いくさ)のような会見だったのは間違いないと思います。

注目したいのは、会見の翌年の、信長が道三の支援で今川氏に勝利する「村木砦の戦い」と、まったく同じタイミングで、道三が義龍に家督をゆずったことです。
これは、大きな意味があるはずだと思っています。

* * *

とはいえ、この斎藤家と織田家は、長年の宿敵どうしです。
聖徳寺で、両軍の戦がいつ始まっても、何の不思議もありません。
というよりも、道三と信長のどちらかが、凡庸な武将であったなら、まず戦になっていたとも思います。

すでに両者は、会見する前から、話しの通じる相手だと理解していたのかもしれません。
おそらく帰蝶を通じて…。


◇いざ、聖徳寺へ

はっきりとはわかっていませんが、信長が聖徳寺に持ち込んだ武器は、有名な信長の長槍が500、鉄砲が500ともいわれています。
この数量には、道三はたいへん驚いたでしょう。

ドラマの中の、本木雅弘さんが演じる斎藤道三も、驚きの表情を隠せませんでしたね。
「これは…」。
道三は、信長が侮れない武将だと、すぐに悟りました。

* * *

私は個人的に、道三が会見前に、信長の姿をのぞき見する際に、本木雅弘さんがどのような表情と台詞になるのか、非常に楽しみにしていたのですが、期待を裏切らない、すばらしいシーンでした。

ドラマの中では、道三が道端の小屋から見ていることを知りつつ、信長が馬上で瓜をがぶり…。
少し前に、若者たちの間で、「ASMR」と呼ばれる「そしゃく音」の動画ブームがありましたが、この場面でも、道三をあざ笑うような、瓜をかぶりつく痛快な音がしっかり響いていましたね。
信長の表情も痛快でした。

* * *

前述の大量の鉄砲と長槍について書きますと、兵の数が同じであっても、この武器の差では、道三は、信長に戦を仕掛けることはできないと思うに違いありません。
ドラマの中では、道三の軍は、この頃やっと鉄砲30丁と言っていましたね。
もちろん長槍もありません。

信長軍の考案といわれている長槍は、それまでの槍とは、まったく別の武器といっても過言ではありません。
突いて敵を倒すわけではありません。
その長さを使って、振り回したり、振り下ろしたりします。
槍の刃は刀に近いもので、突かなくとも敵を倒せます。
致命傷でなくとも、相当な手傷を負わせます。
なにより、これまでの槍よりも長いので、敵の槍など自分に届きません。
そこにもってきて、鉄砲の圧倒的な数量です。
道三がこれを見れば、すぐにそれを理解するのは間違いないと思います。

そこに、信長の馬上での、あのラフな格好です。
信長も、道三が観察するのは百も承知で、道三が何かのワナだと考えるに違いないと考えたはずです。
道中での襲撃はこれで防げるはずです。

信長は、道三がいつでも戦闘できる体制でいるのは想像していたでしょうから、信長は、まさに戦闘同然の体制と覚悟で臨んだのだろうと思います。
ひょっとしたら、鉄砲をいつでも発射できる状態だったかもしれません。

信長は20歳の若者、道三は61歳の老練な下克上武将です。
信長は、なめられないのにも必死だったことでしょうね。


◇戦場は聖徳寺

ドラマの中の信長は、寺に向かう時のラフな格好から、一転して、まぶしい金色の正装で会見会場にあらわれます。

ドラマでは、帰蝶のアドバイスで、道三の思考や好みに合わせた装束を信長にさせたとなっていましたね。
前述の進軍時の武器も、帰蝶がそろえたことになっていました。

第十四回の中では、信長が「今回の会見をもっとも喜んだのは帰蝶で、もっとも困り果てたのも帰蝶だ」ということを語っていましたね。
そして、道三の「何を困り果てるのじゃ」との問いに、信長は続けます。
「私が、山城の守(道三)様に討ち取られてしまうのではと…」。

ここで、道三は信長の顔をじっくり見ながら、次の言葉攻撃を思案します。
斎藤家家臣団も光秀も、生つばゴックンです。
ドラマの中での、この緊迫の間(ま)は、よかったですね。

道三は答えます。
「今日のあの鉄砲の備えを見させられ、どうやって信長殿を討ち取れよう」という主旨の返答をします。

すると、信長は言い放ちます。
「あれは寄せ集め…、どれほど役に立つものか…」。
そして続けます。
「これも帰蝶の…」。
「今日の私は、帰蝶の手の上で踊る、尾張一のたわけでございます」。

道三は、「なるほど、それなら、たわけじゃ…、ハハハハ」。

ここまで、道三の言葉攻撃を、見事にかわす信長です。
ほぼ互角の、舌戦が繰り広げられます。
テレビを見ていて、それは、まさに緊迫感いっぱいの戦(いくさ)そのものです。
十兵衛(光秀)も、終始、冷や冷やものです。

* * *

ここからが、信長の勝負ですね。

ドラマの中では、道三を始めとする大勢の斎藤側家臣団の前に座るのは、信長ただひとりです。
「暗殺するなら、してみろ」と言わんばかりです。

道三は問います。
「今日のこの大事な席に、なぜ重臣たちがいないのか…」と。

信長のすごい返答が、ここで炸裂します。
「父の信秀以来の古き重臣たちは、たわけな信長には不要ですので…」。

道三は言います。
「たわけなら、なおのこと、重臣たちに守ってもらわなければ…」。

ここで、織田家家臣の二人が呼ばれます。
前田利家と佐々成政です。
いってみれば土豪から、腕一本で成り上がって来た武士で、その後の織田軍での勇猛ぶりは皆さんもよくご存じの二人ですね。

斎藤側が大勢いようが、ここで道三と刺し違えることができる強者が、二人ここにあらわれたのです。
この二人には、失うものが何もないと、信長は言います。

「平手政秀はすでに亡くなり、父の信秀の時代の重臣などは自分には必要はない。
私の家臣である、失うものが何もない者たちは、戦って、自ら生きていく道をつくっていく。
彼らが持っているものは、その気構えだけだ。」
という主旨のことを、信長は、義父の道三に言い放ちます。

その言葉に、道三は、「…」。

信長はさらに、「鉄砲は百姓でも撃てる。その鉄砲は金で買える」と続けます。
実際に信長は、この後、それまでの農家兼務の徴兵型の武士団ではない、大した剣術を持たなくても、戦闘専門の職業軍人による大型軍団を組織していきます。
時代が大きく変わること、織田家も大きく変わること、失うものは何もないということを、道三に、堂々と伝える信長がそこにいました。

* * *

道三は、最初は、帰蝶がどうして困り果てるのかを理解できないようでしたが、会話を進めていく中で、そのことが理解できるようになっていきました。
帰蝶が、父の道三と、夫の信長が、あまりにもよく似た下克上の実力者だと見抜いたからにほかなりません。
そんな帰蝶と、その帰蝶の思いも理解している信長にも、道三は驚いたでしょうね。

道三は言います。
「信長殿はたわけじゃない。見事なたわけじゃ。」

そして、道三は、信長に、このまま帰りなさいという主旨のことを言います。
これで、刀や弓矢での戦いは起きず、それぞれは無事に戻ることになります。

* * *

実際の会見の内容は、すべてがはっきり残っているわけではありませんので、詳細はわかりませんが、この会見は、戦にも相当するような重要なものだったと想像します。

道三と信長の、二人の覚悟も相当なものであったでしょう。
ドラマの中では、道三の美濃国の中に、覚悟を持った家臣はいません。

道三と信長…、同じ覚悟を持つ者どうし、ドラマの会見の最後は、両家の高笑いの中で、道三と信長の結束が作られました。
「覚悟」とは、戦国時代の下克上にもっとも必要なものかもしれませんね。


◇新しい会見シーン

この聖徳寺の会見をドラマで描いたものは、これまでにも、たくさんありましたね。

中には、信長は、道三にかなりの時間待たされ、柱に寄り掛かる態度、斎藤家の家臣を無視する態度をとるという内容もあります。
もし、それが事実であれば、その時の信長の必死の演技はアカデミー賞ものですね。

道三は、それまでの信長の戦い方や性格を、ある程度知っていたでしょうし、待たせてじらすくらいのことは行ったでしょう。

現代の今も、どこかの国の大統領は、必ず遅れて会談場所にやって来ますね。
遅刻時間の長さは、相手や会談内容の重要度を示すバロメーターにもなっています。

大河ドラマの第十四回では、待たせるのは信長で、道三がイライラすることになりました。
通常、始めての対面で、義父を待たせる娘婿など考えられません。
それを堂々と行えるのが、今回の信長です。

今回のドラマでの、信長の遅刻も、さりげない詫びから会見を始める信長の演出であったのは間違いありませんね。

* * *

60歳を過ぎた道三は、当時の戦国武将の年齢からしたら、もはや下克上の最終段階と思っていたかもしれません。
誰よりも、下克上の厳しさを知っている道三です。
これからの尾張や美濃の国に起こるであろう、新たな下克上の厳しさを想像するに、若干20歳の信長と19歳の帰蝶のこれからの下克上の人生と、自身のこれまでの下克上人生と今後の人生を、重ねて考えないはずはありません。

老練な下克上武将に対して、これだけの度胸と策略で挑んできた若干20歳の信長です。
ドラマの中で語られていたように、道三は、信長の持つ大きな将来性に、何かを感じたのは間違いないと思います。
歴史の中の史実も、おそらくそうであっただろうと感じます。

* * *

今回の「麒麟がくる」では、帰蝶の壮大な「はかりごと」により、この会見が作られていったように描かれています。
歴史ファンの私ですが、若干19歳の娘が、60歳の父親の考え方や計略を読んで、さらに信長の心を動かして、この会見の演出を企てたとは、これまで一度も想像したことはありませんでした。
娘の帰蝶と、父親の道三の、戦いの構図など、考えたこともありませんでした。
とはいえ、20歳の信長と、19歳の帰蝶が、二人でこの壮大な企てを練ったと考えられなくもありません。

今回の大河ドラマでの、帰蝶のはかりごとを中心としたストーリーには、度肝を抜かれましたが、非常に面白い歴史物語でした。
本当に、面白い見事な脚本だと思います。

* * *

私は、当初、いつも通りの普通の時代劇ドラマのような、道三を驚かしたり、喜ばしたりの会見内容かなと想像していましたので、こんな長時間の戦いの会見が描かれるとは思ってもいませんでした。
素晴らしい脚本と演出だと感服しました。

本木雅弘さん演じる道三、染谷将太さん演じる信長、長谷川博己さん演じる光秀…、見ごたえのある会見シーンでした。

* * *

ドラマの中でも、信長と帰蝶の表情は、それまでの無邪気で粗暴な表情から、覚悟を決めた、戦う表情に変わっていますね。
時代劇の中の信長と帰蝶は、たいがい、ベテラン俳優さんが完成された信長と帰蝶を演じることが多いのですが、今回の大河ドラマの信長と帰蝶は、成長しながら、その人間像がつくられていく様子を見ることができます。
染谷将太さんも、川口春奈さんも、表情が変わってきたような気がします。

個人的には、信長が自分の城に帰って、帰蝶と、会見の内容について語り合うシーンを見てみたかったですね。
ドラマの中で、あれだけお膳立てをした帰蝶の反応を見てみたかったです。
娘は、実父に対して、十分戦えたと思ったのでしょうか…。


◇会見の後…

今回の大河ドラマでは、道三の有名な言葉も、しっかり描いてくれました。

道三は、信長の会見後に、義龍や稲葉、十兵衛(光秀)らの前で語ります。

「クチ惜しいが、信長を甘く見ると、そなた(義龍)も稲葉も…」
ここで、しっかり間(ま)があきます。
さあ、来るぞ来るぞ…あの言葉。

「みな、信長にひれ伏すときが来るぞ」。

この言葉が、実際に本当に、道三が語った言葉なのかどうかはわかりませんが、この言葉は、息子の義龍にはきつい言葉ですね。
まさに最後通告のようです。
身内に、それを言っては…。

ドラマでも、義龍の中に、何かの火が点火したのかもしれません。

* * *

ドラマでは、道三が信長への援軍を決めたこと、義龍が後継者になることを、義龍が十兵衛(光秀)に問いただします。
十兵衛は、援軍決定への反対、義龍の後継者容認を述べますが、これが、斎藤家の安定を考えてのことなのか、それが本当に正しい道と考えた結果なのかは、ドラマでは、まだはっきりわかりません。
十兵衛は、まだ完全な下克上者になりきれていないのかもしれません。
遠からず、十兵衛も覚悟を決めるのだと思います。

このあたりの脚本の展開も見事だと感じました。


◇下克上の中の親子

道三と信長の会見の後、道三がどの程度まで考えを巡らせたかはわかりませんが、この会見の次の年に、息子とされる斎藤義龍に家督をゆずります。

ドラマでは、ここまでの数回で、道三、深芳野(みよしの / 道三の側室・土岐頼芸のかつての妾〔めかけ〕)、義龍の親子三人の、激しい対立や、気持ちのすれ違いが描かれてきました。
親子関係のもつれや心情を中心にして、描かれてきましたね。
ドラマでは、深芳野は亡くなり、道三と義龍の親子関係は、これからさらに大きく展開していきます。

* * *

南果歩(みなみかほ)さんが演じた深芳野(みよしの)の、母親として、女性としての激しい姿は、すごい迫力でしたね。
子への想い、どす黒い野心、息子の待遇や感情に悩む母親…、ドラマの中の激しい叫び声は、夢に出てきそうです。

深芳野の死は、あまり深くは描かれていませんが、母親のどのような思いが混ざり合っていたのでしょうか…。
彼女もまた、下克上の犠牲になっていった女性のひとりでしたね。

* * *

義龍の出自の謎は解明されてはいませんが、道三が、いずれ、義龍の弟の誰かに、義龍から後継者の座を奪わせようと考えいても不思議はありません。
その際に、信長を利用しようとしたとしても、これも不思議ではありません。
場合によっては、帰蝶が跡取りの後見人として、美濃に戻ってもいいと思います。
もしかしたら、本当に戻ったのかもしれません。
とにかく、下克上の申し子こそ、斎藤道三という男です。

道三は、信長と会見した後に、さまざまな新たな思惑を抱いたとしても不思議はありませんね。

道三のその後の計画は、自分の思い通りにはなりませんでしたが、まさか下克上の厳しさを、身内に味わわせられるとは思ってもいなかったでしょうね。
下克上とは、あまりにも厳しい現実です。


◇わかりあえない…

気持ちがわかりあえないのは、道三、深芳野、義龍の親子三人ばかりではありません。
東庵と駒もそうです。

そして、駒を挟んだ、菊丸と藤吉郎(豊臣秀吉)のおかしな三角関係も…。
岡村隆史さん演じる菊丸には、いいご縁がくる…?

* * *

佐々木蔵之介さんが演じる藤吉郎が、猿の雄たけびとともに登場してきましたね。
あそこまで「猿」を強調しなくても…、でもテレビを見ている子供たちは、こういうのが大好き。

個人的には、佐々木蔵之介さんは、テクニックも豊富で、器用にさまざまな役柄を演じる役者さんなので、私の好きな役者さんです。
今回の秀吉キャラは、これまでの時代劇ドラマでの秀吉像では、見たことのない雰囲気です。

また、あらためて藤吉郎のことは書きますが、ドラマの中で、彼が語る「二本の矢」とは何を意味しているのでしょう。
誰のことを意味しているのでしょう。

殺伐とした戦国物語の中で、駒ちゃん、菊丸との、三角関係も面白そうです。

* * *

そんな、わかりあえない者たちが多い中、十兵衛(光秀)の妻となった熙子は、単なるさわやかお嬢さんではありませんでした。
十兵衛のことを、帰蝶との関係性も含めて、しっかりわかっているようです。
そして、十兵衛の母の牧(まき)とも、しっかりタッグを組んでいます。

この十兵衛一家の三人の親子関係は、道三や深芳野、義龍の親子関係とは異なり、しっかり言いたいことが言え、わかりあえているようですね。
十兵衛の母である牧の役の石川さゆりさんの、「まあ~」は、とても笑えました。
なかなか男性は、クチに出したくても出せない言葉ですね。
「まあ~」。


◇ドラマの様式美

第十三回の、帰蝶と、旅芸人一座の女座長との交渉の場面も、とても痛快で楽しめました。
何か薄暗い思惑を持つ二人が、「黒い金」の巾着袋をひとつずつ出しながら、武器や人集めの交渉をするというのは、多くの映画やテレビドラマでよくあるシーンです。
ある意味、こうした「黒い金」がらみのシーンの「様式美」ともいえますね。

この、見る人を裏切ることのない、黒い金の定番シーンは、「待ってました」と思わず叫んでしまいました。
砂金パラパラなんて、近年、忘れていたシーンです。
昔の西部劇、悪よのう越後屋…を思い出し、うれしくなりました。

尾野真千子さんが演じる女座長の顔の紋様も、なかなかのくせ者(ピエロ)ぶり…。
今回の大河は、けっこう、昔からのドラマの「様式美」を見せてくれますね。
もう一度、「まあ~」。


◇武将の中の二面性

さて最後に、道三と信長の会見について、もう少し書きます。

今回のドラマの会見は、帰蝶が裏でお膳立てを行ったという描き方ですが、歴史上の出来事は、信長の非常に優れた戦略そのものかとも思います。
信長という人間の中の二面性も、しっかり見て取れます。

たしかに、戦国時代に勝ち残っていった武将たちは皆、ひとりの人間の中に、極端な二面性を持っている人物が多いような気がします。
信長はもちろん、光秀も、秀吉も、家康も…。

いってみれば、天使と悪魔です。
信長は、実際に「魔王」と自身で語っていましたね。

* * *

信長の、好奇心いっぱい、新しもの好き、陽気な開拓者で統率者という一面と、陰湿でしつこい暗い残忍な一面は、よく知られていますが、成功したどの武将でも、そうした両面を持っていましたね。
どちらかだけに偏った武将は、最後まで生き残れなかったような気もします。

前述の聖徳寺の会見での、信長の両極端の姿も、意識的に自身を使い分けたもののようにも感じます。
その両極端さを見て、相手がどのように感じるのかを、十分に理解しているのだと思います。

彼の戦の戦い方における、さまざな手法や演出も、そのあらわれではないかとも感じています。
ずっと後の、信長の光秀に対する姿勢も、その両極端があった気がします。
秀吉に対する姿勢と、光秀に対する姿勢は、相当に違っています。

立身出世していった武将たちは、人心掌握術が巧みであったのは間違いありませんが、「恐怖」を上手に使っていた武将はそれほど多くはいなかった気がします。
信長は、時に恐怖を利用しながら、時に自身が恐怖に悩まされるという、複雑な面を持っていたようにも感じます。

天使と悪魔の両者を、自分の中でコントロールするというのは、どのようなものなのでしょうか…。
凡人の私には、なかなか想像できません。

信長も、道三も、自身が天使になるとき、悪魔になるときには、相当な覚悟を持って臨んだのであろうと感じます。

さて、光秀は、天使と悪魔をどのようにコントロールしていたのでしょうか…?


◇三英傑のホトトギス

私は、以前に、コラム「旅が人をつくる / もうひとつの関ヶ原」で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人の「三英傑(さんえいけつ)」の「ホトトギス」の話しを書きました。

「鳴かぬなら、殺してしまえ、ホトトギス」(信長を評して)
「鳴かぬなら、鳴かせてみせよう、ホトトギス」(秀吉を評して)
「鳴かぬなら、鳴くまで待とう、ホトトギス」(家康を評して)

これは、江戸時代後期の、肥前の国の平戸藩の藩主、松浦清が書いた「甲子夜話(かっしやわ)」の中に登場するお話しです。
詠み人のわからない川柳として紹介されています。
「わからない」としただけだと思います。

このホトトギスのお話しは、それぞれの人物の行動の結果を評しているもので、それぞれの性格や人間性を正確に表現しているものではありません。
たしかに、おおまかな人物像を、ひと言で表現していると言えなくもありませんので、間違いではありませんが、各武将の歴史の結果を表現しているといったほうがいいのかもしれません。

そのコラムで、信長をはじめとする三英傑の人物像のことを書きました。

とかく、「リアリスト(現実主義者)」、「合理主義者」と評される信長です。
戦場で、敵を殺した場合にも、相手の首や耳や鼻を切り取らずに、次の敵にすぐに向かえと指示を出したのも、信長が初めてだといわれていますね。
自分の「てがら」を考えずに、軍団の勝利を徹底的に最優先せよという意味です。
武士たちにとっては、たいへん大きな意識改革です。
もちろん、時と場合によっては、前述のような残忍な行為は行われましたが、まずは軍団の勝利が最優先です。

「麒麟がくる」では、そう遠くない回で、斎藤道三が死ぬことになりますが、残忍な逸話も残っています。
大河ドラマでは、おそらく描かれないとは思いますが、因縁のある長井家によりそれは行われたともいわれています。
戦国時代に生きる人々の悪魔の部分です。

信長の「魔王」の行為も、これから大河ドラマの中でたくさん描かれていくのだろうと思います。
信長の中の二面性である、天使と悪魔が、交互に出てくるのでしょうか…。
光秀に大きな影響を与えていくのは必至です。


◇豊臣家の滅びの道

今の新型コロナに対する日本の戦い方を見ていると、歴史ファンの私は、ある武将らを思い出してしまいます。
大坂の陣で、徳川勢に敗北し、滅亡していった豊臣家です。

秀吉の息子の秀頼をはじめ、淀君、大野治長らの側近たちによる豊臣政権中枢部の戦い方です。
彼らは、いったい何と戦っていたのでしょうか?
どんな覚悟を持っていたのでしょうか?

天使も悪魔も飼いならす、まさに神君の徳川家康らの勢力との戦いであるはずなのに、豊臣家は別の多くの何かとも同時に戦うという大失敗を続けます。
関ヶ原の戦いの時の石田三成の進言も、大坂の陣の真田幸村の進言も、まったくはねのけてしまいます。

さまざまな有能な家臣の支えのもと、大将(秀頼)が戦場の前線に姿を見せ、しっかり指揮することの重要性を、豊臣政権中枢部はどのように考えていたのか…。
小手先の戦術で勝利できるほど、家康は甘くはありません。
徳川家康という戦国時代最高峰の戦国武将と戦っているという自覚がどの程度あったのでしょうか…。

まさか、自身たちの中の天使や悪魔と戦っていたということはないでしょうか…。
まずは徳川家康との戦いであるのに、同時に別のものと戦っていたのです。

* * *

戦国時代の武将たちは、同時に複数の敵に取り囲まれ、戦線がコントロールできないほど拡大したら、もう終わりです。
戦いに時間差をつくり、戦場の範囲を決め、逃げ道をつくり、用意周到に戦場に向かうのが鉄則です。
戦いはひとつずつ確実に行っていくものです。

悪魔のような家康の高笑いが聞こえてきそうな、豊臣政権内の狼狽(ろうばい)ぶりでしたね。
最期に気がついても、時すでに遅しです。
豊臣家は、滅びゆく道を、まったくそれることなく一直線に向かいました。

今、日本のコロナとの戦い方が、間違った方向に向かっていないことを祈ります。


◇天使と悪魔

人は、自身の中にいる天使と悪魔をコントロールできると思ってしまいがちですが、自身の恐怖を、私欲や意地、こだわりがそれを覆い隠してしまったときに、天使と悪魔にコントロールされる側にまわってしまうのかもしれません。

私は、今回のコロナ問題を通じて、人間の中にいる天使と悪魔、政治の中にいる天使と悪魔、社会の中に潜在的にいる天使と悪魔…、それらが見えてきたような気もしています。

悪魔が全世界を包み込んでいる今、人類の英知とパワーが問われています。

そんな日本の中でも、医療現場で働く人々、スーパーで食料品を売る人々、物流や市場の現場で働き続ける人々、いろいろな生産現場で働き続ける人々…、そうした、まさに戦場の最前線で戦う戦士たちは、戦う天使たちともいえます。

今、大型施設を白い照明でライトアップしたり、皆で一斉に拍手を贈る行為など、医療従事者を応援する取り組みが、さかんに行われるようになりました。
彼らに無償で食事を提供する活動も始まっています。

世界を包み込んでくれる大きな天使が、悪魔たちであるコロナを早く蹴散らしてくれるのを願うばかりです。
ひょっとしたら、天使は、麒麟の背に乗って、やってくるのかもしれませんね。
いや、人間そのものなのかもしれません。

「パワー・オブ・ラブ」を、もう一度聴いて、眠りにつこうと思います。

* * *

コラム「麒麟(15)」につづく。


2020.4.20 天乃 みそ汁
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