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麒麟(15)道三の「三本の道」

【概要】NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。斎藤道三の選択。道三と光秀の永遠の別れ。人の上に立つ者。下克上の道。武士の道。徒然草。本木雅弘さん。


コラム「麒麟(14)天使と悪魔 / 聖徳寺」では、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の第十三回と第十四回に関連し、斎藤道三と織田信長の「聖徳寺の会見」のことなどを書きました。
今回のコラムは、「麒麟がくる」の第十五回と第十六回に関連し、斎藤道三のことや、下克上の道・武士の道について書いてみたいと思います。


◇人生の分岐点

今、新型コロナ問題という苦難によって、世界中が混乱状態にありますね。
生死に関わる恐怖や、先行きの見えない不安…、まさに人生の大きな岐路に立たされている方も少なくないはずです。

さまざまな困難はあっても、それまで比較的 順調にきていたのに、いきなり雷にうたれたような衝撃を受け、まさに、戻るも地獄、進むも地獄という状況に置かれている方も多いはずです。

あなたは、これから進むべき道が、これまで来た道の延長上には無く、いくつかの道の分岐点にさしかかっているとしたら、どのようにされますか。
先に見える道が、二つに分かれた道なのか、三つに分かれた道なのか…?
それとも、道がまだ見えていないのか…?

おそらく、二者択一の判断と、三者択一の判断とでは、迷いの度合いも、覚悟の度合いも、大きく違うのではありませんか?
人生は、来た道を戻ることはできません。
タイムマシーンでもない限り、進むしかないのです。
反省の上に立って、やり直すことはもちろんできますが、これも前進しかありません。

* * *

斎藤道三の「道三(どうさん)」という名前は、斎藤利政が出家後に名乗った名です。
家督を息子の高政(義龍)にゆずってから、実権をさらに維持し、院政を行う道を選んだ際の名前といえます。
誰も、道三が、出家して世俗を離れたとは考えてはいませんでした。

実は、この「道三」という名前の意味や由来は判明していません。
昔から、いろいろな識者が、さまざまな想像をめぐらしている名前なのです。

タイムマシーンでも使って、道三本人に聞いてみなければ、この「道」と「三」の意味は、永久に不明のままでしょう。

ただ、道三が、家督を息子の高政(義龍)にゆずったことは、ある意味、彼の人生の道の最大の分岐点であったことは、間違いないと思います。
今回のコラムでは、この時の、道三の目の前にあったであろう、あえて「三本の道」について考えてみたいと思います。


◇道三の「三本の道」

「麒麟がくる」の第十六回「大きな国」では、道三の台詞に次のようなものがありました。

「家督をゆずる相手を間違えた。間違いはたださなくてはならぬ」。
これも、戻れない道を戻るようなものですね。

もちろん、これは、斎藤高政(義龍)の弟たちや、織田信長を、家督をゆずる相手にすべきだったということを意味しています。
「美濃国をゆずり渡す」という道三から信長への書状の信ぴょう性は、私にはわかりません。
「麒麟がくる」では、道三が、信長を後継者に考えていたことを、強く想像させます。

高政が、二人の弟たちを殺害した時点で、道三には三本の進むべき道があったのかもしれません。

一本目は、高政(義龍)との戦いを避け、ひとまず高政とは微妙な関係を維持し、控えめの態度を示す道。
二本目は、「麒麟がくる」で描かれていましたが、越前国の朝倉氏のもとに身を寄せ、再起の機会を待つ道。
三本目は、高政との全面対決です。

道三ほどの智将ですから、三本目の道を選択した場合に、織田信長が支援に来るとは想像していなかったでしょう。
三本目の道が、「死」を意味することは歴然としています。
ドラマでも、光秀や信長は、道三の敗戦が確実と語っていましたね。

* * *

ここで考えるのは、道三の年齢です。
すでに齢(よわい)60歳を超えた老将です。

以前にも、別のコラムで書きましたが、この当時の戦国武将は、死ぬ場所や、死の意味をしっかり考え、死ぬ場所と時を自身が決めるということが多くありました。
現代人とは、少し異なる思想がそこに強くありました。

「麒麟がくる」の第十六回「大きな国」で、道三は、高政との全面対決の道を選択しましたね。
まだ若い年齢の、光秀や信長とは、まったく別の思想だったと思います。

ドラマの中で、道三は選択の迷いを、仏に頼りますが、仏からは何も「お告げ」を受けとることができませんでしたね。
下克上の権化のような、自身のこれまでの人生の道を振りかえれば、今さら、仏が導いてくれるはずもないことは、自身が一番わかっていたことでしょう。

道三は、選択した道の先、さらにその先も…、何がおこるのか、しっかりわかっていたと思います。

* * *

「麒麟がくる」の第十六回「大きな国」では、道三と光秀の最後の別れのシーンがありました。

個人的に、何十年と大河ドラマを楽しんできた中でも、すばらしい別れのシーンの上位にランクされるような気がしています。
台詞といい、映像演出といい、これぞ大河ドラマという世界に感じました。

本木雅弘さんが演じる斎藤道三の表情は、背景の強い白い光のせいで、はっきりとはうかがえません。
ですが、その力強い言葉の中に、自身が選択した道に「迷い」はすでにありませんでした。
白い背景の中に、麒麟(きりん)がいて、道三のクチを使って語っているようにも感じさせてくれました。

個人的にも、この映像手法は大好きです。
後ほど、このシーンについて、さらに書きます。


◇乱世の道筋

実は、「麒麟がくる」の第十五回「道三、わが父に非(あら)ず」でも、道三の次のような台詞がありました。

光秀が道三に言います。
「かかる混乱は、殿(道三)がはっきりと、後の道筋をつけずに、家督をゆずったからに存じます…」。

光秀はさらに、道三に、今後の織田家と斎藤家の関係性、高政(義龍)との関係性を問うのです。
そして、再び道三が実権の座につく考えがあるのかと問います。

道三は、最高権力の地位への返り咲きを、きっぱり否定します。
そして語ります。

「道筋などあるのか。
わしは、己が正しい道の上を歩いてきたとは、微塵(みじん)も思わぬ。
戦は、勝ったり負けたりじゃ。
無我夢中で、この世を泳ぎ渡ってきた。
高政(義龍)も、そうするほかあるまい。
チカラがあれば、上手く生き残れよう。
非力であれば、道は閉ざされる」。

さらに、道三の話しは続き、最後に光秀が道三に問います。
「殿(道三)は、何故(なにゆえ)、今、家督をゆずろうと思われたのですか」と。

道三は答えます。
「そのような大事な話し、ただでは話せぬわ…」。
そう言ってニヤッと笑って、その場を去ってしまいます。

光秀は、「ウヮ…」と声をあげながら、癇癪(かんしゃく)をおこし、持っていた鉄砲を投げようとしますが、我慢します。

後世の私たちも、道三がどこかにその理由を残しておいてくれさえすれば、この時の道三の思惑が理解できたものを…。
私もテレビを見ながら、「クソッ、ただではない。受信料はしっかり払ってます」と声をあげたくなりました。

* * *

たしかに歴史を振り返ると、道三の台詞のとおり、天下人に近づいた有力武将の多くは、そうした道の歩き方だったような気がします。

徳川家康でさえ、江戸幕府の権力集中システムは見事でしたが、一方、徳川家内部は、後の徳川御三家が必ずしも将軍家のバックアップにはしていません。
表向きは序列があっても、実は大量の徳川家の人間の中から、実力のある者がはい上がってくるシステムです。
徳川家の中でチカラのある人間が、常に幕府のトップの座を勝ち取るシステムです。

光秀の言う「道筋」は、この時の、確立された封建社会が崩れた「下克上」の乱世に、通用する言葉ではなかったとも感じます。
ですが、ひょっとしたら、光秀は、最期までそれにこだわっていたのかもしれません。
光秀の人物像が、今後どのように描かれていくのでしょう…。

ともあれ、道三と光秀のこの会話は、非常にすばらしい内容でした。


◇人の上に立つ

道三のこの道筋の考え方は、息子の高政(義龍)とは、ほぼ真逆のように感じます。

史実から想像するに、高政は、ドラマの中の、その華美でキリっとした装束のように、権威や形式(システム)、秩序や序列に非常にこだわるタイプの人間だったように思います。
闘争心だけは一人前以上に持っているわりに、いざ戦争となるとチカラを発揮できないようなタイプに感じなくもありません。
陰謀や暗躍による政争での勝利が得意技だったのかもしれません。
豊臣政権の石田三成を思いおこさせます。

* * *

下克上の戦乱の世で、何でもありの非道の道を歩んできた、いってみれば現実派の道三と、高政では、政治の考え方や行い方が、あまりにも違う気がします。

道三が、これまで歩んできた道のすべてが、人として正しい道なのかどうかは、わかりません。
ドラマの中の道三は、第十六回「大きな国」の中で語ります。

「高政(義龍)は人をあざむき、自らを飾ろうとしている。
…人の上に立つ者は、正直でなくてはならぬ。
偽りを申す者は、必ず人をあざむく。
そして、国をあざむく。
決して、国は穏やかにならぬ。
わしはケチだが、それを隠したことはない。」

「麒麟がくる」の第十五回と第十六回の、道三の言葉は、現代の今、私の心にも強く響いてきました。

とはいえ、歴史上の実際の道三は、そうしたことを言うような、言えるような、人間ではなかったと私は思っています。
大河ドラマの「本木道三」ならではの台詞かもしれませんね。
でも、とてもいい台詞です。

* * *

道三いわく「そなた(光秀)は正直者だ。それでよい」は、光秀にとって、大きな言葉になりそうですね。

これで、光秀と道三は、永遠の別れとなりそうです。
お前は、それでよい…、「さらばじゃ」。

本木雅弘さんの「さらばじゃ」…、別れの名演技でしたね。

私にとっては、これまで大河ドラマの名シーン数々ある中で、きっと忘れることのない映像シーンになるのだろうと思います。


◇光秀が選択した道

第十六回で、光秀は、高政ではなく、道三に味方することを選択しました。

自身が考える「道」を、選択したように感じます。
それが、正しいか正しくないか、理(利)があるかないかは、関係ありませんね。

ドラマの中で、光秀は、高政(義龍)に「かしこい やり方だ」と、否定とも肯定ともとれる言葉をぶつけます。

道三が仏を見つめるのとは異なり、光秀は「桔梗(ききょう)」の紋様を見つめ、鉄砲を構え、最終決断します。
桔梗の花を兜(かぶと)にさした、先祖の源氏武者から、進む道を導かれたのかもしれませんね。

* * *

次回の第十七回の放送で、道三と高政(義龍)の戦いの決着がつくのだと思いますが、前述の二本目の道によって、光秀は新しい歩みを進むことに…?
ドラマでは、帰蝶が、前述の二本目の道をつくったように描かれていましたね。
あの旅芸人一座の女座長のはたらきや、美濃国に来ようとしている駒ちゃんに、助けられるのでしょうか…?

明智家は、他の斉藤家家臣からみたら、出遅れ感がいなめないですが、光秀に大きな試練がやってきそうです。
ですが、光秀には、覚悟も勇気も、すでに備わっています。
ドラマの中では、「敵は〇〇」というフレーズが、早くも登場してきました。

光秀は遠回りをしそうですが、信長の信頼は得られたかもしれませんね。


◇麒麟のお使い

第十六回「大きな国」では、駒ちゃんと医者の東庵が、後の徳川家康に出会います。
いずれ「薬オタク」になる家康は、ここから始まるのですね。

それにしても、駒ちゃんは、光秀、信長、秀吉、家康…と、そうそうたる人物たちと遭遇していきますね。
まるで、麒麟さまの「お使い」のようです。
誰が天下人にふさわしいのか、麒麟に報告するときが来るのでしょうか。

この「駒」とは、もちろん将棋などの「駒」の意味があり、動物の「馬」を意味しますね。
麒麟が、馬を駒のように、お使いに出しても不思議はありません。
駒ちゃんの行くところ…、目が離せませんね。

岡村隆史さんが演じる「菊丸」は、駒ちゃんにゾッコン…、結構 屈折した男ですが、愛すべきキャラでもありますね。
まだまだ駒ちゃんには、ふさわしい男でもなさそうです。
顔を洗って出直してくれるでしょうか…。


◇下克上を生きた人々

さて、道三の話しに戻します。

斎藤高政(義龍)の父親は、はっきりと判明しているわけではありませんが、「麒麟がくる」で描かれているような、義龍による「土岐源氏の血筋」という捏造説を、私も支持したいような気持ちを昔から持っています。

「麒麟がくる」でも、高政(義龍)は、重臣の稲葉良通(いなば よしみち)に、上手にそそのかされるような描かれ方がされていましたね。
この稲葉良通という人物は、名前とは裏腹に、実に悪道を通ってきた武将です。
まさに下克上の申し子です。
先般、ドラマの中で亡くなった「深芳野(みよしの)」の弟です。


〔 稲葉良通 〕

斎藤道三が、主君であった土岐氏を追放したのと同じように、稲葉氏は主君の斉藤家を乗っ取ろうと企てていたのです。
今回の斎藤家親子の戦いは、まさにこうした重臣たちの思惑通りに進んでいたはずです。

稲葉良通は、いずれ斎藤家の滅亡の原動力にもなり、ちゃっかり織田家の家臣になり、織田家を見限るや、すぐに豊臣家の家臣となって生き延びていきます。
ある意味、光秀とは別のやり方で下克上を生き延びていった武将です。

村田雄浩さんが演じる稲葉良通は、「一鉄」という号を、いずれ持つことになりますが、これが「ガンコ一徹」の「一徹」という言葉の語源だと何かで読んだことがあります。

下克上の戦乱の世を生き延びる道は、「先の道の選択を絶対に間違えない。裏切りだろうが、何だろうが、生き延びたら勝ち」という、このガンコ一徹さが必要なのかもしれません。
大河ドラマの中で、良通が、どのあたりまで登場してくるのかわかりませんが、こんな「下克上人(げこくじょうびと)」の道もありました。


〔 帰蝶 〕

さて、今回のドラマでの「帰蝶(きちょう)」の姿を見ていると、帰蝶が、下克上の戦乱の世の中で、いち武将のように、強気で強引で、陰謀や暗躍も辞さない人物として描かれていますね。
川口春奈さんの美しい表情の裏に、あの腹黒さは、なんとも不気味な恐ろしさを感じてきました。

この時代は、女性とはいえ、「おんな城主」も幾人かいました。
織田家の中には、そうした たくましい女性が結構いましたね。
織田家の血は、そうなのかもしれません。

下克上の戦乱の世ですが、女性の中にも、耐え忍ぶばかりではなく、さまざまな場所で戦っていた女性がたくさんいました。
「下克上人」が、男性ばかりだと考えるのは、おそらく誤りだろうと思います。


〔 明智光安 〕

反面、西村まさ彦さんが演じる明智光安(あけち みつやす)のように、下克上に関心を持たない武士もいます。
立身出世とは無縁の中で生きていた武士のほうが、戦国時代に実は多かったのではと感じることもあります。
ですが、「のんき者」に見えた光安にも、しっかり「魂」は存在していました。
お家の防衛専門であっても、しっかり武士は武士なのです。

当時の武士の「死」への覚悟は、現代人とは少し異なるのかもしれません。
光安の運命が、次回の放送で、どうなるのか…。
あの「お気楽武士」の姿を見れなくなるのは…。


〔 斎藤高政(義龍) 〕

さて、高政(義龍)は、下克上の権化のような道三の息子ですが、正室の子ではないという立場です。
武家社会の中で、ある意味、これは重要な意味を持ちます。
側室の子が、家臣や領民を統率するには、相当な覚悟と実力が必要になります。

とはいえ、親譲りの「下克上気質」を持っていても不思議はありません。
ドラマの中で描かれたような、病気見舞いと称して、身内を、なき者にすることは、戦国時代ではめずらしいことではありません。
下克上の戦国時代に、確実に簡単に行える暗殺方法です。
道三も、一歩順序が違えば、高政をなき者にしていたかもしれません。

高政は、父親の道三の姿を、間近で見ながら育った武将です。
いつ、誰に、牙をむくかは、本人でさえも、わからなかったかもしれませんね。

* * *

下克上の戦乱の世には、現代では想像もできないような、人物像がたくさん存在していたのかもしれません。
生まれも育ちも、知識も教養も、統一されたものが何もない下克上の戦国時代は、現代人が想像するよりも、はるかに多様な人間社会だったのかもしれませんね。


◇下克上人(げこくじょうびと)の向かう道

さて、道三は、前述の三本の別れ道にさしかかる前に、何かの「狂い」が、道三の中に生まれたのかもしれません。
ドラマの中では、「老い」もその原因のひとつにあげていましたね。

コラム「麒麟(14)天使と悪魔 / 聖徳寺」でも書きましたが、信長に出会って、あるいは戦略変更を考え始めていたのかもしれません。

さらに、道三には、高政は家督をゆずった我が子だという甘さが、どこかにあったのかもしれません。
それと、前述の稲葉氏などの重要な家臣の掌握にも、甘さがあったのかもしれません。

あれほど残虐でち密な下克上の道を、これまで歩んできた道三でさえ、絶対的なチカラを持つと、その瞬間に過信と油断が生まれ、その苦境は、新型コロナのように一瞬にやってきます。

どの時代でも、下克上をかけ上がってきた者たちが迷い込む「道」なのかもしれませんね。

* * *

道三が主人公でもあった大河ドラマ「国盗り物語」は、かなり昔なので、夢中で見ていたわりに、あまり記憶していませんが、道三の最後の道行きを、「麒麟がくる」ほど、繊細にドラマチックに描いたドラマ作品を、私は記憶にありません。

見事な展開と脚本、演出だと感じます。

斎藤道三の「道三」という名前に込められた意味を、今、完全に解釈することはできません。
「道」とは何のことなのか?
「三」とは何の数なのか?

「麒麟がくる」では、これからも「下克上人」たちの厳しい道を見せてくれることになるのでしょう。
今日の味方は、明日の敵。
今日の敵は、明日の味方。

麒麟が、最後まで「道」に導いていく者が、本当にあらわれるのかどうか…。
あるいは、その「道」を見つけた者の前に、あらわれるのかどうか…。


◇つれづれの道

「麒麟がくる」で、こうした人間どうしの争いを見させられていると、何か憂鬱(ゆううつ)な気分にもなりますが、これも人間社会の一部分です。
人類に共通の大きな敵があらわれた時でさえ、人間どうしの争いは続きます。
とはいえ、絶対的なチカラを持つ「麒麟」が架空の生き物ではあっても、それを信じたいと思うのも人間の心理ですね。

それにしても、ここまで たいへんな苦境に立たされた大河ドラマは、かつてあったでしょうか。
ドラマ撮影中断という危機に遭遇している大河ドラマ「麒麟がくる」ですが、どんな分かれ道が待っているのか…。

* * *

今回のコロナ問題で、人生の岐路に立っている方々…、どの道を選んでも、苦労のない道はないかもしれません。
勇気と覚悟が必要ですね。

ドラマの中の道三は、「偽り」と「あざむき」を否定していました。
下克上人の言葉だからと無視するのは、それこそ誤った道を行くことになるのかもしれません。

* * *

この数回の大河ドラマの中では、後の秀吉が、駒ちゃんから文字を習うために、書物を持ち歩き、よく声をあげて朗読をしています。
この書物こそ、当時の高い見識が詰め込まれ、その時代の憐れや死生観が反映された「徒然草(つれづれぐさ)」です。
秀吉の見識を創りあげたものが、「徒然草」であったのかどうかは、私にはわかりません。

第十六回では、信長の書物の読解力がまだまだ足りないように描かれていましたが、実際は、人並はずれた読解力の持ち主で、その洞察力は尋常ではなかったと、私は感じています。
帰蝶に鍛えられたというのなら、それも、いい夫婦ですね。

「つれづれ」とは、何もすることがなく退屈な様子や、そこはかとなく何かにずっと思いを寄せることを意味します。

つれづれの日々を悶々と過ごすことも、新しい道を探すことも選択することも、それほど違う行為ではないのかもしれません。

苦難の時であっても、どうか、皆さまの「道」が、しっかり続いていきますように…。

* * *

コラム「麒麟(16)」につづく。


2020.5.5 天乃みそ汁
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