「映像&史跡 fun」は、映像・テレビ番組・史跡・旅・動画撮影のヒントなどをご紹介するコラムです。


麒麟(20)桶狭間は人間の狭間②
「伊勢湾がほしい…」

【概要】NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。信長と義元の戦いの狙い。大高城・鳴海城・沓掛城。桶狭間という土地。染谷将太さん。


◇ジャスト・コンパクト

前回のコラム「麒麟(19)桶狭間は人間の狭間① 心のスキをつけ」では、戦国時代の戦が、腕力から頭脳戦に変わってきたこと、敵の大将の心のスキを突き、勝利を狙うことなどを書きました。

今回のコラムから次回にかけては、「心のスキ」ではなく、「心の本質」を突いてみたいと思います。

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の第二十回「家康への文」の放送内容を中心に、「桶狭間の戦い」の前段階について書きたいと思います。

* * *

前回コラムで、この「桶狭間の戦い」には、その戦の内容がしっかりと判明しておらず、諸説が乱立していると書きました。
ですから、信長の勝因も多くの内容が語られています。

戦争でも、スポーツでも、ビジネスでもそうですが、勝因がただひとつだけということは、絶対にありません。
たくさんの要因が、複雑に絡み合って、結果が生じるものです。

いくつかの勝因の中には、重要なもの、それほど派手な内容ではないが効果が大きかったもの、心理的な要因など、さまざまにあります。

* * *

今回の大河ドラマでは、「桶狭間の戦い」を二回分の放送に詰め込まなければいけないようでしたので、それはそれは、猛スピードでドラマが展開しましたね。

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の第二十回「家康への文」では、信長の勝因につながる重要な内容が、たくさん散りばめられていました。
歴史ファンからみたら、よく45分間の中に、これだけ上手いこと、詰め込んだなと感心してしまいました。

半分くらいの台詞に、歴史の説明のような内容が盛り込まれていましたが、ドラマ性を失わず、かといって歴史番組の再現ドラマに感じさせず、今回の大河ドラマは見事な制作陣だと、お世辞抜きに感じます。

まさに、ジャスト・コンパクト!


◇本質の違い

この第二十回の45分間の内容は、実際の歴史では、おそらく春から5月18日までの3か月程度で行われたであろう出来事です。
運命の「1560年」のお話しです。

先程、この戦いの内容は諸説ありますと書きましたが、この大河ドラマの内容は、いわば、諸説の「いいとこどり」のような気もしています。
判明している史実はもちろん、かなり可能性の高い部分も含めて、とてもコンパクトにまとめてあります。

私の個人的な印象では、第ニ十回の内容は、ひとつの部分を除いて、フィクション(想像・虚構・作り話)はほとんどないのではないのではないかと感じます。
断定的な描き方ではないにしても、信長の勝因につながるような内容は、個人的には、まったく同感です。

* * *

前述の「ひとつの部分」とは、もちろん…、光秀が帰蝶に「元康のとりこみ」のアイデアを伝えた部分のことです。
こんな話しは、聞いたことも、読んだこともありません。
私は、想像だにしたこともありません。

でも、こうした演出で、見事に、ドラマの中の光秀の存在感と、ドラマ内容の時間短縮が実現できました。
それに、これならドラマとして、非常にドラマチックな展開に感じます。
史実に加えているだけなので、史実の歪曲とはまったく思いません。

* * *

ドラマの中では、帰蝶にむかって問う、信長のこんな台詞がありました。
「その知恵(松平元康を味方に引き込むこと)をつけさせたのは誰だ?」。
「察しはつくがな…」。

ドラマでは、確実に明智光秀のことを示す演出がされていましたが、私は思わず、「光秀じゃなくて、NHKだろ…」とテレビに向かって、声を上げそうになりました。
私は、このシーンで、大河の制作サイドの知恵を大きく感じました。
結構、コロナで苦しい中でも、楽しみながら制作されているのでしょうね。
私は、このような面白い演出や台詞は、大いに歓迎です。

* * *

これまでの多くの大河ドラマでもそうでしたが、「大河」では、諸説がたくさんある中で、怪しい内容は、ほぼ削除しますね。
判明していなくとも、いわゆる定説扱いになっている内容は別にして、ドラマの中で匂わす程度のことはしますが、断定した扱いはあまりしません。

今回の第二十回の放送内容に出てきた「桶狭間の戦い」の目的、信長の勝因につながる内容は、歴史ファン…、特に信長ファンであれば、理解しやすい内容なのですが、はじめて「桶狭間の戦い」にふれた方、教科書程度の理解しか持たない方、歴史にあまり興味がないドラマファンのような方々には、この戦いのあらすじを理解するのがやっと、意味あいはほぼ不明、それも展開が早すぎ…なのではないでしょうか。

これは、「大河ドラマ」という歴史ドラマが持つ「負の宿命」ともいえますが、今回の「桶狭間」関連のコラム連載では、この第二十回「家康への文」と第二十一回「決戦!桶狭間」を、私の想像を含めて、少し補足説明していきたいと思っています。

もう少し、信長や義元のこと、「桶狭間の戦い」のことを知ってみたい方は、どうぞお付き合いください。

* * *

信長の勝因については、またあらためて別の回のコラムで書きますが、私は、この第二十回「家康への文」のドラマの中に、信長の最大の勝因が描かれていると思っています。
最大の勝因は、兵力でも、天候でも、信長の運や知性でも、ありません。
もちろん、これらの要因は大きなものでしたが、私は「最大」と言われたら、やはり「人間の心(思い)」だったような気がします。

この回のタイトル「家康への文」の中にこそ、勝因が隠れていると思っています。
この回の内容では、それにつながる、信長の思想と、今川義元の思想の違いも、しっかり明確に描かれていました。
これが「心の本質」の部分だと思います。

これは、織田信長と、今川義元の、戦国武将としての本質の違いもあらわしていると感じています。


◇元康の「心の本質」

この第二十回「家康への文」の内容は、このドラマの中で、信長の勝因につながるような映像展開や意味あいにはなっていましたが、視聴者にはなかなか、それが「勝因の本質」と伝わりにくいのかなと思っています。

もともと、この「桶狭間の戦い」を二回の放送だけで描こうとしたかどうかはわかりませんが、何かのシーンを撮影できなかったのかなと感じる部分もあります。
元康と母の対面とか、他にも…。
元康と信長による共同の陰謀を示すような、元康の重要な台詞でもあれば、それが信長の勝因を示すことになったのかもしれませんね。

ただ、そのシーンを描くことは、信長と元康の取引きを断定するものにもなるので、なかなか描けないかもしれませんね。
とはいえ、元康を演じた風間俊介さんの、あの切ない泣きの表情を見させられると、この「風間元康」は、周囲の人たちから泣いて懇願されたら断れない人物なのだろうと感じてしまいます。

* * *

今回の大河では、松平元康(後の徳川家康)を、「裏切りや陰謀の権化」のような存在に描きたくないのかもしれません。
この頃の実際の家康は、まだ19歳(満年齢17歳)…、周囲の人たち、同郷の人たち、一族の人たち、家臣たちに、これだけ懇願されたら…。

実際の歴史の中で何が行われたのかわかりませんが、「陰謀」や「謀略」よりは、「懇願」によって元康が行動を起こした…のほうが、人が受ける印象は大きく違いますね。
元康の、この戦いでの行動の本質が、実際に何だったかは、想像するしかありません。

ただ「心の本質」は、ドラマの中で描かれたようなことだった気がします。
あらためて次回コラムで書きます。

放送二回分しかない「桶狭間の戦い」なのに、この部分に相当な時間を使っていましたね。
個人的には、見事だと感じました。
さすが池端俊策さんです。


◇信長と元康の「最終地点」

私が個人的に思うのは、信長にとっては、この大きな戦の計画は、家康が岡崎城に戻って母に再会するところが「最終地点」だったようにも感じています。

もちろん、戦国武将の戦の計画は、状況変化を想定して、いろいろな計画変更、別案なども、事前にたくさん準備していたと思いますが、今回の「桶狭間の戦い」の勝者は、信長はもちろんですが、松平元康もその勝利の恩恵ははかりしれません。

このくらいの絶大な恩恵が見返りなら、仮の主君ならなおさら、裏切らない戦国武将は、もはや戦国武将の素質なしではないかという気がします。

特に、元康(家康)は、人生の中で、大きな選択の瞬間がたくさんやってきますが、その選択をひとつも誤らなかったからこそ、「天下人」にまで上りつめたのです。
振りかえると、数々の「幸運」を、彼自身が引き寄せたようにも感じます。

* * *

第ニ十回には、「何にでも効く、戦で死なない、不思議な薬」が登場しましたが、駒ちゃんは、それを元康に手渡します。
私は思わず…「家康の幸運続きは、これか! 駒ちゃん たらっ…神君を生む女神様なんだから…」。

どこかに、こんな薬、売っていませんか…?

さて、その後の元康(家康)の人生をみてもわかるとおり、今回の裏切り?を、はっきりとした「裏切り」に見せないあたり…、すでに後の家康の姿にも通じている気もします。
歴史の中にも、はっきりとは残しません。だから、今でも不明点が多いのだと思います。
それに、養父だった今川義元の今川家にもしっかり丁重にフォローします。

もはや誰も、元康(家康)に不利な歴史など、残す必要もありません。
「神君、家康公」に、暗黒の歴史など、あってはならないのです…。

「妙な薬」のおかげということに、しておきましょう…。

* * *

この時の元康(後の家康)は、まだまだ19歳(満年齢17歳)の凡庸な武将のひとりですが、信長とは違う、それ以上の何かの可能性を、この戦いの中に、少しだけ見るような気がします。
ただ、花開くのは、ずっと後です。

「桶狭間の戦い」の後の歴史の結果をみると、まさに信長と元康は、その「最終地点」で何かの合意ができていたように思えてなりません。
あらためて、これを裏付けるような三河勢のある武将のことを書きます。
あまりにも謎めいています。

それにしても、義元、信長、元康(家康)…、麒麟は誰を選ぶのか…?
信長が強かったというよりは、義元に素質なし…?

さて、ちょっとだけ、信長の勝因の一部を匂わせたところで、今回のコラムでは、まず、「桶狭間の戦い」の前段階のことを書きます。


◇戦国時代の転換点「1560年」

第二十回「家康への文」の冒頭は、すでに、この戦いが起きた1560年の、桜が舞う春になっていました。
今川義元の本拠地の駿府では、織田信長の尾張国との戦争に向けて、物資や人を三河方面にどんどん送っていることが描かれていました。

越前国で、貧困と悶々とする日々に苦悩する光秀ですが、こんな台詞もありました。
「今川は、織田と戦う時に、必ず三河勢を先陣につける。大高城はくせものだ…。(略)今、戦えば尾張は危ない」。

戦国武将によっては、大事なお客様家臣の武将には、戦のいいところだけを、手柄として差し上げるような「おもてなし」の戦い方も、場合によって行います。
武家の嫡男の初陣(初めての戦)には、だいたい手柄をあえて用意してあげます。

光秀のこの台詞は、今川義元が、三河勢の武士にはいつも、死ぬかもしれないような手厳しい状況しか与えないという意味のことを言っているのです。

ただ、この分析は、光秀に限らず、各地の武将たちが共通して思っていたことだと思います。
現地にいないはずの光秀が、「大高城」の重要性に気づく部分は、少し無理がある気もしないではないですが、「今の尾張に勝ちはない」…このことは、誰もがそう感じていたと思います。

戦国時代の中で、この「1560年」は、間違いなく大転換点となります。
いよいよ、信長の存在が、日本の歴史の中心になっていくのです。
「信長」という名が、日本中に知れ渡ることになるのです。


◇桶狭間マップ

さて私は、今後、下記の「マップ(地図)」を使って、「桶狭間の戦い」のことを説明しておこうと思っています。

お城や「櫓(やぐら)」、「砦(とりで)」、「城跡」は、写真を見たり、実際に行ったりするのも、とても楽しいものですが、その配置を俯瞰的に見ると、まさに歴史そのものが見えてくることがあります。
文章ではわかりにくい内容でも、城郭類の配置図を見たら一目瞭然ということも少なくありません。

皆さまも、信長や義元になったつもりで、作戦をどうぞ考えてみてください。

戦国武将たちは、寝ても覚めても、戦略を考えていたはずです。
戦国時代に「戦う」とは、どのように頭を使えばいいのか、何となくわかってくる気がしますよ。

* * *

「桶狭間の戦い」は、あるひとつの砦(とりで)を除いて、城や砦(とりで)の建築構造や規模に、ほとんど意味はないと思います。
むしろ、その配置がすべてだと感じます。
あるひとつの砦…、それは「中島砦」のことです。個人的な見解です。
あらためて、各砦のことは説明します。

こうした城郭類の配置と、山や川の位置だったからこそ、「桶狭間の戦い」が、下記の緑色の円形の場所でおきたのです。
航空写真では、「桶」の位置が「桶狭間」です。



戦いの状況については、次回以降のコラムで書くつもりでおりますが、上記マップの青色の城が今川方です。
赤色の城や砦(とりで)が、織田方です。
このマップの勢力図は、戦いの前日の5月18日(当時の旧暦日付)時点です。

これら以外にも、城や砦は無数に存在しますが、この戦いの今回の説明で、キーになる箇所だけを書き入れてあります。

右端の「岡崎城」の、ずっと右側(東側)の遠い先に、今川義元の本拠地「駿河国」があります。
義元が、尾張国にやってくる際は、このマップの右側から左側に向かって進軍してくるのです。

「熱田神宮」のある場所が、今の名古屋市で、このあたりが織田信長の「尾張国」です。
織田信長の本拠地である「清洲城」は、このマップの少し北にあります。
さらにその北に、この時は斎藤義龍がいた「美濃国」がありました。
斎藤道三はすでに亡くなっています。

マップには「知多半島」のつけ根あたりが描いてありますが、この右下方向(東南)に「渥美半島」があります。
ピンク色の円形は、三河武士勢力の水野氏の勢力範囲、あるいは、そうであった場所です。
5月18日の段階までに、知立城や牛田城は、今川方に奪われています。

* * *

茶色の塊りは、標高50メートルから、せいぜい100メートルくらいの小さな丘陵地です。
山国にお住まいの方々からみたら、それは「山ではなく、小さな丘だ」と言われそうですが、「〇〇山」と名称はついています。

低い標高の丘陵地だとはいえ、そこに山があれば、水がわき、小さな沼や池があり、川が流れています。
今でも、桶狭間あたりの地図を見ると、ちいさな水源がたくさんあるような印象を受けます。

川があるということは、それほどの規模でなくとも谷があり、丘の向こうの建物が見えない場所も多くあります。
丘をひとつ隔てたら、その先で何が起きているのか、非常にわかりにくい、山の「狭間(はざま)」の「くぼ地」が幾つもありました。

「桶狭間」の、この「桶(おけ)」とは、もともと、その湧き水の上に桶を浮かべると、くるくる回る、そんな土地を示していたと何かで読んだ記憶があります。

「水」と「視界の悪さ」…、これは使えそうです!

* * *

それから、マップの「岡崎城」から「知立(ちりゅう)城」を経て、「沓掛(くつかけ)城」あたりを通り、熱田神宮に向かうルートに、後に東海道として整備される、主要な街道「鎌倉街道」が通っています。

マップの上側(北側)は、斎藤義龍の美濃国や、武田信玄らの勢力範囲である信濃国の山々が、もうすぐという場所です。
義元は、美濃国とは比較的いい関係でしたが、あまり近づくのは危険もはらみますので、駿河方面から尾張国に向かうには、このマップの陸路しか考えられません。

皆さまも、グーグルマップの航空写真を見ていただくと一目瞭然ですが、駿河方面からやってくると、岡崎城のあたりから急に濃尾平野につがなる広い平地の雰囲気を感じることになります。

ですが、名古屋に行くには、岡崎あたりでいったん平地に出てから、もうひとつ、小さな丘の連なりである丘陵地を越えなければなりません。
そこを越えたら濃尾平野の「尾張国」です。
その丘陵地の一角こそ、「桶狭間」なのです。

* * *

上記マップの薄緑色のラインが、当時の「尾張国」と「三河国」の国境ラインです。
すでに三河勢の大半が、今川氏に取り込まれていましたから、このラインが、織田氏と今川氏の勢力争いの境です。

ですから、「桶狭間の戦い」まで、両氏は、このラインの右側や左側あたりで、城や砦(とりで)を取ったり、取られたりの戦を繰り返していたのです。

その度に、三河に暮らす武士たちは、生死をかけて、あっちについたり、こっちについたりでした。
織田氏も、今川氏も、三河の地に何か有能な三河武士でも登場してこようものなら、すぐに抹殺です。

「三河国」とは、この岡崎の周辺と、渥美半島あたり、さらに美濃国や信濃国に近い山間部のことですが、周辺の隣接地域も含めて、この狭い地域の人々…今川と織田の狭間で苦労した者たちが、いずれ天下を取るのですから、歴史は不思議でなりません。

麒麟は、強力な戦国武将ふたりの狭間で、さんざんに苦労した三河を、しっかり見ていたのでしょうね…。

* * *

ピンク色の円形は、主に三河勢の水野氏の一族が支配していた地域です。
いずれ江戸幕府の最重要の中心的武家となり、家康にかわって、この大事な三河を代々守っていくことになります。

「桶狭間の戦い」でも、水野一族は謎めいた行動が多く、私は、この戦いの、ある意味、キーパーソンではないかと感じています。
上記マップの位置関係を見ると、ひしひしと感じますね。
このことは、戦いの戦況説明の中で書きます。


◇大高城と鳴海城

さて、マップの「大高(おおだか)城」と、「鳴海(なるみ)城」は、もともと織田氏の城でした。
「沓掛(くつかけ)城」は、三河勢の近藤氏の城でした。

もちろん、「岡崎城」は元康の松平氏の城で、「知立(ちりゅう)城」や「牛田(うしだ)城」は水野氏の城でした。
5月18日までには、すべて、今川氏の勢力下になっていました。

* * *

大河ドラマでは、少し前に、織田氏と今川氏の「村木砦の戦い」が短く描かれましたが、これは、もしその時点で、刈谷地域の城を今川氏にとられたら、それは知多半島すべてを今川氏に奪われたものと同じと考えた織田信長が、緒川城や刈谷城の水野氏を支援するかたちで、今川氏と戦い、見事に今川勢を打ち負し、撃退させた戦いでした。

今川氏は、赤穂事件で有名な吉良氏(マップの岡崎城の南の方向にある実相寺周辺の西尾地域)をすでにとりこんで、さらに、知多半島の対岸にある渥美半島を手中にしており、渥美半島に貿易港を置いていました。
岡崎周辺の地域も、すでに今川氏の手中です。

さらにここから、知多半島を手中にするということは、伊勢湾の半分を手中にするのと同じです。
尾張国からしたら、防衛上も、漁業や商業などでも、大問題です。

織田氏は、知多半島を今川にとられることを、絶対に止めなければなりません。
今川にとっては、防衛上の意味ではなく、貿易などでの国力の向上、ひいては上洛の際のルート確保にもつながる、どうしても欲しい知多半島と伊勢湾でした。

* * *

大高城と鳴海城は、尾張国の織田氏と対峙するために、絶対にほしかった前線基地です。
沓掛城も、この時代の主要街道上の、極めて重要な城でした。

この三つの城を今川にとられたことで、織田氏が枕を高くして眠れるはずがありません。
さらに美濃国の斉藤義龍は、今川寄りです。

* * *

「桶狭間の戦い」の数年前に、織田氏は、この今川の大高城と鳴海城を取り囲むように、多くの「砦(とりで)」をつくります。
「砦」は、攻撃拠点になったり、敵の補給路を断ったり、自国の防衛ラインになったりと、使い方は無数にあります。

それにより、今川方に落ちた、大高城と鳴海城は、孤立し窮地に立つことになります。
食糧補給もままなりません。

そこで、今川義元は、この二つの城の救出と、知多半島の奪取、伊勢湾の奪取を目的に、尾張国にむけて進軍したのではないかと、私は思っています。
ここで、大戦をして、織田家を滅ぼそうなどと考えていたとは思えません。
まして、そのまま上洛など考えられません。

ある程度、織田氏を叩いて、いったん駿府に戻る計画であったのかもしれません。
義元の進軍状況を見ると、そんな生死をかけた大戦争にのぞむ雰囲気を感じません。

* * *

義元の考えは、「甲斐国の武田信玄、相模国の北条氏康と、三国同盟を結んでいるあいだに、知多半島と伊勢湾を頂いておくか…、ついでに尾張国が手に入れば儲けもの」くらいではなかっただろうかと思っています。
もし、織田氏を滅ぼすつもりなら、斎藤義龍も同時に動いたはずです。

義元は、まさか信長本人と直接対決するとは思ってもいなかったのではないでしょうか…?


◇三国同盟

ここで簡単に、前述の「三国同盟」のことを書いておきます。
平たく言えば、次のようなことです。

「隣接する三国(甲斐国・相模国・駿河国)でいつまでも戦いばかりをして、それぞれが消耗していては、国力がちっとも上がらない。ここは、同盟を結んで、ひとまず三国での戦いはやめましょう。
北条さんは、どうぞ関東に支配を広げてください。
武田さんは、信濃の完全支配と、上杉謙信との決着に全力を注いでください。
今川さんは、三河と伊勢湾を手中にして、尾張国も飲み込んでください。
私たち三国の関係は、その後にまた考えましょう。
武田さんには、駿河の今川さんから塩をしっかり送ってあげますよ。」

こういうことです。
この三国同盟は、美濃国と駿河国の関係性とあい入れないこともあるので、今川家からみたら、斎藤義龍を完全に信用することはできません。

この1554年の三国同盟の成立こそ、今川義元が、今回、尾張国を目指したきっかけの一つとなったと思います。
この三国同盟は、義元の死で、あっけなく崩壊します。


◇義元の狙いは…

先ほど、知多半島と伊勢湾奪取のことを書きましたが、大河ドラマの中では、義元のこんな台詞があります。
「大高城、鳴海城を足がかりに、尾張を攻撃する」。

私が個人的に、もっとも気になるのは、この「足がかり」が、いったいどんな作戦だったのかということです。

義元は、この二つの城を、順番にではなく、ほぼ同時に救出し、そのまま尾張に入ろうとしたのか。
ひとまず救出して、その地域の地盤を今川勢で固めてから、次の尾張攻撃に備えようとしたものなのか。
あるいは、その時点で、いったん駿河に帰国しようとしたのか。
はたまた、この二つの城の周辺に、信長を誘い込んで、そこで決戦を挑もうとしたのか。
よくわかっていません。

* * *

ただ、今回の進軍に水軍を連れていったということは、海岸近くの戦場を想定していた可能性も考えられます。
戦闘用の船団ではなく、緊急避難用の船団だったのかも、よくわかりません。
いずれにしても、桶狭間の山間部で戦うつもりなら、水軍は必要ないだろうとは思います。

* * *

私は、同時かどうかはわかりませんが、この二つの城を救出後に、この伊勢湾の海岸近くで、信長と大規模な戦争を進めようとした可能性もないとはいえないと思っています。

ただ、義元は、あの信長が何も策を持たず、どこかの城に籠城すると考えたでしょうか。
信長が、正攻法で、無鉄砲な攻撃をしてくると思ったのでしょうか。
義元は、信長軍内部に、何か調略の手を伸ばしたのでしょうか。

私には、今川軍の岡崎城からの進軍スケジュールが早すぎて、何か奇妙…、何かがおかしい気がします。
戦国武将の戦い方から考えると、何か進軍が早すぎる気がします。

ドラマの中で、光秀は「大高城がくせものだな~」と語っていましたが、まさに、この時の「大高城」は疑惑だらけに見えてきます。
この「曲者(くせもの)」という台詞の表現…、まさに「くせもの」。
ドラマでは、誰かを匂わせた…?


◇信長の狙いは…

信長からみたら、義元に二つの城(大高城・鳴海城)を救出され、その城の周囲にある織田軍の砦を完全に撃破されたら、もう勝負になりませんね。

「この二つの城を救出される前に、どこかで戦わなければ、自身に勝機はない。
それも、義元ひとりを討つだけで精一杯だ。」
こう考えても、不思議はありません。

それなら、あえて城のひとつは完全に放棄し、もうひとつの城をおさえこむか…?

前回コラムで書きました、今川軍の有能な軍師の「雪斎(せっさい)」が亡くなった今、あとは義元さえいなくなれば、未熟な息子では今川軍は瓦解すると、信長は考えたかもしれません。
それより何より、義元さえいなくなれば、海が欲しくて仕方がない武田信玄が、今川家を滅ぼしてくれるはず…。

* * *

私が個人的に思うのは、信長は、義元の進軍中に、義元の作戦をほぼ見破ったのではないかと思っています。
そして、その作戦の弱点もわかったのだと思います。

私は、岡崎城から義元が、どこに向かうかで、信長は大方の予想をつけたと思っています。

そして、もし、ここで、〇〇が今川を裏切って、織田方に味方しなくても、そのまま動かないでいてくれて、さらに、義元を桶狭間に誘導できれば、義元だけを討てると考えたのかもしれません。


◇信長の誘導戦術

織田信長という武将は、この戦い以降の、自身の作戦でも、たいがいは、自分の戦いたい場所に敵を誘導します。

武田勝頼との「長篠の戦い」では、勝頼側が信長に誘導されているのを認識しながらも、大将の勝頼を生き残らせるために、武田軍は、あえて信長の誘導に乗ります。
実は、信長が、武田軍にとって、その選択しかできないように事を運び、その状況にもっていったのです。
その誘導した場所こそ、あの地獄の場所です。
この時の、地獄に飛び込んでいく武田の武将たちの心情は、想像もできません。

勝頼は逃げ切ることができました(あえて信長が逃がした?)が、ここで戦国時代最強を誇っていた武田騎馬軍団は事実上、消滅します。
信玄時代からの古参の家臣たちが、あれほど反対し、進言したのに、勝頼は耳を貸しませんでした。
理論武装した、経験の少ない知識偏重の若者がよく陥るワナです。
現代でも同じですね。

武田信玄の心配と予想は、ぴたりと当たってしまいました。
武田勝頼は、まんまと信長の誘導戦術のワナにはまってしまったのです。

もし、「麒麟がくる」の中で、「長篠の戦い」が描かれることがあれば、その時に、そのことはご紹介します。

* * *

信長の「誘導戦術」は、秀吉や家康にも引き継がれていきますが、ほとんどの敵は、誘導されていることに気がつかずに敗れていきました。
「桶狭間の戦い」と「長篠の戦い」のそれぞれの作戦には、共通点が多いと、私は思っています。

有力な戦国武将たちの、恐ろしいまでの「誘導戦術」は、この時代特有の怖さを感じますね。
これなら、兵力差があっても、勝利できます。

私は、おそらく「桶狭間の戦い」も、恐ろしいほどの「誘導戦術」が行われたと思っています。

元康が、どのあたりまで、信長の考えを知っていたかはわかりませんが、いずれにしても、信長は敵にしてはいけないと感じたかもしれませんね。

* * *

ちなみに、私は元康(後の家康)の「関ヶ原の戦い」にも、この「桶狭間の戦い」に似た部分があると感じています。

関ヶ原での小早川秀秋の行動と、桶狭間での元康の行動は、非常に似た動きではなかったかと感じています。
おいおい書いていきますが、後の家康は、この「桶狭間の戦い」の経験を、「関ヶ原の戦い」に持ち込んだのではと、私は感じています。

家康は、桶狭間でも、長篠でも、その他いくつかの戦で、信長戦術を間近で体験しているのです。
戦術の一翼を担っていました。
彼は、秀吉の戦術も、目の前で多く体験しています。

家康の身体の中には、信長と秀吉の、二人の戦術が叩き込まれていたのかもしれません。
そりゃあ…、最後に天下人になるわけですね。


◇その知恵はどこから…

さて、大高城、鳴海城、沓掛城の三つをとられ、圧倒的な兵力差の状況で、敵に立ち向かわなけらばならない信長です。

「どうすりゃ いいのよ…」。

大河ドラマの第二十回の中で、織田氏の居城「清洲(きよす)城」の中で、重臣たちが「雁首(がんくび)」並べて、ああだの、こうだの…。
そして、全員で、「殿!」。

このドラマの演出…笑っちゃいました。
雁たちの、その無能ぶり…、テレビの視聴者に伝わり過ぎです。
コントか…。

この時の織田軍には、頭脳派の、光秀も、秀吉も、官兵衛も、半兵衛も、まだいないのです。
いてくれたのは帰蝶だけ。

親父の代からの、うるさいだけの老家臣たち…、もはや信長は、桶狭間に彼らを連れていきません。
連れていくのは、ピチピチ若武者軍団。
それに加えて、ピチピチたちにとっての、ちょい悪の兄貴分たち。
そのことは、あらためて…。

* * *

大河ドラマの中で、ワラをもつかみたいであろう苦しい心境の信長は、帰蝶からの言葉「竹千代(松平元康)がいる」を聞いたとたん、まさに、「ニンマリ笑顔」に急変します。
たしかに、人は、とてつもない苦境の中で、一すじの光明を見つけると、思わず笑みがもれそうになります。
「染谷信長」の、ここまで見たことのない、ユルユルの表情です。

そして、前述のあの台詞「その知恵をつけさせたのは誰だ?」。
「察しはつくがな…」。
となります。

武人というのは、苦境や戦いを重ねることで、急激に成長する時期があるのだと思いますが、信長にとっては、まさにこの頃だったのではないでしょうか。

結構、深刻な内容の放送回でありながら、笑い満載の第二十回でした。
まだ笑いは続きます。


◇そんな思いは、さらさらないのに…

ドラマの中で、信長と帰蝶の夫妻は、熱田神宮で、元康の母の「於大(おだい)の方」と、彼女の兄の水野信元と面会します。

於大の実家が水野家で、於大は夫の松平広忠(家康の父)と離縁し、実家の緒川城(マップ参照)に戻っていました。
そうした理由で、元康(家康)と、母の於大は、長い間、離れ離れになっていたのです。

元康は、今川家への人質であり、義元の家臣。
水野家は、織田方についています。

水野家にとっては、「村木砦の戦い」で、大恩のある織田信長です。

ドラマの中では、熱田神宮で出会っていますね。
まさに、敵にも味方にも知られたくない密会です。

* * *

もともと、母性に心を流されるような信長ではありません。
信長はこの面会で、あたかも同情する風体で、母子の情の話しを持ち出し、於大と信元に、元康への説得(裏切り)を頼むのです。
信長が頼むというより、於大と信元側から、そうさせてほしいと言わせたかたちです。

於大は、信長に、母子のそんな情がわかるはずがないことは十分にわかっています。
於大は信長に、「(母子の情とは)そうしたものですか?」と問います。
信長は「わしは、そう思う…」。

染谷将太さんが演じる信長の、このときの表情…、思わず笑ってしまいました。
いっしょにテレビを見ている家族は、真剣に見ていましたが、私は、「この野郎、ヌケヌケと…」という思いで、笑いながら見ていました。

まさに本気と思わせる深い情と、さらさらない気持ち、すっとぼけた素振りを、俳優さんが同時に表情で表現するのは、非常にむずかしい気もしますが、その三つが、とてもよく伝わってきました。
「染谷信長」…なかなかな武将です。

* * *

私は、実際の信長は、結構 ちゃめっけたっぷりの愛きょうを、持っていたと感じています。
面白い「あだ名」をつける名人でもありましたね。
この「あだ名」話しで、その場は、相当に盛り上がったでしょう。
すっとぼけた、ひょうきんな表情は「お手のもの」だったのかもしれませんね。

こんな面白いシーンが入ってくるとは、思ってもいませんでした。
大河ドラマも、昔とはだいぶ変わりましたね。

実は、私がもっとも笑った、コント風のシーンが、第二十一回「決戦!桶狭間」の中にあったのですが、その話は、次回以降のコラムで…。
すみません。制作サイドは、コントだと思って作っていないのかもしれません。


◇戦い方の本質

ここまで、「桶狭間の戦い」での、義元と信長の狙いの概要を、私なりに少し書いてみました。

個人的には、相手の狙いと作戦を見破った信長と、相手の狙いと作戦にあまり注目していなかった義元…、この差は大きかったと思います。
次回以降のコラムで、さらに深掘りし、もっと詳しく書いていきます。

* * *

信長にとっては、この戦いを、人生の通過点の戦いだと感じる余裕はまったくなかったと思います。
まさに、生死をかけた戦いです。

死んでから、どんなことを言われようが、死んだら同じ…、人生とおさらばするかのように「敦盛(あつもり)」を謡い舞う気持ちも、よくわかります。

戦うにあたり、「世間体」や「誹り(そしり)」を気にかけている余裕は、もはや全くありません。
とにかく、手段を選ばず、何が何でも、義元の首をとる!

この一点に必要なことなら、どんな妥協もしたでしょうね。
ただ、その一点に悪影響を及ぼすことは、一切妥協しなかったのでしょう。

作り話しでなく、大将が軍団の先頭に立って前線にいる…こんな姿は、他の戦国武将ではまず考えられません。
ひとりだけいました…、上杉謙信。

二人とも、普通に考えたら、戦いの最前線で戦うその姿…異次元の人のように見えますね。
そういえば、二人とも、当時としては度肝を抜かれるような戦闘衣装でしたね。
やはり、この二人…似ていたのか。

* * *

今回のコラムは、ここまでにしますが、まだ「心の本質をつく」作業は終わっていません。

次回コラムで、第二十回「家康への文」の中で描かれた、松平元康や水野家、三河衆の人々の「心」や「思い」について書きたいと思います。

人は、相手の本質や能力を見抜こうとするときに、その発言や、使う言葉、仕草などから情報を得ようとしますね。
ただ、時に誤認してしまいます。
もっとも正確に把握できるのは、その人物の過去や現在の行動からだったりします。

今回、染谷将太さんが演じる信長が、偽の姿を演じた話しを書きましたが、発言や言葉ではだますことができても、行動は、なかなか、ごまかせないかもしれませんね。

今回の「桶狭間の戦い」に関する連載では、信長と義元の話しだけでなく、その中心になるのは、実は三河衆の本質のことです。

私は、織田信長という人物の、戦争の戦い方の本質も、この「桶狭間の戦い」の中にあると感じています。
前述しましたとおり、私は、この部分がなかったら、信長の「桶狭間攻撃計画」は成功しなかったと思っています。

今回、マップを掲載しておきながら、今のコラムの内容段階では、まだ信長も、義元も、このマップの中までたどり着いていません。
次回コラムで、義元が岡崎城に到着するところまで書けるかどうか…?

次回コラムでは、三河武士のことを中心に書きたいと思います。

* * *

コラム「麒麟(21)」につづく。


2020.6.24 天乃みそ汁
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