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麒麟(26)桶狭間は人間の狭間(8)
「砦は朝露(ちょうろ)の如し」

【概要】NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。織田軍と今川軍の主な武将。元康の大高城入城。鷲津砦と丸根砦の戦い。清洲城から熱田神宮へ極秘移動。人生朝露の如し。井伊氏と朝比奈氏。三国の思惑。奥津城。三浦春馬さん。


前回コラム「麒麟(25)桶狭間は人間の狭間(7)魔王信長」では、信長と義元の作戦と戦術、信長の陰謀と暗躍、革命児信長が起こす奇跡、戦国武将の戦いの思想、第六天魔王、簗田政綱などについて書きました。

今回のコラムからは、いよいよ決戦日5月19日の戦況を中心に書いていきます。

前回コラムでも述べましたが、この「桶狭間の戦い」は隠された内容、はっきりしない内容など、不明点がいっぱいです。
史料の信ぴょう性も、怪しいものが多いのも事実です。
とにかく、史料は多くありますが、かなり食い違う内容も多くあります。
よほどの新史料でも発見されなければ、真実は解明できないと思います。

特に、戦国時代から江戸時代にかけての史料は、徳川家の検閲でもあったのかと思わせるほど、徳川寄りにも見えてきます。
おそらく江戸幕府に都合の悪い内容は、削除、修正、加筆がかなり行われた気がします。
幕府の命令であったり、著者自身による「忖度(そんたく)」や「保身」の影響もかなりあったのかもしれません。

前回までのコラムでも書きましたが、歴史は、あるべきものがない、ないはずのものがある、ことさら強調されている、内容の方向性をいきなり変更するなどの行為が感じられるところに、その本質が隠されていたりします。
やはり、第三者を含めた、三つくらいの史料で、同じ内容が残っていなければ、真実とは言えないのかもしれませんね。
江戸幕府だけが言っているような内容は、特に鵜呑みにはできません。

「桶狭間の戦い」の史料は、その最たる例だと思っています。
松平氏、水野氏に都合の悪い内容は、すべて削除されている気がしてなりません。

改ざん、捏造、消去…、現代でもまったく同じですよね。
いつの時代も、統治とはそうしたもの…。

大いなる推論を進めたいと思います。

* * *

織田、今川の両軍の兵力の規模については、史料により、まったく違います。

今川軍の兵数では、1万人程度から、5万人程度まであります。
織田軍の兵数も、2000人程度から、6000人以上まであります。

「桶狭間の戦い」の範囲を、沓掛城や岡崎周辺、尾張国内などを除き、鳴海城・大高城・桶狭間周辺に限った場合は、はたして何人対何人の対決だったのか、はっきりしません。

作戦内容も含めて、ある程度の推論を仮定して、戦いを推測しないと話しが進みません。

一応、大河ドラマは、史実に限りなく近いであろう内容や、推測の可能性が高くても定説となっているような内容は、そのまま描くことが多く、判明できていない部分については、ドラマ性を盛り込んで創作していきますので、本コラムも、一応、大河ドラマ「麒麟がくる」の内容に則して、話しを進めたいと思います。

まずは、両軍の武将と兵数です。
兵数は、大河ドラマ「麒麟がくる」サイト内の、「トリセツ(取り扱い説明書)」をご紹介します。


◇織田軍の主な武将と兵数

織田軍総勢…3000名

〔鳴海城周辺〕…約1700名?
丹下砦:水野忠光
善照寺砦:佐久間信盛・佐久間信辰
中島砦:梶川高秀・梶川一秀

〔大高城周辺〕…約400名?
鷲津砦:織田秀敏・飯尾定宗
丸根砦:佐久間盛重
正光寺砦:佐々政次
向山砦:水野信元?
氷上砦:千秋季忠?

〔織田譜代衆〕…代々の家臣の武家
柴田勝家・林秀貞
千秋・毛利・佐々・内藤・平手・飯尾ほか

〔旗本〕…大将周辺にいる主要で重要な家臣、将軍直参の格式ある武将
簗田正綱・森可成・池田恒興らの兵、約200名?

〔先鋒攻撃隊〕
千秋四郎・佐々政次らの兵、約200名?

〔川並衆〕…沓掛城潜入組
蜂須賀小六
前野将右衛門

〔小姓〕…信長の身辺雑用係
岩室・長谷川・佐藤・山口・賀藤ら5名

〔馬廻衆〕…特別突撃兵
佐々成政・河尻秀隆・金森長近・毛利新介・服部一忠・前田利家・津田盛月・浅井政貞ほか、約500名?
*後に、続々と有名な馬廻衆が加わります。最盛期に700名あまりいたとも…。

〔他国より〕
近江国の六角氏よりの貸与兵が数百

* * *

軍団の総司令官的役割…佐久間信盛
桶狭間攻撃作戦の立案者・管理者…簗田政綱

* * *

大河ドラマの「トリセツ」には、織田軍が総勢3000名あまりとしか書かれていませんので、一応、内訳を想像してざくっと書いてみました。
総勢4000名程度という説も多くあります。

特別突撃隊「馬廻衆(うままわりしゅう)は、最盛期に700名近くいたともいわれています。

尾張国に置いてきた兵もいたでしょうし、この頃の織田軍の兵力から考えると、3~4000名でもやっとのような気がします。


◇今川軍の主な武将と兵数

あくまで、大河ドラマ「麒麟がくる」の中で、信長が予想した今川軍の兵数です。

今川軍総勢…14000名
内訳は
今川本軍…約7000名
鳴海城守備および援軍…約3000名
鷲津砦攻撃部隊…約2000名
丸根砦攻撃部隊…約2000名

大河ドラマの「トリセツ」にも、この兵数しか書かれていません。

* * *

実際の今川軍には、大河ドラマの中に登場してきた武将もいれば、いない武将もたくさんいます。
「今川本軍」の中にいたであろう武将たちの、主な名前を下記に書きます。

今川軍では、相当な数の有力武将が討ち死にしますが、多くが最期の状況や場所がわかっていません。
武将たちの生死も表記しました。

* * *

今川軍総数14000名。

〔大高城周辺〕
◎鷲津砦攻撃部隊:朝比奈泰朝(生還)・本多忠勝(生還)ら約2000名
◎丸根砦攻撃部隊:松平元康(生還)・石川家成(生還)・酒井忠次(生還)ら約2000名
◎大高城主…鵜殿長照(生還)

〔鳴海城守備および援軍〕…約3000名?
◎鳴海城主…岡部元信(生還)
◎三浦義就(討死)が援軍のはずだったのか?

〔今川本軍〕…約7000名
◎今川軍の先鋒隊・本陣設営…瀬名氏俊(生還)
◎遠江勢…松井宗信(討死)、井伊直盛(討死)

他に、朝比奈親徳(生還)…大河ドラマでは、義元の最期を見届けましたね。史実では、義元最期の場におらず帰還したともいわれています。
関口親永(生還)、庵原忠縁(生還)。

討死は、今川義元(討死)、久野元宗(千秋季忠を討ち取るが、その後討死)、松平忠政(討死)、蒲原氏徳(討死)、由比正信(討死)、久野氏忠(討死)、一宮宗是(討死)、長谷川元長(討死)ら多数。

不明は、飯尾乗連(?)、庵原元政(?)ほか。

* * *

鳴海城や大高城周辺では、誰ひとり討ち死にした今川軍の有力武将はいなかったと思われます。
今川軍の瀬名氏と朝比奈氏は、なぜか生還していますね。
生還者の謎を探れば、何かの真相にたどりつくような気もしないではないですね。

多くの今川の武将たちが、どこで戦って、どこで最期をむかえたのでしょう…。
義元の作戦を考える上では、かなり重要なことだとは思いますが、敗軍側には詳しい内容が残りませんね。

遠江(とおとうみ)勢の松井宗信や井伊直盛あたりしか、どのあたりの場所に陣をはったのか、わかっていないのです。

今回、信長が、家臣たちに対して、敵将たちの首を斬り取らずに、次の敵に向かうように命令を出したこともあり、重要な今川の家臣たちの最期の状況がほとんどわかっていません。
ひょっとしたら、織田軍の兵たちは、敵が誰かもわからないまま、知ろうともせず、次々に倒していったのでしょうか…。

おそらく各武将の周囲には、かれらの腹心の部下もたくさんいたでしょう。
通常の戦であれば、たいていの武将の最期の場所くらいは、誰かが記録として残しますが、みな一度に討ち取られたため、誰も、記録に残す者がいなかったのかもしれません。
相当に壮絶な戦いだったのだろうと思います。


◇18日夜、元康は大高城へ

さて、決戦日5月19日の前日である、18日の夜、今川軍の松平元康軍が、大高城に兵糧(食糧)を運び込みます。
大高城主は、鵜殿長照(うどの ながてる)です。

長照の生母は、今川義元の妹です。
この後、大高城の守備は、長照から元康に交代したとありますが、本当の話しでしょうか?
元康が、事実上、大高城を乗っ取った?

「桶狭間の戦い」後に、鵜殿一族は、今川派と松平派に分かれます。
長照は、いずれ元康に滅ぼされます。


〔大高城〕

大高城は東西約106メートル、南北32メートルで、二重の堀があったそうです。
小高い丘の上にあり、当時は海がすぐ近くで、満潮時には城域の一部が海に囲まれたようです。
今は大高の街が一望できます。
川を挟んで対岸に、織田軍の「鷲津砦(わしづとりで)」と「丸根砦(まるねとりで)」が、よく見えます。

今は、この地域の桜の名所になっているようですね。
460年ほど前に、この小さな丘の城が、大戦争が始まるきっかけになったのです。
やはり家康の歴史がからむ城跡は、しっかり残るものですね。

* * *

アメーバブログ内の、チェリーブロッサム様の大高城の紹介ページ」に、桜の大高城の写真が掲載されています。
どうぞご覧ください。

歴史のページをめくるような大きな戦いの、きっかけとなった城とは思えない、のんびりとした光景がそこにあります。

今、この地域には、大高城、鷲津砦、丸根砦の3か所が、ワンセットのように、史跡としてしっかり残されています。
歴史の大切な遺産として、また、徳川の武士にとっては、家康とつながる、大切な聖地のひとつとして守られていたのだろうと思います。

現代の私たちも、しっかり受け継ぎたいものです。


◇何やら渦巻く大高城

さて、ほぼ元康の入城と同じタイミングで、朝比奈泰朝(あさひな やすとも)の軍、井伊直盛(いい なおもり)の軍が、大高城周辺に着陣し、戦闘準備をしたと思われます。

大河ドラマ「麒麟がくる」の中で、元康の台詞にこのようなものがありましたね。

「ここ(大高城)にまいる途中、奇妙なことがございました。
織田方の砦の近くを通った折、砦の見張り数人に気づかれたように思いましたが、矢の一本も飛んでまいりません。
拍子抜けするほど、やすやすと通り抜けて来られました。
まるで敵に、見て見ぬふりをされたような…」。

* * *

今回のコラムでは、信長と元康が、すでに手を組んでいるという前提で話しを書いています。
大河ドラマ「麒麟がくる」では、そのように断定はしていません。

* * *

内通しているという前提に立つと、こうした状況は、おそらく、信長が元康に対して、自分への信頼度を示す目的もあったとも考えられます。
もちろん、信長からしたら、これから始まる作戦のまだ序章です。
元康から見れば、信長への信用のハードルをひとつ越えたのかもしれませんね。

とはいえ、時は戦国時代です。
信長がいつ、元康との約束を破るかはわかりませんね。
ただ、ここで、こんな不利な状況にもかかわらず、信長は、本気で義元と戦う腹だと、元康は感じたかもしれません。
三河勢が信長側につけば、この奇跡を起こせるかもしれないと、元康も本気で思ったかもしれませんね。

大河ドラマの中では、その話しを聞いた鵜殿長照は、大きな誤りを…。
長照は、この戦いの後、元康に討たれます。

* * *

大河ドラマでは、ちょうど、その夜の同じ頃に、尾張の清洲城の信長が、簗田政綱(やなだ まさつな)から、元康が大高城に入ったことを聞きます。
そして信長は、政綱に、義元が桶狭間を通過して、大高城に向かうことを確認します。

前回までのコラムでも書きましたが、私は個人的に、政綱が、桶狭間に、義元本陣を設置させる陰謀を企てたと思っています
今川軍の瀬名氏俊(せな うじとし)を、織田方に寝返らせ、そのような作戦を仕組んだのではと感じています。
瀬名氏俊のことは、またあらためて…。
実は、それ以上のことも…?

大河ドラマでは、義元が、あくまで大高城に向かう途中に、桶狭間を通過するという設定でした。

そして、大河ドラマでは、元康が、織田方の三河勢である水野信元の間者(忍び)の菊丸と、大高城内で密会します。
そこで、菊丸が、元康に、織田方に味方するように説得するのです。


上記マップの青色の城が今川方です。
赤色の城や砦(とりで)が織田方です。
薄茶色の部分は、標高100メートル程度までの小さな山や丘です。


◇怪しげな大高城南側の砦

実際に、大高城の南側にも、織田軍の砦がいくつかあったといわれています。
大高城の北東側にあったのが、「鷲津砦」と「丸根砦」です。
南側には、「向山砦(むかいやまとりで)」、「正光寺砦(しょうこうじとりで)」、「氷上砦(ひかみとりで)」などがあったとされています。

中でも、大高城とは目と鼻の先の「向山砦」には、水野信元がいたといわれています。
この18日の夜に、大高城の元康と連絡を取り合っても不思議はありませんね。

おそらく、義元が打ち取られた後に、元康と信元は、手に手をとって?…ふるさと三河へ…。

* * *

アメーバブログ内の、「S.Settu(斎藤摂津守)様」の、砦の紹介ページです。
どうぞご覧ください。

向山砦


正光寺砦


氷上砦

* * *

このあたりから、水野信元は、この戦いの中で、どこにいたのか、どこに向かったのか、よくわからなくなります。

他の二つの砦にいたであろう、千秋李忠(せんしゅう すえただ)と佐々正次(ささ まさつぐ)は、19日の昼頃には、中島砦あたりに戻って来たと思われます。
千秋と佐々の話しは、あらためて…。


◇渦巻く、三国の思惑

大高城の南側にあった砦は、かなり怪しい存在ですね。
そもそも、なぜ今川軍は、北東側にある織田軍の砦しか攻撃しなかったのか…?

織田軍と今川軍の、両方からの陰謀が交錯していた可能性もあります。

今回のコラムは、一応、松平元康らの三河勢が信長についたと想定して書いていますが、三河勢は最初から、両にらみで、状況にあわせて、どちらにも味方できるようにしていた可能性もあります。

もちろん三河勢は、どちらでも勝利者側の中で生き残れれば最高の結果です。
信長の作戦が上手くいく保証はありません。
今回の戦いの戦場を、よくよく見ると、「尾張 vs. 駿河 vs. 三河」でもあるのです。

実は、連携する組み合わせは、いくつもあったのです。

ただ、元康にとっては、信長と組むほうが、後々、利は大きいと感じます。
信長と元康は、そのあたりも相談したかもしれません。

私は思います。
「桶狭間の戦い」の前半は頭脳戦、後半はものすごい肉弾戦…だと。


◇信長の顔見せ作戦

大河ドラマでは、ちょうど同じ日の18日の昼、信長が家臣たちを清洲城に集めて、軍議を行うシーンが描かれました。

史実でも、実際に軍議があり、集めただけで、大した軍議を行っていません。
大河ドラマでは、家臣たちが、ああでもない、こうでもないと意見を言い合いながら、軍議は空転していましたね。

私の想像では、実際は、そんなことすらしていないと思います。
家臣たちを集めて、彼らの顔色を見ただけ…、いや信長の顔を家臣に見せただけなのかもしれません。
ですが、その意味は絶大だったと思います。

* * *

もちろん、城内に今川のスパイが潜り込んでいることを想定して、軍議を開催したものであったと思います。
私は、この軍議の開催目的は、信長が18日に清洲城にいることを、今川義元に知らせることだったと感じています。
アホな今川軍のスパイが、見たままを、そのまま伝えたのかもしれませんね。

この時点で、真剣な作戦会議を行うはずがありません。

作戦機密の漏洩防止のために、まともな軍議を行わなかったのではなく、信長が桶狭間からはるか遠くの清洲城に18日に滞在していることを、敵に知らせることこそが、信長の作戦であったと、私は思っています。

「信長は、やはり清洲城に籠城(ろうじょう)する腹ではないか」と、今川軍に少しでも思わせるのが目的だったと思います。
敵が、そう思わなくても、その情報を伝えるだけで十分ですね。


◇19日早朝、両砦を攻撃

1560年5月19日(今の6月12日)の、午前3時頃…、まだかなり暗い時間帯だと思われますが、小高い丘の上にある、織田軍の「鷲津砦(わしづとりで)」と「丸根砦(まるねとりで)」を攻撃する動きが、今川軍で始まったようです。

午前4時頃になれば、あたりが薄明るくなり、攻撃可能となると思います。


〔午前4時頃〕

丸根砦には、今川軍の松平元康・石川家成・酒井忠次ら約2000名で攻撃が開始されます。

鷲津砦には、今川軍の朝比奈泰朝・本多忠勝・井伊直盛ら約2000名で攻撃が開始されます。

これだけ近い距離の両砦ですから、両砦がつながる道もつくってあったでしょう。
ほぼ同時に、両砦の攻撃が開始されたのではないでしょうか。

* * *

おそらくこの頃に、清洲城の信長が起床したと思います。

すでに、前夜のうちに、元康が大高城に入城したことは知っていたはずで、19日早朝からの両砦への攻撃もわかっていたことだと思います。
信長は、そろそろ両砦が攻撃をされ始めたであろうと思いながら、起床したのではないでしょうか…。

信長は、覚悟の「敦盛(あつもり)」を舞い、ほら貝を吹かせ、立ったまま湯漬けを食べたと残っています。
現代人が、勝負の前に好きな音楽を聴いて、いざ出発するのと同じかもしれませんね。


〔午前5時頃〕

信長は、5人の小姓と、数百の兵とともに、清洲城を出発し、熱田神宮に向かいます。
極秘の超スピード移動だったはずです。

信長は、熱田神宮を軍事拠点として強化し、すでに武具や武器を集めておいたと思われます。
尾張国内に散在する家臣たちにも、定刻に、熱田神宮に集合するように伝えてあったはずです。
熱田神宮は、織田軍の兵士たちが集合する「軍事基地」であったと思われます。

とにかく重い武具を持たずに、身ひとつの超スピード移動で、熱田神宮に集まるシステムをつくってあったのだと思います。

清洲城から熱田神宮までは、直線距離で12km。
時速4キロで移動したとしても、午前8時には熱田神宮に到着したと思います。

すべては、桶狭間のあの時刻から逆算した、時刻だったはずです。


青色矢印は、今川軍の松平元康・朝比奈泰朝・井伊直盛らが進軍したであろうルートです。
信長は、マップの上の方向(北)から、「熱田神宮」までやって来ました。
当時は、マップの電車線路あたりに海岸線がありました。



鷲津砦の戦い

大高城から北東約700メール先にある、小さな丘の上に、「鷲津砦(わしづとりで)」があります。

この砦の主である織田秀敏(おだ ひでとし)は、信長の大叔父(信長の祖父母の兄弟)です。
織田一族の中心的長老として、信長を支えていました。

尾張国の「愛知郡」の地域をおさめていました。
後に愛知県の県名のもとになる地域です。
愛知郡の中村という里で、秀吉は、この時すでに生まれています。

家臣の飯尾定宗(いいお さだむね)は、前述の織田秀敏の兄弟か親戚だったといわれています。
定宗の子の尚清(ひさきよ)も、同じ砦にいましたが、逃げ延び、その後、信長の馬廻衆となります。

* * *

秀敏と定宗は、織田一族の中で、信長を支え、彼に、この戦いの勝利と、一族の未来を託して、あえて散っていったのだと思います。
鷲津砦に織田家の人間を置かずに、他の家臣たちに示しがつきませんね。

二人のその時の年齢はわかりませんが、最期の場所を一大決戦の中に決めたのかもしれません。
この場所なら、名誉と名を残せると…。

松平元康が、鷲津砦ではなく、もう一方の丸根砦のほうを攻撃したのは、何かの理由があったとは思います。
後々の、織田家と松平家の関係性を考慮したのでしょうか…。

* * *

アメーバブログ内の、「S.Settu(斎藤摂津守)様」の、鷲津砦の紹介ページです。
どうぞご覧ください。

鷲津砦


◇丸根砦の戦い

一方、丸根砦の主である佐久間盛重(さくま もりしげ)は、信長の弟の信勝(信行)の家臣でしたが、信長と信勝が争った際に、同じ一族の佐久間信盛(さくま のぶもり)とともに、信長側についた数少ない武将です。

佐久間氏は、鎌倉時代までさかのぼると、今川家の家臣の三浦氏から枝分かれした一族のようです。
何の因果か、かなり時代は経っていますが、今回は三浦氏とは敵対関係です。

この戦いのどこかの戦場で、佐久間信盛と三浦義就(みうら よしなり)が直接対決した可能性も十分にあると私は思っています。
何か記録でも残っていれば、ドラマの中で「相手に不足なし…、決着をつけてやる」とかの台詞で、名シーンになったのかもしれませんね。

* * *

さて、そんな佐久間氏ですが、同じ織田軍でも、かつて弟の信勝側にいた柴田勝家や林秀貞とは、過去のいきさつからして、微妙な関係にありますね。
信長は、かつての信勝派の家臣ではなく、特に信頼の厚い佐久間盛重を、重要な前線の砦に送ったといえます。
佐久間信盛のほうは、織田軍の実質的な軍団の総司令官的な役割で、最重要の「善照砦(ぜんしょうじとりで)」に配置しています。

佐久間盛重も、前述の織田秀敏と飯尾定宗のように、丸根砦を、名誉の最期の場所と決めたのでしょうか。

盛重の子孫たちは、奥山氏となっていき、豊臣方にいく者、徳川方にいく者などに分かれて、歴史の大きな場面に遭遇していきます。
後に、佐久間一族の再興にもつくしたようです。

佐久間一族も、織田一族と同じように、戦国時代の壮絶な荒波に流されながらも、逆境にチカラ強く立ち向かう…、そんな一族でしたね。

* * *

アメーバブログ内の、「S.Settu(斎藤摂津守)様」の、丸根砦の紹介ページです。
どうぞご覧ください。

丸根砦


◇玉砕作戦

この両砦の陥落は、信長の計算通りの結果だったはずです。
兵力の差は歴然ですし、砦から脱出し、北方にある中島砦あたりに逃げ、それを今川軍がもし追ってきたら、信長の作戦が水の泡になってしまいます。

はじめから、逃亡を勝利もない、陥落が狙いの戦いだったと思います。
おそらく砦の責任者だけには、伝えてあったはずです。
なんとも悲運な両砦です。

砦の軍団の集団退却もさせることができない「玉砕(ぎょくさい)作戦」です。

もう、信長に引き返すことは許されない段階まで、戦いは進んできました。

* * *

この両砦で散っていった武将たちは、悲運といいながらも、その名を歴史にしっかり残していった、まさに「散り際(ちりぎわ)」をしっかり見定めた戦国武将たちだったと思います。

信長や、織田軍の他の家臣たちが、こうした覚悟を理解できなかったはずはないと思います。

一方、今川軍には、軍団全体に、こうした心理的に大きく作用するような出来事が起きませんでした。
これは、兵たちの、戦いへのモチベーションに大きく影響したであろうと感じます。

* * *

一方、大高城の南側の砦にいた織田軍の武将たち…、 正光寺砦の佐々政次、向山砦の水野信元、氷上砦の千秋季忠らは、まだまだ任務が残っていたはずです。
水野信元は、このあたりから動向がよくわからなくなりますが、後に書きます。

佐々政次(さっさ まさつぐ)、千秋季忠(せんしゅう すえただ)の、最期の場面はこれから訪れます。
次回以降のコラムで…。

戦国時代の武家というのは、多くの犠牲を払い、それを土台にしながら、一族を次の世代につなげていこうとする意識が、非常に強かったのではないかと思っています。

日本の昭和の戦時中の、多くの一族もそうでしたね。
一族内に戦死者が多く、一族内で養子縁組がたくさんありました。


◇両砦の陥落〔午前8時頃〕

清洲城から熱田神宮にやって来た信長は、海をはさんで、炎上する両砦の煙を見たのかもしれません。
信長は、決意を胸に、家臣団とともに戦勝祈願を行います。

おそらく、この時刻には、丸根砦と鷲津砦が陥落していたと思われます。

* * *

鷲津砦には、織田軍の織田秀敏と、飯尾定宗がいましたが、二人とも討ち死にしました。
丸根砦には、佐久間盛重がいましたが、こちらも討ち死にしました。

こうして、19日の午前8時頃には、上記マップの「A」地域での、今川軍と織田軍の戦闘は、圧倒的な今川軍の勝利で終了しました。

信長の狙いは、両砦で、織田軍が下手に抵抗して、戦線や戦闘時間を拡大させず、この4000あまりの今川軍を、この「A」地域に、このままとどめて置くことだったと、私は思っています。

* * *

以前のコラムで、戦国武将の戦い方を書きましたが、戦う時刻をどのように決めるのかも、戦いの勝敗に大きく影響します。

この両砦攻撃開始が、どうしてこれほどの早朝だったのか…?
潮の干満など、それほどの理由になるとは思えません。

おそらくは、信長が、その日のこれからの展開から逆算して決めた、両砦への戦闘開始時刻であったのだろうと思っています。
やはり、それを元康が知っていなければ、今川軍が早朝に攻撃開始することはなかっただろうと思います。

* * *

私は、19日の「桶狭間の戦い」は、信長の計算どおりに、早朝にすでに始まっていたと考えています。
それは、奇襲でも何でもない、12時間近くをかけた、信長の大作戦だったと感じています。

その日の早朝の大高城付近の戦いが、朝のうちに終了し、昼頃から、別の戦いが始まったと感じていたのは、今川軍だけだったのかもしれませんね。


◇井伊直盛の移動

両砦陥落の後、最初からの計画だったのか、今川軍の先鋒隊の瀬名氏俊が呼び寄せたのかは、わかりませんが、「A」地域にいる井伊直盛の軍勢は、「C」の桶狭間の地域に移動します。

井伊直盛の軍勢は、義元本陣の防衛隊の一員であったと思います。
ということは、義元は大高城に来る予定ではなかったと、私は思います。

「A」地域に残るのは、元康を中心とした三河勢全軍と、今川義元の信頼が厚い朝比奈泰朝の駿河勢、大高城主の鵜殿長照の軍勢など、約4000です。
松平元康、石川家成、酒井忠次、本多忠勝ら、後の徳川軍団の屋台骨となる、バリバリの三河勢が大集結していましたね。

* * *

個人的には、この戦いで、今川軍の中で、瀬名氏と朝比奈氏が、しっかり生き残るのが不思議でなりません。
たまたまなど、戦国時代にはありません。
瀬名氏も朝比奈氏も、井伊氏をいつか消したいと考えていても不思議はありません。

結果的に、元康は、大高城あたりに井伊氏が残っていなくてよかったのかもしれません。

陰謀も、あまりに複雑になってくると、思惑だらけで、何が何だかわからなくなりそうです…。

* * *

前述のとおり、信長を含む織田軍は、この午前8時頃には、尾張国の熱田神宮で、着々と進軍開始の準備をしていたと思います。
信長は、両砦の陥落を家臣たちに語り、皆で後戻りできない決意を固め、戦勝祈願を行い、いざ出発となります。


◇井伊氏と朝比奈氏

ここで、井伊直盛と朝比奈泰朝のことを少しだけ…。

数年前の大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公であった女城主の「直虎(なおとら)」の父が、井伊直盛です。
直盛の祖父である直平の孫娘が、後に家康の正室となる「築山殿」です。

直盛の父の直宗の弟が直満で、直満の子の直親が、直虎の婚約者だった人物です。

* * *

井伊直盛は、この「桶狭間の戦い」で討ち死にしますが、後継者の井伊直親(いい なおちか / 直盛の養子)は、今川義元の後継者の今川氏真(うじざね)の命令で、暗殺されます。
その暗殺者が朝比奈泰朝です。
朝比奈泰朝は、「桶狭間の戦い」の時の同僚の一族を葬りさろうとしたのです。

井伊直親の子が、後に徳川四天王となる、井伊直政です。
女城主の直虎が、直政の養母となります。

なんと、この「おんな城主直虎」の最終回では、明智光秀の男子である「自然(じねん)」が僧侶「悦岫(えっしゅう)」となって生き続けると描かれていました。
悦岫は、信長の子なのか、光秀の子なのか…、歴史の謎のひとつですね。

* * *

朝比奈氏の一族は、後に武田信玄の家臣になる者、徳川家康の家臣になる者など、したたかに生き残っていきます。
当の泰朝は、いつからか消息がわからなくなります。

今川家のこれほどの重臣だった泰朝でしたが、どこでどのような最期をむかえたのか、まったくわかっていません。
彼の「散り際」は、どこにも残っていません。


◇朝露たちの「奥津城(おくつき)」

この両砦で散っていった、織田秀敏、飯尾定宗、佐久間盛重ら、そして桶狭間で散った井伊直盛…、彼らの最期と、朝比奈泰朝の知らることのない最期では、どのような違いがあるのでしょうか…。
違いはないのでしょうか…。

陰謀や暗躍が渦巻く「桶狭間の戦い」ではありますが、この鷲津砦と丸根砦の出来事は、まさに美しい草花の朝露(あさつゆ)たちの「散り際」にも似た「すがすがしさ」があります。

武将たちの人生は、まさに「人生朝露(じんせいちょうろ)の如し」。
されど彼らは、苦難と名誉を選ぶ…。

この両砦には「奥」、「津」、「城」の文字がやはり、ふさわしいのかもしれません。

鷲津砦と丸根砦は、まさにその一族にとっての守り神の、名誉の「奥津城(おくつき)」であるのでしょう。

* * *

次回コラムは、この日(19日)のその後の展開を書きます。


〔追伸〕

ここで、鷲津砦と丸根砦の面白い「動画」をご紹介します。
「バイソン様」が制作された動画です。

まさに、戦国時代の今川軍の兵士になった気分で、砦をかけ上る感覚を味わえます。

「桶狭間の戦い」の時は、砦にこれほどの樹木はなかったかもしれません。
ただ、丘を上がっていく感覚は、このようなものだったのかもしれませんね。
460年前、このような雰囲気の場所で、織田軍と今川軍の兵士たちは戦ったのです。

鷲津砦動画

丸根砦動画

バイソン様のアメーバブログ「城を観る」はこちら


今回、「チェリーブロッサム」様、「S.Settu(斎藤摂津守)」様、「バイソン」様のご協力に、深く感謝申し上げます。


〔追悼〕

今回のコラムの中で、井伊直親の話しを書きました。
大河ドラマ「おんな城主直虎」で、井伊直親の役を演じたのが、俳優の三浦春馬さんです。
私の先祖が、井伊直親とつながりがあったこともあり、三浦さんには親しみを持っておりましたが、悲報は非常に残念です。
今回、偶然にも、同じタイミングで「おんな城主直虎」と井伊直親の話しを書くこととなりました。
三浦さんは、「朝露」のようにすがすがしい、すばらしい俳優さんでした。
謹んでお悔やみ申し上げます。

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コラム「麒麟(27)桶狭間は人間の狭間(9)」につづく。

2020.7.19 天乃みそ汁
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