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麒麟(30)桶狭間は人間の狭間(12)
「オレについてこい」

【概要】NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。千秋季忠と佐々政次。信長の檄文。千秋一族と佐々一族。熱田衆と津島衆。熱田神宮・善照寺砦・中島砦。


前回コラム「麒麟(29)桶狭間は人間の狭間(11)心頭滅却」では、比叡山延暦寺と本能寺、恵林寺の焼き討ち、快川紹喜、心頭滅却すれば火もまた涼し、仏教と戦国武将、本願寺と一向一揆、家康と駿府、家康の今川家供養などについて書きました。

さて、以前のコラム「麒麟(27)桶狭間は人間の狭間(9)桶狭間は将棋盤」で、1560年5月19日(今の6月12日)の午前11時頃までの展開を書きましので、今回のコラムは、その後の展開を書きたいと思います。

もう一度、11時頃の状況を簡単に書きます。

〔午前11時頃〕

午前9時頃に熱田神宮を出発した、信長率いる織田軍の主力部隊は、丹下砦を経て、おそらく午前11時頃には、「善照寺砦」に到着したと思われます。

善照寺砦には、織田軍団の総司令官のような存在である佐久間信盛がいました。
おそらく信長は、彼から、鷲津砦、丸根砦、善照寺砦、中島砦、そして鳴海城と沓掛城の今川軍の状況報告を受けたと思います。

善照寺砦から中島砦までは、直線で約700mですから、通常であれば10分ほどで行ける距離です。

* * *

中島砦から桶狭間の義元本陣あたりまでは、直線で約3km(徒歩約45分)です。
善照寺砦から桶狭間義元本陣あたりまでは、直線で約3.4km(徒歩約50分)です。

この両砦から、義元がいた桶狭間の本陣までは、普段どおりの徒歩(時速4キロ程)であれば、1時間はかからない距離ということになります。
馬なら尚早く到着できますね。

中島砦から、陥落した織田軍の丸根砦までは、直線で約1.7km(徒歩約25分)です。
丸根砦や、大高城南側の織田軍の砦群から、中島砦に兵士が向かっている最中だったと思います。



今川義元は、沓掛城を出発し、午前11時頃に、桶狭間に到着していたと思われます。
上記マップの「C」の地域が桶狭間です。
この午前11時頃の今川軍の状況を列挙します。

◎今川義元が桶狭間に到着。
◎義元は、桶狭間にある寺で昼食。
◎義元は、鷲津と丸根の両砦陥落の知らせに、軽くお祝いの酒宴。
◎松井宗信や井伊直盛などの遠江国勢が、義元本陣の前の丘あたりに着陣。
◎義元本陣の南側あたりに瀬名氏俊が着陣。
◎今川軍の三浦義就軍が、手越川の北側の山麓に着陣(マップの「D」の北側あたり?)
◎松平忠政ら多くの武将が義元本陣の周辺あたり(マップ「D」と「E」のあたり)に着陣(?)


◇織田軍の攻撃準備〔午前11時過ぎ〕

午前11時頃から正午頃にかけて、大高城の南側の砦にいた、千秋季忠(せんしゅう すえただ)と佐々政次(ささ まさつぐ)、丸根砦を脱出した兵らが、中島砦あたりにやってきて、信長と面会した可能性もあります。
はっきりとは判明していません。

戦闘時刻や戦闘場所から想像すると、千秋と佐々は、近くにいた信長と、最後の別れを行った可能性は十分にあるようにも感じます。
千秋季忠、佐々政次ら300名が、桶狭間に向け出撃の準備を始めたのは、午前11時過ぎ頃だったのかもしれません。

ここで、この二人のことを簡単に書きます。


◇千秋季忠

歴史に残る大きな戦では、段階的に戦局が進む中で、順番に主要な武士が亡くなっていったりしますね。
「桶狭間の戦い」では、ここまでに、織田秀敏、飯尾定宗、佐久間盛重が亡くなっています。

この千秋李忠(せんしゅう すえただ)とは、この時に、熱田神宮の大宮司であり、武士だった人物です。
彼の父の李光(すえみつ)も、大宮司であり武士として、信長の父の信秀に仕えていました。

大宮司とは、神職である神主というだけでなく、さまざま職務や権利のトップの地位といえます。
そこに武士の役割が加わるということになります。

熱田神宮は尾張氏が代々、大宮司を務めていましたが、ある時から、名門の藤原氏が大宮司を務めるようになりました。
千秋氏は、その藤原氏の流れの名家です。
ですから、織田氏とは比べものにならない歴史ある名門です。

前回コラムで、仏教の寺の武装化のことを書きましたが、今回は神社の武装化です。
千秋氏は、かつて尾張、美濃、三河のあたりにたくさんの領地を持っていたのですが、地元の武力勢力にどんどん侵略されてしまいます。
そこで、武力で、尾張の熱田神宮を守るために、京よりこの地にやってきて、織田氏と手を組むことになります。
ですから、この頃は、大宮司とはいっても、武将の性格のほうが強かったようです。

熱田神宮は、「草薙の剣(くさなぎのつるぎ)」を祀る神社として知られていますが、まさに戦いの神のいる聖地です。
信長が、ここを軍事基地化し、武士たちの精神的な拠点としたのも、わかる気がします。
実際に、織田の主力軍は、ここで戦勝祈願をしてから桶狭間に向かいました。

* * *

尾張国で織田氏を経済的、軍事的に支えていたのは、熱田神宮近くの熱田衆や、津島湊近くの津島衆の、商人や町衆であったようです。
「桶狭間の戦い」直後のどさくさの中、伊勢の服部一族による尾張攻撃では、彼ら町衆が対抗し、撃退します。
熱田神宮の軍事拠点化や、信長との密接な関係が、功を奏したのかもしれません。

今回の「桶狭間の戦い」では、信長の信頼の厚い千秋季忠が、大高城近くの重要な砦から、桶狭間の最前線の地に向かったということになります。
武士の性格が非常に強い千秋季忠が、この戦いで、織田一族、佐久間一族と同様に、非常に重要な場面にいたということです。

季忠は、今川軍に討ち取られてしまいますが、後に、信長はその息子をやはり大宮司にし、武士はやめさせ、大宮司の職に専念させ、今に至ります。


◇佐々政次

佐々(さっさ)氏は、織田氏と同様に、斯波(しば)氏の家臣でしたが、佐々政次(さっさ まさつぐ)の代になり、信長の父の信秀の家臣となります。
政次が長男で、成政は三男です。次男の孫介はすでに、別の戦いで戦死しています。

政次の弟の佐々成政は、前回までのコラムでも書きましたが、織田軍の主力攻撃部隊「馬廻衆(うままわりしゅう)」の中の、さらに精鋭部隊の「母衣衆(ほろしゅう)」の筆頭として活躍します。
織田軍の中でも戦場の先頭で活躍する勇猛な武将で、桶狭間でも大奮闘したと思われます。

この佐々兄弟が、もし全員生き残っていたら、相当な勢力の武家一族として、織田軍の中で最大級の家臣になっていたかもしれませんね。

もしかしたら、「本能寺の変」後に、明智光秀を倒したのは、秀吉ではなく、この佐々の兄弟一族を中心とした連合軍であったとしても不思議はなかったとも感じます。
佐々兄弟は、佐々成政くらいしか有力な武将が残っておらず、織田の北陸方面軍は指揮官であった柴田勝家では、「本能寺の変」後の北陸方面軍をまとめることができません。
北陸方面軍には、馬廻衆もかなりおり、戦力だけを見たら、秀吉の中国方面軍よりも強力だったはずです。
光秀をいち早く討ちに戻ってくれば、「本能寺の変」後の状況はまったく違ったものになったかもしれません。

やはり、「桶狭間の戦い」の前後に、佐々一族といい、佐久間一族といい、主要な武将を失いすぎたようにも感じます。

それにくらべて、さすが秀吉です。
こちらは、さっさと毛利氏や宇喜多氏と話しをつけて、光秀を討ちにすぐに畿内に戻ってきます。
柴田勝家に、秀吉のような政治力と行動力があれば…。


◇千秋季忠と佐々政次の討死〔正午頃〕

佐々成政の兄の佐々政次は、前述の千秋季忠とともに、300名ほどの部隊で、桶狭間方面に進撃しますが、大敗します。

両者は、桶狭間の今川軍の、おそらく最前線に配置されていたと思われる、久野元宗(くの もとむね)に討ち取られてしまいました。
さすがに、たった300では歯が立たなかったのかもしれません。
というよりも、この突撃には、おそらく理由があったとも考えられます。

この少数部隊の突撃が、どのような意図のもとに行われたかは、よくわかっていません。
信長の命令であったのか、彼らの独断攻撃だったのかは、わかりません。

個人的には、作戦の一環であったとは思いますが、ひょっとしたら、信長の想定以上の大量の戦死者を出してしまったのかもしれません。
信長は、千秋季忠と佐々政次は、生きて戻ってくることを想定していたのかもしれません。

ここまでのコラムで書きましたが、季忠と政次は、織田軍の鷲津砦と丸根砦にいた、織田軍の古将たちの名誉ある最期を目の前で見てきた者たちです。
季忠と政次は、戦功を望んだというよりも、信長に熱田神宮や一族を託した、覚悟の突撃であった気もしないではないです。

この突撃と敗戦で、信長は、武将の配置や兵力など多くの敵の情報を得たはずですし、義元に最大の油断をもたらしたと思われます。

今川義元は、この勝利で、桶狭間の義元本陣で、「自分(義元)には、どんな天魔鬼神もかなわない」という主旨の言葉を家臣たちに語り、軽い祝宴を行います。
上機嫌だったのは間違いないと思います。酒も肴もたっぷりあったはずです。
その直後、「第六天魔王」の信長が自身のもとにやって来るのです。
何とも皮肉な義元の言葉です。

* * *

千秋季忠と佐々政次を討ち取った、今川軍の久野元宗は、この後、弟の宗経と、一族の久野氏忠(義元の甥)とともに討ち死にします。
この久野一族は、井伊氏や松井氏と同様に遠江国勢で、「桶狭間の戦い」後に、今川氏と松平氏の両天秤戦略をとります。


◇織田軍と今川軍の小競り合い〔正午過ぎ〕

この時刻あたりからの戦況は、ほとんどわかっていません。
ここからの展開が、よくわかりません。

信長は、善照寺砦から中島砦に向かい、また善照寺砦に戻ったとか、両砦から攻撃部隊が何隊かに分かれて桶狭間に向かったとか、信長は鎌倉街道を迂回して桶狭間に向かったとか、いろいろな説があります。

信長は一端は、善照寺砦から中島砦に入ったとは思います。
制止しようとする古参の家臣を振り切って中島砦に向かったという記録もありますが、もともと、この中島砦は、攻めてくる者に対して防御がかたい砦のはずです。

これまでのコラムでも書きましたが、この中島砦は、桶狭間に向けて部隊を送り込む最前線基地であったと思われます。
中島砦の西方にある今川軍の鳴海城からの攻撃にも、十分に対応できる状況だったとも思われます。

* * *

ここで、母衣衆の前田利家ら八人が、敵の首を持って、中島砦に戻ってきたと思われます。
いくつかの部隊が、さまざまな場所で、今川軍と小競り合い程度なのか、小規模戦闘なのかはわかりませんが、戦闘をしていたと思われます。
とにかく、信長は、今川軍の配備状況を調べ、弱い部分を探したと思います。

信長自身が最終的に、善照寺砦と中島砦のどちらから、桶狭間に向けて出撃したかはわかってはいませんが、この両砦から、桶狭間方面にいくつかの部隊が突撃した可能性は非常に高いと思われます。


◇織田軍の戦闘力

前回までのコラムで書きましたが、織田軍には、「馬廻衆(うままわりしゅう)」と呼ばれた700名あまりの、高度な戦闘集団がいました。
おそらくは、特殊訓練を受けた馬廻衆700名は、3倍から4倍の兵力と換算してもいいのかもしれません。

さらに、その中から選び抜かれた数十名の精鋭部隊「母衣衆(ほろしゅう)」の強さは相当だったと思われます。
馬術、剣術はもちろん、その戦闘能力はすさまじいものだったのかもしれません。

* * *

さらに、信長は、今川との戦いにあたり、近江国の六角氏から援軍の兵士数百を借りています。
前回コラムで書きましたが、延暦寺勢力となにかと手を組む六角氏です。
六角氏は、まさに「ゲリラ戦」の強者たちという印象もあります。
信長は、ゲリラ戦の戦い方を伝授指導してもらうために呼んだのかもしれません。
援軍なのに、結構な死者数ですから、桶狭間のかなり前線に六角兵がいたのでしょうか。

六角氏の近江国には鉄砲の生産地「国友(くにとも)」があります。
鉄砲技術に長けた者も、おそらく援軍として来ていたように感じます。
雨中での鉄砲使用も準備したはずです。
史料には、豪雨の中なのに、黒煙があがったという記述もありますから、ある段階で、鉄砲を使用したことになります。
大型油紙のような防水シートのようなものが、すでにあったのかもしれません。

信長は、この戦いの数年前の「村木砦の戦い」で、今川軍に、すでに鉄砲隊の威力を、痛いほど見せつけています。
今川軍は、この連射の爆音を聞いただけで、縮みあがったかもしれません。

信長は、結構、爆竹好きで、いろいろな場面で使用しますが、鉄砲でなくても、爆音だけで敵を震え上がらせたかもしれません。

馬廻衆、ゲリラ戦、鉄砲隊…、すさまじい攻撃力の部隊だったのかもしれません。

* * *

織田軍は斎藤氏や松平氏など、周囲の敵と何十年も戦い続きです。
戦闘能力は、相当に磨かれ、強力で熟練した兵士が、軍団内にたくさんいたかもしれません。

それに比較し、今川軍は、偉大な軍師の雪斎は亡くなり、義元を後継者に引き立て、北条氏とも戦ってきたベテラン武将たちが、相当に世代交代していた可能性があります。
長い期間、それほど本格的な戦闘経験もなかったと思います。

ここまでのコラムでも書いてきたとおり、今川軍の内部は、一枚岩ではなく、各勢力が思惑だらけで動いています。
軍団としての戦闘能力の質の低下を、量だけでカバーしていたのかもしれません。

「桶狭間の戦い」の時点で、今川軍の中に、世代交代、経験不足、内部分裂などの現象が起きていたように感じます。

* * *

これまでのコラムで、戦国武将の戦い方として、敵を意図的に大きく油断させる戦術が、たくさん行われたと書きました。

もし、前述の千秋季忠や佐々政次の突撃が、敵の兵力や配置の確認のために行われたものだけでなく、大きな油断を引き起こさせるものであったなら、油断する今川軍のど真ん中に、織田軍の鉄砲隊の連射が突然起きて、ゲリラ戦のような部隊が、そこらじゅうから攻めてきたらどうなるでしょうか…。

今川軍の兵士たちからしたら、「今川軍は、織田軍の兵を軽く撃退したのではなかったのか…、ここにいる織田の兵はいったい誰だ…」と感じたかもしれませんね。

信長は、いずれ豪雨がやって来ることもわかっていたはずです。
豪雨の前は、必ず前兆現象がありますね。
倒木するほどの突風、雷、雹(ひょう)…とてつもない豪雨がやってくるのです。

今回のコラムでは、戦況のお話しはここまでにします。


◇信長の檄文

信長は、おそらく正午過ぎ頃に、「檄文(げきぶん)」を全軍に発したと思われます。

それは単なる指示や激励というようなものではなかったのかもしれません。
日本史の中には、時折、ある特定の人物が、軍団に向けて、相当に強い口調でメッセージを言うことがあります。
それにより、軍団が団結し、まさに炎となって敵に突撃していく時です。

ここで、信長の激しい「檄文(げきぶん)」が炸裂するのです。

記録にある史料の一文です。

「あの武者、宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。
こなたは新手なり。
其の上、小軍なりとも大敵を怖るゝなかれ。運は天にあり。此の語は知らざるや。
懸らぱひけ、しりぞかば引き付くべし。
是非に於いては、稠ひ倒し、追い崩すべき事、案の内なり。
分捕なすべからず。打拾てになすべし。
軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面日、末代の高名たるべし。只励むべし」。

これは文章ですので、かなり落ちついた印象の指示にも感じますが、実際には、大声の持ち主で激しい性格の信長ですから、相当に語気を強めて、怒りの表情で語ったのではと想像します。

意味は、
◎敵は夜どおしの行軍で疲労困憊だが、わが軍はまったく疲れていない。
(通常は、戦況と敵軍の行動をこれほど把握し、家臣たちにそれを詳しく語ることなどまずありえませんね。ここまでが予定調和で進んできている証拠だと感じます)。
◎大勢の敵兵だからと恐れることはない。勝敗の運は天にある。
◎敵がかかってきたら引け、敵が引いたら追え。かんたんだ。
◎敵将の首をすべて捨てて、どんどん突き進め、目指す首はひとつだけだ。
◎わが軍が勝利すれば、この場にいる者たちは、末代までその名が残る。しっかり、がんばれ。

ようするに、
体力はこちらのほうがはるかに上。
勝ち負けは兵の数では決まらない。
身の危険を感じたら引いてもいい…、敵が引いたら追いかけて背後からでもいいから討ち取れ。
(つまり、無理な攻撃をせずに、時間稼ぎをしろ…、手段を選ぶな…、という指示にも感じます。)
軍団内のライバルとの手柄争いを気にせず、無駄に時間を使わず、先に突き進め。戦いの目標は、ただひとりの首だけ。
勝ちさえすれば、恩賞も名誉も手に入る。

前述の史料の文言には、「大高城」の文字が書かれていますが、ここで、信長が、桶狭間にいる敵を誤認しているはずはないと思います。
兵士を鼓舞するためには、細かい部分の正確さなどは必要ありません。
わかりやすく、家臣たちの心に火が付くようなメッセージがあればいいのだと思います。

信長は、ここまでに散っていった、織田一族、佐久間一族、千秋一族、佐々一族の話しをしたかもしれません。

時代劇ドラマでは、この信長の檄文のシーンは、あまり目にすることはありませんが、私は相当な迫力の檄文が行われたのではと感じています。

* * *

それに比べて、義元のことを記した部分は、
「義元が文先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ侯。」

前述の、信長の言葉との違いは歴然です。
敗者側ですので、仕方がない部分もありますが、よくわからない「天魔鬼神」を持ち出してくる義元に対して、なんとも具体的でわかりやすい信長のメッセージと指示です。

信長の言う「(勝敗の)運は天にある」の意味は、「勝敗をつけるために、天は我々の働きを見ている。オレたちは運をつかみ取る。」ということなのかもしれませんね。

いつの時代も、どこの社会も、物事が大きく転換するとき、そこに誰かの強いメッセージの言葉があったりしますね。


◇オレについてこい!

ここからは、ドラマ風に信長の台詞で…。
あくまで想像です。

* * *

20日の朝では遅すぎる。
19日中に決着をつけるぞ。
今日の朝からの暑さでは、午後2時くらいには豪雨がくるはずだ。

正午過ぎに桶狭間に突っ込む!
叔父(おじ)の織田秀敏や、飯尾定宗、千秋季忠、佐々政次らの犠牲を無駄にするな!

善照寺砦に残す連中は、鳴海城から絶対に兵を出させるな。
中島砦も同じく、絶対に桶狭間に向かう織田軍の後を追わせてはならぬ。

今日(19日)は、鳴海城、沓掛城から、今川の軍勢は来ない!
大高城の松平元康と朝比奈泰朝の軍も来ない!

桶狭間の今川軍を大混乱にさせるから、みな、その中を、犠牲者の上を踏み越えて、先に突き進め!
討ち取った敵将の首の数で、恩賞などは与えない。
首はすべて、その場に捨てていけ!

狙う首は、義元だけだ!

軍旗も馬印も置いていけ!

沼地や深田には、自ら絶対に入るな!

特別攻撃隊以外は、鉄砲隊の一斉射撃の後に、バラバラに突っ込み、目の前の敵をとにかく倒せ!
敵将の名前などどうでもいい…、時間を無駄にするな!
そして、倒す手段を選ぶな!
何でも使え!

桶狭間の北と南の出口をふさぐから、桶狭間の中を、東でも西でも、北でも南でも、敵を追って叩きつぶせ!
寺は、こちらの味方だ。

豪雨がいずれ来るから、声での意思疎通は無理だ。
織田の特別攻撃隊を見たら、とにかく前進させろ!

義元の本陣は、あいつが約束通り設営してある。

義元の居場所や本人確認は、蜂須賀小六や服部一忠が先導するはずだ。
ニセの輿(こし)にだまされるな。
本物はコレだ。頭に叩き込め!

走れない連中は、この砦に残れ!

オレ(信長)は、特別攻撃隊と一緒に突っ込む!

佐久間信盛、森可成、池田恒興は、今川の三浦義就や松平忠政らの大軍勢を頼む。
柴田勝家は、手はずどおりに…。
岩室重休は、甲賀衆を先導して、かく乱させろ…。
近江国の六角の皆も、よろしく頼む。
林秀貞は、みなを諸々面倒みろ…。

水野信元は、ここにいないが、手はずどおりに動く。
簗田政綱は、今川の瀬名氏俊と連携し、オレに進捗を伝えろ!

水野忠光は丹下砦を、佐久間信辰は善照寺砦を、梶川高秀ら水野の者たちはの中島砦を、絶対に死守せよ。
敵を一歩も入れるな!

勝つも負けるも、天は見ている…、みな地獄で会おうぞ!

佐々成政、前田利家、毛利新介、河尻秀隆、金森長近、別喜右近…、小姓たち…、オレについてこい!

いくぞ!


次回コラムは、この続きを書きます。

コラム「麒麟(31)桶狭間は人間の狭間(13)」につづく。


2020.8.9 天乃みそ汁
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