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麒麟(39)器はどこ…

【概要】NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。足利将軍後継者選び。松永久秀の壮大な陰謀。終わらない二大勢力の抗争。近衛前久と公家の生き方。トップの器とは。


前回コラム「麒麟(38)麒麟とザリガニ」では、織田信長の麒麟花押。足利義輝の息子。進士藤延と明智光秀。波多野秀治と丹波国。牧のはりつけ伝説。将軍の子などについて書きました。

今回のコラムは、大河ドラマ「麒麟がくる」の第24回「将軍の器」に関連し、将軍後継者抗争、将軍の器量、松永久秀らの暗躍などについて書きたいと思います。


◇将軍後継者選びの背景


〔義政から義尚へ、そして義稙へ〕


ここで、13代将軍の義輝までの、将軍後継者の抗争の背景を、少し前の時代から簡単に書きます。

まずは、8代将軍の足利義政までさかのぼります。
京都の銀閣寺で有名な義政ですね。

義政と日野富子の夫妻には、後継者の実子がおらず(すでにすべて不審死)、義政の弟の足利義視(よしみ)を養子とし、将軍後継者とする方向でした。
そこに義尚(よしひさ)が誕生し、時代は大混乱になっていきます。

後の豊臣家もそうでしたが、このケースがもっともやっかいです。

ここに細川氏、山名氏、大内氏、伊勢氏、畠山氏などの戦国武将が絡み、「応仁の乱」へと向かいます。
この乱のお話しは割愛します。

* * *

最終的に、足利義視は排除され、義政の実子の義尚が9代将軍になります。

義視が逃れた先が、美濃国の土岐源氏である土岐成頼(とき しげより / 実父は尾張国の一色氏で、土岐氏に養子に入る)です。
大河ドラマ「麒麟がくる」で、明智光秀の主君として美濃国守護の土岐頼芸(とき よりのり)が登場していましたが、頼芸はこの土岐成頼の孫です。

ところが、9代将軍の義尚は、若くして病死してしまいます。
これも、妙な死です。
義尚には子がいません。

義政は、もめていた弟の義視と和睦し、義視の息子の義稙(よしたね)を、10代将軍にするために養子とし、義政は死去します。


〔義稙派 vs. 義澄派〕

義稙の将軍就任に反対したのが有力な戦国武将の細川政元でした。
義政の死後、その後に将軍でなかったものの権力を握っていた義視が死去すると、義視の息子の10代将軍の義稙は、細川政元や日野富子、伊勢氏らと対立関係に入ります。

政元と富子は、足利義澄(よしずみ)を11代将軍に擁立し挙兵します。
富子による義稙暗殺は失敗し、義稙は越中国(富山県)を経て、越前国(福井県)に逃れます。
こうして、足利将軍家は、義稙派と義澄派に分かれます。


〔細川家の内部抗争〕

絶大な権力を握る細川政元には、三人の有力な跡継ぎ候補の養子がおり、その中の筆頭は細川澄之(すみゆき)だったのですが、二番手の養子の澄元(すみもと)の家臣の三好之長が政元に近づき、澄之の後継に黄色信号が灯ると、澄之の家臣が、政元を暗殺して、実権を握ろうとしました。
その後、二番手の細川澄元(すみもと)は、細川澄之を討ちます。

三番手の細川高国は、二番手の澄元を支援しますが、細川一門の多くは、澄元ではなく、高国のほうを支持します。

この細川氏のお家騒動に乗じて、大内義興が、前述の越前国に追われた10代将軍だった足利義稙をたてて、京に攻め上がり、足利義稙は将軍に返り咲こうとします。
こうして、大内義興、細川高国らが足利義稙を支えます。

* * *

大内義興が京を離れ地元に戻るのを見て、前述の細川澄元が、細川高国打倒で再び攻め上がってきます。
足利義稙は、なんと支えてくれた細川高国を裏切って細川澄元と手を組みます。
その後、細川高国は細川澄元を撃破します。

権力を握った細川高国は、10代将軍の足利義稙を追放し、11代将軍 足利義澄の息子の義晴(よしはる)を、12代将軍につかせます。
つまり、細川高国が支えた足利義澄派が、足利義視の息子の義稙派を打倒したのです。

その後、細川高国に敗れた細川澄元の子である細川晴元は、家臣の三好元長とともに、細川高国を倒します。

細川晴元は、家臣の三好元長を裏切って殺害し、12代将軍の足利義晴と手を組み、彼を支えます。
このあたりで「麒麟がくる」の初回あたりの内容につながります。

* * *

つまり、次のような構図です。

〔11代義澄派〕京都
日野富子・細川政元・細川澄元(後に義稙派)・12代足利義晴・細川晴元・三好元長

〔10代義稙派〕越前国
8代足利義政・足利義視・細川高国(後に義澄派)・大内義興

細川高国は、両者を上手に行き来しますが、細川晴元に倒されます。
そして後に、三好勢(松永久秀含む)が、かつての主君の細川晴元と、足利義晴、足利義輝を倒すことになります。

この二大勢力の抗争劇は、いったんここで収まりますが、すぐに次の二大勢力の抗争につながっていきます。
これでは、決して収まってはいるとは言えませんね。


〔足利義晴と足利義維の順位〕

前述の二大勢力の抗争の中で、11代将軍の足利義澄には、二人の男子がいました。
12代将軍になった足利義晴(よしはる)と、足利義維(よしつな)です。

実は、足利義維のほうが兄だったといわれています。
要は、生母が違うのです。

義晴の生母は、藤原系の日野家の日野阿子(日野富子の姪)です。
義維の生母は、戦国武将の斯波(しば)氏の娘です。

コラム「麒麟(37)辞世の言葉」で、将軍周辺での日野家の絶大なチカラと、その後の慶寿院らの近衛家の巻き返しの話しを書きました。
絶対的な日野家の立場が、この兄弟の後継順位を変更させたといえます。

義晴と義輝の最期は、前回までのコラムで書きました。
「永禄の変」で、義輝と、弟の周高は死に、生き残っているのは、三兄弟の次男の足利義昭(よしあき / 覚慶)だけです。

大河ドラマでは、しきりに正当な後継順位は…という話しが出てきましたが、これは生き残っていればの話しです。
戦国時代の後継順位ほど、当にならないものはありませんね。


足利義維は、三好氏の本拠地へ

一方、11代将軍の義澄の息子の義維(よしつな)の系統には、義維(よしつな)本人と、その息子たちがいます。
細川高国が細川晴元に倒された後、足利義維(よしつな)は、今の大阪府・奈良県・兵庫県南部あたりを支配域にしています。

この義維(よしつな)の後見人こそ、前述の細川晴元の家臣であった三好元長でした。
三好一族の拠点は、四国の阿波国(徳島県)です。
三好元長は、義維(よしつな)の一応、兄である12代将軍 義晴を排除し、義維(よしつな)を13代将軍にしようとしたことがありましたが失敗しました。

三好元長は、その後に細川晴元に倒された人物です。
元長の死で、苦境に立たされた義維(よしつな)は、三好一族の阿波国(徳島県)に逃れます。
この頃から、義維(よしつな)は持病が悪化していったともいわれています。

三好元長の息子の三好長慶(みよし ながよし)は、細川晴元に復讐し、敗走させましたね。
細川晴元は、生涯の終盤に、義晴(12代)と義輝(13代)にずっとついていた武将ですね。

こんな状況で、「永禄の変」がおき、13代将軍の義輝が殺害されたのです。


〔終わらない二大勢力の抗争劇〕

足利義維(よしつな / 後に義冬)には、義栄(よしひで)をはじめ、三人の息子がいました。

足利義輝や慶寿院が死んだ「永禄の変」に関与していたかもしれない、また日野家とは対立関係にあり、叔母の慶寿院なきあと近衛一族の中心にある関白の近衛前久(このえ さきひさ)のことは、コラム「麒麟(37)辞世の言葉」で書きましたが、彼は誰を次期将軍に望んだのでしょうか。

また、義晴・義輝親子とは、反対側にあったかつての10代将軍 足利義稙の勢力たちは、どのように考えているのでしょうか。

* * *

先ほどの勢力関係を整理します。

先ほど書いた内容が、次の内容です。

〔11代義澄派〕京都
日野富子・細川政元・細川澄元(後に義稙派)・12代足利義晴・細川晴元・三好元長

〔10代義稙派〕越前国
8代足利義政・足利義視・細川高国(後に義澄派)・大内義興

* * *

これが時代を経て、次のように変化します。

〔12代義晴の一派〕京都
13代足利義輝・足利義昭・細川晴元・慶寿院・三淵藤英・細川藤孝

〔義晴の弟の足利義維の一派〕四国の阿波国
14代足利義栄・10代足利義稙の残党・三好一族・近衛前久

松永久秀と久通(ひさみち)の親子は、中間的な位置で、都合のいい時にどちらにもつき、両者を戦わせたようにも見えてきます。
三好長慶は、すでにいません。


〔近衛前久の野望〕

大河ドラマ「麒麟がくる」の第24回「将軍の器」では、近衛前久(このえ さきひさ)が、三好勢に押されながら、足利義栄を14代将軍に推挙するシーンがありましたね。
ここで、この時の前久の状況を少し書きます。

近衛前久のもともとの名前は、この少し前まで、足利義晴ゆかりの「晴嗣(はるつぐ)」で、そこから「前嗣(さきつぐ)」に、そして「前久(さきひさ)」に変えます。

1555年頃には、足利義輝側から離れ改名します。
明らかに、足利義輝や、慶寿院(けいじゅいん)から、距離を置いたということですね。
1565年の「永禄の変」で慶寿院なき後、朝廷周辺の公家の求心力は、この近衛前久にあったと思われます。

この近衛前久という人物は、武家ではなく公家で、公家最高位の関白でした。
ですので、強力な武力勢力には対抗できません。

こうした状況を考えると、前久が、13代将軍の義輝なき後、その弟の義昭を推すとは考えにくいとも感じます。
それに、義昭の兄の13代将軍義輝の襲撃「永禄の変」には、この近衛前久が相当に絡んでいると、足利義昭は非常に疑っています。


〔足利義栄の14代将軍就任〕

最終的に、近衛前久が将軍に推したのは、四国の三好氏のもとに逃れた足利義維(よしつな)の子の足利義栄(よしひで)でした。

前述のとおり、義維は、12代将軍 義晴の本来は兄です。
義晴の三人の息子のうち二人は襲撃で死に、もうひとりの義昭が残っているだけです。

三好勢が、襲撃して殺害した義輝と周高の兄弟の義昭を次期将軍に推すはずはなく、前述の近衛前久の立場もあり、1568年3月に、14代将軍は、足利義栄(よしひで)となります。

義栄(よしひで)の父の義維(よしつな)は、すでに病気が重く任に堪えられないと判断されたか、若年の義栄のほうが扱いやすいと判断されたものとも考えられます。
三好勢の軍事力あっての将軍就任です。
14代将軍は、三好勢のあやつり人形の「かいらい将軍」であるのは明らかでしたね。


◇松永久秀の陰謀炸裂

松永久秀の陰謀に関しては、はっきりと計画の内容がわかりませんので、ここからは個人的な想像も含めて書きます。
久秀には、長大な陰謀計画があったものと思います。

前述の二大勢力の構図のとおり、松永久秀は、この二大勢力を戦わせ、これに乗じて三好一族を叩きつぶし、思い通りになる将軍を担ぎ上げ、自身がより有力な地位につき、領国を広げたいと考えていたのかもしれません。

* * *

大河ドラマ「麒麟がくる」の第24回「将軍の器」では、松永久秀は、明らかにしらばっくれて、義輝襲撃が、あくまで三好勢と息子の松永久通(ひさみち)の行動だという台詞がありましたね。

こんなち密な陰謀暗躍計画が、彼らだけで行えるはずはないと思います。

戦国の「三梟雄(さんきょうゆう)」のひとりと呼ばれる久秀です。
この頃の久秀の陰謀は、それはすごいものがあります。

* * *

三好一族の中の、有能な人物たちは、裏切りには見えないように、すでに何人も排除してきました。
残っているのは、それほどの人物でもありません。

ここで、いよいよ久秀が、三好一族打倒の動きを表面化させます。
あくまで狙いは、三好一族とそれに味方する勢力の打倒だったと思います。

* * *

久秀は、三好勢が足利義栄を次期将軍に推し、近衛前久も同様の動きをするのを、「永禄の変」の前から読んでいたことでしょう。
息子の松永久通は、もともと父の松永久秀の「駒」です。
三好勢と足利義栄など、あるタイミングで、いっぺんに倒そうと考えていたかもしれません。

* * *

大河ドラマ「麒麟がくる」の第24回「将軍の器」では、足利義昭(覚慶)が、奈良の東大寺から細川藤孝らによって救出され、甲賀の和田氏のもとに逃れた内容を描いていましたね。
この時に、松永久秀がその気になれば、彼らを一気に討ち取れたはずです。

ですが、それを行うと、細川氏や六角氏、朝倉氏、上杉氏ら、多くの武家を一気に敵に回すことにもなりかねません。
足利義昭は、義栄なき後に、利用価値のある駒であるのは間違いありません。
久秀は、あえて義昭を奈良から逃がしたのだと思います。
「麒麟がくる」の中でも、久秀は将軍の利用価値を語っていましたね。

戦国時代に勝ち残る武将たちは、狙いの敵以外を、まずは敵に回さないのが鉄則でしたね。

* * *

14代将軍になった足利義栄は、三好三人衆と手を組み、もともと妙な陰謀の養子縁組で当主となった三好義継(みよし よしつぐ)を冷遇し、とうとう義継は、松永久秀のもとに逃れることになります。
おそらく、これも久秀が糸を引いたことのように感じます。

三好氏の正当な後継者を味方にすれば、残りの反対勢力の三好勢を攻撃しやすいのは明らかです。

* * *

久秀の狙いは、まずは、三好三人衆が担ぎ上げた14代将軍の足利義栄を排除し、三好勢のチカラを削ぐことです。
14代将軍になった1568年の同年9月には、義栄は不審死を遂げます。
一応、病死ですが、そんなはずはないでしょう。
義栄は、京に一度も入ることのなかった足利将軍となりました。

この頃の久秀の陰謀は、冴え渡っているというか、大胆不敵ですね。
周囲の有能な戦国武将たちは、おそらく理解していたことでしょう。


◇松永久秀と三好義継

ここで、この時期の松永久秀のことを少し書きます。

松永久秀は、当時の三好軍の中で、ず抜けた存在であったのは明らかで、三好長慶に次ぐ「ナンバー2」であったのは間違いないと思います。
戦闘においても、長慶が指揮できない状況にあっては、三好軍全体を指揮統率できた人物は、久秀しかいなかったと思います。
陰謀や暗躍という面でも、彼に対抗できる人物が三好軍の中にいたとは思えません。

13代将軍の足利義輝と三好長慶のあいだを取りもっていたのも彼です。
「永禄の変」の少し前までは、義輝と久秀は、見事な連携をして、敵対勢力を排除したりもしています。
三好軍の中で、官位官職という意味でも、ここまで大出世した人物も彼しかいません。

三好長慶が死去した後、すべての面で、久秀に対抗できる人物は三好一族には残っていません。
三好長慶の病死も、実はかなり怪しいと個人的には感じています。

長慶の死去後(長慶の息子の義興もすでに死去)、長慶の弟の「十河一存(そごう かずまさ)の子で、長慶の養子となっていた三好義継(みよし よしつぐ)が後継者となり、松永久秀と三好三人衆は、彼を支えることになります。
ですが、実は松永久秀は、十河一存とは相当に不仲でした。

* * *

実は、この養子縁組が複雑で、ここに公家との関係性が影響していると思われます。

この頃は、三好一族は、戦死、病死、不審死がたくさんあり、一族内がほぼバラバラです。
団結している松永一族とは大違いですね。
久秀の陰謀と言えば、それまでですね。


◇公家の生き方

野心家の公家で、関白の近衛前久が、足利義輝や慶寿院から離れ、別の道を模索し、足利義栄(よしひで)を14代将軍に推挙したことは前述しました。

義晴や義輝の時期の、幕府内での、慶寿院や近衛前久などの近衛家のチカラの大きさについては、前回までのコラムで書きましたが、主要な公家である五摂家(摂政関白を輩出する藤原五家、近衛・鷹司・九条・二条・一条)は、近衛流のニ家(近衛・鷹司)と、九条流(九条・二条・一条)に分かれます。
この二流が熾烈なライバル競争を行っていました。

前述の近衛前久の、最大のライバルが、二条家の二条晴良(にじょう はるよし)で、二条家は三好氏と深い関係がありました。
このことを考えると、近衛前久が、三好氏に近い足利義栄を将軍に推挙したとはいえ、非常に微妙な関係性にあることを感じます。

* * *

ちなみに、この二条晴良は、後に織田信長のチカラで関白に返り咲きますが、信長に上手に利用され、いつか捨てられます。
そして、近衛前久も、信長に人生を翻弄されることになります。
野心家の前久は、信長と上手につき合いますが、おそらく復讐心いっぱいであったと思われます。

信長は、多くの公家から恨みを買っていたことでしょう。
松永久秀のほうは、近衛家の大敵です。

こうした複雑な関係性が、抗争のある時に噴出してくるのだと思います。

* * *

前回コラムでも書きましたが、近衛前久という人物は、自分で武力を持たないため、強い戦国武将にすり寄り、武力が衰えるとみるや、すぐに乗り換えます。
それが、政治力で生き抜く公家のやり方と言えばそうなのでしょうが、したたかな公家の近衛前久です。
大河ドラマ「麒麟がくる」でも、伊呂波太夫(いろはだゆう)から、そのような武家とは違う公家の生き方の台詞がありましたね。

彼は後に、「本能寺の変」で光秀に味方(?)し、豊臣秀吉を猶子(ゆうし / 養子に似たかたち)にし、家康にもすり寄り、「関ヶ原の戦い」を見届けてから亡くなります。
公家とはいえ、武力を持たないだけで、まるで戦国武将の策略家ですね。


◇東大寺が…

一方、松永久秀は、前述のとおり、三好氏の後継者の三好義継を味方にし、コントロールしようとしはじめます。
そして、松永久秀の野心が表に出てくるようになると、松永久秀と三好三人衆は、いよいよ戦いを始めます。

1567年、奈良の「東大寺大仏殿の戦い」で、松永久秀・三好義継の連合軍は、三好三人衆や、奈良の武将の筒井順慶と戦い勝利します。
この時に、東大寺大仏殿をはじめ多くの堂塔が焼失してしまいます。

両者の戦いは、その後も続き、松永久秀は、ここで織田信長を利用しようとするのです。
そのあたりは、おいおい…。

* * *

松永久秀は、三梟雄(さんきょうゆう)のひとりではありますが、それよりも恐ろしい梟雄の信長がやって来ますね。

信長の妹の「お市(いち)」が、浅井長政に嫁ぐのは、1568年です。
近江国の六角氏や浅井氏、越前国の朝倉氏なども、急に動き始めます。
もはや畿内周辺は、梟(フクロウ)だらけです。

13代将軍の足利義輝が、暗殺ではなく、派手な襲撃で殺害されるという大事件で亡くなり、この頃から、畿内周辺で武将どうしの大きな戦闘劇が始まります。
当初は、将軍後継が絡んでいましたが、そのうちに、宗教勢力や公家も絡んで、何でもありの大戦争になっていきます。


◇器の中身

「麒麟がくる」の中の、松永久秀の台詞ではありませんが、もはや足利将軍を武士が支えることなど、意味のあることでもなくなります。
13代将軍の足利義輝が派手な戦闘で討ち取られた時点で、「将軍の器」がどうのこうのという時代も、完全に終わった気がします。

品位や品質に関係なく、足利将軍は単なる「器」であればいいだけとなっていきます。
用が済んだら、威光を持たない「器」も必要ないかもしれません。

源氏の血筋の将軍候補の戦国武将たちは、日本中にいるのです。
源頼朝や、足利尊氏のように、自身で新幕府をつくりたい武将が、たくさんいるのです。
いや、それ以上のものをつくりたい武将もあらわれます。

* * *

「麒麟がくる」の第24回「将軍の器」の中では、「幕府あっての我ら…」という、松永久秀の台詞がありましたが、そんなことを考えない戦国武将はたくさんいましたね。
ドラマの中では、迷いを残す久秀でしたが、行く末は見えていたはず…。

松永久秀は、ここまで、見事な「ナンバー2」であった人物でした。
「ナンバー1」は倒されても、「ナンバー2」は倒されない…、久秀は貫けたでしょうか…。

* * *

「麒麟がくる」の第23回「義輝、夏の終わりに」の中で、義昭(覚慶)が登場した時、義昭は駒ちゃんと亀(カメ)を眺めて、軽い冗談をとばして、笑っていましたね。
同放送内容では、松永久秀が、甕(カメ)を3つ並べて、カメの価値は人が決めると言いながら、二つを叩き割りました。
両者のカメには、どんな器量があったのか…。

* * *

「麒麟がくる」の第24回「将軍の器」の終盤で、明智光秀は、朝倉義景に向かって、足利義昭は「将軍の器」ではないという主旨の言葉を言いましたね。
この台詞の光秀の真意は、まだわかりませんが、ドラマの中の彼は、すでに「将軍の器」という思想をしっかり持っていたのかもしれませんね。

器と中身は本来違うもの…、みすぼらしい器に、すばらしい中身がつまっていることもあります。
器が、中身にともなって、立派になっていくこともあります。
器量の秤も、時代や環境によって違うもの…。

現代人にとって、「将軍(トップ)の器」とは、どのようなものなのでしょうか…。
戦国時代とは大きく異なるのでしょうね。

猫ちゃんには、魚のいない器など…、でも水だけでも十分に満足か…。

* * *

コラム「麒麟(40)」につづく。


2020.9.21 天乃みそ汁
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