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よどみ…(6)牛とヨドバシ

【概要】早牛は淀 遅牛は淀。「淀橋」のヨドバシカメラ、「淀屋橋」の淀屋。それは「定め」なのですから…。不思議「淀」パワー。東京の淀橋区。大阪の淀橋。

前回コラム「よどみ…(5)水に姿を」では、「姿見ずの橋」が「淀橋」に改名したお話しや、水車、黒船、ソバなどのお話しを書きました。
今回は、「淀」の言葉が入ったことざわと、不思議な「淀パワー」のことを書いてみたいと思います。


◇早い牛と遅い牛

皆さん、次のような ことわざを聞いたことはありますか。

「早牛(はやうし)は淀(よど)、遅牛(おそうし)は淀」
「遅牛は淀、早牛は淀」

用語がひっくり返っても、意味は同じです。
その内容のとおり、両方とも、誤りではありません。

京都を出発した足の速い牛も、足の遅い牛も、京都南部の淀の地に結局、到着するということを言っています。
京都南部にある「淀(与渡)」の地は、かつて水運の拠点だったとコラム「よどみ…(5)水に姿を」で書きました。

運ばせた荷物であっても、牛そのものであっても、両方の牛が「淀」に到着するのに違いはありません。
結局のところ、同じゴールにたどり着くと、このことわざは言っています。

近年は、この ことわざをほとんど耳にしなくなりましたね。
このことざわをクチにしているとしたら、かなりのご高齢の方か、歴史ファンだと思います。

今、あまり使われない理由は、このことわざの解釈が、人によってかなり異なっているからだと、個人的には感じています。
人の考え方や生き方によって、その解釈が違い過ぎるからなのかもしれません。

ことわざや格言は、それに接した自分自身が都合よく解釈して、人生や仕事にプラスに作用すれば、何も問題はないとも思います。
ですが、このことわざは、プラスにも、マイナスにもなりそうなものですね。
後で書きます。


◇定め


「淀(よど)」の文字の右側の部分は「定」ですね。
「定(じょう・てい)」を、あらためて、ネットで調べてみました。

「定」は、定める事、定まった事、決まり事、いつもの事、しずまった事、落ち着いている事、確かな事、真実、その通りである事、定まった状態、錯乱のない精神状態などと、説明されていました。

「手へん」や「クチへん」では、「掟(おきて)」などになります。
人の手やクチをしばる決まりものですね。

「石へん」や「木へん」では、「碇(いかり)」などになります。
船を定まった位置に固定させるものですね。

「こざとへん」はもともと丘の状態を表現していますので、この「こざとへん」や「土へん」ですと、「提(つつみ)」や「埞(てい)」などになります。
丘状に土が積みあがった、定まった、落ち着いた場所をさしています。堤防のことですね。

「耳へん」では、「聢(しかと)」になります。
耳で確かに聞いた状態で、「しかと承りました」の「しかと」ですね。
時代劇ドラマには、よく使われますね。

「金へん」では、「錠(じょう)」になります。
たしかに、金目のものや、お金、貴金属を入れた金庫、家の玄関、自動車や自転車などに、錠前である「カギ」をかけて、定まった位置から動かせないようにします。

では「淀」の文字は何でしょうか。

「さんずい」は、水を意味していますので、水の定です。
本来、流れるはずの水が、ある場所によどんで溜まっている、あるいは意図して溜めているとも考えられます。
水が定まった場所で留まっている状態ですね。
これが「淀」の漢字の意味だと考えられます。

* * *

それでは、このことわざにある、結局のところ、同じ「淀」の地に、牛が到着するとは、どういうことなのでしょうか。

物事が、定まったところ、確かなところに、結局はたどり着くということなのかもしれません。

ネットの中では、このことわざの意味あいを、説明をここで終わっているものがたいはんです。
ところが、さらに、その先に踏み込んでいるものも、若干ですがありました。

ここでも、また、「よどみ」を見つけてしまいました。

前述の説明の後に、次のように書かれていました。
「物事は結局、同じところにたどり着くのであるから、あくせくしてはいけないという戒め」などと加えられていたのです。

たしかに、現代人であれば、都合よく、そう解釈しそうな場面もあります。
「あわてんぼう」や「せっかち」な者たちを、戒めるのに都合よく使えそうな内容です。
でも、それは、あくまで現代人の一部の解釈に過ぎません。
このことわざの本質は、そこにあるとは思えない気がします。

おそらく、歴史ファンの多くは、そうした解釈をしないと思います。
現代の企業経営者たちも、そうした解釈をしない人のほうが多いと思います。

* * *

ことわざや格言の中には、あからさまに批判したり、軽蔑したりせずに、それとなく教示するような表現が少なくありません。
本当に核心である部分の状況説明しか文字には表現されません。
ですから解釈に明確さを欠いたり、さまざまな解釈がされたりします。
それも承知の上での、歪曲した表現ですね。

現代でも、結婚式や式典などのスピーチで、ことわざや格言をしゃべる方も多くおられますが、その使い方を聞けば、その方の解釈や思想、教養、生き方にいたるまで、すぐに伝わってきます。
理解してしゃべっているのか、まったく誤認してしゃべっているのかもわかります。
ひとりよがりの解釈も少なくありません。
今回のような、人によって解釈が違い過ぎるようなことわざは、その使用には危険性がいっぱいですね。

「早牛(はやうし)は淀、遅牛(おそうし)は淀」。
内容は、結局、同じ場所に到着するというものです。

これをどのように解釈するかですね?
人によって解釈が違っていて当たり前のことわざだと感じます。

* * *

もともと、「早牛」と「遅牛」は別の生き物です。
別々の生き方を持つ人間ということですね。

このことざわは、少なくとも江戸時代には存在していたようです。
庶民であれば、あくせくしないという解釈も許せますが、こと武士や商人であれば、そうは言ってはいられません。
戦国時代なら、なおさらです。

定まった場所や目標に、先にたどり着くかどうかが、生死を意味する者たちにとっては、自身が「早牛」なのか「遅牛」なのかは、重要な問題です。
「淀」の船着き場で、結局、同じ船に乗れば、違いは明確に出ないかもしれませんが、先発の船に乗れるかどうかは競争社会に生きる者たちには、重要な問題です。

このことわざでは、「あくせくしてはいけない」とはまったく言ってはいません。
「早牛」が良いとも、「遅牛」が良いとも言っていません。
いくつもあるアプローチは、みな同じ、「確かなところ」、「決められたところ」に、いずれ到着すると言っているのだと思います。
あくせくしようが、しまいが、それは問題にしていません。

今は、あくせくしないといけないのか、あくせくする必要がないのか、あるいは、別の方法を選択するのか、よくよく考えて目的地へ向かうことが求められている気がします。
正しい判断がされていれば、誰であろうと、同じ目的地にたどり着くと言っている気がします。

たとえ、同じゴールをめざす者たちがたくさんいたとしても、いろいろなタイプがいて、いろいろなアプローチ方法があるということを言っているようにも感じます。
自分のタイプや力量をよく考えて行動すべきと言っているようにも感じます。

「あくせくしてはいけない」などとは、どこにも言っていない気がします。

「定」の中には、「確かなもの」「真実」という意味あいも込められています。
それは、「定め(さだめ)」なのです。
それぞれの者が持つ、人生の「定め」のようにも感じますね。


◇戦略的流行語

ことわざや格言には、時に悪意が込められていて、戦略としてつくられることもあります。
特に戦国時代の情報戦では、悪い噂や、やる気をなくさせる噂を、短く覚えやすい文章やことわざなどにして、敵側の街や軍の中に、広めさせるということがよく行われました。
これは現代でも、まったく同じです。

「あくせくしても、結局は同じだ」などという思想を、敵軍の兵士に流行させることができたら、大成功です。
たいはんは「遅牛」を選択してしまいそうです。
戦国時代でしたら、「うちのお殿様は、早牛は淀、遅牛は淀 などと言ってたよ…」なんて、街中に広めたら、その殿様の求心力は急激に落ちるかもしれません。
前述のような追加の解釈のように、都合よく使う人間も現れます。

このことざわも、こうした たぐいの、戦略的なものだった可能性も否定はできません。
このことわざも、「淀」の文字の通り、結構、よどんでいる気がします。
現代、あまり使われなくなって当然かもしれません。


◇天下分け目の淀

織田信長が「本能寺の変」で亡くなった後、羽柴秀吉と柴田勝家の行動は、まったく違っていました。
「早牛」と「遅牛」で、結果はまるで違いましたね。

源頼朝は、弟の義経を「早牛」のごとく西に向かわせましたが、頼朝は別の道を選択します。
「遅牛」になる選択をしません。

このことわざにある京都南部の「淀」の地は、歴史上たいへん重要な戦いが行われています。
織田信長の死後、羽柴秀吉と明智光秀が戦った「山崎の戦い」です。
「天王山の戦い」とも呼ばれる戦です。

今でも、スポーツや政治などの戦いで、「天王山」という言葉が使われますが、ここから来ています。
まさに、この戦いは、形式的ではなく、天下人への最有力候補になるのは、どちらかという戦いでした。

この「淀」の地を決戦場と定めたのは明智光秀です。
この「定」は正解だったのでしょうか?

ことわざに出てくる、結局の地である「淀」に、先に到着したのは光秀です。
秀吉が、そのように誘導したと考えていいのかもしれません。
秀吉は、山の高いところから眺めていました。
実は、秀吉は、淀の地の水のよどみさえ武器にしてしまいます。
この段階で、勝負はついていたと言っていいと思います。

秀吉は、この「淀」の場所が、決戦場でない場合の準備もしていたと思います。

戦国時代の武将どうしの戦いでは、たいていは先に動いた者、動きを読まれた者、誘導された者が敗れます。
「早牛」だからといって勝てるわけではありません。
あえて「早牛」にさせられ、討ち取られることも多かったのです。

明智光秀が、この「淀」の地を決戦の地に定めて、その本心を秀吉に読まれてしまったことこそが間違いだったと、個人的には思っています。
光秀が、京都が多少でも戦火にさらされてもかまわない、京都を一時的にでも秀吉に渡してもいいと判断できる人間であったら、状況はかなり違ったのではないかと思います。
そんな判断をしない光秀であることは、秀吉が一番わかっていたと思います。
「光秀なら、決戦の地を、淀に選ぶはず…、他では勝負しない…。」

どんな考え方の人間なのか、「早牛」なのか「遅牛」なのか…、秀吉の人間観察力や人心掌握力は、日本史の中でも、トップクラスでしたね。

このことわざには「淀」という文字がある以上、秀吉時代を含めそれ以降に生まれたもののような気がします。
「早牛」と「遅牛」は、この二人を意味しているのではと勘ぐってしまいます。
そうなると、このことわざの意味は、また違った解釈も生まれてきます。

天下は、結局、定まった者のところに向かって、流れていきました。


◇淀パワー

とはいえ、どんな牛たちであろうとも、商売のため、水運の拠点である「淀」をめざして、人や牛や物が、たくさん集まってきたのは間違いありません。
前回コラムで、江戸幕府が、江戸の「姿見ずの橋」を「淀橋」に改名した理由の諸説を書きましたが、それとは別に、こうした意味合いを込めて、江戸幕府が「淀」の文字を決めたと考えれないこともありません。

実際に、青梅街道を通って、江戸の入り口に、たくさんの物資や人が集まってきたのです。
神田川を渡った先は、「華のお江戸」でした。

このことわざが、どの程度、江戸庶民に知られていたかはわかりませんが、「淀」と聞いたら、そこはいろいろな物が集まってくる場所を意味していると想像したのかもしれません。

たとえば、今、「渋谷」、「横浜」、「原宿」、「青山」、「銀座」…、何かをイメージしませんか。
江戸時代、「淀」という漢字と読みには、何かをイメージさせるパワーがあったのかもしれませんね。

「淀」という漢字と読みには、水だけでなく、いろいろなものが集まってきて、一時的によどんで滞留する、そして物流や商売が成立し、人や物が激しく流動する、そんなイメージを人々に持たせる何かのパワーがあったのかもしれません。
激流の場所に、ものが集まることなどありませんしね。

現代のお金も同じです。
安全で安定したところにいったん集まって、そこから、激しくビジネスが動くところに、いっせいに流れていきます。

秀吉にとっては、幸運と出世、天下をもたらした、縁起のいい名称の「淀」でしたね。
その後、秀吉は、「淀殿」という名の妻と、「淀城」という名の城を、手にします。

「淀」のよどみには、いろいろな何かが流れ着いて、溜まっていたかのようです。
いずれ、秀吉自身が、そのよどみに飲み込まれていきますが…。
それは後のお話しです…。

* * *

実は、江戸にあった「淀」の地、そこに架かる「淀橋」のすぐ近くで生まれた、有名な企業があります。
それが「ヨドバシカメラ」です。
誕生したのは昭和の時代になってからです。
まさに、「昭和」というお名前の方がやってきます。

これも何かの「淀パワー」で、引き寄せられたのでしょうか?


◇東京の区分

大型家電量販店の「ヨドバシカメラ」が誕生したのは、昭和の時代です。
後でご紹介します。

今は、東京都新宿区と呼びますが、この「淀橋」のあたりは、かつて「淀橋区」でした。
東京都ではなく、東京府 東京市の時代です。

今の東京都東部は、23区ではなく、35区に分かれていました。

* * *

ここで、簡単に明治時代中期からの東京の歴史を書きます。

1878年(明治11)に、「東京府」は15区と6郡で始まります。
その15区が「東京市」です。

1893年、神奈川県から東京府に、多摩地域や世田谷区の一部が移管されます。
これには、奥多摩の水利権が絡んでいるといわれています。ここにも、よどみが…。

明治時代の終わり頃、1900年代初頭の日露戦争勝利の頃に、「華の都、大東京」という表現が流行しますが、これは、この15区と5郡(1郡は区に編入)と、今の世田谷区の砧(きぬた)や千歳烏山(ちとせからすやま)を含めた地域を指しています。
今の東京都23区の範囲にあたります。

大正時代、1914年から始まった第一次世界大戦により、日本は好景気に入り、東京は大発展します。
1923年(大正12)に、関東大震災にみまわれ、東京市の人口は大阪市よりも少なくなります。
大阪への遷都も検討されたようですが、実現はしませんでした。
ここから東京の震災復興が始まります。

1932年(昭和7)に、東京市15区と5郡をあわせて、東京市35区に変更されました。

1939年(昭和14)に第二次世界大戦が始まり、日本は、1941年(昭和16)に太平洋戦争(大東亜戦争)に突入します。
日中戦争は、1937年(昭和12)からすでに始まっています。

その戦争の最中、1943年(昭和18)に、東京府と東京市は廃止され、東京都となります。
これは内務省の強力な圧力によるものです。
内務省とは、戦後に解体されるまで、官僚機構のトップにあった巨大官庁で、行政や警察、公安をとりしきっていた官庁です。
東京都への変更は、戦時下の管理統制の意味合いが強かったのかもしれません。

1945年(昭和20)に終戦となり、1947年(昭和22)、東京都の35区は23区となります。

そうした変遷の中、「淀川区」が存在したのは、1932年から1947年までの15年あまりです。
1947年に、淀橋区、牛込区、四谷区の三つが統合され、新宿区となりました。
区名ではなくなりましたが、淀橋、牛込、四谷は、東京の人たちの頭の中にはしっかり記憶される地名となっています。

ちなみに、中野区は、1932年に豊多摩郡中野町と豊多摩郡野方町が合流して中野区になってから、1947年には変更されませんでした。
今の新宿区には北西部にコブのように突き出した地域があります、落合や中井の地域です。
1947年の新宿区創設の時に、中野区なんて田舎に入るもんか、新宿区に入れてくれ…ということだったようです。
中野区住民の私としては、ちょっと複雑…。

読者の方々の中には、こうした歴史をよくご存じの方も多いと思います。


◇淀橋のヨドバシ

ヨドバシカメラは、藤沢昭和(ふじさわ てるかず)氏が、1960年に、ヨドバシカメラの前身である「藤沢写真商会」を渋谷区で創業し、その後、1967年(昭和42)に新宿区淀橋の地に、株式会社「淀橋写真商会」を設立し、さらに後、1974年(昭和49)に社名を「ヨドバシカメラ」に変更されました。

藤沢昭和 氏は、今の長野県諏訪郡 富士見町のご出身です。
1949年(昭和24)頃に、父の藤沢良作氏は東京に出て来られて、カメラ関連の商売を始められたそうです。
戦後から4年足らずの復興真っ最中の東京に、藤沢氏のご家族は東京に来られたようです。

今回の「よどみ」のコラムシリーズでは、甲州街道がたびたび登場しますが、おそらく藤沢家の方々も、甲州街道を通って東京に来られたのだと思います。

まさに、ヨドバシカメラは、戦後復興から高度成長期を経て、大成長した企業のひとつですね。
まさにサクセス・ストーリーです。
日本には、この時期のこうしたサクセス・ストーリーが山ほどありますね。

今、この淀橋から、JR新宿駅西口あたりは、すぐに歩いていける距離です。
新宿駅西口あたりは、今、「ヨドバシカメラ」のさまざまなお店がたくさんあり、まさに「ヨドバシ王国」です。
冒頭写真の建物が、その新宿駅西口前のヨドバシカメラです。

東京の住人であれば、小さな橋の名前の「淀橋」は知らなくても、このカタカナの「ヨドバシ」を知らない方は、ほぼいません。

カタカナ表記ですので、違うもののように感じてしまいますが、「淀橋」という橋名と、「ヨドバシ」は非常に関係が深いのです。

* * *

皆さんも、あの有名な、ヨドバシカメラのCMの歌を一度は耳にしたことがあると思います。
ヨドバシカメラのお店のない地域の方は、ごめんなさい。
幼稚園で小さな子供たちが歌っている光景もよく目にします。

この大型家電量販店の「ヨドバシカメラ」は、今は、日本の主要な大都市の駅前に存在しますね。
ですから、このCMが流される地域によって、歌詞が全部違っているのです。

東京であれば、「まあるい緑の山の手線、真ん中通るは中央線、新宿西口駅の前…」という新宿バージョンです。
秋葉原バージョンも、もちろんあります。
新宿バージョンの作詞は、なんと藤沢昭和氏 ご自身だそうです。

このように、全国各地の店舗にあわせて歌詞を変えているのです。
CMで、お店までの鉄道の経路まで案内するとは、斬新なアイデアですね。

* * *

現代のCMは、妙なキャッチコピーや映像インパクト、文字表示、タレントモデルなど、技術にたより過ぎているのかもしれませんね。
商品やサービスの内容説明もあまりしません。イメージ先行型ですね。
インスタ映えを気にする時代ですから仕方がないのでしょうが、何か、大事な商品名や企業名が頭に残りにくかったりします。
耳障りよく記憶させる、紙芝居の延長のような表現…、昭和の時代は非常に重視したものです。

近年大ヒットした、あのメガネのCM…、あんなに何度も商品名を聞かされ、演出も突飛でド派手、普通は抵抗感を持ってしまいますが、あのハリウッド男優の一言が吹き飛ばしてくれましたね。
このコラムも、「文字が小さすぎて、読めない!(怒)」ということはありませんか?

あなたのお家の、お爺ちゃんは、最近、わざわざ大声で叫んでいませんか…。
「読めない!」、「見えない!」、「聞いてない!」
きっとハリウッド男優をやってみたいのです。

ヨドバシカメラのCMにも、何か共通のものを感じます。
「よどみ」を感じさせない、真っすぐな透明感のようなものを感じます。
強引なまでの迫力もありますよね。
ど真ん中に直球を投げ込まれたような気分です。

こうした突破力…、企業経営者が失ってはいけないもののひとつですね。

ヨドバシカメラは、他の家電量販店と、経営志向も少し違いますよね。
あくまで私の印象ですが、「自社の流儀で、売れるものを、売れるように売る」、「お客さんをたくさん集めて、買い物以外でも楽しませる」…、昭和の戦後復興や高度成長期の販売スタイルの、バイタリティを感じることができる企業ですね。
「スマートさ」とは真逆なスタイルにも感じますが、実は「AI」とは相性がいいような気が、個人的にはしています。

これも「淀パワー」?

* * *

前述のことざわの「早牛」と「遅牛」…、そもそも、どうして牛なのか?、馬ではないのか?

戦国時代も、江戸時代も、明治時代も、戦後復興期も、そして現代も、実は教えてくれていたのは、「ブル(bull)」だったのかもしれませんね。
企業経営者も、起業家も、受験生も、選手たちも、挑戦者の皆さん、都合よく解釈しましょう。
めざすところは、ひとつです!


◇淀屋

「淀」と耳にしたら、やはり京都や大阪を、まずは思い出します。
淀川、淀君、淀城…。

それに、大阪には、あの「淀屋橋」もあります。

大阪にある「淀屋橋」という橋は、江戸時代の豪商「淀屋」が店のために造った橋です。
淀屋は米相場をぎゅうじって巨大な豪商になりました。

淀屋初代の「淀屋常安」の名が残る「常安橋(じょうあんばし)」も残っています。
大阪の中之島は、淀屋がつくった巨大な城といっていいのかもしれませんね。

日本史には、数々の大豪商が出現しましたが、その中でも、淀屋は、ずば抜けた大豪商です。
何かで読みましたが、絶頂期の総資産が200兆円ということだそうです。

2018年の日本企業の総資産ランキングを見ましたら、三菱UFJグループは306兆円でトップでした。
みずほ や三井住友などのフィナンシャルグループが、200兆円前後です。
日本郵政関連のグループは合わせると規模が大きすぎるので、ここでははずします。
トヨタ自動車は50兆円です。

淀屋のいた時代は、江戸時代です。
本当にこの資産規模だったとしたら、現代の企業は足元にも及びません。
江戸幕府が、その巨大さを恐れ、とりつぶしたのもわかる気がします。
それでも、淀屋ははい上がり、最後は見事に散っていきました。
今、大阪商人にとって、淀屋とは、どんな存在なのでしょう…。

それにしても、すごすぎる「淀屋」です。
これも「淀パワー」?

* * *

この「淀」という言葉、秀吉や淀屋、ヨドバシカメラなど、何かパワーを秘めているような気もします。
他にも「淀〇〇」という有名企業はたくさんあります。

「淀」には、水だけではない、何かが、たくさん集まってくるのかもしれませんね。
何か、人や金が集まる「定め」なのかもしれません。
目に見えない、野望、欲望、希望…、そんなものまで集まってくるのかもしれません。
その中には、よどんだ邪心も、たくさんあるかもしれませんね。

* * *

とはいえ、自分の子供やペットの名前に、「淀」の文字は、ちょっとつけにくいです。
何か「よどみ」を連想してしまいます。
パワーとよどみ…、どちらをとるか、頭と心がよどみの中で渦を巻きます。


◇大阪の淀橋

最後に、大阪に生まれた「淀橋」のことを書きます。

ヨドバシカメラさんは、もうすぐ、JR大阪駅の前の梅田地区に、家電量販店にとどまらない大型施設をオープンさせます。
その名も「ヨドバシ梅田タワー」です。
もはや大型家電量販店のレベルを、はるかに超えた複合施設と聞いています。

この施設と大阪駅の間に、近年、連絡橋がつくられました。
大阪の人たちは、その橋を「淀橋」と呼んでいると、噂に聞きました。
大勢の大阪人が認識している確かな話しかどうか、確認はしていませんが、江戸東京にはそう伝わってきています。

とうとう、「淀」の本場の大阪に「淀橋」が出現したのか…!

そのきっかけが、江戸の淀橋から生まれた「ヨドバシ」なんて、どれだけ「淀」が連鎖しているのでしょうか。

大阪市もヨドバシカメラも、「なかなか オモロイこと、しよんな…」。

今度、大阪に行ったら、ぜひ渡ってみたい橋のひとつになりました。
下の写真の左部にある黒い歩道連絡橋のことです。

とはいえ、「淀橋」と「淀屋橋」は、ちょっと まぎらわしい…。
タクシーに乗車の際は、気をつけないといけませんね。



次回、橋のお話しをもう少し書きます。
それでは、次回に。

* * *

コラム「よどみ…(7)」へつづく


2019.9.23 jiho
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