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麒麟(19)桶狭間は人間の狭間①
「心のスキをつけ」

【概要】NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。上杉謙信と武田信玄の「川中島の戦い」。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。


◇本格的なハイレベルの戦いに…

前回の麒麟シリーズのコラム「麒麟(18)命を使いきる」を書いてから、すでに一か月が経ちました。
前回コラムは、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の第十九回「信長を暗殺せよ」に関連し、信長の暗殺計画、光秀と義龍の別れなどについて書きました。

ここまで大河ドラマは、第二十一回まで放送され、今は、ドラマ撮影が中断し、放送もしばらくお休みとなっています。
第二十回と第二十一回の放送では、織田信長と今川義元が戦った、有名な「桶狭間(おけはざま)の戦い」の前段階と本戦のことが描かれましたね。

今回のコラムから数回の連載で、この「桶狭間の戦い」ことを、書いていきたいと思います。
普通に紹介説明しても面白くありませんので、少し違った視点で書いてみたいと思っています。

* * *

この「桶狭間の戦い」は、その結果いかんによっては、日本史の流れが大きく違ったであろう、たいへん大きな意味を持つ戦いです。

戦国時代が佳境に近づく…、つまり多くの戦国大名たちが、中規模程度にまで大きくなった各国をそれぞれに治め、チカラのある中規模の国どうしが戦うようになり、そして、中規模の国の中間の位置にある弱小国が独自の生き残り戦術を行い、中には、国と国が同盟や連合体制を組んで、別の強敵と戦うようになっていく…、そんな時代の状況に近づいてきました。
戦国武将たちが淘汰され、徐々に有力武将が絞られていったのです。

もはや、カリスマ的なリーダーひとりが、武力にものを言わせて、強力に引っ張っていけば何とかなるという時代は終わろうとしています。
「下克上」という、身分の差を超越した、非情な一面を持つ厳しい淘汰も、単なる裏切りや陰謀を越えた、まさにハイレベルの軍事戦略となっていきます。

戦いは、まさに「腕っぷし」に頼るような武力だけでは、到底、勝てない時代に突入していきます。

戦国時代の戦いは、情報収集、調査分析、諜報活動、陰謀策略、大量の人材を使った暗躍、分単位のち密な作戦、新兵器、新戦法、組織運営、経営力、自然環境対応力、土木技術…など、これらすべての要素を持っていなければ、まず勝ち残れない時代となっていきます。

リーダーがすべての能力を持っていなくとも、有能な人材を集め、彼らを使いこなすことができれば、勝利は舞い込んできます。
人心掌握術も、かなり重要な要素となっていきます。

ひと言でいえば、「腕力」よりも「頭脳」です。


◇頭脳は、武力を駆逐する

1560年の「桶狭間の戦い」は、まさに、頭脳戦、心理戦、情報戦の極みともいえます。
個人的には、今川義元は、織田信長に頭脳戦で敗れたと感じています。
偶然の要素など、まったくないと思っています。

その翌年、1561年に、信州(長野県)の川中島で、有名な、「第四次・川中島の戦い」がありました。
越後国の上杉謙信と、甲斐国の武田信玄の、あまりにも有名な戦いですね。

これは、両武将とも、勝ちを得ることなく、痛み分けの結果となります。
この戦いは、戦前の兵力や状況、戦場の配置から普通に考えれば、武田信玄の圧勝の状況です。

この状況で、謙信がすさまじいほどの頭脳と作戦、行動力により、なんと勝利の寸前までいきます。
おそらく、その頭脳がなかったら、謙信の大敗北だったと思います。

謙信が勝利目前の段階までいきながら、ここで負けない信玄の強さも尋常ではありません。
信玄には、尋常でない強力な家臣たちと団結力、負けない軍戦術がありました。
信玄は、それらに守られたといっていいと思います。
ですが、この時に、軍師の山本勘助や、後の武田家を考えると致命傷となる、信玄の弟の武田信繁を失ってしまいます。

信玄は、この謙信の恐ろしいほどの頭脳と行動力に、もはや「謙信は敵にしないほうがいい」と考えるようになったと思います。
後に、徳川家康が、武田信玄に完敗する「三方ヶ原の戦い」は、まさに上杉謙信の戦い方を見ているような気がしてきます。

上杉謙信という武将は、まさに万人の度肝を抜くような、心を見透かしたような、奇抜な作戦をたくさん行った、まさに「軍神」でした。

* * *

今振り返ると、この上杉謙信の頭脳と、織田信長の頭脳は、どちらが上だったのだろうかと思ってしまいます。
信長は、ある段階まで、謙信と信玄とは、戦わないという姿勢をとります。
ある意味、信長は彼らを恐れていたと思われます。

信長という人物は、ある段階から、確実に勝てると思える戦場にしか、自身は出向きません。
それに適した家臣に、戦術や兵力を与えて戦場に送りこみます。
実際には、「信長包囲網」が日本全体で敷かれて、すべての戦場に自身が出向けないという事情もありました。

秀吉や光秀あたりなら、自力で臨機応変に作戦変更もできるでしょうが、凡庸な家臣には、細かい作戦命令や、ダメなら担当替えです。
実は、「本能寺の変」も、その担当替えがなかったら、起きていなかったかもしれません。

大河ドラマ「麒麟がくる」でも、そのキーになる武将が、「桶狭間の戦い」をきっかけに登場してきました。
何とも、不気味な笑みを浮かべていた武将です。
そのことは、あらためて…。

いずれにしても、信長は、自身の頭脳こそが、信長軍の最大の武器だと思っていたのかもしれませんね。
さすがに、後年の秀吉のことは、信長軍の最大の武器だと認識していたでしょうが、光秀にはどのような思いを持っていたのでしょうか?
そのあたりも、あらためて…。

* * *

今川義元も、かなり優秀な戦国武将であったはずです。
隣国の、武田信玄、北条氏康と、互角に渡り合ってきたのです。
とはいえ、義元には、天才軍師の「雪斎(せっさい)」が、この「桶狭間の戦い」の直前まで、ついていたのです。
雪斎は、この戦いの直前に亡くなってしまいます。

個人的には、もし雪斎が生きていたら、信長の作戦に、今川軍がまんまと引っかかったとは思えません。
雪斎が、何か怪しいサインを見逃したはずはないと思っています。
雪斎がいなくなって、今川軍の諜報活動のレベルが下がっていたということはなかったでしょうか?

* * *

この「桶狭間の戦い」の後、謙信も信玄も、信長への姿勢を一変させます。

信玄は、甲斐・相模・駿河の三国同盟を破棄し、信長と一定の同盟を組みます。
「信長とは、かんたんに戦ってはいけない」…、そう信玄に思わせたのです。
信長は、今川氏や北条氏よりも力量が上だと、信玄は確信したのだと思います。

戦国武将が、敵将の能力を、諜報活動やその言葉や文書だけで把握するのは、まず不可能です。
戦争の仕方と結果を見て、その能力をすべて見極めなければなりません。

「桶狭間の戦い」には、信長の、それほどの能力が隠れています。


◇愚か者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

今の、企業間のビジネス戦争、国どうしの交渉、戦争…、さらに個人の人生においても、参考になるような話が、この「桶狭間の戦い」の中に、たくさん入っていると思っています。

今の各国の軍隊は、日本や中国などの東洋の戦争の歴史を、徹底的に研究しますね。
もちろん、「桶狭間の戦い」も研究対象でしょう。

* * *

昔からのことわざに、「愚か者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というものがありますね。
これは、近代の外国の武人のある言葉を、少し違ったかたちに意訳したものです。

信長の学習意欲や研究熱心さは、すさまじいものでしたが、おそらく国内の古い戦いについても、相当に研究や学習をしたのだろうと思います。
源平合戦のことも相当に研究したでしょう。
近い時代の、毛利元就や上杉謙信の戦い方も、相当に学んだのかもしれません。

今回のコラムでも、現代人が「桶狭間の戦い」から学ぶものという視点で、少し書き進めていこうと思っています。

皆さまには、「もし自分が信長だったら、あまりにも大兵力の義元を相手に、どのように戦って、そして、この絶対不利の状況から勝利を手にするのか」と想像しながら、ぜひお読みいただきたいと思っています。


◇信長と「敦盛」

この「桶狭間の戦い」は、実は、断片的にしか史実が判明していません。
よくわかっていない部分が、相当に多い戦いなのです。
諸説が乱立していますが、一応、判明している史実と、大河ドラマ「麒麟がくる」の内容にあわせるかたちで、書いていくつもりでおります。

* * *

大河に限らず、時代劇ドラマや映画の中で、「桶狭間の戦い」を描くのは、相当に苦労が多いと思います。
まず、最終決戦の状況がはっきりしていない…、戦場さえもはっきりしていない…、肝心の義元の最期も、各文献を信用していいのか疑問符がつきます。
ですから、どうしても解釈や推測によって、微妙にドラマの描き方が変わります。

* * *

「麒麟がくる」をご覧になられた方も感じたと思いますが、「桶狭間の戦い」が始まるとなったとたんに、それほど有名でもない武将が、ドラマに次々に登場しますし、まず、やたらに「砦(とりで)」や城の名称が出てきます。

はじめから、この戦いを理解していなければ、ドラマの台詞だけで、この戦いの進捗状況を把握するのは、まず不可能だろうと感じます。
ドラマには、人間の心情やアクションシーンなどのドラマならではの演出もたくさん入ってきますから、信長の作戦のことやら、義元がどこで失敗したのかも、ほとんどドラマの中ではわかりませんね。

* * *

「麒麟がくる」の中では、信長が、「人間50年…」の台詞で有名な「敦盛(あつもり)」を舞っている最中に、重要な作戦を思いつきますが、実際には、そんなことはまずないでしょう。

現代の今でいえば、人気の歌謡曲を気晴らしに歌っている最中に、重要な作戦を思いついて、すぐに命令を出したようなことです。
実際には、そんなはずはなく、今回の信長の「桶狭間決戦計画」は、長い期間をかけて調査分析し、綿密に考え抜いて、微調整しながら立案したものだろうと思います。

義元から見たら、そもそも「桶狭間決戦計画」などなかったはずです。
この話しは、次回以降に書きます。

* * *

ただ、信長が「桶狭間の戦い」の戦場に出向く直前に、前述の大好きな「敦盛」を歌い舞ってから、出陣したのは事実のようですので、それを作戦の発案に重ね合わせて、ドラマに盛り込んだということだと思います。
今なら、オリンピック選手が、好きな曲を耳にしてから覚悟を決めて、本番の競技に向かうようなことです。

何しろ、ドラマ2回分に、この長大な戦いを詰め込むのですから、どのようにコンパクトにしていくのか考えるだけで、頭脳が悲鳴をあげそうです。

もちろん、戦(いくさ)の戦術やら、作戦やら、陰謀やらを知らなくても、ドラマとして楽しめるのは間違いありませんが、知っていたら、ドラマの登場人物のことが、非常に理解しやすいと思います。

「敦盛」がドラマの中で登場するシーンは、今後もひょっとしたらあるのかもしれません。
「敦盛」のことは、またの機会に…。


◇四つのテーマ

今回の「桶狭間の戦い」に関する連載では、まずは、その戦いの内容と当日までの流れ、信長の勝因は何だったのか、この戦いの登場人物の人間関係の三つに分けて書きたいと思います。

勝因については、この地域の人間関係を知らなければ、理解しにくい部分も多いので、複雑な「三河武士」の人間関係を少し書きたいと思います。
私が個人的に思うのは、信長は、この三河の人間関係を、見事なまでに利用したと思っています。
この人間の使い方については、義元との差は大きいとも感じます。
そうした点でも、やはり雪斎の存在は大きかったのかもしれません。

* * *

その三つに加え、私は個人的に、前述の「第四次・川中島の戦い」と、この「桶狭間の戦い」は共通点が非常に多いと感じています。
謙信と信長という、戦争の天才に何か共通するものがあると感じています。
それも、書きたいと思います。
ですから、全部で、四つのテーマということになります。

歴史的には、上杉謙信と織田信長の直接対決は実現しませんでした。
一回だけ実現しそうになりましたが、信長が回避します。

この頃、秀吉も、家康もまだまだ若く、毛利元就はすでに亡くなっています。

私が個人的に思うに、この時期に、「頭脳」という意味では、謙信と信長の二人は図抜けていたと感じています。
ただ、人間は「頭脳」だけではないことも、歴史がいずれ証明してくれますね。

信長も、謙信も、頭脳ではない部分に弱点を持っていました。

* * *

今回の「桶狭間の戦い」に関連した連載が、何回の連載になるか、まだわかりませんが、少しずつ書いていきたいと思います。
何回か、少しおつきあいください。


◇歴史に残る名作戦

この「桶狭間の戦い」が、この頃の信長の人間性、考え方、知性を集約したような戦いであったのは間違いないと思っています。
偶然が幾つも重なって、誰も想像できなかったような結果が、天から信長に転がり込んだとは、到底考えられません。

戦国時代には、「名作戦」が幾つかありますが、間違いなくそのひとつのはずです。
個人的に、信長には、この「桶狭間の戦い」、そして、よりち密な「長篠の戦い」が、2トップだと思っています。

豊臣秀吉には、「高松城水攻め」から「中国大返し」、そして「山崎の戦い」までの一連の戦いが、彼のトップだと感じています。
加えるなら、信長配下の時の、「美濃攻め」や「小谷城攻め」もすごい内容です。

徳川家康には、やはり「関ヶ原の戦い」と、「大坂の陣」でしょうか。
個人的には、戦国時代最高峰の戦が、「関ヶ原の戦い」だと感じています。
準備といい、陰謀といい、頭脳戦と心理戦の極みとも感じます。

上杉謙信と武田信玄の川中島を中心とした一連の戦い、毛利元就の中国地方制覇の一連の戦いも、見事というしかありません。

ここであげた「戦(いくさ)」はみな、図抜けた知性と行動力が感じられます。

* * *

ここであげた武将たちは、微妙に年齢の差がありますので、誰が最強だったかは結論づけられませんが、「桶狭間の戦い」を見るに、今川義元では、織田信長、上杉謙信には、少なくとも勝てなかったであろうと感じます。

とはいえ、今川義元も、相当に有能で強かった武将です。

私は、「桶狭間の戦い」を考えるに、これが単に、「今川家」対「織田家」ではなかった点がミソだと思っています。
この両者の間に、三河の武士勢力がいたことこそ、「信長勝利」の結果を生んだともいえるような気がしています。

三河勢力を巧みに利用した織田信長と、それができなかった今川義元ではなかったかと感じています。
まさに、人間関係を上手に使えたのかどうかだと思います。
一応、ここで説明しておきますが、「桶狭間の戦い」の時点で、三河勢の大半は、基本的には今川軍の配下です。

さらに注目したいのは、信長は、この時代に、電話器でも持っていたのかと思わせるような、情報戦とスパイ活動の見事さです。

こうした人間関係や、スパイ活動のお話しは、あらためて書きます。


◇義元は何をしようとしたのか?

そもそも、どうして今川義元が、のこのこと敵勢力の「尾張国」にやってきたのか…?

あの武田信玄は、死の直前に、息子の勝頼に遺言を残します。
その中では、チカラが未熟な段階で、不用意に天下を狙わないことの他に、もし大敵と戦うことがあったら、必ず「甲斐国(今の山梨県)」の中で戦うようにと釘をさしています。

敵の領国や勢力範囲の中で、絶対に戦ってはいけないと言い残すのです。
この言葉を守れなかった武田家は、そう遠くない将来に滅亡します。
それも、よりによって織田信長を相手にして…。

私の想像では、信長はこう考えていたと思います。
もし信玄が存命中の武田軍に、信長が今川軍に行ったようなワナは、まず通用しないと。

* * *

まさに、敵の領域にわざわざ出向いて、大きな戦争を仕掛けるなど、「おろか」としか思えません。
有能な戦国武将であれば、大戦になると想像した時点で、第三国の有利な場所に敵を誘い込んで、そこで戦闘に及ぶのが、まずは鉄則のはずです。
敵国かその領域に入っていくとは、侵略行為そのものですので、あまりも危険なはずです。

義元は、信長があまりにも弱小武将だと考えていたのでしょうか?
かつての斎藤道三の信長への高評価を、知らないはずはないと思うのですが…。

戦国時代に、第三国や、両者のどちらの領地でもない場所で戦うことはよくありましたが、戦争の成り行きや、相手の実力がわからないうちから、敵国の領域に踏み込むとは、よほどの自信か、アホ武将しか、しないような気もします。
後は、敵のワナに、完全にはまるかです。

どうして、今川義元は、今振り返ると、こんな中途半端な軍の体制で、信長の尾張国と西三河の境ギリギリの、それも山間地に、のこのことやって来たのでしょうか?

そもそも上洛する目的など、あるはずがない…?
そのお話しは、あらためて…。


◇本当に奇襲だったのか?

実は、「桶狭間の戦い」は、よく「奇襲」と言われますが、これは今川家側から見た表現のように感じます。
織田家から見たら「奇襲」でも何でもない気もします。
「正々堂々の頭脳戦・情報戦」だったのかもしれません。

ただ、織田家からしたら、「奇襲」や「奇跡」と言われることは、メリットがたくさんあると感じます。

* * *

後に天下人となる徳川家康も、奇跡や偶然でないようなことでも、何か神がかったものや、優秀な家臣たちがチカラを貸してくれたとよく表現しましたが、本当は、家康の陰謀や作戦以外の何ものでもないのです。
ただ、陰謀や頭脳戦が巧みな武将だと思われてしまうのは、非常に困るのです。

昭和の戦前の日本軍が、「桶狭間の戦い」を奇襲攻撃の成果と扱いたかったことも、奇襲説を広めることにつながったような気もしています。

* * *

上杉謙信が、川中島で、川を渡ってきているはずのない場所に、霧が晴れた瞬間に、大軍勢で立っていた…、それも正面ではなく横から…、これは謙信がつくりだした登場シーンそのものですが、おそらく「桶狭間の戦い」での、信長自信か信長軍の登場も、これに近かったように思っています。

義元からしたら「なぜ、信長軍がここにいるのだ!」

歴史に残る名武将たちはみな、戦場での演出が見事です。
戦略的効果もさることながら、敵の兵士に与える心理的効果も絶大でした。

* * *

油断していたとは思いませんが、自信過剰の義元には、逃げ道や逃げる手段も用意してなかった気がします。
義元は、持病の「痔」で、馬に乗れない戦国武将の代表格で、いつも「輿(こし)〔人が乗るカゴを逆さまにしたような乗り物・おみこしにも似ている〕」での移動でしたが、戦場におとりの「輿(こし)」を幾つか用意していないとは、あまりにもお粗末です。
通常であれば、用意していないとは考えられません。
信長、秀吉、家康、謙信、信玄…、みな戦場には必ず「ニセもの」を用意しています。

それに非常時ですから、どんなかたちででも、馬に乗せて逃がすのが当たり前です。
これらすべてを不可能にさせたのも、信長の作戦以外の何ものでもないと、個人的には思っています。
おそらく馬もいなかったのでは…。
馬がいたとしても使えない…。

* * *

そもそも、義元は、自分がどうして「桶狭間」になど来ているのかさえ、最期まで気がついていなかったのかもしれませんね。
自分が「桶狭間」で信長と戦うとは、到底、想定外であったと、私は思っています。

「第四次・川中島の戦い」の武田信玄も、「どうして謙信が、この時刻に、この場所にいるのだ!」と叫んだにちがいありません。
大混乱の中でも、武田軍は、すぐに防衛体制を敷くのですから、さすがに最強武田軍団です。
勇猛な家臣たちが、幾人も自身の命を捨てながら、信玄の命を必死に守っていきました。

おそらく、今川義元には、そんな家臣たちが、近くにそれほどいなかったと思います。
これも、信長の作戦だと思います。

前述の「第四次・川中島の戦い」の時の上杉謙信も、今回の織田信長も、強大な敵を相手にする時の、「弱者の戦法」そのものです。
その戦法のことは、あらためて…。

* * *

それにしても、雪斎様さえ、存命であれば…。
今川家の中で、この信長の有能さを見抜いていた人物は、雪斎しかいなかったのかもしれませんね。

有能な軍師がいなくなったとたん、「海道一の弓取り」は、普通の「弓取り(国持ち大名の意味)」になってしまったのかもしれませんね。
信長は、ある段階で、それを確信したのだろうと思います。

彼は、「桶狭間の戦い」は、奇跡を呼び込む「奇襲」とは思っていなかったと思います。


◇心のスキをつけ

「桶狭間の戦い」の織田信長も、「第四次・川中島の戦い」の上杉謙信も、ひょっとしたら同じような心境だったのかもしれません。

「相手は、その兵力、その状況からみて、絶対に勝てると考えているはずだ。
客観的に見ても、まったくそのとおりだ。
相手に油断はないかもしれないが、絶対の自信の中に生まれるスキを狙おう。
それならば、敵の自信を、ますます大きなものにしてやろう。
そして、相手を先に動かすのが肝心。
相手の心のスキを狙う瞬間は、一瞬しかない。
それは、相手が予想もしていない場所で、大将の防備が手薄になった瞬間に、相手が予想もしていない時刻に、突然に目の前にあらわれる。
それも、相手が、相当に不利な場所で、大将の逃げ道のない状況で…」。

二人とも、大成功したのだと思います。
信長と謙信の違いは、最後の大将への襲撃方法だったと思います。
それぞれの襲撃部隊の規模の大きさが、その戦い方に影響したとは思いますが、謙信は、もう少しで信玄を討ち取るところまでいきましたね。

大将の心のスキは、ひょっとしたら、兵力の弱点よりも、敗戦に大きく影響するのではないかとも感じますね。

* * *

信長のクチ癖のひとつに、「城に、自分の生命をゆだねるようなことはしない」というものがあります。
城や兵器で、自分の身が守れるというのは、まったくの錯覚だというのです。
信長にとっては、城や兵器は、あくまで使うもの…、おそらく信長には、人間もそうであったのだろうと感じます。

「桶狭間の戦い」で、信長と義元の「人(家臣)の使い方」はかなり異なって見えてきます。


◇作戦は、とっくに始まっていた?

さて、次回以降のコラムでは、「桶狭間の戦い」の半月ほど前の信長の動きから、戦い当日までの両軍の行動歴を見ていきたいと思います。
私は個人的に、信長は半月ほど前に、すでに本格的な「作戦」を開始していたと思っています。

信長は、どうやって、義元の「心のスキ」を突いていったのでしょうか?

* * *

「桶狭間の戦い」の前日に、信長は家臣を清洲城に集めますが、軍議などまったくしません。
顔を見て、すぐに家に帰します。

この段階で、作戦会議など開いても、意味がありませんね。
義元の前日の軍議とは、まったく質の違うものを感じます。

信長は、おそらく、本当の襲撃部隊と、尾張に残す者には、それぞれ別の話しをしたと思います。

すでに半月前に作戦を開始し、その計画が、見事に計画通りに進んでいるからこそ、前日は、最終確認をしただけだったと私は思っています。
信長からしたら…、「よしよし、まったく計画通り…。スパイから連絡はきたか…」だったでしょうね。

前日から当日にかけての、あまりにも速い進軍と、計画的な進路、分単位の家臣団の動き、潮の満ち引きも考慮、深夜の真っ暗闇の進軍…、これは、事前に準備ができていなければ、まず実現できなかったことでしょう。

個人的には、最終決戦の日にちも時刻も、すべて決めてあったと思っています。
もちろん雨も予定通り…。
「雹(ひょう)」までは想定していなかったのかもしれませんが、そのくらいの規模の気象の変化なら、事前にわからないはずはないですね。
それに、雨がなくても勝てる戦術でもあります。
必要なのは、雨ではなく、水です。

個人的には、少なくとも30分単位のち密な計画がつくられていたと思っています。

* * *

天候や地形、地盤、潮の満ち引きの調査は、おそらく数か月前には始めていたはずです。
数百名レベルの大量のスパイも、数か月前には、すでに潜入させていたと思っています。
もちろん、そこに陰謀や暗躍がないはずはありません。
それに、敵兵の心理や行動パターンまで、計算していたとは…。

ここまで周到に準備されては、雪斎のいない義元が勝つことは、まず不可能だったでしょう…。
雪斎がもし生きていたら、「義元殿…、桶狭間に向かうのは危ない。」と、おそらく進言したでしょうね。

* * *

先程、信長が前日に軍議をしなかったことを書きましたが、理由は他にもあったはずです。
そのことも、あらためて…。
信長は、自身の信長軍にも、その作戦の一部を実行したのだと、私は感じています。

このくらいの能力がないと、おそらく「天下人(てんかびと)」には近づけないのでしょうね…。

* * *

コラム「麒麟(20)」につづく。


2020.6.21 天乃みそ汁
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